○ 世界から暗殺されてと願われる 死ぬまで気づかぬ独裁者
ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」 2023年4月05日(水)第5号
『続狂短歌人生論』5 独裁者の破綻 その1 国家
前著『狂短歌人生論』の原型は2000年から01年にかけて書かれました。
もちろん脅迫・批判・傍観・受容の四タイプは前節までの分を含めて徹底的に書き込んだし、支配と被支配についても触れました。
本稿前置きで振り返ったように、「大支配が衰退した現代、小集団の支配はうまくいかない。かつては夫や父が妻や子を支配した。だが、今それは風前の灯火。逆に増えたのは妻や母が夫や子を支配する家庭である」と。大支配とは《宗教・思想・道徳・世間の習慣》などです。
これを(2023年現在)読まれてみなさんはどう感じたでしょうか。
後半の「妻や母が夫や子を支配する」のところは「確かに」と同感されたのではないか。しかし、前半の「大支配が風前の灯火」のところはどうでしょう。どうもこの20年間で「大支配が復活した、復活しつつある、復活させようとする勢力がある」と思いませんか。
特に世界でそれが甚だしい。民主主義対独裁・強権国家の対立とは正にそれ。
独裁・強権国家とは武力・警察力・情報統制によって国民に絶対服従を強いる大支配の国です。
日本の隣国ではロシア、中国、北朝鮮。これが世界国家の半数はあるというから驚きです。
また、アフガニスタンはタリバンが一度掃討されて民主主義国になったけれど、タリバン復活とともに強権的イスラム国家に先祖返りしました。女性には再び顔を隠すことが強要され、女子高等教育は撤廃されようとしています。「女は結婚して子供を育てることが仕事だから、高等教育なぞ必要ない」と言わんばかり。あれっ、日本の政治家にも似たような発言する人いますね。
ところが、かたや正義(?)の民主主義国家だって妙です。旗艦アメリカは二大政党が内戦を起こしかねないほどの分断だし、某花札大統領は独裁者を目指していた。
そもそもあの国の選挙制度は小さな政党の議会進出ができません。それは少数派の意見が無視される選挙制度です。つまり、多様化尊重なんてお題目でしかない。
日本だって3、4割の支持率なのに国会の3分の2を占める選挙制度を採用して恥じることがない。女性議員が1割なのは「国民の意思だ」としてほったらかしにしている。
あげく某AB首相は強いリーダー=独裁者を目指していたし、彼は一時期高い支持がありました。敢えて言うなら、日本も大支配の復活を目指し、国民の一部もそれを求めていた(と言っては言い過ぎ?)。
ここで私はなぜ独裁者が待望され、独裁者が生まれるのか。また、民主主義が持つ欠陥について少々触れたいと思います。
四タイプのトップは暴力で他を支配する脅迫者でした。独裁者とはその上に位置する最強の人間であり、かつ死ぬまで自己の過ちに気づかない、最悪の人間であることを語らねばなりません。(本文は「である」体)
(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 世界から暗殺されてと願われる 死ぬまで気づかぬ独裁者
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冒頭の狂短歌が誰を意識しているか、2023年現在誰でもおわかりと思う。
敵対勢力を粛清・暗殺するのは独裁者の常套手段であり、それは違法卑劣な方法だと非難される。
だが、度を越した独裁者に対しては「早く死んでほしい。暗殺であっても」と世界から願われる。
残念なことだが、独裁者は9割の国民から支持されていると信じているので、その思いを感じてくれない。森の石松じゃないが、死んでも気づかないかもしれない。
ロシア、中国、北朝鮮など独裁国家・人権無視の強権国家の横暴ぶりが続いて久しい。なのに、地球上では国の半数が非民主主義国家と言われる。いつまで経っても独裁・強権国家がなくならないのはなぜだろう。
社会学的な見解はネットに任せることにして、私は感情面からこの問題を探ってみたい。
理由の一つとして考えられるのは、国家の決定を独裁者一人が決める方が手っ取り早いことだろうか。
反対勢力をとことん潰してしまうのが独裁国家の特徴だから、それが完成すると国家・国民は常に一枚岩となる(腹の中は置くとして)。結果、個人としての意見表明、特に異議申し立てができない社会となるのだが、これに慣れると「議論するめんどくささ」がなく、それはそれでここちよい(のであろう)。
