『続狂短歌人生論』23「隠された原感情」前半


○ 四タイプ 源感情の恐怖とは 死を意識するときに湧き出す


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年9月27日(水)第23号

 『続狂短歌人生論』23 隠された原感情 前半

 前号は親が子育ての際四タイプの原性格を露にするような人なら、「見捨てられて当然」と書きました。
 しかし、困ったことに、子どもは自ら働けるようになる年齢まで親と付き合わざるを得ません。親が暴力的な脅迫者であろうと、完璧主義の批判者であろうと、無関心な傍観者であろうと、当分我慢しなければならない。

 そもそも自分の親しか見ていないから「親とはみんなこうだろう」と思いがち。もしも暴力的な親、批判的な親を尊敬していれば、自分もそうなりたいと思うでしょう。大きくなって友達の親や大人を知るにつれて「自分の親はおかしい」と思い始めます。
 親が受容者の場合は自分を甘やかして何でも受け入れてくれるありがたーい親だから、ある時期までは捨てようなどと思いもしない。しかし、最終的には捨てなければ、自立できないと気づきます。

 子どもに尊敬されないのは傍観的な親、受容的な親です。ただ、親が傍観的だと干渉されないので「親は親、自分は自分」と思って取りあえず不満を感じない。何か言われたときはシカトするだけ。
 受容者に育てられた子どもは自分が主人で親は召使みたいなもんと思っているので、こちらも不満はない。しかし、長じて「自分は王様だ、女王だ。お前らは下僕だ」という独裁的人間になりやすい。
 すでに子供のころから暴力的でケンカの強い子、逆にすぐ泣く弱弱しい子、口から先に生まれたかのように理屈っぽい子、一人遊びが好きな子など四タイプの萌芽が見られる。源流は全て親にあります。

 ところで、最近「一読法で読んでいますか」と書いていません。
 すると、おそらく読者各位は「さーっと読み、ぼーっと読んでいるであろう」と推測します(^.^)。途中で立ち止まることなく、「あれっ?」とか「よくわからないなあ」などとつぶやくことなく、文字を目で追うだけ。おやおや。

 前節には「何だかよくわからない」とつぶやいてほしかったところがあります。それは四タイプの「原感情」について語ったところです。

 書物を読むときは最初から「鉛筆を握って《?》や《!》を書き込み、重要と思われる部分に傍線を引き、立ち止まってちょっと考える」――これが一読法の基本。本稿はパソコン画面で読むから、こうした活動はしていないと思います。
 しかし、《その気持ちを持ってゆっくり、考えつつ読む》ことならできます。特に重要な部分は漢字二文字の熟語であることが多いので、その部分だけは二度読みするのです。ぜひ、この習慣を身につけてください。

 前号「四タイプの原感情」について書かれたところは以下のようになっていました。

 [四タイプの原感情]

 脅迫者=他者を支配していなければ、彼らの尊敬を獲得できないという恐怖。
     暴力以外では愛と注目を獲得できないという不安。

 批判者=他者に批判されることへの恐怖。
     批判されれば腹立たしいという不快。

 傍観者=他者と関係を持つことへの恐怖。
     関係を持ち、支配されることへの嫌悪。

 受容者=他者に捨てられる恐怖。
     いつか捨てられるのではないかと常に不安を感じている。

 一度だけさーっと通読したとしても、頭の片隅に残っていると思います。
 改めて再読してみると「?」と思い、いろいろつぶやきたくなるのではないでしょうか。
 よって、今号はその「つぶやき」に対する回答です(^_^)。

 なお、いつもの悪い癖で長くなったので、後半は次号といたします。



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 四タイプ 源感情の恐怖とは 死を意識するときに湧き出す

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』23 隠された原感情 前半 】

 前号にて四タイプの心の奥にある原感情を追求しました。
 以下その部分(をまとめた二字熟語)を抜き出してみると、

 [四タイプの原感情]
 脅迫者=恐怖と不安
 批判者=恐怖と不快
 傍観者=恐怖と嫌悪
 受容者=恐怖と不安

 どうでしょう。突っ込みどころ満載ですね(^_^;)。
 ・四タイプ全てに「恐怖がある!?」
 ・脅迫者と受容者は《恐怖と不安》で「同じなのか?!」
 ・そもそも「原感情」ってなんだ?
 ・恐怖はタイプ別に説明されていたが、「恐怖」と言えるかなあ?

 ……などとつぶやき、疑問を抱いてしかるべきところです。
 特に最後のつぶやきはかなり正当で、たとえば、(くどくて恐縮ながら)「恐怖」のところを、以下のように「不安」に置き換えてみると、しっくりくるはずです。

 [四タイプの原感情](恐怖を「不安」に換える)

