『続狂短歌人生論』22「見捨てて当然の親」


○ 四タイプ それをあらわにする親は 捨てるしかない 捨てて当然


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年9月20日(水)第22号


 『続狂短歌人生論』22 見捨てて当然の親

 これまで共稼ぎと核家族によって子捨てが起こり、やがてそれが親捨てにつながる。だが、その思いは克服される必要があるとの趣旨で書いてきました。
 しかし、脅迫・批判・傍観・受容の性格や生き方を変えようとしない《親》であれば、我が子から見捨てられて何の不思議もない。
 今号は一転して「子が親を見捨てるのは正しい」との趣旨で論じます。
「なんじゃそりゃ」とつぶやきつつ、不愉快を感じつつ、反論できるならしてください(^_^;)。

 そして……
 読者が子どもの立場なら、こんな親は捨てていいんだと安心してください。
 読者が親の立場なら、遅くはない、自身の性格や生き方を認識してそれを改める契機としてほしいものです。
 なお、一部前著『狂短歌人生論』から取り込んだ部分があります。
 おそらくお忘れでしょうから、復習のつもりでお読みください。



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 四タイプ それをあらわにする親は 捨てるしかない 捨てて当然

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』22 見捨てて当然の親 】

 これまで親捨てのことを書いた。だが、四タイプに凝り固まった親は捨てるしかない
 捨てて当然、捨てられて自業自得の親たちだ。

 なぜなら、子どもの立場から見たとき、典型的な四タイプの親は自分を心から愛していると思えないからだ。各タイプの詳細を眺めてみよう。
 同時に典型的な四タイプの親の心の奥にひそむ《原感情》も探ってみたい。


 脅迫者

 脅迫者の親(特に父)は彼の言うことに全て服従する者だけを愛する人間である。子は親の命令に忠実に従い、その言うがままに行動して初めて親から愛される。
 ということは親の命令に従わなければ、あるいは親の理想とする(強い)人間にならなければ、子は愛されない。「お前は弱弱しい。もっと強くなれ。情けない人間だ」と罵倒される。

 特に自我に目覚めたとき、脅迫者の親が子のためにそうしているのではなく、ただ、自分の支配欲を満足したいために脅迫的態度を取っているに過ぎない――とわかったとき、あなたはこの親から愛されていないと確信する。

 あなたは最後に脅迫者の親を見捨てるだろう。そして、それは正しい。
 脅迫者の親の支配に服する限り、あなたは親が死ぬまで被支配者であり、自立できないからだ。

 脅迫者の親の心の奥に隠された原感情は何だろう。それは他者を支配していなければ、彼らの尊敬を獲得できないという恐怖である。暴力以外では愛と注目を獲得できないという不安である。
 さらに、他者に支配されないためには「力」しかないと思いこんでいる。人を支配する方法として脅迫者は暴力や威嚇・脅迫に頼り「力」を身につけたのだ。

 だが、周囲の人間は暴力に頼る彼から「愛されている」と感じることができない。なおかつ、暴力に頼る彼は誰からも愛されないだろう。「力」を持てば他者から愛され、尊敬されると考えたのは大いなる錯覚である。

 いや、それが錯覚でない時代もあった。人類が始まって以来、何千年、何万年に渡って、筋骨隆々、勇気ある脅迫者は人々の賞賛と尊敬を集めたのだ。
 現代に至っても戦時下ならば、平気で(敵国、他民族、他宗派の)人間を殺してくれる脅迫者は「英雄」ともてはやされるではないか。だが、平和時において、彼は嫌われ、用無しの人間と見なされている。

 批判者

 批判者の親もまた彼(彼女)の言うことに全て服従する者だけを愛する人間である。逆に言えば、批判者は自分の言うことに従わない者を愛することができない。
 特に批判者の批判は子どもにとって悪口と聞こえ、常に攻撃されていると感じる。十のうち八も九も悪い点に気づき、それを口にする人から、子どもは愛を感じられない。

 また、批判者の親の理想レベル、もしくは標準レベルに子が達していないと、この親は「もっとがんばれ、努力しろ」とハッパをかける。子が懸命に頑張ってあるレベルに達すると、さらに上を目指せと言う。それは子への限りない圧力、永遠に続くプレッシャーである。

