『続狂短歌人生論』15「長野県N市、4人殺害事件」


○ リーダーが殺し合おうと言う世なら 普通の人も武器を持つ


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年6月14日(水)第15号


 『続狂短歌人生論』15 長野県N市、4人殺害事件

 本日は5月25日に長野県N市で起こった市民二人と警官二人を殺害した立てこもり事件について語ります。
 もちろん前著下書きにはない突然の書き下ろしですが、本稿の流れに乗っていると考えての執筆です。

 被害者の二人は60代、70代の散歩中の女性。31歳の犯人は迷彩服にマスク姿で二人をサバイバルナイフで殺害し、駆け付けた警察官二人を猟銃で撃ち殺しました(助手席の警官はナイフに刺されたことが致命傷だったと判明)。

 その後経緯がわかっても、動機など不可解な事件です。テレビやネットの解説も多々あります。
 彼は妹と弟がいる三人きょうだいの長男です。折しも私は「愛の獲得競争」と題して親と子、兄弟姉妹の関係について書いてきました。
 子どもはいつでも誰でも「自分は愛されていない」と感じやすい。その思いは克服されないと後に大きな問題を引き起こすことがある、と語っています。
 今回の事件もその延長線上にあるかなと思いつつ、どうも違うような印象も受けました。

 事件の数日後私はテレビでアメリカのあるニュース映像を見ました。銃社会のアメリカでは日常的光景かもしれないけれど、衝撃的な内容でした。バスの運転手と乗客が拳銃を撃ち合っているのです。
 私はそれを見て「そうか。長野でもこれが起こったんだ」とつぶやきました。
 本日はこの件について書きたいと思います。長くなったので見出しをつけました。

 なお、前置きの表題は「長野県N市、4人殺害事件」ですが、これは小見出しの[1]に回して本文は「普通の人も武器を持つ」としました。また、「後記」に加害者の中学校卒業文集を掲載しました。

 余計なお世話ながら、ちょっと表題の意味を補足しておきます。
 日本では武器を持てるのは自衛隊とか警察官であり、普通の人は武器を持てません。せいぜい猟銃くらいでしょう。
 一方、アメリカでは人口の数倍と言われるほど銃が蔓延し、普通の人が銃を持てる。子どものころから撃ち方を訓練することがあり、マシンガンのような機関銃を持つ人さえいる。そういう意味合いだとご理解ください。(本文は「である」体)

『続狂短歌人生論』15 普通の人も武器を持つ

〇 リーダーが殺し合おうと言う世なら 普通の人も武器を持つ

] 長野県N市、4人殺害事件

] アメリカ、バス車内の発砲事件

]「ロシアよ、核兵器を使うな」?

] 心の中を明かして話し合えるか

後記] 加害者中学校の卒業文集



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ リーダーが殺し合おうと言う世なら 普通の人も武器を持つ

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』15 普通の人も武器を持つ 】

[1] 長野県N市、4人殺害事件

 5月25日夕方、長野県N市で4人を殺害する立てこもり事件が発生した。
 加害者は31歳の男性。市議会議長の息子で、夕方自宅前を通りかかった散歩中の女性二人をナイフで刺し殺し、駆け付けた警察官二人を猟銃などで殺害するという、衝撃的事件だ。一晩自宅に立てこもり、翌朝投降して逮捕された。

 その後徐々に経緯や動機が明らかにされているが、不可解な点も多い。
 本人は大学中退後(いじめられていたとか)、実家に戻って(家業は農家で果樹園やジェラート店などを経営していた)その手伝いをやり、農園には彼の名がつけられている。
 昨年300万を借り、ジェラート2号店を開店して店長となっていた。だが、本人はあまり熱心ではなく、最近は引きこもりがちだったとのこと。猟銃所持は許可を取っているが、害獣駆除に参加したことはなく、もっぱらクレー射撃をやっていたらしい。

 自衛隊に数ヶ月入隊しており、地元の祭りに笛吹として参加しようとしたこともあった。どちらも父の勧めだったようだが、続かずやめている。
 女性二人を殺害したのは「散歩する二人が自分のことを一人ぼっちと悪口を言っていたから」と自供している。だが、二人と面識はなかった
 散歩の途中だった70代と60代の女性二人は仲良しで、耳が遠く大声で喋っていたとのこと。

