『続狂短歌人生論』17「子捨て、親捨てのドラマ」1・2


○ 捨てられる不安と戦う子どもたち 埋められないと心に穴が


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年6月28日(水)第17号


 『続狂短歌人生論』17 子捨て、親捨てのドラマ その1・2

 本日より3号連続で「子捨て、親捨てのドラマ」について語ります。
 これはすでに前著『狂短歌人生論』の下書きには入っていました。が、見開き2頁におさまらず、詩の引用もあったので割愛した一節です。

 20年後の今『続編』に入れるかどうか大いに迷いました。読者の反発反論必至の内容だからです。田舎に親を残して都市で暮らす核家族とは「親捨て」であり、子どもを誰かに育ててもらうことは「子捨て」であると書いています。

 おそらく「田舎には仕事がない。都市の住宅は狭い。核家族は親も望んでいる。共稼ぎでは子どもを育てることができないではないか」と反論されるでしょう。現実を見れば「やむを得ない」と言うしかありません。

 しかし、この状況は子捨てであり、親捨てであること。特に前者は子どもの心に深い傷を残す可能性がある。そのことを述べています。
 子どもが投げるサインに気づかなければ、ぼーっと眺めるであろう。高齢の親から連絡がないからと放っていれば、突然詐欺にあったと電話がある(かもしれない)。そのときあなたは「何やってんだ!」と親を責めますか。
 仕事で忙しい、疲れている。だからと言って我が子に対して、親に対して「傍観していいのですか」との思いが根底にあります。

 なお、その1、2、3は一つの節ですが、長いので「1・2」は今号、「3」は次号に回します。
 紹介する最初の詩3篇は黒田三郎の詩集『小さなユリと』所収。最後の「伝説」は会田綱雄の詩で、いずれも自主教材として授業で取り上げました。
 以下、3号の公開日と狂短歌です。


6月28日
子捨て、親捨てのドラマ その1「詩『夕方の30分』」―――――――本号
〇 捨てられる不安と戦う子どもたち 埋められないと心に穴が

子捨て、親捨てのドラマ その2「詩『9月の風』」
〇 ちちははの心を思いやる幼児 どちらが大人かわからぬほどに

7月05日
子捨て、親捨てのドラマ その3「詩『僕を責めるものは』」
〇 幼子の泣き声それは甘えなの? それとも怖いことが起こるから?

7月12日
子捨て、親捨てのドラマ その4「親捨て」
〇 親捨てはかつて田舎で始まって 今は都市でも親を見捨てる

子捨て、親捨てのドラマ その5「詩『伝説』」
〇 ちちははの思い出をただ くりかえし くりかえし子に 伝えることで……

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[ここで一読法の復習。その2の狂短歌「ちちははの心を思いやる〜」を読んだときのつぶやき。初句が漢字「父母(ちちはは)」ではなくひらがなになっています。「おやっ?」と思われたかどうか。
 もっとも、この「?」に関しては5の狂短歌の初句にも「ちちははの」と出てきます。
 それに気づけば、「ははあ、これと関係があるんだな」とつぶやかれたはず。
 そーです。2の狂短歌は最後の伏線でもあります(^_^)。
 これは逆に5の狂短歌を読んだとき、初句が「ちちははの」とひらがなになっている。「おやっ、2の初句もひらがだったな」とつぶやく。こちらでも良し。丹念に読んでいる証です。]
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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 捨てられる不安と戦う子どもたち 埋められないと心に穴が

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』17 子捨て、親捨てのドラマ 1・2 】

 その1「詩『夕方の30分』」

 父が働き、母も働く。いつからか、生活上の理由、もしくは生き甲斐を得るために、女性も働き始めた。女性は子どもが生まれれば母となる。誕生後数ヶ月、もしくは一年で再度働き始めると、多くの家庭は子どもを保育所・子ども園に預ける。それを「子捨て」と言えば、猛烈な反発を食らいそうだ。SNSなら炎上必至か。

