『続狂短歌人生論』13「愛の獲得競争 その5」


○ 一人っ子 愛はたくさん来るけれど 親と祖父母が子の奪い合い


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年5月31日(水)第13号


 『続狂短歌人生論』13 愛の獲得競争 その5

 兄弟姉妹の三角関係について眺めたところで、最後に「一人っ子」について語っておきます。

 その前に前節ではさらりと済ませた「中間の子」について。上と下にはさまって「親から愛されなかったと感じやすい」と述べました。
 もっと詳しく(その感情を)知りたければ、下村湖人作『次郎物語』(全5作)の第一部をお読みになるのが良いと思います。

 私が子どものころNHKで1年間にわたってドラマ化され毎回見ました。その後本も読んで感動した――と言うか自分も次郎に似ていると痛感したことを覚えています。二人兄弟の弟とは末っ子でありつつ二番目の子だからでしょう。
 子どもがひねくれたりいたずらをするのは「愛されていない」と感じるからであり、しかし、その子を(愛をもって?)見守る大人によって成長する物語でもある、とまとめることができます。

 さて、本節は残された一人っ子について。
 子どもから見れば、当然親の愛を争う兄弟姉妹の三角関係はありません。
 しかし、ここでも三角関係は存在する。まず一人っ子と父と母という最初の三角関係が(父母の死まで)続く。その3で「子どもが男の子であれば、母をめぐって父と息子がライバルに、子どもが女の子であれば、父をめぐって母と娘が恋敵に」と語りました。
 三角関係の大法則――争いに負けた同性のどちらかが家を出たり、父母がラブラブだと子どもの独立は早いかもしれません。もちろん親子三人でずっと仲がいいことだってあるでしょう。

 もう一つは一人っ子を頂点として両親と祖父母が底辺となる三角関係が生まれる。
 これが一人っ子にどのような影響を及ぼすか。

 5の表題には「愛されない一人っ子」と書かれています。
 早速「そりゃあないない。一人っ子はみんなから愛される」とつぶやくでしょうね(^_^;)。特に兄弟姉妹のいる人は。
 ここで立ち止まってしばし考えてみてください。
 本当に一人っ子はみんなから愛されている(と感じる)だろうかと。

 なお、当初構想では「その5・その6」として一度に配信予定でしたが、長くなったこともあって二回に分けました。その6「母思慕の男たち」は次号に回します。


 5月03日
 愛の獲得競争 その1「親が望む良い子を目指す」
 〇 愛されたい 自分だけが愛されたい そこがスタート 子どものドラマ
 〇 親が思う 良い子になれば愛される 子どもせっせと良い子を目指す

 5月10日
 愛の獲得競争 その2「親が嫌いな子どもを目指す」
 〇 親が嫌う 批判タイプを目指すのは 親の注目 愛を得るため

 5月17日
 愛の獲得競争 その3「同胞の三角関係」
 〇 弟妹が生まれたときの三角は 私と親ともう一人
 〇 親は言う 等しく我が子を愛すると しかし子どもはそう思えない

 5月24日
 愛の獲得競争 その4「姉妹の三角関係を眺める」
 〇 母さんは妹だけを愛してる 私をもっとかわいがってよ
 〇 妹は姉と一緒の両親から 離れて一人遊びにふける

 5月31日
 愛の獲得競争 その5「愛されない一人っ子」―――――――――――本号
 〇 一人っ子 愛はたくさん来るけれど 親と祖父母が子の奪い合い

 6月07日
 愛の獲得競争 その6「母思慕の男たち」
 〇 永遠の母を求めて三千里 批判の母に 母の愛なし



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 一人っ子 愛はたくさん来るけれど 親と祖父母が子の奪い合い

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』13 愛の獲得競争 その5「愛されない一人っ子」】

 最後に同胞(きょうだい)のいない一人っ子を眺めてみよう。
 一人っ子は愛の獲得競争と無縁に思える。同胞がいないのだから、両親と祖父母の愛を独占して全ての家族から愛されるだろう。一人っ子は愛の欠乏を感じることなく育つはずだ。

 一般的に一人っ子はお人好しで疑うことを知らないと言われる。常に愛されていれば、確かに人の愛を疑うこともあるまい。
 半面わがままに育ちやすいとも言われる。いつも甘やかされ、何でも許し受け入れられれば、そりゃあわがままな人間になりがちだろう。一人っ子政策によって大量に生み出された中国の一人っ子は「小皇帝」と呼ばれているらしい。

