『続狂短歌人生論』01「前置き」


○ 感情の根源探る旅に出れば 行きつく先は親子のドラマ


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂歌教育人生論」   2023年3月08日(水)第1号


『続狂短歌人生論』1 前置き

 今号より『続狂短歌人生論』の連載を始めます。
 御影祐著『狂短歌人生論』(2007年)の続編です。

 私は2000年3月高校教師を早期退職後、在職中抱いていた思いを「教育子育て人生論」として書き始め、翌年完成させました。
 しかし、それは原稿用紙1000枚もの長編となってしまい(^_^;)、出版どころか読んでくれる人はほぼ皆無。エッセー風論考は筐底(きょうてい、つまり箱の底)に仕舞われました。
 もちろんこれは比喩であってパソコンの記憶メモリーにほったらかしにされたってことです。

 その後二冊のSF小説(ひ弱な少年ケンジと未来人マーヤの物語)出版後の2007年、下書きの一部を取り出し、狂短歌を見出し代わりとして『狂短歌人生論』を出版しました。各節見開き2頁を心がけました。

 残念ながらこれも初版止まりで世の評判になることなく、オゼゼは絶え、続編を出そうとの気持ちも萎え、下書きの残りはまたも電子世界に埋もれてしまったのです。

 それから十数年、この間歴史小説『空海マオの青春』を書き、この根拠となる『論文編』もメルマガやホームページに公開し(目下前編のみで中断)、さらにコロナパンデミックの渦中には『一読法を学べ』を書いてきました。みな読者の迷惑顧みない長編ばかり(^_^;)。

 これ以外にも60枚ほどの短編小説をいくつか九州芸術祭文学賞に応募して二作が県予選の主席と次席に入ったものの、全域の最優秀作に入ることはありませんでした(最優秀作なら「文学界」デビューだったのですが)。

 かくして昨年『狂短歌人生論』のメルマガ公開を終えたところで、次の(オゼゼにならない)仕事について考えました。「さて、何をやろうか」と。

 候補は空海の研究論文後半、『一読法を学べ』の執筆中に気づいた(エーリッヒ・ケストナーやマーク・トウェインのような)児童文学執筆。しかし、後者は下書きがなく、前者は「次の次」と考えました。

 対して『狂短歌人生論』後半なら、下書きの残りはほぼできあがっている。昨年メルマガ公開して久しぶりに全編を読み直した結果、「やっぱりこれを完成させよう」と思うに至りました。

 ところで、本稿トップの見出しに「前置き」と書いていますが、ここまでは私恒例「前置き」の前置き(^.^)。これから本来の前置きが始まります。

 その前に今後お読みになりながら、読者が抱くであろう疑問にお答えしておきます。

 それは私自身の問いでもあって「なぜ『狂短歌人生論』から十数年も間をあけてしまったのだろう」との疑問です。
 あれを前編とするなら後編は必ず公開しなければならなかった。なぜなら、続編で書こうと思っていたことを(すぐにでも出版するだろうと)前編ではかなり割愛したからです。
 たとえば、感情の奥深くをさらに探求したこと、脅迫・批判・傍観・受容の四タイプと付き合うにはどうすれば良いか。前著の結論は「エネルギーを相手に与える」ことでした。

 が、それだけではうまくいかないことがわかっていました。
 ほめたりねぎらったりして気分よくさせる(エネルギーを与える)ことで、相手を変えようとする。
 だが、逆に自分が元気をなくす。あげく相手は変わってくれないし、自分も元の木阿弥となる。

 その理由と、では克服するにはどうすればいいか、前著では書かれていません。ゆえに、後半となる『続編』は公開される必要がありました。
 しかし、単にオゼゼの問題だけでなく(出版が無理だったらメルマガ公開すれば済む話)、私はずっとその気になれませんでした。