 大部分の母親(父親)は親としての愛情を子どもに充分注いでいると言うだろう。だが、そう思っているのは親バカりである。
 親がどんなに子を愛していると思っても、子は「親から愛されている」と思わない。特に母に対して「母親に捨てられた」と思いこんで成長する可能性が高い。

 いや、この言い方は正確ではない。子はそんなことを認識できない。それは信じたくない嫌な記憶として心の片隅に追いやられる。子どもは心の中に深く暗いブラックホールを持つだけだ。それが埋められなければ、やがて子は様々な問題行動を起こすだろう。

 これは「共稼ぎをするな」という意味ではない、「女性は専業主婦になりなさい」と言いたいわけでもない。子どもを誰かにあずけ、育ててもらうことは「子捨て」であると認識してほしいということだ。

 そして、保育所や社会のシステムをもっと改善する必要がある。例えば、わずか数年の育休なんぞではなく、子育ての10年間を父か母の六時間労働制とする。または、子を持つ親のために突発休を取れる補助人員の整備等だ。
 コロナ禍で明らかになったのは感染性の病気にかかった子を保育所では受け入れないということ。親は子どもをあずかってくれる人を探すか、勤めを休み続けねばならない。

 日本は年休未消化の労働者が多い。「人に迷惑をかけるな」が合言葉の国だから、突発休を取りづらいのだ。だが、子どもはある朝突然病気になる。気楽に休める職場にすることは社会全体の責務だと思う。それは子どものいない大人にとっても働きやすい国になるはずだ。

 子捨てのことを、ある詩集を参考に話してみたいと思う。それは黒田三郎著『小さなユリと』(一九六〇年)という詩集である。
 詩人にして飲んだくれの父、黒田三郎と、三、四歳にして幼稚園児の娘ユリちゃんとの日々を描いた(私小説的な)詩集である。

 発端は母親が病気で入院したこと。今まで三人で暮らしていた一家。家事やユリちゃんのめんどうは母親がみていた。
 ところが、お母さんが入院したため、当分の間父と幼い娘二人だけで暮らさなければならなくなった。今でいえばシングルファーザーだ。
 その悪戦苦闘の様子が暖かく優しく、だらしない父の目で描かれている。私は授業でよくこの中の作品を取り上げた。

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  夕方の三十分         黒田三郎

 コンロから御飯をおろす
 卵を割ってかきまぜる
 合間にウィスキーをひと口飲む
 折り紙で赤い鶴を折る
 ネギを切る
 一畳に足りない台所につっ立ったままで
 夕方の三十分
 僕は腕のいいコックで
 酒飲みで
 オトーチャマ
 小さなユリの御機嫌とりまで
 いっぺんにやらなきゃならん
 半日他人の家で暮したので
 小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う

 「ホンヨンデェ オトーチャマ」
 「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」
 「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」
 卵焼きをかえそうと
 一心不乱のところに
 あわててユリが駈けこんでくる
 「オシッコデルノー オトーチャマ」
 だんだん僕は不機嫌になってくる
 化学調味料をひとさじ
 フライパンをひとゆすり
 ウィスキーをがぶりとひと口
 だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
 「ハヤクココキッテヨォ オトー」
 「ハヤクー」

 かんしゃくもちのおやじが怒鳴る
 「自分でしなさい 自分でェ」
 かんしゃくもちの娘がやりかえす
 「ヨッパライ グズ ジジイ」
 おやじが怒って娘のお尻をたたく
 小さなユリが泣く
 大きな大きな声で泣く

 それから
 やがて
 しずかで美しい時間が
 やってくる
 おやじは素直にやさしくなる
 小さなユリも素直にやさしくなる
 食卓に向かい合ってふたり座る

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 母親がいなくなった翌日だろうか、小さなユリちゃんはお父さんの帰宅まで近くの人にあずけられて過ごした(ようだ)。夕食の準備をする父とユリちゃんとのどたばたが目に見えるかのように活写されている
 一読法で立ち止まりたいような部分はほぼない。舌で転がすようにじっくり味わえばいい。[ぜひもう一度読んでください]

