○ 親が嫌う 批判タイプを目指すのは 親の注目 愛を得るため
ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」 2023年5月10日(水)第10号
『続狂短歌人生論』10 愛の獲得競争 その2
幼子における《愛の獲得競争》、その2は「親が嫌いな子どもを目指す」生き方について。
前節は親の愛を得るため、子どもが親の望む子を目指す生き方でした。
子どもは親が期待する子どもになることで親の愛を得られます。脅迫者の子は親と同タイプの脅迫者を目指すか、親に服従する受容者となる。批判者の子は親と同タイプの批判者を目指すか、親の批判を交わすため傍観者となる。
今節は親が傍観者タイプである場合を語ります。
傍観者を親に持ったとき、子どもはどのようなタイプを目指すか。
不思議なことに子どもは親の嫌いな子どもを目指すのです。
5月03日
愛の獲得競争 その1「親が望む良い子を目指す」
〇 愛されたい 自分だけが愛されたい そこがスタート 子どものドラマ
〇 親が思う 良い子になれば愛される 子どもせっせと良い子を目指す
5月10日
愛の獲得競争 その2「親が嫌いな子どもを目指す」―――――――――本号
〇 親が嫌う 批判タイプを目指すのは 親の注目 愛を得るため
5月17日
愛の獲得競争 その3「同胞の三角関係」
〇 弟妹が生まれたときの三角は 私と親ともう一人
〇 親は言う 等しく我が子を愛すると しかし子どもはそう思えない
5月24日
愛の獲得競争 その4「姉妹の三角関係を眺める」
〇 母さんは妹だけを愛してる 私をもっとかわいがってよ
〇 妹は姉と一緒の両親から 離れて一人遊びにふける
5月31日
愛の獲得競争 その5「愛されない一人っ子」
〇 一人っ子 愛はたくさん来るけれど 親と祖父母が子の奪い合い
愛の獲得競争 その6「母思慕の男たち」
〇 永遠の母を求めて三千里 批判の母に 母の愛なし
(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 親が嫌う 批判タイプを目指すのは 親の注目 愛を得るため
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
===================================
****************** 「続狂短歌人生論」 ***********************
次に子どもが親のタイプと正反対の人間像を作り上げてゆくドラマについて考えてみよう。
これは一体どういうことか、かなりわかりづらいと思う。
前節で述べたように、子どもが《親の期待する人間像》を目指す生き方は、既に親と反対タイプの子どもを生み出していた。
脅迫者の親の子は親に似た脅迫者タイプか、正反対の受容者タイプに育つ。
批判者の親の子は親に似た批判者タイプか、正反対の傍観者タイプに育つ。
ここで注意したいことがある。
たとえば、父親が脅迫者なら、彼は妻や子を暴力と威嚇・怒鳴り声で支配しようとする。よって妻や子は受容者でいるしかない。
これは父親から殴られないためであるが、妻にとっては夫から、子にとっては父から愛されるための生き方であると言ってもいい。服従さえしていれば、彼は優しく機嫌がいいからだ。それに息子がケンカの強い脅迫者タイプに育つと、父にとっては自慢の我が子となる。
かたや親が批判者タイプの場合、息子や娘が能力の高い批判者に育てば、こちらも親にとっては鼻高の我が子である。「よくやった」と誉めてくれる親に、子どもは愛されていると感じるだろう。
だが、批判者になり損なった子どもは《親の批判を無視する》傍観者になろうとする。
これは親から愛されるためではない。批判という攻撃から身を守る生き方であり、自分が傷つくのを傍観によって防ごうとするのである。
もっと言えば、親から愛されることをあきらめた生き方と言ってもいい。傍観者となった子どもは親の愛を期待しないのである。
さて、脅迫者、批判者と続けば、次は傍観者……。
傍観者の親を持つ子も親に似た傍観者タイプか、正反対の批判者タイプに育つ――と言える。
だが、幼子がまず目指すのは傍観者ではない。批判者である。
やがて批判者になることに成功すれば(もちろん)批判者になる。失敗すれば傍観者になる。すなわち、この場合は以下のようにまとめられる。
《傍観者の親の子は親と正反対の批判者タイプか、親に似た傍観者タイプに育つ》
前後逆になっただけのように見えるが、相当の違いがある。
と言うのは、脅迫者、批判者の子は親を尊敬していれば同じタイプを目指す。
そして、成功すれば親から認められ愛される。
だが、失敗すると脅迫者の子どもは自分を守るため、親の愛を得るため、全てに服従する受容者となる。
かたや批判者の子どもは親に批判されないため、親の愛を得ることをあきらめ傍観者となる。