 私も実家二階に閉じこもって執筆活動に励んでいるから、ははあと思った。
 実家は道路に面しており、ときどき通りかかる二人連れ、立ち止まる人たちの雑談する声が聞こえる。耳が遠い人は確かに大声で喋るので、よく聞こえる。
 私のことを話しているわけではなかろうと思っても、なんとなく外の声に耳をすますことがある。もしも自分の名が聞こえたら、いい気持ちはしないと思う。

 加害者を弁護するつもりはないが、田舎の人はうわさ話が好きで、地区の家々について親戚以上に知っていることがある。
 散歩中の二人から「あの家はどうだこうだ」と話す声が聞こえたら、他の場所で自分の悪口も言っているに違いないと思い込んだ可能性はある。

 一方、駆け付けた警察官を殺したのは「拳銃で撃たれると思ったから」と供述している。
 猟銃を二発打ったが、助手席の警察官は絶命しなかったようだ。車から出てきたところをナイフで刺し、それが致命傷になったと言う。

 私は事件の詳細を知るにつれ、「この事件は親子・同胞(きょうだい)間とか、地域や社会への恨みなどと関係ないのでは」と感じ始めた。

 と言うのはこの事件が無差別殺人ではないこと、父殺し・母殺しでもないこと、家の近くを散歩する高齢女性が「自分の悪口を言っている」と思い込んでの殺人である点だ。

 親殺しでないことは人質になっていた母を殺していないし、彼女が猟銃を持って逃げ出すのを許している。最終的に父の説得に応じて投降している。
 犯罪心理学から「親を殺す以上の苦しみを与えた」との解説があり、私も当初同じことを思った。田舎では身内がこのような事件を起こすと生きていけない。

 父親は市議会議長を務めるほどの名士であり、母親もフラワーアレンジメントなど活発な人であったという。経営するジェラート店も順調だった。
 両親は今後死ぬまで息子の犯罪と向き合わねばならないし、「どこで育て方を間違ったのか」と思って苦しむだろう。これは成人後の別人格の犯行であり、親とは関係ないと言われても、特に田舎ではそう思わない。

 父親は即座に議員を辞職している。いっそ自分も殺してくれた方が良かったと思うかもしれない。正に針のむしろであり、生き地獄だ。
 ただ、「殺す以上の苦しみを与えたかった」なら、つまり根底には「親を殺したい」との気持ちがあったことになる。

 だが、両親は長男の彼を気遣い、心配をし、できることを精一杯やっているように見える。おそらく大学中退後は農業に進む気持ちはなかったのではないか。だから、自衛隊の弟と同じように入隊を勧めた。しかし、いやならいいと数ヶ月で除隊を許している。お祭りへの参加にしても、続けろと強要している節はない。父親は祭りの顔役に一升瓶を抱えて謝りに行っている。田舎ではよくある習慣だ。

 結果、息子は果樹園の仕事に励むようになり、父親は「農業を継いでくれる」と嬉しそうに語っていたという。
 親子の間でどのようなやり取りがあったかはわからないけれど、もしも親に対して殺意があったなら、それを真っ先に実行する――それが近年の親殺しだ。
 (本稿6号-4月12日-「独裁者の破綻その2、家庭」参照)。

 また、無差別殺人でもない。なぜなら、まず一人を刺し殺し、逃げる女性を追いかけ、近所の人の目の前で殺しながら、その目撃者には何もしていない。
 目撃した男性が「どうしてそんなひどいことをするんだ」と言うと、「殺したいから殺すんだ」と答えている。地域・共同体への恨み、悪感情もないように思える。

 ただ、無差別殺人に特有の絶望感はあるだろう。自分に絶望し、未来に絶望して「もう死にたい。だが、自ら死ぬ勇気はない。それに何事もなすことなく埋もれたまま死ぬのはいやだ。歴史に名を遺す」と思って凶悪事件を引き起こす。そうすれば死刑になって死ぬことができる。この加害者にも同じ思いはありそうだ。

