『続狂短歌人生論』07「LGBT増加が意味するものは」


○ 今増えるLGBTとは何か 支配と服従拒む生き方


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年4月19日(水)第7号


 『続狂短歌人生論』7 LGBT増加が意味するものは

 突然このような表題が入ると、ちょっと驚かれるかもしれません。
 しかし、前節まで四タイプの悪しき特徴、中でも最悪な独裁者についてさんざん語って来た以上、ある種の解決策も提示する必要があると思いました。
 解決策は「LGBT」の広がりにあると考えています。それは支配と被支配のない、命令と服従のない対等な人間関係を築くことです。(本文は「である」体)



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 今増えるLGBTとは何か 支配と服従拒む生き方

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』7 LGBT増加が意味するものは 】

 最近日本ではLGBTについての議論が盛んだ。
 2021年には超党派で「LGBT理解増進法案」が作成されていたが、自民党保守派の反対で国会に提起されなかった。
 本年2月1日首相が野党議員の質問に対して「同性婚によって社会が変わってしまう」と答弁した。さらに翌日、首相秘書官がオフレコとは言え、LGBTQ当事者について「見るのも嫌。隣に住んでいるのも嫌だ」と発言した。それが外部に漏れたことで一気に議論百出状態となった。

 日本はG7で唯一性的少数者への差別を禁止する制度がなく、また夫婦別姓も認められていない。国会議員における女性比率はわずかに1割。非多様化にして伝統的(?)男尊女卑の後進国もさすがに法整備が進みそうだ。
 議員の9割が男だから「夫婦同姓は日本の伝統であり慣習だ」などと言う。だが、この男どもはあることに気づいていない。日本では結婚するとほとんど男性の名字になることだ。

 結婚は親戚、友人、同僚から祝福される。だが、離婚はひっそり行われて知らされないことが多い。男性の縁者は離婚に気づかないが、女性の側は周囲がすぐ気づく。
 職場で「名字が元に戻りました」と言わざるを得ない気持ちを、男どもは考えない。親の離婚で子どもは心を傷つける。その上「名字が変わった」と言わせて傷口に塩を塗り付ける制度が夫婦同姓だ。

 閑話休題。当該秘書官は更迭されたけれど、彼は「社会に与える影響が大きい。マイナスだ。秘書官室もみんな反対する」と述べたとも言われる。これは首相の「社会が変わってしまう」発言の解説になっている感じだが、首相本人は「ネガティヴな意味ではない」と釈明している。普通「〜してしまう」の後には「だから良くない」が隠れているから、さすがに苦しい。

 そこでLGBTについて私が思うことを開陳したい。
 私はLGBTについて「同性愛者」と訳すより、単に「同性の二人が一緒に暮らすこと」と解釈した方がいいと思っている。

 思うにLGBT――同性が共に暮らすとは権力闘争に陥る「家族」の放棄ではないだろうか。つまり、主導権争いを拒否する共同生活である。

 一人ぼっちで暮らすより誰かと一緒に暮らした方が助け合えるし、孤独のさみしさも防げる。
 だが、男と女が共同生活を送り、子どもも絡むと必ず権力闘争が起きる
 勝った方が一家を支配し、負けた方が支配に従う。

 もしも人が男の支配も、女の支配も、子どもの支配も拒否するなら――だが誰かと一緒に暮らしたいなら、男同士、女同士で暮らすのが一番いい。それがLGBTではないか。

 日本では厚労省など標準的な家族モデルを「夫と妻、子供が二人」と規定している。
 これを「家族」と呼ぶなら、LGBTとはこの家族を放棄すると言えよう。だから、この国を愛し、少子高齢化を心配する議員・官僚がLGBTを受け入れがたいのはある意味当然かもしれない。「この国を愛するなら、ここで生きるなら異性間で暮らせ、子どもを産め」と言いたいことは明らかだ。

