『続狂短歌人生論』04「四タイプ 心の基地と武器」


○ 四タイプ 人と闘う基地と武器 心はみんな弱いニンゲン


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年3月29日(水)第4号


 『続狂短歌人生論』4 四タイプ 心の基地と武器

 脅迫・批判・傍観・受容の四タイプについてもう少しその特徴を眺めます。
 今号はちと文学的比喩による表現を試みました。
 四タイプの心にあるのは「鉄の要塞・樫の木の砦・オープンセット・水風船」です。
 全体の狂短歌だけでなく、個別の狂短歌も詠んでみました。

☆ 脅迫者 鉄の鎧を身に着けて 鉄のハンマー振り回す

☆ 批判者は樫の砦に立てこもり 木のとんかちでこつこつ叩く

☆ 傍観者 オープンセットのベニヤ板 お面かぶって変わり身得意

☆ 受容者はなんでも許す水風船 表にこにこ裏はぐちぐち


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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 四タイプ 人と闘う基地と武器 心はみんな弱いニンゲン

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』4 四タイプ 心の基地と武器 】

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☆ 脅迫者 鉄の鎧を身に着けて 鉄のハンマー振り回す

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 脅迫者 鉄の要塞

 脅迫者は心に「鉄の要塞」を構築している。鉄鋲の打たれた門は硬く頑丈で、生半可な攻撃ではびくともしない。中に入れてくれと叩いてみたって声は要塞の奥まで届かない。
 さらに彼は鋼鉄の鎧で完全武装している。だから、心を傷つけない。だから、他者が傷つくことに思いを馳せない。

 そもそも相手が痛がることを思いやっていては殴ることなんぞできない。兵士となって人を殺すことができようか。ゆえに、暴力をふるう脅迫者は思いやりの心なんかちっとも持たない人間である。特に敵と見なした人間は絶対に思いやることができない。

 そんな脅迫者の、鋼鉄の心が生み出す武器はもちろん「鉄拳」という名のハンマー(おお、正に言い得て妙、鉄のこぶし!)。
 彼はそれを使って他者をがつんがつんとぶんなぐる。鉄拳だけでなく、強烈な「怒鳴り声」は相手の心を殴りつける鉄のハンマーである。
 何て素晴らしい! 味方だったらこの上ないボディガード。だが、敵となったら絶対に遭遇したくないタイプだ。

 また、脅迫者は心の至る所にトーチカを設け、絶えず周囲に目を光らせている。妙な奴、悪い奴、自分に危害を加えそうな敵を目ざとく見つけだす。そして、完全武装の戦士が直ちに飛び出していく。

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☆ 批判者は樫の砦に立てこもり 木のとんかちでこつこつ叩く

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 批判者 樫の木の砦

 批判者は硬い樫の木で心に「丸太の砦」を作っている。ログハウスと言った趣であろうか。鉄の要塞に比べればひ弱に見えるが、なーにゲリラ戦・肉弾戦なら木の砦だって充分な要塞であり、敵と闘える基地である。
 秀吉墨俣一夜城の故事もある。丸太で囲まれただけでも充分な要塞なのである。これは鉄と違って木の扉だけに、批判者の心を叩けば気づいてくれることがある。たまに扉を開いてくれることだってある。

 批判者が繰り出す最大の武器は樫の木で作られた「とんかち」である。
 これでこつんこつんと人を叩く。優しく叩けば小言になり、力をこめれば意見や説教になる。やがて叱責・脅迫的言辞ともなる。
 叩かれる方にしてみれば、結構痛いのだけれど、何しろ傷は心に付けられている。だから、外見からは一切わからない。

 批判者は心に木の砦を持っているので、人も砦を持っていると思っている。だから、彼(彼女)は平気で他者への批判・悪口を繰り出す。相手が心を傷つけることなんぞ思いやりはしない
 そんなことを思いやっていては批判なんかできない。相手が不愉快になることを気遣って悪口が言えようか。

