『続狂短歌人生論』02「四タイプの老後」


○ 四タイプ 死を前にして 愛されぬ 地獄の苦しみ感じつつ逝く


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂歌教育人生論」   2023年3月08日(水)第2号


『続狂短歌人生論』2 四タイプの老後

 昨年ヒットしたある歌の中に「君たちったら何でもかんでも/分類、区別、ジャンル分けしたがる」とあり、「自分で自分を分類するなよ/壊して見せろよ そのBad Habit」ともあります。Bad Habit=悪い癖?
 この歌聞くと、なんだか本稿のこと言われているようで、じくじ[忸怩]たるものがあります(^_^;)。

 日本人に多いのが血液型性格分類のあれこれ。「B型だからうんぬんかんぬん、A型同士は相性いい」みたいなこと、欧米の人は言わないそうです。
 確かに分類し過ぎるのは問題ながら、分けるというのは科学の基本であり、分けることによって物や事態がわかりやすくなる。熱くならず、暗くならず、冷静にものごとを眺めるための武器(?)として人格四分類は有効ではないかと思います。

 というわけで、続編においても《脅迫・批判・傍観・受容》について大いに語らねばなりません。
 この性格を露にする人はどのような老後を迎えるか。幸せな老後となるのでしょうか。(本文は「である」体)


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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 四タイプ 死を前にして 愛されぬ 地獄の苦しみ感じつつ逝く

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』2 四タイプの老後】

 人は貧富貴賤を問わず必ず年を取る。そして、誰でも必ず死ぬ。
 まこと天が与えたもうた嘘偽りなき真実。これ以上ない平等公平。

 懐に100円しか持たず、一人青テントの中で死のうと、100億の財産を持ち、病院のVIP室で死のうと、同じ死であることに変わりなし。
 前者はさみしい孤独の死であるけれど、後者だって親族に取り巻かれながら「やっと死んでくれたか」と思われるなら、やはりさみしい一人ぼっちの死。
 そんなことはない、と言うなら芥川龍之介『枯野抄』をお読みください。

 さて、脅迫・批判・傍観・受容に磨きをかけて生きてきた四タイプもやがて老後を迎える。
 典型的な彼らは死を前にして穏やかな老後を送れるだろうか

 いやいや、とても安穏平和に暮らすことはできない。
 そこにあるのは悲劇であり地獄のような生活だ。

 まず批判者のご老人から想像してみよう。脅迫者タイプは後に回す。

 批判者

 老人ホームや養護施設、また家庭での介護。
 動けなくなった批判者の老人はどう介護者達と接するだろうか。

 このおじいちゃん、おばあちゃんは十のうち八、九悪い点に気づく性格の持ち主である。彼らは当然介護の仕方が悪いと文句をつけるだろう。
 だが、この年になると、さすがの批判者も批判や不満をたくさん言ったのでは、相手に不快を与えると知っている。だから、文句は五つぐらいにして後は言うのを我慢する。これは一体何をもたらすだろう。

 まず批判者の老人はストレスを抱える。この老人から感謝の言葉は出てこない。そもそも感謝の気持ち自体芽生えない。なぜなら十のうち八も九も不満を抱えている。なおかつそのうち半分は言わないのだから、さらにストレスをためる。

 では、介護する方はどうか。
 こちらは介護しているじいさん、ばあさんの気むずかしさに悩まされる。自分がやっている介護をちっとも誉めてくれないのだから失望しか湧かない。

 やがて介護にうんざりする。自分を生んで育ててくれた親だから仕方なく介護するだけだ。
 仕方なくやる介護から《愛ある介護》は生まれない。
 批判者の老人はもちろんそれを感じ取る。そして「親不孝なやつだ」と思うだろう。

 あるいは、介護者がお金で雇われている人だったら、彼女(彼)は「お金に見合う最低限のことをすれば充分」と思うだろう。
 ところが、批判者の老人は要求水準が高い。「こいつはお金に見合う最低限のことをやってくれない、怠慢なやつだ」と文句を言う。または、その気持ちを押し隠して不機嫌に黙る。そのしかめっ面からは感謝が全く読みとれない

 次に傍観者・受容者タイプの老人はどうだろう。

 傍観者・受容者

 このおじいちゃん、おばあちゃん、確かに文句は言わない。だが(喋ることができるのに)黙々と介護を受けるだけで、このタイプの老人からも感謝の言葉が出ず、感謝の気持ちはあまり感じられない。なぜだろう。

 と言うのはこの二タイプの老人は心の中を外に表さない。傍観者は能面のように黙っているか、受容者はいつもにこにこしている。
 だが、本当は「ああしてほしい、こうしてほしい。邪険に扱われると傷つく」と思っている。
 つまり、相手の介護に決して満足していない。ただ、言っても仕方がないと諦め傍観しているか、それを言ったら相手を怒らせると思ってにこにこしているだけである。

 だから、この二タイプの老人からも感謝やうれしさの表現が出てこない。
 応対する介護者はやはり不満な気持ちにとらわれる。自分が行っている介護に対して無反応、無表情。ちっとも喜んでくれないのだから当然だ。それが傍観者のご老人。

 あるいは、受容者のご老人はいつもにこにこしているので、これでいいのだろうと思ったら、陰に隠れて介護者への不満を涙ながらに語っている――と誰かが教えてくれる。介護者は「直接言ってくれればいいのに」と思ってがっかりする。
 いずれにせよ、これではやりがいがないではないか。

 あとは批判者のご老人と同じ。子どもの介護者は「まーこれくらいやっておけばいいだろう」と思うし、お金で雇われた介護者だって「お金に見合う最低限のことをすれば充分」と思うだろう。

