○ 愛情は一対一なら10全て 三人ならば半分に減る
ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」 2023年4月26日(水)第8号
『続狂短歌人生論』8 三角関係の愛
次節より幼子の「愛の獲得競争」について語ります。その前に「三角関係の愛」について触れておきます。
狂短歌は以下。歌の意味を立ち止まって考えてほしいので「一読法」の復習的前置きを(^_^)。
〇 愛情は一対一なら10全て 三人ならば半分に減る
前置き
この狂短歌を読んだとき、一読法実践者ならここで立ち止まります。そして、暫時考えます。
しかし、三読法通読に毒された人はさーっと読んですぐ先に進みます(^.^)。
立ち止まることを知らない、立ち止まろうと思いもしない。
以前も書いたように、冒頭の狂短歌は「見出し」の意味があり、内容のまとめにもなっています。よって、立ち止まって「何が書かれているのだろう」と内容を予測する。これは文章を深く理解し、賛同したり反発する実践でもあります。
たとえば、風光明媚な観光地に行けば、誰もが立ち止まって景色を堪能する。
1分だけ眺めて「きれいだった」とつぶやき後は車内で休憩する……。
まー疲れていればそれもありだけど、普通はしばらく景色を眺めます。
文章を読むという行為もそれと同じ。じっくり味わうべきなんです。
近年2倍速でドラマや映画のビデオを見ることが流行っているとか。なんと悲しい味気ない人生なんでしょう。
そんなに走って時間を惜しんで一体どこに行きたいのか。何をしたいのか。
明日この世とおさらばしているかもしれないのですよ。
棺桶の中できっと後悔するでしょう。「もっと味わって生きればよかった」と。
それはさておき、狂短歌で立ち止まれば、まずつぶやくのは「どーいうこと?」でしょうか。
読めない漢字、意味不明の難しい語句はない。なのに全体的に「?」と思う。
算数・数学から眺める人は「うん? 三人で半分に減るっておかしくないか。三分の一だろ?」とつぶやくかもしれません。
これだけで答えとなる本文に進んでも良いけれど、狂短歌を二度、三度読み直してみる。つまり部分の二度読みです。すると……
上の句に「一対一なら10全て」とあるので、二人の間における愛だとわかる。
たとえば男と女なら、お互いの愛情は相手に10全てそそがれる。だが、三角関係になると「確かに愛は減るだろうなあ。もう一人いるから自分への愛は半分に減る……ってそういう意味か?」くらいをつぶやいてほしいものです。
もちろん二度三度読んだけど「さっぱりわからん」でも結構(^_^)。
「一体どんな意味だ? 何を言おうとするんだ?」と疑問を抱く。
この疑問が本文を読む原動力になり、「なるほど」と深く納得することにつながる。
立ち止まってしばし考える。それが大切なのです。
(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 愛情は一対一なら10全て 三人ならば半分に減る
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文豪夏目漱石は男女の三角関係を大きなテーマとしたようで、何度も取り上げています。
たとえば、『坊ちゃん』では赤シャツとうらなり君とマドンナ。マドンナは純朴なうらなり君ではなくキザな赤シャツを選びました。
次作『三四郎』では三四郎とヒロイン美禰子と先輩野々宮くん。美禰子は思わせぶりの行動をとって二人をもてあそぶかのよう。が、結婚相手として選んだのは兄の旧友でした。
次々作『それから』では三角関係がしばらく表に出てきません。主人公長井代介は本家の支援で暮らす無職の「高等遊民」。そこへ何年ぶりかに友人平岡常次郎と妻三千代が現れる。やがてこの三人がかつて三角関係にあり、代介が三千代を平岡に譲っていたことがわかって風雲急を告げる展開が始まります。
この三角関係の特異なところは平岡がそれを全く知らないと言うか、気づいていなかったこと。
ただ、現代ライトノベルや漫画における三角関係でも鈍感な男が登場して話をややこしくします。特異でないかもしれません。
このように夏目漱石は本格的な人間ドラマを書くにあたって男女の三角関係をかなり探求しています。