 いや、そもそも批判者の言葉は相手の悪や不正を正すための批判である。「自分は正しいことを言っている。これは悪口ではない。そもそも暴力的な脅迫者と同じにしてもらっては困る。自分は一切暴力を振るっていない」と批判者は口をとがらせて反論するだろう。

 だが、ここでも批判者が「敵」と見なした相手への批判は情け容赦ない。
 簡単な例をあげるなら、野党批判者議員の与党・政府への質疑。これでもかと批判を繰り返せば、かたや蛙の面にしょんべんの答弁。
 与党議員だって下野すれば、攻守所を変えて猛烈に新政府を口撃する(漢字ミスではありません)。報復であることは明らかだろう。

 あるいは、マスメディア批判タイプの記者が悪や不正を犯した権力者に対して批判のマシンガンを撃ちまくる。
 戦争状態になったときの敵国報道もそうだ。下手をすると、真実を伝えるという報道の使命を忘れ、敵国のあることないことを批判し合い、悪口を応酬する。

 また、卑近な例で言うなら、浮気した亭主を責める批判者タイプの奥さん。
 信じていた味方に裏切られたときの批判と悪口も情け容赦ない。相手を問い詰め、追い詰め、決して許そうとしない。
 亭主は「お前がそんな風だから浮気したくなるんだよ」と言いたいけれど、それを言ったら火に油。「自分が悪かった」とじっと我慢の亀の子タワシ……。

 このように、批判者もまた心の至る所に見張り台を設けている。斥候を置き、他者の不正・悪を目ざとく発見する。
 特に身内の裏切り行為、不快を催す事態を引き起こした輩を決して許そうとしない。可愛さ余って憎さ百倍というやつだ。批判は延々と続き、誓約書を書かせてようやくおさまろうか、というほどの腹立ちを露にする。

 このように脅迫者・批判者の支配者タイプはとにかく硬くて強い心を持っている。鉄の要塞、丸太の砦で心を防備しているだけに、ちょっとやそっとでは傷つかない。
 だから、自分が傷つくことや弱っていることに対して鈍感である。ゆえに、人が傷つき弱っていることに対しても鈍感なのである。

 彼らは自分の考えや行動に自信がある。完璧な自信家である。よって、他者から教わることは何もないと思う。自分が尊敬しているとても少数の人の意見のみ、やっと耳を傾けるだけだ。
 すなわち、脅迫者は自分よりもっと強い剛力脅迫者に。批判者は自分よりもっと批判の甚だしい、もっと完璧主義の超批判者に。
 彼らはエネルギー豊富だから、とにかく行動的で戦闘的。事態には積極的に関わろうとする。
 そして、脅迫者は力で敵を倒そうとするし、批判者は弁舌で敵を説得し降伏させようとする。

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☆ 傍観者 オープンセットのベニヤ板 お面かぶって変わり身得意

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 傍観者 オープンセット

 さて、脅迫者・批判者から支配されがちな傍観者であるが、傍観者だって心に要塞を作っている。
 ただ、この要塞はまるで映画のオープンセット。材料はもちろん薄っぺらのベニヤ板。倒れなければいい程度の支え。支えを外せばすぐに倒れる。

 そして、ある板は真っ白で何も描かれていない。他の板には閻魔の顔が描かれ、しかめっ面が描かれ、優しいえびす顔が描かれていたりする。
 よって、傍観者の武器とは相手に応じてこのオープンセットを付け替えることにある。仮面と変身――それが傍観者の武器である。

 普段は無表情で能面のような顔を見せる。強力な脅迫者・批判者が近寄ってくると、受容者の笑顔を見せながらすり寄り、お世辞を言う。
 相手が普通の批判者・単なる傍観者だったら知らんぷりして傍観する。相手が弱いと見れば、閻魔お面やしかめっ面お面をかぶって攻撃する。

 人はこんな傍観者を日和見主義者と呼ぶ。中間管理職によくあるタイプだが、虎の威を刈る狐となって居丈高に振る舞う。自分では決断できないくせに、上が決めたことは後生大事に部下に強制する。「あんたはキツネに過ぎない」と批判しても、本人はトラだと思っている。