 対して傍観者・受容者の老人は我が子のおざなりな介護に失望し、雇用された介護者に対しては「お金のために働くだけで自分への愛が見られない」と愚痴るだろう。
 ときには「人間なんかどうせこんなもんだ」と絶望し、宗教に行きたくなるかもしれない。
 だが、介護者をそんな気持ちにさせたのはあなたでもあるのですよ、ご老人……と言いたくなる。

 最後に脅迫者タイプ。

 脅迫者

 脅迫者はどうなるかって? 簡単だ。脅迫者タイプの老人は金や力がある限り、怒鳴り続け、文句を激しく言い続け、その脅迫的態度で彼の意向を介護者に通すことができる。介護者はびくびくしながら、この老人を《大切に》扱ってくれるだろう。

 だが、あるときこの老人が(脳卒中などで)半身不随となり、ろくに喋れず、腕も振るえなくなると、彼我の立場は逆転する。
 または、何かの事件で老人が無一文になると、そうでなくても金の切れ目は縁の切れ目。もう誰もこの人の相手をしなくなる。

 寝たきりで話せなくなった老人に対して介護者はやっと静かになったと思う。
 あるいは、意地の悪い介護者だったら、今までこの老人からさんざん文句を言われ、怒鳴りつけられた。その腹いせとして何らかの仕返しを果たそうとするかもしれない。

 身体を動かせなくなった老人が、しかし心の中だけは脅迫者のままだと、彼は(周囲が自分の意のままにやってくれない)《怒り》から、目をらんらんと光らせながら死を待たなければならない。人間の薄情さを恨み、ひたすら怒り続ける地獄の苦しみを味わうことになるだろう。
 シェークスピアの『リア王』は典型的な脅迫者の末路を描いている。

 脅迫者の最期は何と哀れで哀しいことか。だが、批判者だって似たり寄ったりだ。支配する側は最終的に友ができない。身内から捨てられ、愛されることなく、最後は独りぼっちで死ぬしかない。寿命が延びた分彼らは悲哀をさんざん味わって黄泉路に旅立たねばならないだろう。

 だが、傍観者タイプだって傍観者のままでいる限り友はできない。だって喜怒哀楽と無縁で、ちっとも助けてくれなかった人だ。傍観者の側にいたって甲斐がないではないか。子どもたちはすでに傍観者の親を見捨てている

 辛うじて優しい受容者タイプだけが献身的に奉仕しただけ、子どもたちの献身的介護を期待できるかもしれない。

 だが、受容者タイプの子が脅迫者・批判者・傍観者タイプに育っていれば、彼らに献身的介護は期待できない
 なぜなら、この三タイプは他者に奉仕と献身を求めるけれど、自らは献身的態度を取れない連中ばかり。献身的に奉仕するのは受容者タイプだけだ。

 そして、受容者タイプから「受容者タイプ」が生まれてくる可能性は低い。我が子を甘えるだけ甘えさせ、なんでもやってあげたあなたの子は大概脅迫者か批判者に育っている。あるいは、母にはわがままを言うけれど、世の中では事態に関わりたくない傍観者になっている。それが親にも適用されて「親の老後だって関わりたくない」と思う。

 あなたはかつてあれほどまで他者に奉仕してきたのに、自らの老後を奉仕してくれる優しい介護者には会えないままかもしれない。

 結局、原性格のままに生きる限り、四タイプは悲惨な老後、悲惨な介護生活を送るだろう。彼らはそうなった原因が自分にあるとは思いもせず、怒り腹を立て、あきらめ絶望して涙を流す。

 あなたはそれでも自分の原性格に固執するのだろうか。
 脅迫者であり続け、批判者であり続け、傍観者・受容者であり続けるのだろうか。

 いや、まだ間に合う。何度も言っているように、あなたの原性格は変えることのできる性格・考え方・感じ方である。
 他者のエネルギーを奪う生き方を改め「他者にエネルギーを与える生き方」に進むことができる。

 上記のような、相手にエネルギーを与えられない「老後と介護のドラマ」を、「このおじいちゃん・おばあちゃんのために一生懸命介護しよう」と介護者に思わせるドラマに変えることは可能なのである。あなたが介護者にエネルギーを与えるならば、それはいつでも出現する極楽である。

 それは介護者に変わることを求めることではない。あなた自身が変わることだ。
 あなたが「エネルギーを与えるドラマ」を開始すれば、周囲の人――介護者から愛エネルギーがやって来る。あなたは愛されていると感じられる。
 これこそ安らかな老後、穏やかな死への旅立ち。現世に起こる「極楽」ではないか。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:ちょっと補足します。今節は老後・介護について書いています。
 四タイプについて論じているとはいえ、介護される側の問題を強調し過ぎていると感じたかもしれません。たとえば、介護担当者の老人虐待とか施設のひどさなど、介護する方は相手がどうであれ、あるいは相手から感謝やねぎらいの言葉がなくとも、仕事はきっちりやるべきだと思う人が多いでしょう。
 だが、それは理屈。人は理屈や法律だけで動いてくれるわけではない。感情で動くことが多い。

 私の父は完璧主義の批判者タイプでした。2005年に80歳で癌が発覚して人生初の本格入院となったとき、点滴などを腕にして「こんな自分が情けない」とぼやきました。
 私は父がいろいろやってくれる看護師さんに対して感謝の言葉が全く出ていないことに気づいていたので、耳元で「オレは看護師さんにありがとうも言えないあんたの方がよっぽど情けないわ」と言いました。
 以後父は感謝やねぎらいの言葉を口にするようになり、看護師さんは「そう言われると嬉しい」とつぶやいていました……。
 もう一度読んでみてください。本節はご老人の感情、介護する側の感情について語っているのです。


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