 最大の理由は読者が文章を「一度だけさーっと通読してふーんとつぶやいて終わる」姿が想像できたからです。
 学校で学んだ三読法は最低2度読むことに意味がある。だが、多忙な世の中、2度読む人なぞ皆無であろう。人々は学校を離れると、どんなに短い文章でも二度読むことをしない。まして長編をや。今や映画やドラマ、大学のリモート講義も2倍速で見られる悲しい時代です。それを悲しいと思わない、悲しい人々が蔓延しています。
 それだけでなく何でもかんでもスマホ・パソコンで眺めることで、紙の本を手に取って読む人は激減しています。紙製の書物に書き込むという、読書で最も大切な――人類数千年の習慣さえ失われようとしています。大げさ?(^_^;)

 日本人は大人も子供も学校で二度読む訓練を積むのは「一度読んで理解するため」だと勘違いしている。文章を一度読んで(人の話を一度だけ聞いて)しっかり理解して味わうには、そのための読書術を学ぶ必要があります。まだ私の『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』をお読みでなければ、ぜひ読んでください。

 しかし、一読法読書術をようやく執筆、公開しました。その後も折に触れ、「さーっと読んでいませんか」とくどいほど警告してきました。「うんざりしていやになるかもしれないなあ」と思いつつ(^_^;)。
 が、この間メルマガ読者は一人も欠けることなく付き合ってくださいました。

 これを知って我が読者なら「かなり長い文章でも時間をかけてゆっくりじっくり、立ち止まって調べたり考えたりして読んでいる」と思い浮かべることができるようになりました。
 この十数年は私にとって(読者にとっても)「必要な時間だったのではないか」と思うのであります。

 ――と言い訳を書いたところで、本来の「前置き」開始です(^_^)。


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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 感情の根源探る旅に出れば 行きつく先は親子のドラマ

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』1 前置き 】

 突然ですが、読者に一つ質問です。
 私たちは子どもを育てるとき、殴ったり叩いてはいけない。
 なぜでしょうか。ちょっと考えてから以下をお読みください。

 さて、『続狂短歌人生論』の開始に当たってまずは前著『狂短歌人生論』の復習です。
 論旨は大きく分けて3点ありました。
 1 人の性格・感情・言動の四分類
 2 エネルギーを奪う・与える
 3 親子間のドラマ

 これは1993年に公開されたジェームズレッドフィールド氏『聖なる予言』から取り出した考え方です(日本では山川紘矢/亜希子氏によって1996年角川より出版)。

 私は20世紀末に読んでとても感銘を受けました。未読の方は作品紹介を検索してもらうことにして作品について大雑把に解説すると、SF冒険小説と心理学の合体作品と言えましょうか。かなり特異な小説です。
 この心理学的部分が親と子の関係から生み出される人の性格や外見、行動についての考察でした。

 しかし、「コントロールドラマ」とか「エネルギー」、四タイプの日本語訳が「脅迫・尋問・傍観・被害」となってわかりづらい。
 そこでもっとわかりやすく解説しようと書かれたのが『狂短歌人生論』でもありました。「尋問」は《批判》に、「被害」はなんでも受け入れることから《受容》に変えました。
 また、エネルギーは食べること、美しい景色を見ることで得られる《自然のエネルギー》と、人が励ましたり誉めたりすることで得られる《愛エネルギー》に分けました。

 【四タイプとその感情、表情、行動面の特徴

 脅迫者……怒り・閻魔顔・暴力・威圧的演技
 批判者……腹立ち・しかめっ面・悪口・批判的演技
 傍観者……無関心・無表情・無視・傍観的演技
 受容者……微笑・諦め・弱々しさ・受容的被害的演技

 この性格四分類が素晴らしいと思ったのは《変えられる》ことです。「血液型・星座別」性格分類は有名ですが、それは宿命論であり変えることができない。だが、親と子、大人と子供の関係から生み出された、これらの性格は変えることが可能です。

 また、四タイプに関しては悪しき特徴だけでなく、長所も語りました。
 脅迫者は勇気と行動力、批判者は正義と熱弁、傍観者は冷静と中立、受容者は包容とやさしさ。
 なぜ長所も取り上げたのか。『狂短歌人生論』では語っていません。
 よって「なるほどな」で終わったことと思います。
 この意味は続編で再度とりあげたときわかると思います。

 それからエネルギーを人から奪う形態も眺めました。
 私はそれを相手に「勝つ」ことだと理解して解説しました。

 【エネルギーを人から奪う(奪える)基本

  相手に勝つことによって気持ちがいい(=エネルギーを得る)