もっとも『坊ちゃん』では坊ちゃんとほぼ無縁のサイドストーリー。それは次作への伏線と言えるかもしれません。次作『三四郎』においても恋愛は三四郎の前に広がる三つの世界の一つに過ぎず、三四郎は美禰子に振り回されるし、なぜ美禰子は三四郎でも野々宮でもない別の男を選んだのか不明。
青春とは茫漠とした霧の中を歩むようなものであり、美禰子がつぶやく「ストレイシープ(迷える羊)」だなあと感じさせる。私にとって『三四郎』は青春文学ベスト5の一作です。
本格的全面的(?)な三角関係は『それから』で描かれます。
かつて代介と三千代はひそかに想い合っていた。だが、代介は自由気ままでだらしない自分より堅実な人と結婚した方が三千代のため、と思って銀行員の友人平岡に結婚を斡旋した。
夫婦は大阪に転勤したけれど、平岡はある事情から退職、三千代は流産して東京に戻って来た。ここから新たな三角関係のドラマが始まります(以後の流れと結末はぜひ小説をお読みください)。
さて、私がこれから書くことは漱石と違って文芸的香りのない、恋愛の三角関係における感情面の理屈です。男女における三角関係は決してうまくいかない。男三人、女三人が友人であるような関係を維持できない。そのわけを語ることにもなります。
[ここで「男女の三角関係が決してうまくいかないだって? そんなことはないだろう」とつぶやいた方は反論を考えましょう。
逆に「確かにそのとおり」とつぶやいた方は「なぜうまくいかないのか。うまくいかなかったのか」考えてほしいものです。つまり、本文の《立ち止まり》地点です。ヒントは狂短歌にあり]
〇 愛情は一対一なら10全て 三人ならば半分に減る
今も書いたとおり、ディベートをするなら、私は「男女の三角関係は決してうまくいかない」方に立ちます。
男女の三角関係は女性一人対男性二人。あるいは、男性一人対女性二人。
まず一人の方の感情から検討すると、異性二人から愛されるとは「なんて幸せな」と思うとすれば、見方が甘い(^.^)。
もちろん最初は戸惑いつつ有頂天になるかもしれません。
しかし、どちらを選ぶか、大いに迷わねばならない。
贅沢な悩み? 自分も悩んでみたい?
女性から見て内心の思いはA君。でも、積極的なB君にした。
あるいは、A君は親友Bのために女の子を譲った。
その後譲られたことを知った女性は「私は物じゃない」と怒った……なんて恋愛ドラマでよく描かれる情景ですね。
女性がB君を選んで結婚。その後幸せだと感じれば問題はないでしょう。
しかし、不幸だと感じたときは「もしもA君を選んでいたら…」と思うのは無理からぬところ。内心の思いがA君にあった場合は特にそう感じるのではないか。
これも贅沢? 自分勝手? げに、三角関係は未来に影響する。
また、『坊ちゃん』を読めば、「マドンナはうらなり君を選ぶべきではないか。キザで策士の赤シャツを選ぶなんて情けない女だ」と言いたくなります。
これ坊ちゃんの心情でもあり、赤シャツに天誅をくらわすラストにつながります。
しかし、冷静に考えると、老母を抱え、僻地に転勤するうらなり君を選んで幸せはあるのだろうか。昔も今も女性はロマンより現実を選ぶ――と言っては言い過ぎ?
『三四郎』にしても美禰子は結局、三四郎も野々宮も選ばなかった。
田舎者三四郎にとって「都会の女性はわけわからん」と感じたことでしょう。
それが「一人」の方なら、問題は男も女も二人の方。
たとえば、相手の男性か女性から「三人で仲よくしよう」と言われても、決して満足できません。
と言うのは一対一なら相手の愛は全て自分にやって来るけれど、一対二になったら愛情は半分に減るではありませんか。
読者は自分への愛が半分で我慢できますか。
いやいや、普通我慢できませんて(^.^)。
こちらはあなたを10全て愛する。だから、あなたも私を10全て愛してほしい――と思う。
それが人間であり男女の恋愛です。「半分でいい」とは決して思わない。
ゆえに、三角関係は破綻する。最終的には一人が捨てられ、一対一の二人となる。
あるいは美禰子のように二人とも選ばなかったりする。「恋愛と結婚は別」なる考え方もあります。
他に男が女性に愛を告白したら、「うれしいけど、お友達として…」と言われることもよくある。
私なんぞ何度かこの体験者(^_^;)。
日本人はストレートに「I love you.」と言わないから、
「好きだ! 付き合ってくれ」とか、「好きだ! 結婚してくれ」と言うとしましょう。
すると相手から「ごめんなさい。お友達として付き合って」と返事される。