そして、この国を守るのは公務員(行政・司法・警察・軍隊)だ。上から下へ「命令だ」の一言で、独裁者への絶対服従、独裁者への忖度が社会の隅々までいきわたる。もちろん公務員たる教師も子どもたちを独裁者への崇拝と国家への愛に駆り立てる。
国民を支配する手法は反対者に対しては恐怖を(刑務所にぶちこみ拷問する)、信奉者には褒賞(加増と勲章)が与えられる。独裁者と上役の命令に従っている限り、国民は自分と家族の生活が保障される。
独裁者の決めることに間違いはない。独裁者は最も我が国を愛する人だ。愛国心があるなら独裁者に従うべきだ。反対者には愛国心がない。そんなやつは拷問したって殺したってかまわないという論理展開だ。
それに上からの命令に従っている限り、個人としての責任を問われない。責任を負うのは上役であり、最終的に独裁者だ。
これは下の者にとってありがたい。人を傷つけようが殺そうが、「私はほんとはしたくなかった。命令だった」と言い訳できる。
寄らば大樹の陰、長いものには巻かれよ。自由? 人権? 反対さえ言わなければ自由も人権もある。人々は「別にそれでいいじゃないか」と思う。
だが、自由に発言できない、絶対服従への不満はマグマのようにお腹にたまり続ける(と推測する)。
じゃあ個人の責任はないかと言うと、連帯責任と言う責任の取らせ方をする。
いやならいやで構わない。だが、命令に従わないと、家族や仲間が迫害される。
ひそかに不満をもらせば当局に密告される。密告とは愛国心ある行為だから称賛される。
かくして心の中を自由に表明できない重苦しさが人々を鬱屈させる。独裁体制のもとで人々はみな受容者となって支配に服従するしかない。唯一のはけ口は山の中で「王様の耳はロバの耳だ」と叫ぶことだろうか。
これが独裁国家なら、なんでも自由に発言できる民主主義国家は天国のように感じられるかもしれない。だが、民主主義国家は常に政情不安を抱え、独裁待望の空気が生まれやすい。
――と言ったら言い過ぎかもしれないが、民主主義国家にある感情は議論することのめんどくささ、うんざり感ではなかろうか。
見かけ上反対意見を尊重するから議論が長引く。結果一つの結論になかなかまとまらない。
決定は多数決だから一応決まるけれど、政権交替があると前政権の決定が(国家的決定であるはずなのに)簡単にひっくり返されてしまう。
近年では韓国と日本が結んだ従軍慰安婦を救済する「慰安婦合意」がいい例だろう。韓国右派政権が交わした合意は次の左派政権で破棄されてしまった。
日本では今年「児童手当の所得制限を外す」法改正が成立しそうだ。これは2010年民主党政権時代に成立したが、2年後自民党政権復活で廃止された。
それが今になってさすがに(ようやく?)このまま少子化が続けば、国が滅ぶと思ったか、自民党自身が撤廃を言い出した。
貧乏人はもはや子どもを1人か2人しか産めない。いや、結婚もできず子どもを産めない。ならば、若い金持ち夫婦に4人も5人も子どもを産んでもらおう、てなところだろうか。
2010年の多数決の時「この愚か者めが」とヤジを飛ばした自民党議員がいたようだ。
彼女は自身先を読めない愚か者であったと自覚しただろうか。
その後政権交替が起きていないから、児童手当の所得制限は継続された。
もしも民主党系野党が再度政権を獲得していたら、同党は「児童手当の所得制限撤廃」を決めただろう。すると次に自民党が政権を取ったら撤廃が撤廃される。その都度「愚か者め」と叫ぶのだろうか。
こうなると国内外を問わず全会一致の決定しか信用できないことになるが、それがなかなか難しい。人々はころころ変わる決定に不信感を持ち、長引く議論、なのに議論が活かされず原案通り(多数決で)決まることにうんざりする。
日本では選挙制度が小選挙区重視となっていることもあってその後政権交替が起きない。
まとまらない野党がだらしないと言われるけれど、国民の根底に政権交替によって決定がころころ変わることへのうんざり感があるのではなかろうか。
かと言って与党もなかなか一つの結論にまとまらないジレンマを抱えている。
かつて自民党の派閥は諸悪の根源のように言われていた。だが、いつの間にか復活してつまりは多数派が政権の中核となる。他党と連立政権なんぞ組みたくないが、3割の支持率ではどこかと組むしかない。
あるいは、官僚が政治家の言うことを聞いてくれない。官僚の方が頭がいい(?)からか、大臣が国会議員であっても官僚の理屈に負け、変えようと思ってもなかなか変えられない。