 しかし、(繰り返しになるけれど)殺したのはあくまで自分の悪口を言っていると思い込んだ二人だけであり、警官二人を射殺したことも無差別殺人と言いづらい。「拳銃を持っているだろうから、撃ち殺されると思って猟銃を撃った」と妙に冷静だ。

 死にたいと思っていたなら、警官と撃ち合って殺されれば目的を果たせる。だが、彼はそれがいやだからと先に猟銃を撃っている。立てこもった後は猟銃による自殺を図り、取り囲んだ警察と銃の撃ち合いはしていない。
 実際のところ駆け付けた警官二人は拳銃を所持していなかった。もしも持っていたら、拳銃と猟銃の撃ち合いになっていたかもしれない


[2] アメリカ、バス車内の発砲事件

 ……などいろいろ考えていると、5月30日の夜、銃社会アメリカの驚愕ニュースが飛び込んできた。
 それはバスの中で運転手と乗客が拳銃を撃ち合う映像だ。事件は24日ころあったらしい。バスの車載カメラが状況の一部始終を映し出していた。

 その画像が以下。「運転手と乗客が路線バス車内で撃ち合い、2人とも負傷 米ノースカロライナ州」(CNN)

 経緯をまとめると、バスには運転手と3人の客が乗っていた。一人の男が停留所のないところで「下ろしてくれ」と運転手に頼んだ。運転手はダメだと断り口論になった。
 すると、その客は拳銃を取り出した。思うに、脅すつもりだけだったのではないか。
 普通なら運転手は銃を見てバスを停め、彼を下ろして事態は終わっただろう。

 だが、運転手はそれを見るや自身の銃を取り出し客に向かって撃った。客も撃ち返した(どちらが先に発砲したかはわからない)。ばんばんと撃ち合う音が十数発も聞こえ、バスのドアガラスなどは粉々に砕けた。

 運転手の弾丸は命中しなかったのか、客は這いつくばって後部に逃げ、運転手はバスを路肩に停車させた(運転しながら撃っていたのだ)。それで車内にいた別の客二人は後部ドアから逃げたようだ(無傷だった)。
 その後また銃の撃ち合いになった。そして、運転手は前のドアから外に出た。
 銃を持った男は後部ドアから降りて物陰に隠れた。さらにお互い何発か撃ち合って映像は終わる。

 この発砲事件で運転手は腕を、銃の乗客は腹部を負傷したが、軽傷に終わったと言う。
 車内前方で撃ち合った距離は1メートルもない。何発も撃っているのに致命傷になっていないことにも驚いた。
 ちょっと語弊ある表現ながら、お互い射撃が下手で良かったと言うか、当たらないよう身をかわしつつ撃ち合ったと言うか、すごい世界である。

 私は見終えて「そうか。長野でこれが起こったんだ」とつぶやいた。
 もしも駆け付けた警官二人が拳銃を手にしていたら、間違いなく犯人と撃ち合いになっただろう。

 彼は女性二人から「自分の悪口を言われたと思った」と言う。しかし、それが事実かどうか確かめていない。面識がないのだから。
 自分が思ったことは正しい。それが客観的に事実かどうかは問題ではない。《自分が思ったことが正しいのだ》と言わんばかりだ。

 自分の悪口を言うあの二人は敵だ。敵は殺すしかない。女性だからと言ってひ弱とは限らない。確実に殺すためにサバイバルナイフという武器を使う。
 ――そのような心理の流れだろうか。まるで兵士の発想だ。迷彩服を着て殺害を実行した若者は自分を兵士と思っていたのかもしれない。

 ここには一つの思想がある。それは相手と分かり合えない、話し合えない、話し合っても解決しない。ならば力づくで相手を殲滅する――という思想だ。制御できない感情と言ってもいい。

 そう思えば、今の世界こんな連中のなんと多いことか。銃社会アメリカでは相手が銃を構えたら、まずぶっ放す。撃たれる前に撃つ。当然相手も撃ち返して殺し合いになる。

 某大国のリーダーは話し合いでは解決しないからと隣の国に侵攻した。
 このリーダーは隣国がナチだと言って自らの正当性を強調する。それは侵攻の口実に過ぎないと見られている。だが、本当にそう《思い込んでいた》のかもしれない。忠実な家臣は独裁者の考えに沿う情報しか提供しないからだ。