 また、一人っ子は「打たれ弱い」と言われることもある。兄弟姉妹がいれば、愛の獲得競争以前にまず生存競争がある。同胞と飯をめぐって争いになる。すき焼きの牛肉はいち早く大きいのに箸をつける。負けると「取られた」と言って泣きべそをかく。時には親とだって肉争いになる。
 この過酷さ(^.^)を、一人っ子は体験しない(で済む)。確かに打たれ弱く、挫折したときの立ち直りが遅いかもしれない。

 そんな一人っ子も成長して外に出るようになると、ある異和感を覚える(のではないか)。
 それは親や祖父母は自分を愛してくれるのに、周りの友人知人、大人は「どうも違う」と感じることだ。どうして自分の言うことを聞いてくれないのだろうかと。

 一人っ子は「家族以外の人はなぜか自分を愛してくれない」との気持ちに陥りやすい。他人から見れば「わがまま」な言動なのに、本人はそう思わない。幼いころからわがままを聞いてもらっていたから、それがわがままだとわからないのである。

 さらに、一人っ子にやがて訪れる一人ぼっちのさみしさは生を終えるまで続く。
 ある年齢に達したところで、自分には同胞がいない欠落感にとらわれる。
 妙な表現だが、一人っ子は永遠に弟や妹、兄や姉から愛されることがない。同胞から愛されたり、愛されない(と感じる)ときの気持ちがわからない。

 知人友人たちから「兄や姉、弟や妹がいるけどケンカばかりしている。いない方がいい」みたいな話を聞くと、そのケンカはどんなものか、自分もやってみたいとうらやましく思う。
 親とケンカすることがある、それと同じか(違うだろう)。友達とケンカすることがある、それと同じか(違うだろう)。いとことは……仲良くてケンカをしない。たまにしか会わないからだ。
 話を聞く度、自分には同胞げんかが永遠にやって来ないと思い知らされる。

[ここで立ち止まって一読法の復習です。「一人っ子は永遠に弟や妹、兄や姉から愛されることがない」のところを読んでどう思われたでしょうか。「しかり」とうなずいて何も考えない人は注意が必要です。

 このような断定口調に安易に乗っかってはいけません(^.^)。「同胞から愛されたり、愛されない(と感じる)ときの気持ちがわからない」のところで、「はて、そうだろうか」とつぶやくべきです。

 これを推し進めると(難語句では「敷衍すると」)、「男は女の、女は男の気持ちが永遠にわからない。白人は黒人の、黒人は白人の気持ちがわからない。王様はこじきの、こじきは王様の気持ちがわからない」とつながります。

 そんなこたーありまっせん。ヒトはそのために言葉を持っています。詩や小説を読み、人の話を聞くことでわかり合える(=相手の気持ちがわかる)生き物です。
 たとえば、ある女性プロレスラーは試合中折れた脚の骨が皮膚を突き破るほどの大ケガを負った。その人が「出産のときの痛みってそれ以上だった」と語るのを聞くと、我々男は震えあがって「そんなに痛いんだ」と感じることができます。

 もう一つ。結婚した息子や娘(お嫁さん)をお持ちの方に。「確かに筆者の言う通りだ。若い夫婦に話してあげよう」と思うのはどうでしょう。「子どもはまだ?」とか、「二人目を産んだ方がいいんじゃない?」と漏らすことは野良猫もまたぐ発言です。
 これってだいたいお母さん・おばあさんが言うことが多い。なぜなら自分は一人産んだ、さらにがんばってもう一人産んだ……経験者だからでしょう。言いたくなったら、竹藪で穴掘って叫んでください(^_^;)。]

 閑話休題。
 順番通りならそのうち祖父母はいなくなり、次に父母もいなくなる。そして、自分ひとり残される。
 四人の祖父母の死を看取るたびに、自分をこの上なく愛してくれた人がいずれ消え去る……一人っ子はそんな予感を持って生きねばならない。天涯孤独という言葉は一人っ子に最もふさわしい
 もちろん成人後誰かと結ばれ、子どもも生まれれば、一人ぼっちのさみしさは消すことができよう。

 私には兄が一人いるので、一人っ子の感情はなかなかわかりづらい。一人っ子はわがまま以上に、父と母への不満や反発も結構あると聞く。その奥には「自分一人しか産んでくれなかった」恨みが潜んでいるかもしれない。