結果、大臣と言いつつ発言に責任感のない傍観タイプ大臣が目につく。野党の質問に自分で考えて答えられず、官僚作成の答弁をオウムのように繰り返す。
もっとも、お飾り的傍観大臣こそ官僚が求める大臣像だろう。官僚は「この国を動かしているのはオレたちだ」と思っている。
かくして、民主主義国家には常に「独裁者待望」の感情が生まれる。「強いリーダーシップ」というやつだ。志半ば(?)で凶弾に倒れたAB総理とはこうして生まれたと言えようか。
彼が某国P大統領や傲岸な花札大統領と親密だったのは偶然でも策略でもあるまい。AB総理自身一国の、与党の、官僚を絶対的に従わせる独裁者を目指していたのだし、その資質を持ち、ゆえに強いリーダーシップがあるとしてかなり支持された。
このように民主主義は(イギリス宰相チャーチルの名言にあるとおり)決して最上・万全な制度ではない。だが、他のあらゆる政治形態、とりわけ独裁体制よりはましであると彼も認めていた。
民主主義体制をリードするのは多くの批判者である。だが、批判が過ぎ、議論が長引き、決定がころころ変わると、独裁への待望が生まれ、次第に傍観者が多数を占めるようになる。日本なら選挙に行かない4割の国民とは傍観者そのものである。
残り6割のうち3割は独裁者待望の人たち、3割は独裁者否定の人たち――とまとめてしまうと、これはちと暴論が過ぎる。だが、選挙結果を見ると、当たらずと言えども遠からずではないか。
そして、独裁者待望組は3割の反対派を殲滅して6割を目指す。ロシアも中国も憲法では大統領・主席は「2期8年から10年」と決められていた。これは独裁を防ぐ最後の砦である。
だが、両国はこれを改定して20年でも30年でも国のトップを続けられるようにした。北朝鮮は世襲をもってトップが死ぬまで独裁者を続けられる。
が、3国とも選挙はやっている。9割の支持を得てトップでいることを国民から支持されていると言い張る。独裁国家の下で人々は全て受け入れる受容者となるしかないからだ。
日本のAB総理も自民党内規では「総裁は2期8年」だったが、それを撤廃しようとか12年までは認めようと言い始めた。次は「間が空けばまた1年からスタートにしよう」と変更されただろう。成功すれば日本だってAB総理が独裁者として君臨しただろう。
最後にもう一つ狂短歌を書きたい。
冒頭の狂短歌同様、こちらも読者の顔をゆがめるかもしれない。
難しい漢字では「顰蹙ものの」歌である。が、敢えて書かせていただく。
〇 独裁者 横暴止めるすべはなし 殺すしかない悲しい末路
独裁者に幸福な老後が訪れないことは歴史が証明している。
それでも、人は強いリーダーという名の独裁者にあこがれ、独裁者がこの国をリードしてほしいと感じている。その裏にあるのは前述したように、議論するめんどくささ、批判の応酬、つまり悪口の言い合いでしかない口げんかへのうんざり感だと思う。
我々は誰でも口げんかの間に入って仲裁しようとは思わない。つまり、傍観するということだ。
議論が口げんかではなく、建設的になるにはどうすれば良いのだろうか。
私には私案(試案?)があるけれど、またの機会としたい。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:相変わらずの(^_^;)一読法課題(つぶやきながら読んでいるか)です。
前節後記をお読みになったなら、二ヶ所つぶやいてほしいところがありました。
一つは高校野球について「もう脅迫と批判しかできない監督や連盟トップは総退陣願った方が良いのではないか」と書いたところ。これは高校野球に限らず、学校スポーツ全般に言えることだと思います。体罰監督や顧問はときどきニュースとなって発覚するけれど、氷山の一角でしょう。「お前のそこが悪い、ここが悪い。身勝手な行動でチームに迷惑をかけている」と批判する指導者たるや残り全員?
ここで「脅迫者・批判者タイプが監督にふさわしくないとすればどのタイプがいいんだ? 傍観か受容か?」とつぶやいてほしかった。
もう一つは私の作品について実現不可能と思える「戦争を防ぐには〜国のリーダーが戦争をやると決めるのではなく、兵士ひとりひとりが決めること」と書いたところ。
ここでも「どうして《国民》が決めるのではなく兵士ひとりひとりなんだ?」と疑問のつぶやきを発してほしかったところです。
次号にて答えを書きます。一週間考えてください(^_^)。
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