カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 23号

実践編U 5「一読法による『鼻』の授業実践(後半)」1〜10




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 23号

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           原則週1 配信 2019年10月25日(金)



 ようやく『鼻』の授業実践後半です。今回はいつものように「一言一句注意して読む」だけでなく、「書かれていないことまで想像力をふくらませて読む」ところにも注目してください。「傍観者の利己主義」と結末についておそらく驚嘆の解釈を提示します(前号末尾の問いに対する答えは[9]にあります)。
 なお、『鼻』が発表されたのは一九一六(大正五)年二月、第四次『新思潮』創刊号です。芥川龍之介二十五歳、その一、二年前に書かれたと推測されます。
 ちなみに、『鼻』を激賞した夏目漱石は同年十二月に逝去しました(この前置き、ぼんやり読んではいけません。二度読んで記憶にとどめてください)。
 一度で読み切ろうとせず、少しずつお読み下さい。[11]以降は次号に回しました。

 5 一読法による『鼻』の授業実践(後半)1〜10[小見出し]
 [ 1 ] 鼻が短くなると予想外の反応が
 [ 2 ] 周囲の反応と傍観者の利己主義説
 [ 3 ] 内供の豹変とその理由?
 [ 4 ] 作者はなぜ理由を解説したのか
 [ 5 ] 作者から読者への挑戦状
 [ 6 ] 周囲の反応123を検証する
 [ 7 ] 内供には明が欠けている?
 [ 8 ] 内供に理由がわからなかったわけ
 [ 9 ] 「傍観者の利己主義」説、最重要語は?
 [ 10 ] 二つのたとえ話

  [以下次号]
 6 一読法による『鼻』の授業実践(後半)」11〜18
 [ 11 ] 人の不幸とは?
 [ 12 ] 推理と邪推
 [ 13 ] 我々はいつでも傍観者の利己主義を発揮するか?
 [ 14 ] 普遍的真実ではなく内供の邪推
 [ 15 ] 漱石を土台として『鼻』はある
 [ 16 ] 鼻が元に戻った内供の未来を予想する
 [ 17 ] もう一つ「ありのままに生きる」未来予想
 [ 18 ] 漱石へのオマージュ


 本号の難読漢字
・可笑(おか)しそうな・慳貪(けんどん、欲深く思いやりのない人間のこと)の罪を受ける(仏教において「地獄に堕ちるぞ」といった意味合いの言葉)・陥(おとしい)れる・豹変(ひょうへん)・機嫌(きげん)・一括(ひとくく)り・些細(ささい)・勿論(もちろん)・喧伝(けんでん)・貶(おとし)める・平生(へいぜい)・被(こうむ)る
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』実践編U

 5 一読法による『鼻』の授業実践(後半)

[ 1 ] 鼻が短くなると予想外の反応が

 さて、前半最後における未来予想を終えると、いよいよと言うか、ようやく後半に進みます。内供の「長い鼻が短くなった」ところまでは意味段落三でした。私はそこまでを前半としたので、これから後半です(二つに分けると、分量では前半が四分の三、後半が四分の一です。分け方としては別に構わないと思います)。
 内供は鼻が短くなったことで、「こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない」と思った。
 授業では、これを内供の未来予想(期待)の言葉として、周囲の反応もあれこれ予想しました。
 我等の予想は三つに分けられ、「相変わらず嗤った=反感?」と「鼻が短くなって良かったですね」と言ってくれる=同情?」。そして「どちらでもない」反応として「ア・イ・ウ」とまとめました。予想の板書を再掲します。
 なお、授業では3の「ア・イ・ウ」に「傍観者・愛情・ありのまま」を追加しました。
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 ○ 鼻が短くなった内供に対して周囲の人は《未来予想》

※ 内供の期待
 「もう誰も嗤うものはないのにちがいない
 (普通の人としてみてくれるはず、陰で嗤うことがなくなるはず)
※ 周囲の反応
1 冷淡かもしれない。相変わらず陰で嗤うかもしれない。(内供に反感を抱く人?)
2 鼻が短くなって「良かったですね」と言ってくれる。(内供に同情している人?)
3 どちらでもない[反感・同情どちらの態度も示さない]
 (ア)内供に興味関心がない人。(気付かないかも?) 傍観者
 (イ)内供を愛している人(母親)。(黙っている?) 愛情
    内供に同情しているが、黙っている人。
 (ウ)内供の鼻が長くても、短くてもそれでいいと思える人。 ありのまま
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 前号のように、作品前半を詳細に精読していれば、この予想にもう一つ「もっとひどい反応が示される」と入れたくなるかもしれません。それほどに内供の内心と表面の違い、策を弄したところ、感謝の言葉が出ないなど、悲観的な未来が起こるかもしれないと予感させます。つまり、ひどい事態が起こったとき、その理由はとても周囲の人だけに負わせるわけにはいかない、と感じます。

 それはともかく、鼻が短くなった内供が「幾年にもなく……のびのびした気分」」になった数日後、予期せぬことが起こります。
 前号で書いたように、次の段の冒頭は「ところが二三日たつ中(うち)に、内供は意外な事実を発見した」とあって、逆説の接続詞「ところが」で始まるので、「おやっ、次の変化が始まったぞ」とわかります。しかも、それは何か反対の出来事であると。一読法では前半をじっくり読んでいるので、「意外な事実」の内容は内供の期待と予想を裏切る事態、相当の事件が起こったな、と予想できます。