 あるいは、小さな企業や団体が不祥事を起こしたとき、その長に時折傍観ぶりが見て取れる。
 たとえば、観光船が沈没して乗客乗員が全員死亡した。保育所の園児が送迎バスに置き去りにされ、熱中症で亡くなった。「長」と名の付く人が登場する記者会見で目にすることがある。トップの会見はまるで他人事のような、責任感のない発言に終始していた。彼らは間違いなく傍観者である。

 また、流行の色と形態を直ちに取り入れ、ブームに軽々と乗っていく。平和時に浮かれまくり、刹那の快楽に浸り、社会や未来がどうなろうとカンケーないと呟く。
 一転して戦争時、国民の多数が戦闘モードになると、脅迫者の兵士となって他国に人を殺しに行く。戦争に負けて帰国すると、自分は命令に従っただけで「責任はない」と声高に主張する

 これらの態度、言動は傍観者が心のオープンセットに何でも描きこめるからだ。仮面を付け替えて変身すれば、傍観者は何にだってなれる。
 逆に言うと傍観者には自分の本質がわからない。何が本当の姿なのかわからない不安を常に抱えている。

 それゆえ傍観者は自分に自信が持てない。そして、大概の脅迫者・批判者は傍観者の本質を見抜いている。いくら脅迫者・批判者の顔を見せても、それはお祭りのお面に過ぎない。
 オープンセットは鉄の戦車がちょっと走り回るだけで押し潰され、粉砕される。でっかい木槌を振り回すだけで薄っぺらのベニヤ板はばりばり壊される。

 脅迫者と批判者に蹂躙され、傍観者はいたく心を傷つける。荒らされ破壊されたオープンセットを冷たい風が吹き抜ける。
 傍観者は辛うじて立ち上がり、一枚だけ残っていた角の欠けたベニヤ板を立て直す。それは真っ白で何も描かれていない。もう何も描く気も起きない。

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☆ 受容者はなんでも許す水風船 表にこにこ裏はぐちぐち

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 受容者 水風船

 水の心を持つ受容者タイプは武器を持たない。丸腰でいつでも「撃ってちょうだい」てな気前の良さである。心の扉はいつも開けっぴろげである。中に入ってみると水でできた風船がある。

 受容者タイプの心にあるのは「水風船」だ。少し濁って透明というわけではない。薄い膜のような外壁を針で突つくと、ぴゅっと水をもらす。だから、涙もろいわけだ。

 水は漏らすけれど、本物の風船のように破裂することはない。受容者タイプの水風船とは水そのものである。そして「水は方円の器に従う」のことわざ通り、受容者タイプは脅迫者・批判者・傍観者・他の受容者タイプ全てを、その水風船に取り込む。[「方円」の意味不明なら直ちに検索を]

 脅迫者には脅迫者の望む姿に。批判者には批判者が求めるタイプに。傍観者・受容者タイプに対してもまたしかり。
 そして、ここでも水は形を変える。通常はぬるま湯のように人肌のぬくもり。とても快適である。どんな脅迫者も批判者もこの「お湯風船(?)」の中では御機嫌である。「いーい湯、だ、なー」てなもんである。
 傍観者と他の受容者タイプだって、このお湯の中では「愛されている」と感じる。攻撃されているなんて誰も思わない。

 だが、あるときこの水は沸騰して脅迫者のように怒り狂っていることがある。そして、ごく稀に冷たく凍り付くことだってある。
 おお、もしかしたら受容者タイプが持つ水の心とは、かなり強力な武器なのかも知れない

 今しも受容者は丸腰――と書いた。だが、彼らだって武器を持たないわけではない。
 水の心を守るために武器を使っている。周囲がそれを武器と思わないだけだ。
 受容者が身に着けた武器、それは《微笑み》である。いつもにこにこと微笑んで周囲の人間を受け入れる。ひどい目にあっても敵意を示さない。これこそ受容者の《武器》である。