 親の監視と批判に疲れ果てた子はあるとき気づく。この親は自分をあるがままに見つめてくれない、あるがままに愛してくれない。親の理想に合った(せめて親の思う平均点以上の子)だけを愛そうとしていると。

 結局、批判者の親とともに暮らし、親の言うがまままに行動すれば、自分は疲れるばかりだ――そう考えたとき、あなたはこの親から愛されていると思えず、いつか親を見捨てるだろう。
 そして、それは正しい。批判者の親と一緒に暮らす限り、あなたは自由にありのままに暮らせない。常に親の言うことを聞き続けねばならないからだ。

 批判者の親の心の奥に隠された原感情は何だろう。それは他者に批判されることへの恐怖である。批判されれば腹立たしいという不快である。だから、批判者は完璧を目指す。常に《普通》以上であろうとする。

 なぜなら最低限平均以上のことができれば人は批判しない。テストの点で平均点以上を取っていれば、(取りあえず)文句は言われない。満点(または九〇点以上)でも取れば悪口は封じ込められ、賞賛と尊敬がやってくる。

 脅迫者同様、批判者も他者と積極的に関わらなければ、愛と注目を獲得できないと思っている。そのための手段として批判者は「言葉(批判や悪口)」を頼りとしたのである。

 また、批判者の親はしばしば「世間の目」を恐れて子に対する
 これも子にとっては自分への愛と感じられない。親がただ世間に批判されたくないから、子に対してそのような言動(批判・小言)を言っているとしか感じられない。

 これを逆に言えば、親は世間の評判を獲得したい(「あなたのお子さんは素晴らしい。優秀だ。いい子だ」との賞賛を得たい)から、子に批判的態度を取っているとも言える。

 いずれにせよ、それらは全て「子ども自身のため」ではなく、親の欲求を満足させたいための子育てに過ぎない。子はそのような親の態度に愛を感じられるはずがないではないか。

 子にとって批判者の親と一緒に暮らすことはとても疲れる。特に完璧主義の親と一緒に暮らせば、自分も完璧であることを要求される。なんとしんどい共同生活だろう。

 親が有能な批判者だからと言って、子も有能とは限らない。能力の低い(あるいは、ただ学校の成績面では開花しないだけの)子は親の批判的態度に疲れ、生きていくことはいつも「ある目的に達するための努力」だらけで、ちっとも楽しくないと感じるだろう。

 また、能力のある子だって親の期待に応え続けていると、親の要求はますますエスカレートする。この親は平均点では喜んでくれない。七〇点以上、八〇点以上……それが最低レベルになる。
 子は親の喜ぶ顔見たさにいっそう努力する。八〇点に到達すれば九〇点以上。だが、九〇点を取ってもなお、この親は我が子がナンバー1になるまで満足しない。可哀想に、この子はいつか破裂しないだろうか。

 そして、最も悲惨なことはこの子が自分自身の意思でナンバー1を目指していると勘違いしていることだ。エリートコースを歩めればまだいい。だが、思わぬ挫折がやって来たとき、子は立ち直れない可能性が高い。

 もしもあなたの親が強烈な批判者なら、完璧主義者なら、もうできるだけ早く家を出た方がいい。
 この親は暴力を使わないだけ脅迫者よりましだ。しかし、あなたがあるがままに生き、人生を「じっくり味わって生きたい」と思うなら、こんな批判者の親は早く見捨てた方がいい。
(ただ、悲しいことにそんな親の元を離れても、世の中にはこの手の批判者がうじゃうじゃいるのだ)


 さて、被支配者タイプの傍観者、受容者はどうか。

 傍観者

 傍観者の親は子どもにとって最も愛を感じられないタイプである。
 なぜならこの親は根本的に我が子に関心がない。だから、子は何をやっても言っても、親の冷たいよそよそしさに苦しめられる。
 この親は良いことをやっても「あっそー」と言うだけ。ちっとも誉めてくれない。悪いことをやっても、正してくれない。あるいは誉めたり正したりが口先だけ、上の空だったりして一貫していない。

 やがて子は自分の親が自分にちっとも関心がないと悟る。こんな傍観者の親だったら、関わってくれるだけ批判者の親の方がましというものだ。子は傍観者の親から愛されているとまず感じないだろう。