 では何が起こったか。意外な事実を確認していきます。出来事を内供の反応(内心)を含めて箇条書きにすると、以下の通りです[書き込みも入れました。数字は本文にはありません]。
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※ 数日後の意外な事実 と(内供の内心)

1 内供と対面したある侍は「前よりも一層可笑(おか)しそうな顔をして〜じろじろ内供の鼻ばかり眺めて」いた。
 初登場 ある侍! なぜ内供の鼻ばかり見ていたのか? 
2 鼻もたげを失敗した中童子は「下を向いて可笑しさをこらえていたが、とうとうこらえかねたと見えて、一度にふっと吹きだしてしまった」。
 再登場 中童子! 吹きだした理由は? 反感か?
3 内供の用を言いつかった下法師たちは「面と向かっている間だけは、謹んで聞いて」いるが、「内供が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い出した」。
 初登場 下法師! くすくす笑った理由は? 反感か?
・内供(「以前はあのようにつけつけとは嗤わなかった」と不思議に思い、ふさぎこむようになった。
 内供の思い 不思議 ふさぎこむ 「つけつけ」とは?
【作者の解説】(周囲が示した言動の理由は「傍観者の利己主義」である)
 理由! 矛盾した二つの感情! 「傍観者の利己主義」とは? 作者なぜ?
・内供(「そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける」ようになった)
  内供の変化! 不機嫌 誰でも意地悪く叱りつける なぜ?
4 鼻の治療をした「弟子の僧でさえ、『内供は法慳貪(ほうけんどん)の罪を受けられるぞ』と陰口をきく程に」なった。
 再登場! 治療をした弟子 法慳貪の罪? なぜ陰口を言ったのか? 反感か?
5 ある日いたずらな中童子が二尺ほどの木の棒を持ち、「鼻を打たれまいぞ」と言ってむく犬を追い回していた。それは内供が食事の時に使っていた鼻もたげの板だった。
 中童子はなぜそんなことをしたのか? 反感か?
・内供(「中童子の手からその木の片(きれ)をひったくって、したたかその顔を打った……内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨めしくなった」)
 内供の怒り! 暴力! 彼はなぜ怒ったのか、なぜ暴力までふるったのか?
 結局「鼻が短くなって良かったですね」と言ってくれた人は一人もいない。

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 ここでは前半最後の未来予想がどうなったか、その書き込みも増えます。最大の予想不的中は誰も「鼻が短くなって良かったですね」と言ってくれなかったことです(作者が書き忘れたのでないことは明らか)。


[ 2 ] 周囲の反応と傍観者の利己主義説

 実はこの書き込み部分はほとんど私の疑問や感想です。私は「侍」と「下法師」は「初登場!」、「中童子」と「鼻の治療をした弟子」は「再登場!」と書いて抜き出します。
 生徒の傍線や書き込みで最も多いのは「傍観者の利己主義」であり、これに疑問の[?]を付けたり、「周囲のひどい反応!」とか「理由=傍観者の利己主義!」と抜き出すことが多く、周囲の反応一つ一つはあまり重要視していません(つまり、さらりと読んで深く考えようとしないということです)。

 もちろん鼻の治療をした弟子が陰口を言った所に《同情が消えて反感!》と書くなら、これはかなり的確な書き込みです。
 この弟子は内供の策略に対して「反感と同情」を感じていた。あのときは同情が勝っていたが、態度が豹変した内供を見て同情が消え失せ、反感が表面化したというわけです。
 また、中童子が鼻もたげの板を持ってむく犬を追い回す場面は「なぜそんなことをしたのか?」と疑問を記す生徒が多い。ここはぜひ[?]を付けたいところです。

 問題はこの「なぜ?」に対してすぐに答えが出ることです。
 生徒に聞けば、「中童子は傍観者の利己主義を感じた」とか、「不幸を克服した内供に対してもう一度同じ不幸に陥れてみたいと思ったから」と返ってきます。
 しかし、この説明、わかったようで、よくわかりません。「同じ不幸に陥れてみたい」との気持ちが、どうして鼻もたげの板を持ってむく犬を追い回すことにつながるのか。疑問はむしろ深まるくらいです。

 私は周囲の反応と内供の心理、行動の全てに「なぜ?」と記し、周囲の反応は「反感か?」と[?]を付けました。と言うのは、周囲が示した言動はとても一つにくくれない、一括りにするべきではないと感じるからです。
 そこで周囲の反応を以下のように順番をつけて短く列挙しておきます。
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 [周囲の反応]
 1 ある侍(内供の鼻をじろじろ見た)
 2 中童子(ふっと吹き出した)
 3 下法師たち(くすくす笑った)
 ※ 作者登場「傍観者の利己主義」説→内供の様子が豹変した
 4 鼻の治療をした弟子(陰口をきいた)
 5 中童子(「鼻を打たれまいぞ」と言ってむく犬を追い回した)
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 作者が解説した傍観者の利己主義とは「人間の心には矛盾した二つの感情があり、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。だが、その人が不幸を克服すると、物足りなさを覚え、もう一度同じ目にあわせたいと感じる。人はそのような意地悪な心を持っている」とまとめられます。つまり、内供の鼻が長かったときはみな内供に同情していた。だが、今や内供は不幸を克服した。それで周囲の人は物足りなさを覚え、もう一度その不幸に陥れてみたいという気持ちになった――と言わんばかりです。


[ 3 ] 内供の豹変とその理由?