 ちょっと頭の片隅に留めておきたい表現はユリちゃんが怒ってののしる「ヨッパライ グズ ジジイ」のところ。この一言から次のことがわかる。

1 ヨッパライ…父親が結構な酒飲みであること。調理しながら「ウィスキーをがぶりとひと口」ともあるからかなりの酒飲みである。

2 グズ…「僕は腕のいいコック」などとあるけれど、料理は得意でないようだ。卵焼きは「一心不乱」にならなくても、やったことがあれば軽くできる(はず)。
 もっとも、集中しないとすぐ焦がしてしまう料理が卵焼きだ。これが煮物だったら、お父さんだってユリちゃんの相手をできただろう。

 夕食の卵焼きはユリちゃんの好物で必須なのではなかろうか。それがないと娘はがっかりしてきっと頬を膨らませる。「だから作ってやっているのに、娘はそれをわかってくれない」てなところか。
 ユリちゃんにしてみれば、お父さんは他のこともぐずぐずして手際が悪いと普段から感じていた。だから「グズ」の言葉が出たのだろう。おそらくお母さんはユリちゃんの要望に応えつつ、料理もきっちりできる「グズでない人」なんだろう(^.^)。

 この二点によって、母は専業主婦であり、夕食の準備はいつも母親がやっていたこと、父親は勤めから帰ったらすぐウィスキーを飲み始めていたであろうと想像できる。

3 ジジイ…母親は若いけれど、父親はかなりの年上か、見た目(たとえば、若いけど頭髪が薄いなど)じいさんに見えることがわかる。
 授業では以上のことをちょいと確認する。

 詩に戻ると、父にとっては痛いところを子どもから言われりゃそりゃ腹も立つ。だから「おやじが怒って娘のお尻をたたく/小さなユリが泣く 大きな大きな声で泣く」となる。
 そして訪れる「しずかで美しい時間」。ホントにその場の様子がまざまざと浮かんでくる。

 思うに口げんかがあっても、食事が始まると大概穏やかになる。たぶん腹が減っているといらいらが募るのであり、お腹が満ちることの期待が大人も子どもも穏やかにするのではなかろうか。


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〇 ちちははの心を思いやる幼児 どちらが大人かわからぬほどに

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 子捨て、親捨てのドラマ その2「詩『9月の風』」

 その後父と娘は入院した母を見舞いに行く。
 このあたりから中身を深めたい――つまり内容を理解できているか確認したい表現が出て来る。[最後に問1、2、3とした部分です。立ち止まって考えてみてください]

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  九月の風        黒田三郎

 ユリはかかさずピアノに行っている?
 夜は八時半にちゃんとねてる?
 ねる前歯はみがいてるの?
 日曜の午後の病院の面会室で
 僕の顔を見るなり
 それが妻のあいさつだ

 僕は家政婦ではありませんよ
 心の中でそう言って
 僕はさり気なく黙っている
 うん うんとあごで答える
 さびしくなる

 言葉にならないものがつかえつかえのどを下ってゆく
 お次はユリの番だ
 オトーチャマいつもお酒飲む?
 沢山飲む? ウン 飲むけど
 小さなユリがちらりと僕の顔を見る
 少しよ

 夕暮れの芝生の道を
 小さなユリの手をひいて
 ふりかえりながら
 僕は帰る
 妻はもう白い巨大な建物の五階の窓の小さな顔だ
 九月の風が僕と小さなユリの背中にふく
 悔恨のようなものが僕の心をくじく
 人家にははや電灯がともり
 魚を焼く匂いや揚物の匂いが路地に流れる
 小さな小さなユリに
 僕は大きな声で話しかける
 新宿で御飯食べて帰ろうね ユリ