 すると、哀しいことに子は親から愛されることを諦めてしまう。そして自立を始める。だから、傍観者の親を持つ子は最も自立が早い。そして、他のタイプでも親から愛されていないという思い込みが強い子ほど「自立」が早い。それは悲しい自立のドラマだ……。

 この早熟自立家の子は何でも自分でやる。親の援助を一切あてにしない。自分でバイトを探して自力で稼いで小金を貯める。
 成人となった後も他者の援助を期待せず大概のことを一人でやろうとする。しかもその能力を持っているだけに、この自立家はとてもさみしい人生を送ることになる。

 というのはこの子は「他者から愛されない」気持ちを引きずったまま生きることになるからだ。だって最も身近の親(や兄弟姉妹)から「愛されなかった」(と思いこんだ)子が、どうして「赤の他人の愛」を期待できよう。そんな子が傍観者の親を早々に見限り、親を捨てる(つまり、自立する)のは当然の帰結だろう。

 ゆえに、傍観者を親に持つ子は「親を捨てよう」なんて言う必要はない。この子は働けるようになったら、親を見捨ててほいさっさと出ていく。

 傍観者の親の心の奥に隠された原感情は何だろう。それは他者と関係を持つことへの恐怖である。関係を持ち、支配されることへの嫌悪である。他者の愛や注目を獲得したいと思っても関われば自分が傷つく。他者と関係を持たなければ(それが薄ーい薄ーい関係ならば)、傷つくことは少ない。

 だから、傍観者は「無関心」を演技する。他者と関係を持つと自分が「愛されていない、注目されていない、尊敬されていない」ことを知らされる。傍観者はそれを知って傷つくより、関係を持たずに傷つかずに済む生き方を選んだのである。そして、その態度は我が子に対しても適応されたのである。


 受容者

 さて、もう一方の支配される側に立つ受容者――。
 このタイプの親は子を優しく抱きしめ、全てを許し甘えさせる育て方をしやすい。だから、子にとって受容者タイプ(特に母親)は最も「愛されている」と感じられる親である。そして、受容者タイプの親もまたそのような育て方を最も得意としている。

 かくして受容者タイプの親は一見我が子をとても愛しているように見える。かつて「日本のお袋さん」は最も優しく子どもを愛してくれた――と中年以上の男性は今でも思っているだろう。

 ところが、この母に育てられた子は、受容者タイプの親が本当は「自分を愛していないのではないか」という疑念にとらわれる。
 なぜなら子が自立しようと思ったとき、このタイプは子の自立を認めようとしないからだ。そもそもかくまでに愛されると、「自立」自体とても難しくなる。

 この母は子ができることまで全て自分でやってしまう。着替え、洗顔、掃除、洗濯、いつまでたっても母が子のめんどうを見る。「嫌なことはしなくていい」と言い、少しの悪も大目に見るし、限りなく甘えさせる。子は母の愛を潤沢に感じるだろう。
 ああ、この優しい母の懐から出ていきたくない。子はそんな風に感じる。だから自立が最も難しい。

 だが、どんな子でも必ず自我に目覚める。受容者を親に持つ子だって自我に目覚め、親から独立しようと思う。
 そのときこの母は眼前に立ちふさがる。いや、背後から子を抱きしめ、べったり巻き付いて離れようとしない。
 受容者タイプの母は子に遠くへ行くなと哀願し、危険な仕事につくなと頼み、子の進路や生き方に様々に干渉してくる。それは時に涙もろく、ときに激しい言葉で絡む。

 やがて母が子の恋に干渉するようになり、「あなたにふさわしい嫁(や婿)を探してあげる」と言うに至ってようやく子は気づく。母は自分を縛り付け、彼女の意のままに生きさせようとしていると。

 母のいろいろな(愛情あふれた)言動は子のためというより、母自身のためだったのではないか。母は子がいなくなればさみしいから、自分の元を離れないでくれと哀願するのではないか――子はそう確信する。
 確かに受容者の母は優しい。子は母の限りない愛を感じる。だが、この母と一緒に暮らしている限り、自分は自立できないと思う。

 こうして、子は母から逃げる。この母から逃げ出さない限り、決して自立できないからだ。もしも母に取り込まれたままだと、この子は自立できずに終わるか、あるいはどこでどんな爆発行動を起こすか、見当もつかない。