 この解説を読んだ生徒は当然のように、周囲が見せた反応の理由として「傍観者の利己主義」を□で囲み、余白に抜き出します。そして、周囲の反応を一括りにして「ひどい行動」とまとめます。作者が解説しているのだから、そのようにまとめるのは無理からぬところです。
 そうなると、五つの反応の原因はただ一つ、「傍観者の利己主義」に集約されます。
 私は「そうだろうか。この作者の解説は正しいだろうか」と問題提起して1〜5を一つ一つ検討します。

 その前に、周囲が見せた反応に対して「では内供の方はどの様な言動を取ったか」、それも以下のように抜き出しておきます。文頭の数字を(3)(5)としているのは上記123の後、45の後に入るという意味です。
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 [内供の反応]
 ※ 作者登場「傍観者の利己主義」説
(3)内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつけるようになった。
  ↑(鼻の治療をした弟子の僧でさえ、「慳貪の罪を受けるぞ」と陰口を言った)
(5)ある日むく犬を追い回す中童子の手からその木の片(きれ)をひったくって、したたかその顔を打った。
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 もしも「傍観者の利己主義」説が書かれていなかったら、123の後直ちに(3)内供の変化へと続きます。すなわち、内供の短くなった鼻をじろじろ見た侍。次いで「ふっと吹き出した」中童子、「くすくすわらった」(ここはひらがなにします)下法師の様子が書かれた後、(3)内供は日毎に機嫌が悪くなって誰でも意地悪く叱りつけるようになった、という展開です。

 確かに人はわけもなく不機嫌になる生き物ではあります。しかし、「誰でも意地悪く叱りつける」となると、ただごとではありません。「誰でも」は周囲の人全て、寺に関係した人みんなと受け取れます。当然下法師も中童子もそこに入る。
 なぜそれができるかと言えば、内供がその寺で最も偉い人だからです。今で言うなら、社長に部長に課長、知事や市町村長など「長」と名の付く人。彼らは部下が失敗すると、責任ある者として叱責する。これもよくある話。

 だが、内供の叱り方は「意地悪く」というのです。これは周囲の者にとってかなり理不尽な、そんな些細なことも叱るのですか、と言いたくなるほどの叱責だったのではないか。
 あるいは、「昨日も言ったばかりじゃないか。なぜ同じ失敗を繰り返すんだ」と怒鳴ったり、一つ叱り始めたら、あれもこれもと問題にしてなかなか説教が終わらない……等々部下にとって困った上司に変わったようです。

 この叱責は鼻の治療をした弟子には及んだのか。さすがに及ばなかった気はしますが、4にあるように弟子の方はあきれて陰口を言うほどだった。この「弟子でさえ」の「さえ」は注意したい言葉です。内供の悩みが深いことに気付き、同情した人でさえ陰口を言うのだから、内供の内心を知らない僧俗は、もっとたくさんの陰口を交わしただろうと想像できます。

 それほど内供の変化は過激なのに、作者がたった一行で済ませたのはちょっと不満ながら、ゆえに、こちらでふくらませねばなりません。
 余談ながら、4「弟子の陰口」に対して内供の反応となるべき(4)は本文に書かれていません。
 敢えて創作するなら「弟子の言葉は陰口だったから、内供に届くはずもない」とでもなりましょうか。おそらく、内供に面と向かって「意地悪く叱りつけていないですか」と忠告する人もいなかっただろうと思われます。今で言うなら長と名の付く人が見せる「パワーハラスメント」でしょう。

 とにかく内供は激変した。そして、(5)ある日むく犬を追い回す中童子に対して暴力までふるった。ここはどうしても《内供が豹変した理由》を知りたい。作者からすると、読者が納得できる理由を書き込まねばならない。
 そこで作者は「傍観者の利己主義」説を挿入させた、ということになります。「人間というものは人が不幸を克服すると、もう一度その不幸に陥れてみたいと感じるような生き物だ。内供は周囲の人間がそのような姿を見せたので変わったんだ」と。

 こここそ次のようにつぶやいてほしいところです。「ほんとにそうなの? ほんとに周囲はそう思っていたの? 内供はそれをどうやって知ったの?」と。
 傍観者の利己主義説は4・5の後に入った理由説明ではありません。1・2・3の直後に挿入されています。つまり「侍・中童子・下法師たち」は本当に内供をもう一度不幸に陥れてみたいと思ったのか。だから、じろじろ見たり、くすくす笑ったりしたのか――作者の解説は正しいのか、検証されねばなりません。

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[ 4 ] 作者はなぜ理由を解説したのか

 このように内供と周囲の様子をいろいろ想像したところで、いよいよ肝心の話題に移って私は次のように問題提起します。
「では、内供が豹変した理由は周囲が傍観者の利己主義を示したから、つまり周囲が意地悪な心を示したから――となるよね(生徒うなずく)。
 でも、周囲の人が意地悪な心を持っているからと言って人はそんなに豹変するものだろうか。特に中童子を殴るほどの暴力行為を起こすだろうか」と聞くと、
「それは中童子が鼻もたげの板を持ってむく犬を追い回していたからでしょう?」との答えと言うか、反論が出ます。