 私たちは家族、友人、見知らぬ他人と論争することがあります。熱くなって口げんかに発展することもしばしば。結果、相手に勝つと爽快でとても気持ちがいい。負けると悔しいし暗い気持ちになる。勝った方が元気になり、負けた方が元気を失う。つまり、勝つことによって「人のエネルギーを奪う(奪える)」と見なしたわけです。

 では、四タイプはどうやって相手に勝とうとするか。あるいは、負けないためにどうするか。
 勝ち負けの観点からまとめました。

 【勝ち負けの観点から四タイプを眺める

 脅迫者……人に《力》で勝とうとする。
      相手を服従・屈服させることで「勝った」快感を得る。

 批判者……人に《言葉》(理屈)で勝とうとする。
      相手を言い負かすことで「勝った」快感を得る。

 傍観者……人に《負けない》生き方を心がける。
      関わらなければ負けずにすむから黙って傍観する。
      無視を貫徹して相手を不快にさせれば、勝った気持ちにさえなれる。

 受容者……人に《負ける》生き方を採用する。
      いつもにこにこして何でも受け入れれば、相手を怒らせたり不快に
      させることがない。誰かに被害を訴えて涙を流せば、慰められて小さな
      勝ちを得る。「同情なんかいらない」と怒れば、勝った気持ちにさえなれる。

 人に勝つとは相手を支配する、支配できることを意味し、負けるとは支配されることを意味します。脅迫者と批判者は常に勝とうとし、支配する側に立つことが多い。傍観者と受容者は逆に支配される側に立つ。

 世の中を《宗教・思想・道徳・世間の習慣》など大支配が覆っているときは小さな家族・学校・職場の支配はうまくいく。だが、大支配が衰退した現代、集団の支配はうまくいかない
 かつては夫や父が妻や子を支配した。だが、今それは風前の灯火。逆に増えたのは妻や母が夫や子を支配する家庭。このようなことも『狂短歌人生論』で触れました。

 もう一つ。私自身の思いから出た狂短歌とエッセーがあります。
 それは愛することよりもっと大切なことがある、との思いです。

〇 本当は愛することより大切な 愛されてると感じられるか
〇 なんとなく愛されてると思えない その感情が心に穴を
〇 ボーガンを撃たれさまよう野良犬が レスキューの手になぜか噛みつく

 人はときに「自分のことなどどうでもいいんだ、誰からも愛されていない」と思うことがある。
 このように感じる子どもや大人、お年寄りはさまざまな問題行動を起こしやすい。差し伸べられた愛の手を意固地に拒否することもある。これは続編においてもっと深く探求する予定です。

 ここでその一端を明かしておくと、私たちはみんな「人を愛するより自分が愛されたい」と感じている。「どうして愛してくれないんだ」と心の奥深くでつぶやいている。

 ――と言い切ると、みなさんは「そんなことはない」と否定するか、「確かに……」とうなずくか。「そうかもしれない」と認めるとしても、ことはそう簡単ではありません。
 では何をもって「自分は愛されている」と感じるか。この問題があるからです。

 この答えとして相手からいつも「I love you.」と言われることでないのは明らか(^.^)。
 親御さんがしばしば口にする「こんなにお前を愛しているのに」との言葉が子どもを動かさないのはなぜでしょう。
 考えてみてください。続編の大きなテーマです。


 以上、『狂短歌人生論』の復習と続編への誘いでした。

 最後に、冒頭の質問について。
 私たちはなぜ子どもを殴ったり叩いて育ててはいけないのか

 「法律で禁止されているから」との答えはあまり意味がありません。強盗も殺人も賄賂も談合も(と同列に並べることは問題ながら)いくら法律で禁止されても途絶えることがありませんから。
 殴られ、叩かれた子どもに「心の傷を与えるから」は良い答えだと思います。
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)の言葉もあります。

 ただ、これは家族・大人による虐待とか自然災害や事故など過酷な体験が元になっていることが多い。しつけとして小さな「こつんと叩くこと」、中高の部活動で教員が生徒を殴るのは「愛のムチ」であると思い、実行している大人は多いと思います。