 いずれにせよ、一人っ子には当面愛の獲得競争はないように思われる。

 だが、大人たちは一人っ子をめぐって三角関係に入る。一人っ子を頂点とする父母と祖父母の三角関係である。両親や祖父母は一人っ子が放つかわいらしい愛を独占したい気持ちにとらわれ、愛の獲得競争を始める。

 このとき誰かが限りなく一人っ子を甘やかすか、誰かがとても厳しくなりやすい。要するに、親や祖父母の誰かが甘い甘い受容者タイプとなり、かたや塩のような批判者タイプとなりやすいのである。
 結果、母親が我が子と批判的に接するようになると、一人っ子には別の問題が発生する。

 祖父母が孫をひたすら甘やかすのはもちろん初孫が可愛いから。だから、何でも「はいはい」と聞いてやることになる。
 一方、両親のどちらかは「甘やかされてばかりでは我が子の将来のためにならない」と思う。それゆえ我が子を厳しくしつけようと考える。

これは見方を変えれば、甘やかすこととは違うやり方を取ることで、我が子の愛を独占したい(つまり自分の支配の元に置く)と言うこともできる。

 その子を取り巻く大人が四人から六人いれば、ほとんどの家族はそうなりやすい。
 父が批判的になり母がそうでなければ、大きな問題はないだろう。だが、母が批判タイプとなったときは問題が起こるかもしれない。

 そして、母が批判タイプとなる可能性はかなり高い。なぜなら、彼女はおばあちゃんと違う形で子に接しようと思うからだ。以前子どもが二人の場合、彼らは親をめぐって愛の獲得競争に入り、もう一人の同胞と違う性格づくりを始めると書いた。あれと同じである。
 すなわち、実母は厳しく、おばあちゃんは孫に甘い。おばあちゃんが批判者タイプであっても、孫に対しては優しい受容者になりやすい。孫だって「おばあちゃん、おばあちゃん」と慕ってくれる。

 共稼ぎ世帯の親が保育園に入れたくないと思い、父方か母方の祖父母が子育てを引き受けると、子どもはいわゆる「おばあちゃん子」になる。おじいちゃんだって(我が子には厳しかったのに)孫は目に入れても痛くないほどの可愛がりようだ。

 こうなると、特に男の子において問題が大きい。なぜなら息子は母の愛を遮断されたまま育つことになるからだ。おばあちゃんは母ではない。
 ところが、孫をひたすら甘やかすおばあちゃんは、ある意味母の愛をもって孫に接している。そして、おばあちゃんは通常実の母より先に旅立つ。

 おばあちゃんが長生きしてくれればまだいい。だが、孫が幼年期から十代にかけて亡くなると、喪失感は尾を引いて立ち直ることが難しい。もう二度と声を聞けない、一緒に何かできない。そう思うだけで涙が流れる。自分を最も愛してくれた(と思う)人がいなくなると、心にぽっかり穴が開くものだ。
 同時に孫にとっては辛い現実が始まる。

 このとき批判者として我が子と接してきた母は、もう我が子に母の愛をもって接することができない。子は母の懐におばあちゃんのような優しい母の愛を求めて飛び込んでも、しっぺ返しを食らうことになるだろう。批判者となった母は我が子を無条件に可愛がることができないからだ。
 やがてこの子は母から「愛されていない」と感じる。少年となり、大人となったこの子は「永遠の母」像を求めて苦しむことになるだろう。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:5月18日有名な歌舞伎俳優の悲しい出来事(事件?)が飛び込んできました。「死んで生まれ変わろう」と両親が自殺し、息子も自殺未遂だったとのこと。彼は一人っ子であり、47歳にして独身でした。折しも彼のパワハラ・セクハラ疑惑が週刊誌に載った日でもありました。打たれ弱い? わがまま? 最後は一人ぼっち?

 もしかしたら初めて受ける批判だったかもしれません。世間の非難を浴びるいばらの道を思い、豪邸で一人生き残る辛さを思って絶望的な気持ちになったのかなと推察します。彼がこれまで見せていた「強さ」は本物ではなかったか、とも思います。

 ぜひ復活してほしい。人はときに挫折する。失敗を犯す。だが、挫折を乗り越えてこそ本物の強さが身につく。それでこそ、どろどろの情念を発するすさまじい役者になれると思います。


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