「確かにそれは関係ありそうだ。だが、中童子はなぜそんな行動を取ったんだろう? それも傍観者の利己主義であり、意地悪な心からかい?」と問えば、うなずく生徒だけでなく、頭をひねる生徒もいます。内供のように「どうもそれだけではない。もっと深い何かがありそうだ」と感じるからでしょう。
 中には「私もこの部分はよくわかりませんでした。なぜ中童子がむく犬を追い回したのか、それも鼻もたげの棒を持って『鼻を打たれないようにしろ』と言ったのか。そして、内供はなぜひどく怒って中童子をぶったのか。わかりそうだけど、うまく説明できません」と言う生徒もいます。
 私は「傍観者の利己主義説だけでは何か足りないと感じるのは鋭い感覚だよ」と応じます。

 結論を先に書くと、1・2・3で示された周囲の反応は驚きと「わらい」だが、この「わらい」を、内供は漢字の「嗤い=嘲笑」と感じた。そして、4の「陰口」は鼻の治療をした弟子が内供の豹変を見たゆえの言葉であり、5も内供の変化(意地悪く叱りつけるようになったこと)を受けて中童子が悪意ある行動を取った――それが描かれている。特に4と5は1・2・3と全く異なっており、決して同じ理由による言動ではない。
 だからこそ一つ一つ分けて検討する必要があるのです。

 ところが、こうした考察をさせてくれないのが本作です。作者は3の後で、周囲が示した反応の理由を一つにまとめて「傍観者の利己主義」と解説しました。内供はなぜつけつけ嗤われたのか。「その理由は人間が持つ傍観者の利己主義であり、それが内供に対して発揮されたから」と言うのです。
 本来の一読法なら、周囲の反応一つ一つを検討して「なぜ?」の原因・理由を探ります。しかし、その答えが作者によって明かされてしまいました。それも一つだけ。なぜ作者は答えを明かしたのか。この「作者なぜ?」はかなり難解です。
 もちろん「そんなの作家の勝手だろ」とは言わせません。純文学創作者は「どのように描くか」について心身をすり減らし、練りに練っている人たちです。思いつきをさらりと書くような作家など一人もいないと思います。


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[ 5 ] 作者から読者への挑戦状

 私はこの部分を作者芥川龍之介による読者への挑戦状と受け取りました。
 まるで「ぼくは周囲が示した反応の理由を一つだけ書きます。読者は傍観者の利己主義説に賛同されますか。そんなことはありませんよね。もしも同意されるなら、あなたは内供さんと同じですよ」とでも言うかのように(後述)。

 以前次のように書いたことがあります。「生徒は『傍観者の利己主義(人は意地悪な心を持っている)』といった答えを知ると、なかなかそこから離れることができない」と。
 一読法の根本は極端に言うと、登場人物全ての言動、心理について「なぜ?」とつぶやくことです。しかしながら、表面に現れた一つの答えを知ると、生徒は「なぜ?」と問うことを忘れ、他の可能性がないか考えることをやめてしまう。結果、「それが重要だ」と思って「傍観者の利己主義」の方を一生懸命再読して、そちらの言葉には傍線を引いたり□で囲むのに、周囲の反応の方は「ひどい反応」の一言で終わりにしがちです。

 このようなことは以前もありました。鼻を短くする治療のところで、内供は策を弄し、弟子はそれを見抜いた。作者はそこで「内供のこの策略がわからない筈はない」と書いた。「何々しない何々はない」は二重否定であり、強い肯定。自信にあふれた言葉です。

 私たちは人と話しているときなど、このように自信を持って断言されると、「あれっ」とつぶやいたり、「本当にそうだろうか?」と疑問を持つことを禁じられたような気持ちになります
 相手から「こんなことは誰でもわかる。明白なことではないか」と言われた気がして「私にはよくわからないんですけど……」と言うのが恥ずかしい気持ちになるからです。

 だが、五歳児なら「知らないことが恥ずかしい」などと感じません。だから、何でも平気で「それはなぜ? どういう意味? ほんとにそうなの?」と問うことができます。一読法授業とは正に「五歳児に戻る」訓練なのです。
 私はここで「作者の解説を鵜呑みにしちゃいけない。周囲の反応についてもっと精読しなきゃ」と言います。

 ただ、このように書くと私が作者芥川龍之介を「批判している」と思われるかもしれません。
 もちろんそんなことはありません。この部分は読者が最も誤解しやすいところであり、その誤解に気付かねばならない。「傍観者の利己主義」と解説した作者がおかしいのではなく、読者が「答えはそれ一つ」と思い込んで、「なぜ?」と問い、さらなる検討をやめてしまう。そこが問題ありと言いたいのです。
 作者は周囲が見せた反応の理由を一つだけ書いた。「それでいいのですか」とひそかに問うている。もしも読者が「傍観者の利己主義」説を使って周囲の反応、対する内供の言動を全て説明しようとするなら、それは作者が仕掛けたわなにかかったことを意味する――と私は考えています。


[ 6 ] 周囲の反応123を検証する

 では、傍観者の利己主義の前に、内供が周囲の反応に対して不可解に感じた部分(1・2・3)をしっかり読んでいきます。
 内供は鼻が短くなったことで「こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない」と思った。ところが、予期に反して嗤われている。

 最初に登場するのは内供と付き合いのあった一人の「侍」です。この人物は「僧俗」の「俗」を代表しています。「前よりも一層可笑しそうな顔をして〜じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた」とあり、一例であっても、そのような人は他にもいたであろうと想像できます。彼らは内供の鼻をただ見つめるだけで何も言わなかった。おかしそうな顔はしているのに。なぜか?