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問1 妻にいろいろ問われて「僕」はなぜ「さびしく」なったのか?
問2 ユリちゃんはなぜ「ちらりと僕の顔を」見て「少しよ」と答えたのか?
問3 「僕」がユリに「大きな声で」話しかけたのはなぜだろう?
 [一読法なら傍線を引いてほしい部分です。考えつつもう一度読んでください]


 私は「九月の風」で、この三点を生徒に聞く。

私:お母さんを見舞いに行ったお父さんだけど、なぜ寂しくなったの?
生徒:お母さんが会うなりユリちゃんのことばかり聞いて、自分のことを全然心配してくれないから
私:そうだね。こんなお父さん、どう思う?
生徒:弱々しいし、ちょっと情けない。大人なんだからもっとしっかりして、と言いたくなる。

私:次にお母さんがユリちゃんにお父さんのことを聞くよね。「お酒飲む」って聞いたら、ユリちゃんがちらっとお父さんの顔を見たのはどうして? そして「少しよ」と答えたのはなぜ?

 ――この質問は少々難しいようで、男子生徒なんかは「たくさん飲むと答えたら、後でお父さんにぶたれるから」なんて返答をする。「夕方の三十分」でユリちゃんのお尻をたたく所があるから、そんな風に考えるのかもしれない。

 もちろんこの詩人にして飲んだくれのお父さんは「脅迫者タイプ」ではない。むしろ読者は既にお気づきのように、とても弱々しい感じのお父さんである。一、二連目を読めばそれがよくわかる。

私:お父さんは病院に着いた途端、お母さんからユリちゃんのことばかり矢継ぎ早に聞かれ、少々いじけている。内心自分のことを真っ先に心配して聞いて欲しいと思っている。でも、お母さんにしてみれば、お父さんは大人だし、男手一つでちゃんとユリちゃんのめんどうを見ているか、そっちの方が心配で心配でたまらない。だから、ユリちゃんのことからどんどん聞き始める。

 もちろんお父さんだってそれくらいはわかる。わかるけれど、心の中ではまるで子どものように「さびしい」と感じている
 お母さんがユリちゃんを先に心配するのは当然のことだ。それはわかるけれど、さみしいと思うのもこれまたお父さんにとって正直な気持ちなんだ。「さり気なく/黙っている」っていうのは、そこのところの気持ちをとてもよく表しているよね。
 この詩人のすごいところはそんな自分の心の、子どものようにいじけた気持ちをきちんと表現できるってところなんだ。

 そして、驚くことに小さなユリちゃんはお父さんのそんな様子をちゃんと見ている、気づいている
 お母さんから「オトーチャマいつもお酒飲む? 沢山飲む?」と聞かれた。
 正直に答えたらお父さんを傷つけ、お母さんをもっと心配させると知っている。だから「ウン 飲むけど」/小さなユリがちらりと僕の顔を見る/「少しよ」――と答えるんだ。

 たぶんお父さんはユリちゃんがとても健気で大きく見えたことだろう。自分は子どものようにさみしいと思い、いじけてしまった。ところが、子どものユリちゃんはとても大人びた態度で父と母を見ていた。
 病院を出て二人だけになったとき、お父さんにとってユリちゃんは「小さな小さなユリ」なのに、とても「大きく」見えただろう。
 だから、お父さんは「大きな声」でユリに話しかける。もちろん、自分を励まし元気づけるために大声を出すということもある。でも、お父さんの心を思いやるユリちゃんは、とても大きく見えたってことなんだ。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:黒田三郎(1919-1980年)は現代詩人であり、彼の作品は「現代詩」の範疇に入っています。そして「現代詩は難解」が定評です。しかし、黒田三郎の詩は上記のように平易です。
 彼の詩を初めて読んだという方も次の詩ならご存じと思います。

  紙風船  黒田三郎

 落ちて来たら
 今度は
 もっと高く
 もっともっと高く
 何度でも
 打ち上げよう
 美しい
 願いごとのように

 フォークグループ「赤い鳥」が、後には分かれた「紙風船」がよく歌っていました。


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