『続狂短歌人生論』14「愛の獲得競争 その6」


○ 永遠の母を求めて三千里 批判の母に 母の愛なし


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年6月07日(水)第14号


 『続狂短歌人生論』14 愛の獲得競争 その6

 愛の獲得競争の最後、その6として「母の愛」について眺めます。
 批判タイプの母に母の愛は存在しない――と言うと、「そんなことはない」と口とがらせて反論なさるでしょう。
 本節は前著『狂短歌人生論』第3章6節に入っていました。内容はもうお忘れかと思います。
 今回再度読んで賛同するか、やはり「そんなことはない」と反論されるかお任せします。「出産子育て」について若干追加しました。


 5月03日
 愛の獲得競争 その1「親が望む良い子を目指す」
 〇 愛されたい 自分だけが愛されたい そこがスタート 子どものドラマ
 〇 親が思う 良い子になれば愛される 子どもせっせと良い子を目指す

 5月10日
 愛の獲得競争 その2「親が嫌いな子どもを目指す」
 〇 親が嫌う 批判タイプを目指すのは 親の注目 愛を得るため

 5月17日
 愛の獲得競争 その3「同胞の三角関係」
 〇 弟妹が生まれたときの三角は 私と親ともう一人
 〇 親は言う 等しく我が子を愛すると しかし子どもはそう思えない

 5月24日
 愛の獲得競争 その4「姉妹の三角関係を眺める」
 〇 母さんは妹だけを愛してる 私をもっとかわいがってよ
 〇 妹は姉と一緒の両親から 離れて一人遊びにふける

 5月31日
 愛の獲得競争 その5「愛されない一人っ子」
 〇 一人っ子 愛はたくさん来るけれど 親と祖父母が子の奪い合い

 6月07日
 愛の獲得競争 その6「母思慕の男たち」――――――――――――本号

 〇 永遠の母を求めて三千里 批判の母に 母の愛なし



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 永遠の母を求めて三千里 批判の母に 母の愛なし

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』14 愛の獲得競争 その6「母思慕の男たち」】

 批判者となった母に《母の愛》が存在しないと言ったら、世の母親達は憤慨するかもしれない。だが、私は声を大にして言いたい。母の愛は批判の母に存在しないと。

 なぜなら母の愛とは我が子を《あるがまま》に受け入れ、そして愛することだからだ。
 母親は他の赤ん坊と比べて我が子がハンサムだから、美人だから愛するのだろうか。優しくて誠実だから愛するのだろうか。

 否である。全ての赤ん坊は小さく可愛く美しい。人種、性差の区別・差別はない。そこにはただ可愛いという以外の価値や要素は何も入らない。
 特に「お腹を痛めて」産んだ女性にとって我が子は間違いなく自分の子であり、この上なく愛しいと感じるはずだ。
 そこんとこ、夫の方は感動を覚えつつ、場合によっては「ほんとにオレの子かな?」と疑いを持つことがあるように、ちょっと冷ややかな気がする。

 ところで、どんな労働でも働くことは賃金と交換である。賃金がもらえなければ人は働かない。
 妙な言い方だが、赤ん坊のめんどうをみても《赤ん坊》はお金をくれない。つまり、出産と子育ては《労働》ではないってことだ。

 誰かさんは少子高齢化を受けて「100万円あげるから子どもを産んでくれ」と言う。それは出産を労働と見なす勘違いの施策である(と私は思う)。出産補助金とか子育て支援金は「結果」であって目的にはならない。
[もっと言えば「目的にしてはいけない」と私は思います。なぜでしょう。立ち止まって考えてみてください。]

 余談ながら、この発想はサルをだました「朝三暮四」よりひどい(と思いませんか?)。
 サル飼いは今まで8ヶ与えていた栃の実(どんぐり)を7ヶに減らそうとして「朝は3ヶ、夕方4ヶにしたい」と提案した。するとサルたちは猛反発した。
 そこで「悪い悪い。じゃあ朝は4ヶで夕方3ヶにしよう」と言ったら、「それなら」とサルは納得してくれた。減らされたとはいえ、7ヶもらえる。

 ところが、出産子育てで100万、200万もらったとしても、子どもを大学までやろうと考えると1000万はかかる。日本の政治家はエビでタイ釣るじゃないけれど、どんぐり7ヶ分はかかる負担を1ヶか2ヶで済まそうと考えているようだ。
 あるいは、今まで2ヶあげていた。「これから1ヶ増やします。1.5倍です。 ぜひ子どもを産んでください」と言わんばかり。
 どっこい国民はサルではないから、そんな施策に安易に飛びつかない(^.^)。

[ここでさらなる一読法の立ち止まり。では、「子どもを産んでくれたら1000万あげる(=大学卒まで教育無償化)」とする案はどうでしょう。(もしも読者が結婚適齢期の男女なら)乗っかりますか? 子育てを終えた方々も考えてみてください。]

 閑話休題。特に我が子は他のどんな赤ん坊よりも可愛い。そう思うのが母の愛である。
 母は生まれた我が子を、ただ自分の子だから、ただ可愛いから愛するのである。だから、子は何の不安もなく母に抱かれ、甘え、母から愛されることができる。

 だが、批判者は違う。批判者は自らと比較し、他の子と比較して子を愛する
 たとえば、批判者の母は言う、「どうしてこんなに成績が悪いのよ、もっと勉強しなさい」と。
 この一言だけで充分だろう。学校の成績とは主として記憶力の順位であり、他の子どもたちとの比較に基づく順位でしかない。学校では掃除をとても真面目にやる子、クラスメイトのめんどうをよく見る子を評価の対象としない。