余談ながら、これって逆パターンは少ないようですね。
女性が「結婚して」と打ち明けたら、男が「友達として」と返事すること。
私の邪推ながら、女性は相手からプロポーズされるよう仕向けているんじゃないか、と思われる節があります(^_^;)。
それはさておき、女性から「お友達として」と言われても、男はやはり満足できない。
だって相手に(異性同性を問わず)友人が何人いることか。もしも10人だったら自分への関心と愛は10分の1。100人もいたら100分の1です。
こちらは相手をただ一人、10分の10と思って告白した。なのに、相手から返って来る愛は10分の1。それじゃあねえ。「これは断りの言葉だ。あきらめよう」と思うしかないではありませんか。
ここで結論。愛情は一対一なら10全て。三人ならば半分に減る。
それを狂短歌にしました。お友達では10分の1に減る。
この理屈、納得されたでしょうか。
実はこの件、恋愛関係だけではありません。
幸い一対一の関係になって無事結ばれ、二人は結婚する(パートナーとなる)。
その後の三角関係についてはあまり語られることがないようです。
[ここでも立ち止まれますよ。そして「浮気とか不倫のことか」とつぶやくかもしれません]
いえいえ夫の浮気・妻の浮気、夫の不倫・妻の不倫の話ではありません。
子どもが生まれたときの三角関係です。
そこから若い夫は父になり、妻は母になる。
そして、(男の子か女の子の)赤ん坊がいる三人の生活が始まる。
これも三角関係です。どう思いますか?
結論を先に言うと、父である夫が最も「妻から自分への愛情が減った」と感じるでしょう。
半分に減ったと(^.^)。
赤ん坊には三角関係を意識する力なんぞなく、母親からの愛情が全て。「かわいい、かわいい」と愛され、世話されるから母の愛を10分の10感じます。母親も赤ん坊から返照される愛を感じるから、赤ん坊に愛をそそぐ。母子の間は相思相愛。
問題は若いお父さん。妻と赤ん坊の様子を見ながら、彼だって「かわいい、かわいい」と赤ん坊をあやす。
だが、何か月か経ったあるとき、ふっと「妻は赤ん坊ばかり構って俺のことなんかどうでもいいと思っているのではないか」と感じる。
ちょっと恥ずかしいので口にすることはないけれど、心のずっと奥深くで一抹のさみしさを感じている。
それは妻から自分への愛が半分に減った(と感じる)からです(^.^)。
これまで妻は夫のこまごましたことをやってくれた。だが、赤ん坊の世話が大変だから、夫に「そんなことは自分でやってよ!」と言うことが増えた。妻の自分への愛は「半分もない」と感じるかもしれません。
夫の浮気が始まるのはかつて惚れた妻のいやな面が見えてきたときからですが、赤ん坊が生まれた後も起きやすい。
自分への愛が半分に減った心のすき間を他の女性の優しさが埋めてくれる。自分を10分の10全て愛してくれる女性が現れたら、その人に心が移っていく……それも仕方ないではありませんか。
なんてことを(男の私が)書くと、女性読者から総すかん食らうかもしれません。
ふざけんじゃないよと。
ちなみに、ここで怒るあなたはおそらく批判者タイプですね(^_^;)。
また、ごくまれに夫が甲斐甲斐しく赤ん坊のめんどうをみてくれると、妻はありがたいと思いつつ、夫の溺愛が過ぎるとやがて「私よりこの子の方を愛しているんじゃないかしら」と訝る場合だってあります。[訝る―読めなければ検索を]
それは若い夫の言葉に端的に現れます。赤ん坊が生まれると、妻を「お母さん」とか「ママ」と呼ぶようになる。
妻はあるときふっと「私はあなたのお母さんじゃありませんよ」と言いたくなる。
それこそ夫の自分への愛が半分に減ったと思い始めるときでしょう。
そのとき心の片隅に不倫願望が芽生える、と言ったらさすがにこれは言い過ぎ。
また、夫が赤ん坊の世話を妻に任せっきりだと、妻に夫への失望と落胆が始まるのは当然のことです。
ただ、その思いは夫に返照します。夫はますます「妻は自分を愛してくれなくなった」と感じる……。
こちらも夫は浮気一直線であり、愛が冷めた二人は離婚一直線かもしれません。
さて、家族三人になったときの危機をどうやって防ぐか。方法はあります。
答えは本稿最後の方……ということで(^_^)。
読者各位も考えてみてください。
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