 ここで「ある侍はなぜ内供の鼻ばかり見て何も言わなかったのだろう?」と問えば、生徒の答えは明快です。「内供がこれまで長い鼻のことを何も語らず、気にしない顔をしてすましていたのだから、ここで改めて話題にすることもしづらいはず」と。

 私も「彼らは寺の僧ではない。内供とたまにしか会わない、いわば遠くの人。当然内供の内心を知らない。もしも内供がとても悩んでいると知っていたら、つまり、普段から長い鼻を話題にしていたら、すぐに「おや、鼻が短くなって良かったですね」と言っただろう。だが、内供はこれまで一度も鼻について話題にしたことがない。
 侍は『話もろくろくせずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた』とある。それは自分から鼻の話題は切り出しづらいので、内供から話題にしてくれるのを待っていた、と解釈できる。侍の心理を探るなら、『やっぱり内供さんは長い鼻を悩んでいたのか。だが、短くした今も何も語らない。さて、こちらから何か言った方がいいのか、言わない方がいいのか』という戸惑いの気持ちだろう。
 結局、二人はこの件を語ることなく、別れたようだ。もっとも、さほど親しくない人に自分の悩みを打ち明ける人はそんなにいないよね」と補っておきます。

 そして、次に登場するのが以前鼻もたげで失敗した「中童子」と、(初登場の)「下法師たち」。彼らは僧俗の「僧」を代表している。いわば内供の近くの人であり、日々内供と接している人たちです。

 まず中童子は「可笑しさをこらえかねた」ように「一度にふっと吹き出して」しまう。そして、用を言いつけた下法師たちは面と向かっているときは神妙に聞いているけれど、「内供が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い」出す。それも「一度や二度の事ではない」とあります。一体この「わらい」は何だったのか。

 この疑問はしばし保留として先を読めば、内供がこれら周囲の反応に対して不可解な思いを抱いたことがわかります。「同じ嗤うにしても、鼻の長かった昔とは、嗤うのにどことなく様子がちがう。そこにはまだ何かあるらしい」と感じる。「前にはあのようにつけつけとは嗤わなんだて」と内供はつぶやきます。
 ここで当然「つけつけ」の意味を辞書で確認します。その前に何名かの生徒に「つけつけと嗤う様子を表現しなさい」と言ってよく演技してもらったものです。
 生徒はおかしさをこらえるように「くっくっ」と笑ったり、声は出さずににやにやしたり……面白いところでは、隣の生徒を引き込み、二人で顔を見合わせて「声を出さずに大笑いする」なんてのもあって、その仕草はそれこそ爆笑ものです。総じて笑い声は出ていないとイメージする方が多いようです。

「では、辞書で確認してみよう」と調べてみると、「つけつけ」とは「遠慮や加減をしないで、思ったことをはっきり言うさま。ずけずけ」とか、「無遠慮に振る舞うさま」とあります。意外にも遠慮なく、あからさまに嗤われたことがわかります。我々が受け取るイメージと違って内供には、はっきり嗤い声が聞こえていたようです。
 つまり、内供の鼻が長いときは、嗤っていたとしても遠慮がちであった。内供の目に見え、耳に聞こえるような嗤い方ではなかった。それが鼻を短くしたとたん、遠慮も加減もなく、ずけずけ嗤われるようになったというのです。「一体なぜ?」と思います。


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[ 7 ] 内供には明が欠けている?

 ところが、ここで「内供には、遺憾ながらこの問いに答えを与える明(めい)が欠けていた」と書かれます。「明が欠けていた」の「明」とは明らかな知恵、考える力であり、それが欠けている。つまり、内供にはなぜ周囲が以前と違う反応を示すようになったのか、その理由がわからない、と言うのです。

 もちろん、表面的な理由は内供の鼻が短くなったことにある。内供も「自分の顔がわりがしたせい」であり、「見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽に見える」からだろうと考えた。だが、もっと深い理由がありそうだ。それが内供にはわからない、というわけです。

「ちなみに『明が欠けていた』という表現は内供じゃなく、作者の言葉だね。それとこの表現には《上から目線》と言うか、少々軽蔑的な響きも感じられる」と補足します。
 ここでつぶやきたい疑問があります。それは「内供はなぜわからないのか? 明が欠けているからと作者は言う。では、内供に必要な考える力とは一体何だったのだろうか?」と。