 彼は自分が「絶対に正しい」と信じ切っている(ように見える)。一国のリーダーと長野の加害者は同じ発想をしている。
 そして、リーダーが戦争をすると決めたら、兵士はみんな従う。国民もそれを支持する。誰も止めることができない。

 一方、侵攻された国だって降参しない。正義のため、自由と民主主義のために戦争になる。国民も抵抗を支持する。理不尽な侵攻だとして支援する国々もある。
 話し合いはない。武器を持っていたら、殺し合うのが今の世界だ。それが一般市民にも降りてきた――そのように感じる。


[3]「ロシアよ、核兵器を使うな」?

 日本では5月中旬、広島でG7サミットが開催された。
 そして「核兵器について」メッセ―ジが提起された。ロシアの名を出して「ロシアによる核兵器の使用の威嚇、ましてや核兵器のいかなる使用も許されない」とか、「核戦争に勝者はなく、核戦争は決して戦われてはならない」と声明が出された。
 前半の言葉は「ロシアは使ってはいけないが、我々は使うことを保留する」と聞こえる。もちろん「そちらが使わなければ、我々も使わない」と言いたいのだろう。

 G7首脳がそろって原爆資料館を見学したり、慰霊碑に献花したことは評価したい。
 だが、あの声明に失望を覚えた人は被爆者だけではないだろう。
 核兵器を持つ国は一国として「核兵器禁止条約」に賛同していない。世界で唯一の被爆国である日本でさえ採決に参加しなかった。

 私はロシアに「核兵器を使うな」と言う前に、なぜ次のように言えないのだろうかと思った。
 《私たちは核兵器を決して使用しません》と。
 G7の中ではアメリカ・イギリス・フランスが核兵器を持っている。最も多いのはアメリカだ。ならば、まず自分が最終兵器を使わないと宣言するべきではないか。

 もう一段進めることもできる。
 《ロシア・中国・北朝鮮が先に核兵器を使用しても、我々は報復のための核兵器は使用しません》と宣言することだ。あなた方はキリスト教から一体何を学んだのだ。
 こう宣言して初めてロシア・中国・北朝鮮、他の核保有国だって「それじゃあ私たちも使うのをやめましょう」と言うことができるのではないか。

 そんなのきれいごとだ。不可能だと言われそうだ。だが、今のままではお互い核兵器を持つことをやめることができない。減らすこともできない。
 そして、持っている限り、使われる恐れを消すことができない。持ちたがる国をやめさせることができない。

 敢えて言おう。ウクライナ戦争終結後、ウクライナは核兵器を開発しようとするかもしれない。少なくともNATO・アメリカの核兵器を配備するだろう。日本だってアメリカの核兵器を「日本に置こうじゃないか」と言い出す。
 その未来を予想するから、日本の与党保守派は「核兵器禁止条約」に賛同しない。選挙に行く国民の半数(全体の3割)もそれを支持する。

 結果どうなるか。バスの運転手が相手の銃を見た瞬間拳銃を発砲するのに似ている。相手が撃ちそうだと思ったら先に撃つ。そして、相手も撃ち返して殺し合いになる。
 バスの運転手は銃を持つことを禁止されているらしい。だが、彼は持った。客も持っている。持っていれば、いざというとき使う。核兵器だって同じことだ。
 我々は核兵器によって安心を得られない。人類と地球上の生命が絶滅するかもしれないという不安と絶望の下に暮らさねばならないのだ。

 バスの運転手も、途中で下ろしてくれと頼んだ乗客も、事件後成育歴や家族問題などが問われることはないだろう。おそらく「普通の人」だ。
 だが、拳銃を持っているだけで撃ち合いになる。リーダーが殺し合うことを肯定するような世界では、普通の人だって武器を持てば殺し合う。不愉快な相手は殺すしかないと思って武器を使用する。それが今の人間社会のような気がする。

 武器は拳銃やナイフとは限らない。近年日本でよく聞かれるのは車が武器として使われることだ。あおり運転など最たるものだろう。速く走りたいのに前をとろとろ走る車がいれば、「邪魔だ」とばかりにあおる。譲らないやつは追いかけて怒鳴りつける。ひどいと車同士ぶつけ合ってケンカになることさえある。