 幼児虐待とはそれが過度になったのであり、教員の体罰もまたしかり。この言い方には「ひどくなければ叩いて構わない」というニュアンスが含まれているようです。
 だが、私は絶対に、絶対に、子供に対して手を挙げることをやってはいけないと思います。

 私が考える理由は以下の通り。

 それは殴られ、叩かれた子どもが大きくなったとき、人を殴り叩き、我が子を殴って叩いて育てる人間になるからです。

 統計的な数値があるかどうかわかりませんが、おそらく中高において生徒を殴っている先生の10人中9人はかつて殴られた体験のある人であろう。だから、運動系の部活に多い。
 また、しつけと思って我が子を叩いたり殴っている親も、幼いころ親や大人から殴られ叩かれた子どもだっただろう。つまり「歴史は繰り返す」ってやつです。

 私自身のことを語ると、私は母はもちろん父から一度も殴られ叩かれたことがありません。兄が一人いて取っ組み合いのけんかをしたことはあるけれど、彼からも殴られたことがない。
 だから(と言えるかどうか)、私は幼い子どもを殴ったり叩いたことは一度もありません。姪の子どもにしつけと思ってこつんとやることもない。

 ところが、教員生活二十数年の中で、生徒の頭をごつんとやったことなら一度あります。それも本気で。彼は殴られてぐらつきました。叩いて後悔したけれど、怒りや腹立ちからではなく、ここはやるべきだと思って殴りました。

 実は私の小学校時代、男の先生で頭をごつんと殴るのは普通の情景でした。私も叩かれたことがあります。中学校では体育の先生が言うことを聞かない生徒に対して頭を殴るのをよく見かけました。私も同じような先生になっていたか、と気づいて以後やめました。

 さて、どうしてこの問題を取り上げたか。おそらくおわかりと思います。

 脅迫・批判・傍観・受容のドラマも親から学び(?)繰り返されるということです。
 脅迫タイプの親からは暴力的な子どもが育ち、批判タイプの親からも批判的な子が育つ。傍観、受容もまたしかり。
 これを正の相関とするなら、負の相関もある。それは脅迫タイプの親から批判・傍観・受容の子が育ち、批判タイプの親から傍観の子が育つ。傍観タイプの親からは批判タイプの子が育ち、受容タイプの親からは脅迫タイプの子が育つ。

 かくして、冒頭の狂短歌にたどりつくわけです。


〇 感情の根源探る旅に出れば 行きつく先は親子のドラマ


 もしも読者が自分の性格に悩み、あるいは周囲との人間関係、子育て(孫育て?)に悩んでいるなら、ぜひ親との関係を振り返ってほしい。きっと得られるものがあるはずです。
 本稿がその「よすが」となれば幸いです。 [「よすが」って何?と思われた方は検索を]


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:全体がいまだ見通せていないので、『狂短歌人生論』と違って全体の目次は未定といたします。以前も書いたように狂短歌はできるだけつくるけれど、ない節もあること、ご容赦ください。週一配信を心がけるものの、飛ぶこともあり得ます。
 また、「である」体だったり、「ですます」体だったりして文体に統一が取れていないことがわかりました。全て寛容の気持ちで読んでいただけたら幸甚です。

 最後に一読法の復習。
 前置きの前置きに「エッセー風論考は筐底(きょうてい、つまり箱の底)に仕舞われました」とあります。
 これを読んだとき「筐底なんてずいぶん古めかしい言葉を使っているなあ。なんでだろう」とつぶやきましたか。この答えは本稿にありません。

 しかし、小説『空海マオの青春』と『論文編』を読まれた読者は「ははあ」と思い当たったはず。
 空海が若いころ書いた『三教指帰(さんごうしいき)』の下書きは「公開されず筐底に仕舞われた」と何度も出てくるからです。

 この部分は私から『空海マオの青春』読者へのサービスです(^_^;)。
 論文編は2019年3月に中断してはや4年。「次の次」と書いたように、この『続狂短歌人生論』を終えたら「空海論文編に入りますよ」という伏線の言葉でもあります。
 今しばらくお待ちください。 御影祐


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