 受容者タイプはこう思っているだろう。「他者の全てを許し受け入れる自分は仏のように、キリストのように、慈愛にあふれた人間なのだろうか。もしそうなら、自分の心の底に湧いてくる、不満な感じ、悲しみと絶望感はなぜ生まれるのか。なぜ泣き言と愚痴がとめどなくあふれるのか。なぜ涙を止めることができないのだろうか」と。受容者タイプはそのような疑問にとらわれている。

 そもそも「水風船の心」とは何なのか。叩いても殴っても壊れない。戦車だってぶくぶく沈んでしまう。まるでエイリアンのように粘着力を持っていたりする。これは強いのか弱いのか。

 だが、水は所詮水でしかない。そこには要塞のような、砦のような確固たる自己がない。外から見る限り、受容者タイプはとても弱々しく唯々諾々と他者の支配に従っているように見える。確かな自己を保持しているとは思えない。
 それゆえ受容者タイプもまた傍観者同様、心の実態がわからない不安を抱えている。

 このように、傍観者と受容者は確たる実体のないオープンセットと水風船の持ち主である。

 彼ら被支配者タイプは自分にどうしても自信が持てない。薄いベニヤ板はすぐに壊され、水風船からは涙が飛び出す。彼らは自分が人から傷つけられることにとても敏感である。だから、人の傷つき弱っていることにも敏感に反応できる。

 ところが、他者や事態に積極的に関わったり、行動することは苦手である。困っている人に深く同情するけれど、援助の手を差し伸べることは怖くてできない。関わると自分に累が及ぶし、相手から拒絶されたら傷つくからである。

 傍観者は取り分け《偽善》という言葉が好きだ。人の善行を偽善と言って批判できるし、自分が行動しない言い訳として使えるからだ。
 街中の募金活動で10円入れることさえ偽善だと思う。そんな小さなことをやっても「世の中は変わらない」とつぶやく。10円が1千万人分集まれば1億円となることを考えない。

 特に脅迫者・批判者タイプが弱々しそうに見えるとき、同情や慰めの声をかけたりすると、見事に裏切られる。脅迫者・批判者は人から同情されることが嫌いだ。それは自分の負けであり、人生の負けであると考えるからだ。
 彼らは「下手な同情なんかいらない、自分は弱い人間ではない」という態度で、傍観者・受容者の優しさを拒絶するのである。
 それだけでなく優しさを示した傍観者・受容者を、逆に(違う面で悪い点を見つけ)怒ったり批判して責めたりする。

 ゆえに、他者の同情・慰めが嬉しいのは傍観者・受容者タイプだけである。
 敏感な被支配者たちは他者に影響されやすく、他者の意見に振り回されやすい。洗脳されやすく、騙されやすいのもこの二タイプである。性格判断・運勢判断・人生相談から思想・宗教の本を読みあさり、それにすぐ影響される。

 なぜ自分は弱々しいのか、臆病で傷つきやすいのか。なぜ自分はよそよそしいのか、冷たく白けているのか。なぜ自分に自信が持てないのか。それらを解き明かした(ように思える)ものに、彼らはのめりこみ、それを実践してみる。
 だが、ほとんどの人は結局傍観者・受容者に戻ってしまう。傍観・受容という原性格に気づかない限り、元の木阿弥となるしかないのである。


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 本節最後に「一読法」の復習です。

 冒頭にあった全体の狂短歌、下の句を覚えていますか。
 上の句は……「確か心の基地と武器だったな。はて? 下はなんだっけ?」と思い出せないのではないでしょうか。
 すぐに答えが出た読者は一読法2段クラスかも(^_^)。
 そこでしっかり立ち止まったことを示しています。

 もっとも、記憶に残っていなくても不思議ではありません。心の基地と武器については大いに語っているけれど、下の句に関してはあまり触れていないからです。ごめんなさい(^_^;)。

 下の句は「心はみんな弱いニンゲン」とありました。
 もちろん傍観者・受容者の《弱さ》については語っています。しかし、脅迫者・批判者に関して「弱いニンゲン」との言及はありません。