 大分県では昨年6月、口論のあげく信号で止まったバイク二台を、後ろから軽自動車で追突させた若者がいる。跳ね飛ばされた二人のうち一人は死亡した。
 犯人は逃亡してまだつかまっていない。正に腹いせの武器として車が使われたのだ。


[4] 心の中を明かして話し合えるか

 もう一つ、31歳の加害者に特有の(いや、誰でも陥りやすい)生き方が事件を引き起こした感もある。
 それは親子間の問題、地域や社会への嫌悪や恨みと言うより、彼が取ったある生き方ゆえの犯罪ではないか、ということである。

 これもまた彼の特異性とか異常・偏向ととらえたくない。普通の人がある思い込みから周囲の人間に敵意を抱き、暴力をふるってしまう出来事だ。私はある短編小説の主人公を思い出していた。

 先ほど書いたように、N市の加害者には話し合いがない。人とコミュニケーションを取るのが苦手だったとの意見もある。
 彼がもしも女性二人に「私の悪口も言っていませんか」と聞けば、おそらく「とんでもない」と答えたに違いない。彼はその話し合いを持とうとしなかった。

 おそらく家族の誰かにそうした不満や愚痴をもらすこともなかったのではないか。喋っていれば、家族は「そんなことはないよ」と否定しただろう。
 さらに「殺したいほど不愉快だ」と漏らしていれば、両親は息子をなだめるだけでなく、女性二人に「散歩しながら大声で噂話をするのは控えてください」と頼んだかもしれない。彼が心の中を打ち明けてさえいれば、あのような結果にならなかった可能性はある。

 そう考えると、彼には自分の内心を打ち明ける人が一人もいなかったかも、と思わせる。もしもそうなら大学時代に「ひとりぼっち」と言われたとの言葉も「被害妄想」だった可能性がある。

 今回の事件は心の中を打ち明けず、悶々と悩み苦しむことで起こった悲劇のような気もする。
 私が思い浮かべた小説とは芥川龍之介の『鼻』だ。

 短編小説『鼻』は多くの人が知っているだろう。長い鼻を持て余した高僧禅智内供が短くしようと悪戦苦闘する物語だ。ここには内心を打ち明けないこと、身近の人の内心を聞かないこと、結果周囲の人に対して敵意が生まれ、それが暴力に発展する悲劇が描かれている。
 (禅智内供と周囲の人たちの詳細は以下『一読法を学べ』23〜24号をご覧ください。
 →『一読法を学べ』23号

 禅智内供もまた自分の悩みを誰にも打ち明けない人だった。生まれてこの方長い鼻を気にもしないといった外見を装っていた。それゆえ彼は立派なお坊さんとして尊敬された。だが、短くすることで普通の人間だとわかった。外面(そとづら)は嘘だとばれてしまった。

 だから、周囲はくすくす笑った。それは別に嘲笑の嗤いではない。内供はそのとき「何がおかしいんだい?」と聞けばよかった。だが、ずっと内心を明かさなかった内供は聞けない。鼻は長くても嗤われ、短くしても嗤われる。そう思った彼は周囲の人間への敵意をつのらせ、最後はいたずら好きの弟子(中童子)を鼻もたげの板でしたたかに殴った……。
 N市の事件はこれに似ていると思った。

 この事件を受けて子を持つ多くの親御さんは不安にとらわれたかもしれない。
 特に閉じこもり、引きこもりの我が子をお持ちの方々は。
 また、目下幼い子を育てている父母、これから産もうかと考えている人も。

 だが、私は結論として言いたい。
 世界が武器を持つことを「仕方ない」として認める世の中ではこうした事件はなくならない。子どもが親のやることをまねするように、世界の人々はリーダーをまねする。

 思い込みは人を暴力的にする。そのとき武器を持っていれば、それを使う。相手も持っていれば撃ち合いになる。今回の事件はそれが起こったような気がする。
 しかし、自分は何を考えているか、何を感じているか、その内心を打ち明け、話し合うなら、「普通の人」が起こすこのような事態を防ぐことができるのではないだろうか。