 家庭内の権力闘争、主導権争いの拒否――と書けば、「男同士、女同士の生活だってどちらが主導権を握るか。その問題はあるだろうに」と反論されるかもしれない。
 もちろんそれはある。主導権争いが起これば、男同士だって女同士だってうまくいかない

 私にはLGBTの友人がいない(と思う)。それでも、テレビのインタビューなどに登場する彼らはとても「おとなしい」と感じる。争いはしないし、したくないような雰囲気がある。
 もしも同性の共同生活が平穏でうまくいっているなら、それは主導権争いが起きていない場合だけだろう。

 そして、彼らは気づいた。男同士・女同士の共同生活なら主導権争いが起きないことに。
 男同士・女同士ならどちらかが決定し、一方がそれに従う支配と服従の関係が起きない。同性だと子どもは生まれないから、子どもに支配されることもない。

 そのうち子どもを育てたいと思って代理出産とか里子制度を利用することもあるようだ。それは「この家族なら親子間の主導権争いも起きない」と確信できたときだろう。

 別の考え方をとりあげるなら、男同士、女同士の共同生活とは「男女の恋愛を拒否して友人として共に暮らすこと」と言ってもいい。我々は同性の友人関係なら支配と服従の関係が起きにくいことを知っている。

 もちろん友人であっても脅迫と受容の関係は支配と服従である。だが、それ以外の友人同士なら、極端なことを言えば、何を言っても何をやってもお互い許し合うところがある。この友情は破綻しないと信じられる。だから、同性の友人関係は長続きする。

 近年男女の恋愛はめんどくさいものになった。最初から主導権争いが始まっている。どちらが上に立つか、どちらが主導権を握るか。
 さらに、相手にプロポーズさせれば、結婚後優位に立つことができる。「あなたが私に惚れたんでしょ?」とか、「お前が俺に惚れたんだろ?」と言えば、自分が上で相手が下だ。これはもはや対等・平等の恋愛関係ではない

 これは根拠なき私の感想だが、かつてのゲイやレズと現在のLGとの違いがそれではなかろうか。昔のゲイには大柄な男と小柄な(女性的な)男性、レズにはボーイッシュな「タチ」と優しく女性的な「ネコ」という構図があった。つまり、強い「男」が上で、弱弱しい「女」が下。それが男同士、女同士に転換しただけ。

 私が十代のころ流行った池畑慎之介さん(ピーター)の歌に『夜と朝のあいだに』がある。ピーターは男でありながら美少女の雰囲気だった。
 また、「ほほに小さな 泣きぼくろかわいい人よ なぜ泣くの」が冒頭の『愛するってこわい』を歌ったじゅん&ネネもタチとネコといった雰囲気だった。
 近年のLGは(外見では)男と女といった感じがしない。二人は対等のように見える。

 ところで、異性の男女が恋愛関係となり、めでたく結ばれたとしても、やがて恋愛感情が冷め、なのに、支配と服従の関係だけが夫婦に残るとしたらどうだろう
 共同生活はもはや苦痛しか生み出さず、「二人で暮らすことはやめよう」との結論に至っても不思議ではない。

 お気づきだろうか。この理屈を推し進めると、男女の共同生活においてそれがうまくいくには(つまり長続きさせたければ)、権力闘争をやめ、支配と服従をやめることである。

 ところが、(かつてのように)夫が妻に向かって「おーい。お茶」と言うような、あるいは父が子供に向かって「勝手なことを言うな」と怒鳴るような……夫であり父が支配する家庭。

 かたや財布のひもを締めている奥さんに向かって夫が「小遣いあげてよ」と頼むような、あるいは子供の教育は全て自分が決め、夫が何か発言しようとすると、「あなたは黙っていて」と言うような……妻であり母が支配する家庭。

 すでに権力闘争の結果が出ているようではねえ。
 破綻は免れたとしても、冷ややかな共同生活のような気がする(^.^)。

 同性同士が共に暮らすLGBTとは《支配と服従なき対等な共同生活ではないか》と私は思う。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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