 私はこの疑問を解明するために、「この部分普通は次のように書くのではないか」と提起します。

 「内供には、遺憾ながらこの問いに答えを与える明が欠けていた」
→「内供にはなぜ周囲の僧俗がつけつけと嗤うようになったのか、その理由がわからなかった」と。

 こう書けば済むところを、作者は「明が欠けていた」などと皮肉っぽく、しかし自信に満ちて断定した。内供に「わかるはずがない」とでも言うかのように。その一方、この少し前には、理由がわからず「ふさぎこむ」内供について「愛すべき内供」とあることにも注目させます。
 要するに、内供についてかたや「愛すべき」と言い、かたや「明が欠けていた」と言う。この二つの表現には作者の矛盾した心情が感じ取れます。『鼻』を執筆したのは芥川龍之介が二十歳を少々過ぎた頃です。

 矛盾した心情の一つは「あんたは五十にもなって、内道場供奉という高僧にも選ばれ、仏教を学んだだろうに、そんなことさえ気付かない。周囲の気持ちを推理できないのかい?」といった非難の気持ち。もう一つは「でも、なかなかわからないだろうね。それは無理からぬことかもしれない」という同情の気持ち。
 そこで生徒には「これまで周囲の心情として反感と同情の言葉が出てきた。作者もまた内供に対して反感と同情の気持ちを持っていることがここでわかる」と説明しておき、相反する感情がなぜ作者にわき起こるのか。そして、なぜそれを明かすのか――この疑問は「最後に改めて考えたい」とします。


[ 8 ] 内供に理由がわからなかったわけ

 もっとも、周囲が示した反応の理由が、内供にわからなかったわけは、すでに前半に書かれています。内供はなぜわからなかったのか。作者が「明が欠けている」と見なした根拠はどこにあるのか。この答えを導き出すための質問が以下、

「鼻が短くなったとき、我々は未来を予想した。その中のある部分を読めば、『ああ、これでは内供には周囲が見せた反応の理由はわからないだろう』と推測できる表現がある。それはどこ?」と聞けば、生徒はしばしの熟考後「『こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない』のところですか?」との答えが返ってきます。
 内供は周囲が誰も嗤わないだろうと予測している。「予想外の出来事が起こったので、理由がわからないのだ」と。

「そう。内供は鼻が短くなったことで『もう誰も嗤うものはないのにちがいない』と思って他の可能性を全く考えなかった。我々は他の可能性をいくつも考えた。もしかしたら『相変わらず嗤われるんじゃないか』とか、『短くなって良かったですねと言ってくれるんじゃないか』とか、無関心で黙っているかもしれないとか。つまり、未来をあれこれ予想した。
 このようにいろいろ考えられるのが『明がある』人の特徴であり、逆に一つしか考えられない人のことを、作者は『明が欠けている』と言っているんだ」

 ここで私は板書した未来予想の内供のところに「明が欠けた生き方=一つのことしか考えられない」、周囲のところに「明のある生き方=可能性をいろいろ考えられる」と追記します。そして、「内供に必要な《明》ってこのようにいろいろ考えることができる力なんだ」と補足します。

 さらに、続けて「念願かなって鼻が短くなったとき、内供は未来を一つしか予想できなかった。『こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない』と。ところが、『意外な事実を発見した』とある。この『意外』というのは、未来をいくつも予想した我々読者にとっての《意外》ではない。内供一人にとっての《意外な事実》だ。
 内供は他の可能性を全く考えなかった、考えられなかった、考えようとしなかった。だったら、理由がわからないのは当然じゃないか。だから、作者が登場して理由を教えてあげた……。

 だが、こう考えてみると、ある大変なことに気付くね。なんと作者は周囲が示した反応の理由を一つしか書いていないんだ。理由は一つとは限らないじゃないか」

 そろそろ読者各位はお気づきでしょうか。この理屈を押し通すと、作者こそ《明が欠けている人》になりはしませんか。
 なぜなら、作者は周囲が示した反応の理由を「傍観者の利己主義(人は他人の不幸に同情するが、その人が不幸を克服すると、物足りない気持ちになってもう一度その不幸に陥れてみたいと感じる)」のように、この理由一つしか書いていないからです。さあ、どうする?

 あるいは、このようにつぶやかれるでしょうか。
理由を一つしか思いつけないなら、芥川龍之介だって明の欠けた人だ」と。そして、「人の不幸は蜜の味という。人間なんて誰でも人の不幸を喜ぶような意地悪な心を持っている。それは人間の普遍的真実だ」と言って作者の説明に同意されるなら、読者もまた《明の欠けた人》ということになりはしませんか。


[ 9 ] 「傍観者の利己主義」説、最重要語は?