 お互い「自分は正しく、相手が間違っている」と思っている。だから、争いになり、国同士は戦争になる。だが、正しいと思っていることが「思い込み」であることは多い。勝手に思い込んで、殺されてはたまったもんではない。兵士であっても、敵ではない人を殺す兵士になりたくないだろう。

 大切なことは《話し合い》だと思う。自分の心の中を打ち明け、相手の内心を聞くこと。私たちの身近で話し合っているか、黙って見過ごしていないか、それが問われていると思う。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:その後加害者の「青木政憲」君が中三のときに書いた卒業文集(自筆)がネットに公開されました。私も読んで、いろいろ驚きの内容であることがわかったので、ここに活字化して公開します。彼は心の内を明かしていたようです。

 なお、「二、自分の趣味・三、中学の思い出」は割愛します。送り仮名や禁足処理などを訂正しただけで、あとは原文のままです。行間の空白はありません。

 全文の自筆写真はこちら(拡大すれば読むことができます)。
 → 「青木政憲 中学校卒業文集」

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 自分が思う事          青木政憲

一、大事な物について

 この世の中で最も大切なものは「命」だと思います。
では二番目は何かと問われたら私は間違いなく「金」と答えるでしょう。なぜなら、貨幣経済(貨幣をなかだちとして生産物の交換が行われる経済)において金の無い者は生きていけないからであります。

 これについては嫌悪感を持つ人がいると思います(綺麗事しか言わない奴)。しかし、そういう奴らも金が無いと生きてはいけません。いくら綺麗事を言っても、実際の社会では金が全ての面においてモノを言うのであります。これは衆目の一致する所であります。

 昔の言葉にも「恒産無き者は恒心無し」(定まった財産・職業がなければ、安定した正しい心をもつことができない)とあります。
 よく聞く綺麗事に「心にゆとりを持ちなさい」というのがあります。それは金持ちの言う言葉であって、金の無い者や、職業に就けない者が心にゆとりなど持てる訳がないと思われます。

 以前NHKのTVでWorking poorの番組を見たら、非常に過酷な状況で生きている人々が出演していました。働いているのに、生活が一向に良くならない等、とても金に困っているようでした。
 自分も将来は、ワーキングプアに陥るのではないかと心配であります。改めて金の重要性が分かった番組でありました。

 また、健康にしても、病気になった時や怪我をした時など、金がなければ満足な治療も出来ません。また金があれば、多少外見がよくなく、人間性が悪くても異性に人気がでるかもしれません(質は良くないであろうが)。

 その他にも、義務教育が終わった後、金がないと進学したくとも進学できません。逆に言えば、金さえあれば何でもできるという事であります。それ故に私は、金は命の次に大事だと思う次第であります。
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 15歳でこのような文章を書けるということは正に優等生ぶりを示していると言えるでしょう。緻密な筆跡で誤字が全くないのも驚き。
 ただ、内容に関して読者は相当の違和感を覚えると思います。私もそうです。

 あるネット記事では「最も大切なものは『命』と書いていながら、どうして人を四人も殺したんだ」と書かれていました。それは誤読だと思います。
 彼はたとえば「人はかけがえのない存在であり、失われた命は二度と返ってこない」といった意味合いとして「命」を語っているわけではない。生きていく上の前提として命があること、それを述べているに過ぎない。よって、15歳の彼は「生きる上で最も大切なものはお金だ」と主張しているのです。

 みなさんは身近の子どもが書くこのような文書を読んだり、話すのを聞いたとき、どのように対応しますか。どんな言葉を彼に伝えますか。別に何も言いませんか。
 私は「そんなことはないよ」と言って話し合わねばならないと感じます。
 この思いを持ち続けると、挫折したり何かにつまづいたとき、自分と未来への絶望感にとらわれる可能性が高いからです。

 問題はこの子とどのように話し合うか。彼の言うことを否定し、論破するだけではダメです。
 彼は真っ当なことを主張し、内心の不安を語っています。私なら「確かにお金は大切だ。でも、それが全てではないよ」との趣旨で話し合うでしょう。
 いつか再度このテーマを取り上げたいと思います。


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