 受容者の親の心の奥に隠された原感情は何だろう。それは他者に捨てられる恐怖である。いつか捨てられるのではないかと常に不安を感じている。受容者タイプは脅迫的・批判的に育てられ、他者の支配に従う生き方をしてきた。ゆえに、受容者は他者に服従することが愛されることだと思い込んでいる。

 受容者は相手の言うことに従わなければ愛されないという不安にいつもおびえている。だから、受容者は他者にすり寄り、何でも相手の言うことを聞こうとする。
 それが子の育て方にそのまま出る。よって受容者タイプのお母さんは外見上とても子を愛しているように見える。だが、実は彼女が本当に愛しているのは自分自身である。自分だけが我が子から愛されたい。そう思っているから子の全てを許し、甘えさせるのである。

 だから、この母は子が離れていくのを許さない。子が不幸に陥る(つまり、自分が不幸になる)と思われること(仕事・結婚等)に猛反対する。受容者タイプの母は子ども自身の幸福を願っていない。子を自分の懐に抱き続けることによって、自分が幸福であることを意図しているのである。

 これは一人の男性に全てを捧げた水商売の女性が男から「捨てられる」ドラマとよく似ている
 昔「あなた好みのおんなになりたい」なんて歌があった。女性は男にすがりつき、「こんなにあなたを愛し、全てを捧げ、あなたの言うがままの女になっているのに、何が不満なの、なぜ逃げていくの」と泣き叫ぶ。

 だが、その愛し方はホントは相手のためではない。「自分が男に愛してほしい」から、全てを捧げ、言うがままになっているだけである。自己を捧げ、献身的に奉仕しているのは相手の男のためではなく、男が「自分を最も愛してくれる」ことが目的である。
 つまり、捨てられたくないから、永遠に愛して欲しいから、男に全てを捧げているのである。それは男のための愛ではない。自分のための愛である。

 男がそのことに(何となく)気づき、違うタイプの女性が現れたとき、この悲喜劇ドラマが始まる。
 違うタイプの女性とは「男好みの女」ではないし、そんな女になろうとする女性でもない。つまり献身的に全てを捧げようとする女性ではない。ただ男を愛し、男から「愛されていることを信じられる」女性である。

 結局、捨てられやすいタイプの女性の愛とは、何をやってもどんなことが起ころうとも「相手が愛してくれる」ことを信じた女の愛ではない――のである。

 彼女の心の中には恋人から愛されないのではないか、いつか捨てられるのではないかという不安と恐怖が常にある。それは何をやっても、どんなことが起ころうとも「男性が愛してくれる」ことを信じられる愛ではない。

 もしもそれを信じられるなら、相手の言うがままの女である必要はない。高い買い物やプレゼントで相手の関心を引き留める必要もない。全てを捧げ、自分を犠牲にすることもないではないか。なぜなら、そんなことをしなくったって「相手は自分を愛してくれる」のだから。

 それゆえ、このタイプの恋愛をしがちなのは受容者タイプに多い。だが、他タイプだって相手を愛するあまり盲目的になれば、捨てられる不安と恐怖にとらわれ、全てを恋人に捧げる過ち(錯覚)に陥ってしまいがちである。
 相手から捨てられる恐れ、愛されないのではないかという不安に基づく愛は「自立した人間」の愛ではない。それは他者に依存した愛である。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:このような記述は少なからず心をぎすぎすさせ、不安な気持ちに襲われるかもしれません。読み終えて不快感を覚えたなら、お詫びします。

 しかし、本稿第2号(狂短歌「四タイプ 死を前にして愛されぬ 地獄の苦しみ感じつつ逝く」)で示したように、地獄を見せなければ、人はなかなか変わってくれません。

 人は四タイプのいずれかに入るので、読者各位は「確かに自分にもこのような面はある」と感じつつ、「しかし、それだけではない」ともつぶやいたはず。
 読者はその違和感について説明できないかもしれません。が、私は説明できます(^_^;)。

 それは「私はこの子を愛している」との思いです。愛しているから時には暴力的になり、批判的になり、傍観したり、全て受け入れている……ということです。
 このへんのことは今後さらに深掘りする予定です。

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