 この疑問をどう解決するのか。そこはひとまず保留として、次の段落において「傍観者の利己主義」を含む作者の解説が披露されるので、それをもっと検討します。
 この部分、私としては「作者の解説は正しいか?」と書き込んでほしいところです。が、そのような疑問を提起する生徒はまずいません。そこで次のように質問します。

「『傍観者』・『利己主義』の意味がわかりづらいと[?]を付けた人も多いだろう。そこはひとまず置いといて、この部分の最重要語として《傍観者の利己主義》を□で囲って余白に抜き出した人は?」と挙手を求めます。
 生徒は当然のように全員手を挙げます。
「確かに傍観者の利己主義は周囲の反応がなぜ起こったのか。その理由を説明している。だが、ここにはもっと重要な言葉がある。その言葉こそ□で囲い、[!]を付けて抜き出さなきゃならない。それはどの言葉だ?」と尋ねてさらなる熟読を求めます。

 では、その言葉とは何か。以下「傍観者の利己主義」説を全て掲載しますので、読者各位も(先を読まずに)考えてみてください。
 私はその後「この作者解説はほんとに周囲の人の反応を説明する理屈だろうか。違うんじゃないか」と問題提起します。この質問の意味するところと、答えも考えてみてください。よーく読めば「わからない筈はない」と思います。

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 人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切り抜けることができると、今度はこっちで何となく物足りないような心持ちがする。少し誇張していえば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くようなことになる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
 そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。……
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
[以下の空白は答えを見る時間を延ばすためです。あれこれ考えた人は先へどうぞ]




 では、答えです。
 「傍観者の利己主義」以上に重要な言葉、それは「敵意」です。
 そして、この部分は「周囲が示した反応を説明する(普遍的真実としての)理屈」ではなく、「内供の内心を、すなわち内供が心中感じたこと」を説明しています。
 作者が登場して解説したのは内供の感情です。内供はつけつけと嗤う周囲に対して自分への敵意を感じ取った――そう作者は描いたのです。
 なぜそう言えるのか。

 さすがに再読三読して「傍観者の利己主義よりもっと重要な言葉は?」と聞けば、「これですか」と指摘できる生徒が増えます。しかし、「矛盾」とか「感情」と答えるなど、まだわからない生徒には、
「傍観者の利己主義のところはここに出てくる別の言葉に置き換えることができる。その言葉は?」と聞けば、ようやく「敵意ですか?」と返ってきます。

「そう、《敵意》だ。内供が何となく不快に思ったのは池の尾の僧俗の態度に、自分への敵意を感じたからだ。敵意の方が傍観者の利己主義よりよっぽどわかりやすい。それも消極的な敵意とある。消極的の反対語は?」
「積極的!」
「消極的も積極的も以前登場していたね。では、積極的な敵意とはどのような態度、言動だろうか?」と問えば、
「面と向かって激しくののしったり、憎々しい目をして暴力をふるわれそうになったり、事実暴力をふるわれること」などが出てきます。「アメリカだったら銃、日本だったらナイフを突きつけられたら、敵意を感じると思う」との発言もあります。

「そうだよね。では、内供が感じた周囲の消極的敵意を端的に表した言葉は?」
「つけつけと嗤う、ですか」
「そう。池の尾の僧俗――僧侶と一般の人は鼻が長かったときは嗤っていたとしても、陰に隠れていた。ところが、鼻を短くしたら、あからさまに、無遠慮に嗤う声が聞こえるようになった。内供はそれを自分に対する敵意と感じたわけだ。

 これを逆に言うと、鼻が長かったとき、内供は周囲の反応を敵意と感じたことはなかったことがわかる。なのに、鼻が短くなったら、敵意だと感じた。
 そして、それが消極的であろうが、敵意を感じたからこそ内供は変わった。『二言目には、誰でも意地悪く叱りつける』とある。内供は鼻が長かったとき、誰でも意地悪く叱りつけるような人ではなかった。前半にそのような表現はないからだ。
 ところが、内供は変わった。終いにはいたずらな中童子に暴力までふるってしまった。

 この内供が示した言動こそ、彼の周囲に対する敵意、敵対行動だ。報復と言っていいかもしれない。『お前達が私に敵意を持つなら、私だって報復するぞ』といった感じだ。
 内供が周囲の態度や言葉、つけつけと嗤う声に敵意を感じたことは最後に『それとなく感づいた』とあることからもわかる。つまり、ここで作者が説明したのは内供の内心であり、《内供の感情》なんだ。

 このように読みとると、またも「作者なぜ?」と書きたくなる新たな疑問が生まれます。
 読者にとっては「傍観者の利己主義」ではなく、以下のように「消極的な敵意を感じた」と書いてもらった方がわかりやすかったはずです。

 内供は理由を知らないながらも、池の尾の僧俗の態度に、消極的な敵意を感じた――と。

 ところが、作者は「敵意」としていいところを突然のように「傍観者の利己主義を感じた」と書きました。「一体それはなぜ?」とつぶやきたくなるし、先程書いたように、「なぜこの理由一つしか書かなかったのだろう?」との疑問が湧きます(しかし、この答えはすでに今節に出ています)。


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[10] 二つのたとえ話

 実際の授業においてはこの件もまた保留として、私は周囲が見せた1〜5の反応と内供の言動(3)と(5)をもっと精読し、作者による「人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある〜傍観者の利己主義」説について「一見人間の本質を語っているように思える。だが、そうだろうか」と問題提起します。
 ここで私が用意するたとえ話は二つ。一つは不謹慎ながら「校長先生のはげ頭」、もう一つは(前々号で取りあげた)「もしも自分の親や親友が病気で入院したら」の具体例です。