だが、親が傍観者の場合、子どもは積極的に批判者タイプを目指す。
これは自分を守るためではない。親の愛と注目を得るためである。
これこそ子どもが傍観者の親と《正反対の人間像を目指すドラマ》の開始である。
もしも親が傍観者タイプなら、この親は無表情で喜怒哀楽をあまり表に出さない。我が子に対しても傍観や無関心が基本である。子どもはほったらかしにした方がいい、よく言えば《自由放任》である。
そんな親の注目を得るためには、子は質問をたくさんしたり、気の利いた批判や機転を示さねばならない。普通のことを普通の言い方で喋っても、傍観者の親は生返事を返すばかり。ちっとも本気で聞いてくれないからだ。
子が大きな声を出し、大仰な身振り手振りで語ることによって、親はやっと子どもに顔を向ける。そうして、ぼそぼそと答えたり「ほーっ」と弱々しい感嘆の声を上げてくれる。子はごくごく微量の愛エネルギーを得る。
だが、大きく誉める形のエネルギーはちっともやってこない。子はますます機転と批判に磨きをかけ、親にそれを見せびらかそうとする。親の傍観ぶりをちくちく、でも子どもっぽく非難する。
たとえば、女の子のおしゃまな理屈の述べよう、言葉遣い。可愛いではないか。あるいは、子どもがいろいろな作業を完璧にこなす。すると無関心な親でも「おおっ、すごいじゃないか」と感心する。
気の利いた批判や機転、完璧ぶりとは子どもが批判者のスタートラインに立ったことを意味する。
ゆえに、傍観者を親に持つ子どもは最も批判者になりやすい。親の傍観ぶりが激しければ激しいほど、子の批判者ぶりも鍛えられる。
哀しいかな、親が傍観者だと子どもは質問や批判、機転を示し、完璧ぶりを披露しなければ、親の注目と愛を獲得できない――つまり親の愛エネルギーをもらえない。
傍観者の親を持つ子は愛されたいとの欲求に従うなら、四タイプの中で批判者としてのドラマを開始せざるを得ないのである。
そして、この子が批判者タイプになったとき、それは親の《期待しない人間》になったことを意味している。
なぜ傍観者の親は我が子が批判者タイプになることを望まないのだろうか。
それは傍観者の親が大概批判者が嫌いだからである。
幼いころからずっと「あれが悪い。これが悪い。いい点が取れない。努力が足りない」と批判され、うんざりして傍観者となった。
今では仕事において自分の上に立つ批判者に従っているけれど、ホンネを言えば嫌いな人間だと思っている。それゆえ傍観者の親は批判タイプの傾向を見せ始めた我が子を疎んじるようになる。
親は盛んに語りかける子の口振りをうるさいと感じる。それは子どもに微妙に伝わる。中には「うるさいなー静かにしろ」などと叱責する親さえいる。
子どもはもちろん黙る。もちろん心を傷つけている。だが、傍観の親は子どもが心を傷つけているなどと思いもしない。
親がそのような態度を示していると、やがてこの子は親に話しかけることをやめてしまう。そして、うれしいこと、嫌なことがあってもどうでもいいと感じるようになる。
と言うのは自分の喜びを親は喜んでくれない。自分の悲しみを親は悲しんでくれない。子が何をやっても何を言っても、傍観者の親から注目されないのである。
そのうちこの子は親からの注目や愛を得ることを諦める。さらに、身近の大人も傍観者だらけである。良いことをやろうが、悪いことをやろうが、誰も誉めてくれない、誰も正してくれない。事態に関わるだけ無駄なことだと感じる。
そう悟りきったこの子はいろいろなことに関心をなくし、無気力で活気のない傍観者タイプとして成長する。
この場合は結果的に傍観者の親に似ることになる。この子は批判者を目指し、批判者の萌芽を見せながら、最終的には傍観者タイプとなった。つまり、この子の性格を決定づけたのは他ならぬ傍観者の親なのである。
このように子どもは自分の親から愛されるため(愛エネルギーを獲得するため)、親の期待する人間像を作り上げるか、親とは違うタイプの人間像を作り上げてゆく。
それは一見すると、一方は親に似て親に近づき、他方は親に似ず、親からどんどん離れていくように見える。
別の言い方をするなら、親から愛されていると思える子ども、親を尊敬する子どもは親に近づき親に似たタイプとなる。だが、親から冷たくされ、愛されていないと感じた子は親から離れ、親と違うタイプに育つように見える。
そして、この傾向は子どもが複数――つまり兄弟姉妹がいるともっと顕著に現れる。いよいよ同胞(きょうだい)による愛の獲得競争が始まるのである。
=================
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以下のサイトよりメルマガ登録ができます(無料)。↓
Copyright(C) 2023 MIKAGEYUU.All rights reserved.