 母の言葉を裏返せば、「学校の成績が悪い限り、私はあなたを愛せない」と述べているに等しい。
 言い換えれば、「成績が良くなったときだけ、あなたを愛することができる」と条件付きの愛を宣告しているのと同じである。

 もしも母が不肖の息子や娘に対して「学校の成績が悪くったって、あなたはいいものを持っている。それを伸ばせばいいのよ」と言えるなら、それは子をあるがままに愛する母の姿である。つまり、他の子どもと比べるのではなく、その子自身として愛する意思表示となっている。

 ところが、批判者の母(もちろん父が批判者でも同じ)は子が優秀でなければ満足しない。せめて普通でなければ安心できない。批判者の母は子どもをあるがままに愛せないのである。
 彼女は常になんらかの基準と比較して、それ以上であれば満足し、それ以下であると不安を覚える。批判者の母はそのレベルに達することを子に求める。到達するまで「がんばれがんばれ」とハッパをかける
 批判者の母はこのようにして我が子へのあるがままの愛をなくしてしまったのである。

 そして、子は批判者の母が自分をあるがままに愛してくれないとわかる。母は彼女の思い通りになった子、彼女の要求レベルに達した子だけを愛すると感じる。

 いや、厳密に言えば子はそんなことを認識していないかもしれない。ただ、この母をうるさいと思うだけだ。くどくど小言・説教・意見を繰り返す母にうんざりするだけだ。
 かくして批判者の母に育てられ成長した男の子は、失われた《永遠の母・母の愛》を女性に対して追い求めることになるだろう。

 ところが、批判者の母(と傍観者の父)に育てられた女の子は、成長しても大概批判者タイプの女性となる。批判者二世の彼女らは結婚したとき、若い夫をあるがままに愛することができない
 ここでもなんらかの基準と比較して、それ以上であることを夫に要求する。あるいは、最低限平均以上であることを求める。夫がその要求に応えられればまだいい。応えられなければ悲喜劇が起こる。

 一方、若い夫にとって批判者の妻には自分が求める永遠の母像はもちろん存在しない。やがて妻は夫に失望し愛せなくなる。夫もまた妻に失望し愛せなくなる。
 二人が自分の気持ちに正直に従うなら、結ばれたとしても別れるしかないだろう。

 ここで一つ注意しておきたいことがある。永遠の母像を求める男性はマザコン男ではないということだ。

 マザコン男は母に愛され甘やかされた結果、母から独立できず、母だけを頼りにする男のことである。彼は母の愛を疑いはしない。
 だが、母思慕の男性は母親から愛されたと思っていない。彼が女性に求めるのは自分をありのままに愛してくれることである。

 もう一つ、私はここでは永遠の母像を持つ女性がどのタイプであるかを具体的に述べない。しかし、おそらく読者は「四タイプの中では受容者タイプの女性こそ母の愛を持っている」と思われるだろう。

 かつて受容者タイプだった日本のおふくろさんは、子どもを優しく抱く母として(ある意味)賞賛されていた。現在中年以上の多くの男性にとって自分のわがままを聞いてくれた《優しいおふくろ》は理想の母・永遠の母として心に残っているかもしれない。

 もちろん子をあるがままに愛することができない批判者タイプの母に、母の愛が存在しないことは明らかである。だが、子どもをあるがままに受け入れ、とても優しい受容者タイプの母に、本当に母の愛が存在するかと言うと、私はとても疑わしいと思っている。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:本節後半に「母の愛とは子どもをあるがままに愛すること」であり、四タイプの中では「子どもに優しく何でも受け入れる受容者の母が理想の母と思われているようだ」とあります。
 この件は前著第6章5節に以下のように述べて「理想の母=受容者タイプ」説を却下しました。

 受容者の母に育てられると、特に息子が何でも母を頼りにして炊事洗濯掃除など自分でできない大人に育つ。そして、結婚相手に母のような女性を求める。だが、夫や子どもに対して召使になってもいいと思う奇特な女性はほぼほぼ存在しない。ゆえに「子どもを自立させられない受容者の母は理想の母ではない」と。

 では、理想の母とはどのような女性か。批判者の母については上記で語ったとおり。
 脅迫者の母は(殴りはしないとしても)威嚇と脅迫、ヒステリックに怒鳴って最後は独裁的に子どもを支配しようとする。もちろん彼女に母の愛は存在しない。
 傍観者の母は子どもに関心がない。彼女の関心は子どもより自分にある。子どもは放っておいても育つ。放任が一番いいと考える。子どもより母親自身を優先する母に、子どもは愛されていると感じられない。

 脅迫者ダメ、批判者ダメ、傍観者ダメ、受容者ダメ――と言われると、「それじゃあどうすんの?」と言いたくなります(^_^;)。
 母親が子どもに対して「あるがままに愛する」とは耳ざわりのいい言葉だけれど、いざ具体化しようとすると、困ることに気づくはずです。

 子どもが何か悪いことをすればぱちんと叩きたくなるし、「小遣いあげないよ」と脅したくなる。宿題をしない、家の手伝いもせず、ゲームばかりやっていれば、くどくど小言も言いたくなる。子どものために自分が好きな映画演劇、ライブを我慢していると、「子どもがいなければ」と感じ、子育てに疲労感が重なる。

 だからと言って子どもの言うこと、やることを「あるがままに」受け入れて許せば、それは詰まるところ受容・傍観であり放任ではないか……。
 このテーマはいずれ取り上げたいと思います。「子どもをあるがままに愛する」とはどういうことか、考えてみてください。


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