 まず周囲の僧俗が最初に見せた反応について
 1 ある侍は内供の短くなった鼻をじろじろ見た、
 2 中童子はぷっと吹き出し、
 3 下法師たちはくすくす笑った。

これらは敵意だろうか」と問題にします。「たとえば、敢えて例に挙げると校長先生のはげ頭。男性の校長先生は一般的に頭髪の薄い人が多い。その校長先生が朝礼で『うそをつくのは良くないことです』と訓辞を垂れている。髪を赤く染めた女子生徒に対して『それは校則違反だ。頭髪は自然のままで。髪を染めるのはやめましょう』と説教している……としよう。

 ところが、ある日あるとき校長先生の頭がふさふさと真っ黒になっていることに気付く。彼はかつらをかぶった。それを見たとき、君らはぷっと吹き出し、みんなでそれを話題にして陰で笑うだろうね。それに見ちゃいけないと思いつつ、じろじろ眺めるんじゃないだろうか」
 生徒はほぼ全員うなずきます。

「でも、それは反感か? 敵意か?」と聞けば、「別に校長先生に反感とか敵意は持たない。ただ、何だか失望するし、今まで生徒に対して言ってきたことは何だったのだろうと感じる」と答えます。
 私はさらに「では、もしもかつらをかぶった校長先生が君たちを、がみがみ叱ったり、君の生活態度を厳しく注意したらどうだろう」と聞けば、「反感が強くなるかもしれない。自分だけしつこく言われたら、敵意を感じるだろう」との感想が出てきます。

 これを内供と周囲の僧俗に当てはめれば、1・2・3は「反感」ではない。ぷっと吹きだして笑っただけ。嘲笑ではなかった可能性が高い。もちろん敵意なんかではない。ただ、鼻が短くなったことで「なんだ。そうだったのか」とあることに気付いた。「今まで内供様は鼻が長いことなど気にもしていない」と思っていた。そのような態度を示していたのだから。だが、それは外見だけであることがわかった。

 今まで内供の内心と表面の違いについて知っていた人は、鼻の治療をした弟子などごく少数であり、多くの僧俗は知らなかった。だが、鼻を短くしたことで、内供の内心が一気に表面化した。つまり、うそをついていたことが白日の下にさらされてしまった。今まで見せていた「長い鼻のことなど全く気にしない」という態度はうそだとばれてしまった。

 周囲はこれまで内供を、皇室にも出入りするほどの高僧であり、有徳の人として尊敬していたかもしれない。だが、そのイメージは一気に崩れた。尊敬はおそらく失望や落胆に変わっただろう。
 周囲はその気持ちを、内供の鼻をじろじろ見るとか、くすくすわらうことで表した。鼻を短くした内供は普通の人になったのだから、もう遠慮する必要もないと感じた。ただ、周囲が見せたこれらの反応は《敵意》ではない。嘲り笑うという意味の嘲笑でもなかった

 このように、校長先生のたとえ話によって周囲の反応は《敵意》ではないと理解できます。ただし、作者はそのつもりで書いているか、との疑問が湧くかもしれません。
 もちろん作者もそのつもりで書いています。それはある言葉からわかるので、次のように質問します。

「ある侍や下法師、中童子などの《わらい》が嘲笑ではないと言い切れる根拠はある言葉からわかる。作者は侍、中童子、下法師の《わらい》はほぼ同じであること、対して内供が感じた《わらい》は別種のものとして明確に分けている。さて、その言葉とはどれだ?」と尋ねます。

 これは一言一句念入りに読まなければ出てこない問いです。わからないようだと「それは違う言葉ではない。同じ言葉で漢字表記を変えている」とヒントを出すと、さすがに「笑うと嗤うですか」と気付きます。

「そう。ある侍のところは『可笑しそうな顔』であり、中童子も『可笑しさをこらえていた』、下法師たちは『くすくす笑い出した』と全て《笑う》の漢字が使われている。だが、その直後内供の内心を描いたところでは、『同じ嗤うにしても〜嗤うのにどことなく様子がちがう』と『嗤う(嘲笑する)』の漢字を使っている。作者はちゃんと分けているんだ」

 続けて「このように周囲が最初見せた《わらい》はあまり深い意味のない『笑い』だった。だが、内供はそれを嘲笑の嗤いと見なし、なおかつ自分への敵意がこめられていると感じた。だから、彼は機嫌が悪くなり、やがて意地悪く叱りつけるようになった。つまり、内供も敵意を露わにし始めた。

 すると、今君たちが言った通りだ。周囲もまた内供の敵意に対して反感と敵意を強める。鼻を短くする治療をした弟子でさえ、内供への同情が消え、反感の思いは『慳貪(けんどん)の罪を受けるぞ』と陰口として表された。ほんとは『地獄に堕ちるぞ』と言いたかったのかもしれない。そして、中童子だが、その前に……」

「どうだろう。もうそろそろ傍観者の利己主義と解説したところは周囲の人について書かれたものではないとわかったかい?」と聞きます。
 しかし、遺憾ながら生徒はまだぽかんとしています。読者各位もそうでしょうか。(以下次号)


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:『鼻』の後半を解釈するなら、「傍観者の利己主義」より「敵意」を取り出した方がわかりやすい。そう思っての実践授業です。
 ところで、前号にて「数日前(私にとっては)全く新しい解釈を発見して『これはどうしても入れたい』と思うに至りました」と書いて公開を延期しました。
 一読法を実践している私なら、「今号・次号のどの部分が最近発見した解釈なんだろう」と思いながら読み進めますが……。
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