 なぜ心に基地を作り武器を持って戦うのか。鎧を身に着け、棍棒を持ち、仮面をかぶりオープンセットを構築するのか。
 戦うためです。ほんとは戦いたくない傍観者だって戦うために仮面を身に着けた。受容者の微笑みだって精一杯の武器だった。
 誰と戦うのか。もちろん相手は周囲の人間たち。
 基地を取り払い、武器を捨てれば、そこにいるのは裸のニンゲン。

 弱弱しい人間はいつも負ける。「強い人間にならなきゃ」と決意して武器を持ち基地をつくってきた。幼いころから。
 親と戦い、兄弟姉妹で戦い、友人と戦い、初対面の人間と戦ってきた。戦いに力で勝てば脅迫者となり、言葉で勝てば批判者となった。負けたくないから傍観者になり、負け続けようと受容者になった。悲しいかな、みんな阿修羅のように戦うしかなかった。

 そろそろ「確かに自分は戦ってきた。戦うことに疲れている」と感じるべきではないか。
 お互い弱いニンゲンだと認め合うべきではないでしょうか。

 四タイプについて「原性格」と書きました。だが、脅迫も批判も傍観も受容も、それは自分の本質ではない。人と戦うために身に着けた武器である。基地を作って心の弱さを囲っているに過ぎない――そのことに気づくべきだと思うのです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:やりましたねえ。WBC侍ジャパン、決勝戦でアメリカを下して世界一達成。おめでとうございます。私の予想は「ウラ4対3で日本勝利」だから1点違いでした(^.^)。

 9回大谷がリリーフ登板し、最後のバッターはアメリカのキャプテントラウト。そして「美しく滑るスライダー」で空振り三振。準決の逆転サヨナラに続いてまたも漫画でも描かないような劇的結末となりました。
 МVPは二刀流大谷君。まるで「大谷の大谷による大谷のための大会」だったかのようですが、彼一人で達成した偉業でないことは明らか。ピッチャーもバッターも、ひとりひとりが力を発揮したからチームが優勝できた。

 監督の采配、選手を信じ続けたことなど、長文コラムを書きたくてうずうずする(^.^)ほどのエピソード満載ですが、特に感じたことを2点だけ。
 一つは選手がとても楽しそうに野球をやっていたこと。試合場では敵同士。だが、相手へのリスペクトを忘れない。デッドボールを与えたら、後で菓子持って謝りに行く。自分の判断でバントする。勝てば喜びを爆発させ、ペッパーミルをぐるぐる回す。選手の一人は「野球ってこんなに楽しかったんだ」とつぶやいていました。
 同じころ日本では甲子園選抜大会が始まりました。監督の命ずるままにバントをし、ミスしたら「何やってんだ」と叱られ殴られる。「相手への敬意から勝っても喜ぶな」と教わる……。やれやれ。
 もう脅迫と批判しかできない監督や連盟トップは総退陣願った方が良いのではないか、と思うのは私だけでしょうか。

 もう一つ。まるで漫画のようなこのドラマ、これまで誰も書かなかった。高校野球でピッチャーの二刀流は当たり前。だが、プロの世界ではあまりに現実離れして(超人野球は描いても)二刀流物語をつくる漫画家はいなかった。
 だが、このシナリオを書いた人が一人だけいた(と翌日知りました)。それはほかならぬ大谷君当人。高校3年の時「27歳でWBCに優勝してМVPになる」と人生ノートに書きつけていたそうです。一つ違いの達成でした。

 実は20年ほど前、私も現実離れした、誰も書かないような物語を書きました。ケンジとマーヤの後編『時空ストレイシープ』において「戦争を防ぐにはどうするか。それは国のリーダーが戦争をやると決めるのではなく、兵士ひとりひとりが決めることだ」と。命令に従うのではなく、自分で考えて決断すれば戦争を防げるし、開戦してもすぐにやめようと言える。この破天荒な夢物語「実現するかもしれない。いや、してほしい」と久しぶりに感じたことです(^_^;)。


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