 脅迫者=他者を支配していなければ、彼らの尊敬を獲得できないという不安。
     暴力以外では愛と注目を獲得できないという不安。

 批判者=他者に批判されることへの不安。
     批判されれば腹立たしいという不快。

 傍観者=他者と関係を持つことへの不安。
     関係を持ち、支配されることへの嫌悪。

 受容者=他者に捨てられる不安。
     いつか捨てられるのではないかと常に不安を感じている。

 こう書き直すと、疑問も違和感もなく読めるでしょう。そして「四タイプに関係なく、人はみなそのような不安を感じている」と納得できると思います。

 また、批判者と傍観者のところには「不快」と「嫌悪」が入っています。
 実はこの二つの感情は脅迫者と受容者のところにも入り得る――そこに書かれていい感情です。
 たとえば、脅迫者は人が自分に従わないと不快を感じ、強くなれない連中、自分に反対する連中に嫌悪を抱きます。だから、脅迫者は相手に対して暴力を振るい、暴言を吐き、それをほのめかして服従させようとします。
 かたや受容者はにこにこ微笑んで人を受け入れ、服従しているけれど、内心はそのことに不快と嫌悪を感じている。だから、受容者は内心の不満を愚痴で吐き出し、自分への迫害を涙ながらに訴えます。

 となると、「おいおい。それじゃあ原感情って四タイプそれぞれにあると言うより、人はみんな持っているのであり、結局それは不安と不快、嫌悪じゃないか」と言いたくなります。

 その通り、とお答えします(^_^)。

 普通の人はもちろん、どんな聖人君子や敬虔な宗教家であっても、人は日々不安と不快、嫌悪を感じている。それを感ずることなく生きることはかなり難しい――と言えば、「確かに」と同意されるはず。

 ただ、本物の聖人君子、心底敬虔な宗教家ならその感情はないか、克服されているかもしれません。
 心底敬虔な宗教家ならいらっしゃると思います。しかし、古代から現代まで聖人といえる君子(独裁者)は存在したことがない。また、信者を献金や霊感商法でだますニセ宗教家ならたくさん存在する(と思います)。

 余談ながら宗教とは人の不安を安心に変える、変えてくれるおクスリみたいなもの。しかし、安心を得るために「たくさんの献金が必要です」と言うようでは、サギだと思った方がいいでしょう。
 しかもこのクスリは依存性があるから、せっせせっせとお金をつぎ込む。それは正に覚醒剤や麻薬に手を染めたヤク中と同じ――と言ってはさすがに言い過ぎ?

 それはさておき、ここでとても記憶力のいい人は本稿『続狂短歌人生論』の以前の記述を思い出したかもしれません。それは第3号「四タイプの不快といら立ち」、第4号「四タイプ心の基地と武器です(おヒマなら再読をお勧めいたします)。

 そこに掲載した狂短歌は以下、

 3号「四タイプ常に不快を感じてる その源を探ってみれば」

 4号「四タイプ 人と闘う基地と武器 心はみんな弱いニンゲン

 3号では四タイプの不快感とかいら立ちを詳しく眺めました。漢字としてまとめれば「不快」です。つまり、「四タイプはみんな不快を感じている」ことはすでに指摘していたわけです。

 では、前号ではなぜ脅迫者と受容者のところには「不快・嫌悪」を書かず「不安」だけとし、批判者のところは「不快」だけ、傍観者のところは「嫌悪」だけを書いたのか(これもつぶやいていい疑問です)。

 そのわけはこの三つの感情を比較すれば、脅迫者と受容者は不安が最も強い。一方、批判者は不快が最も強く、傍観者は嫌悪が最も強い――それを言うためでした(この詳細はいつかまたといたします)。

 4号では四タイプが心に基地をつくり、武器を行使していると語りました。
 脅迫者は暴力・威嚇という鉄のハンマー、批判者は批判・小言という木のとんかち、傍観者はオープンセットと仮面を付け替える、受容者は微笑と服従。各タイプはそれぞれ《武器》を行使して人と交流している……。

 その根底には「弱いニンゲンが隠れている。各タイプは裸にすれば傷つきやすい心を持っている」との趣旨でした。
 ただ、4号において各タイプを解説したところでは「弱いニンゲン」について触れていません。それは四タイプ全てに共通するからです。なので、最後に以下のように書きました。

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 冒頭にあった全体の狂短歌、下の句を覚えていますか。
 上の句は……「確か心の基地と武器だったな。はて? 下はなんだっけ?」と思い出せないのではないでしょうか。すぐに答えが出た読者は一読法2段クラスかも(^_^)。そこでしっかり立ち止まったことを示しています。

 もっとも、記憶に残っていなくても不思議ではありません。四タイプの心の基地と武器については大いに語っているけれど、下の句に関してはあまり触れていないからです。ごめんなさい(^_^;)。

 下の句は「心はみんな弱いニンゲン」とありました。
 もちろん傍観者・受容者の《弱さ》については語っています。しかし、脅迫者・批判者に関して「弱いニンゲン」との言及はありません。

 なぜ心に基地を作り武器を持って戦うのか。鎧を身に着け、棍棒を持ち、仮面をかぶりオープンセットを構築するのか。
 戦うためです。ほんとは戦いたくない傍観者だって戦うために仮面を身に着けた。受容者の微笑みだって精一杯の武器だった。

 誰と戦うのか。もちろん相手は周囲の人間たち。
 基地を取り払い、武器を捨てれば、そこにいるのは裸のニンゲン

 弱弱しい人間はいつも負ける。「強い人間にならなきゃ」と決意して武器を持ち基地をつくってきた。幼いころから。
 親と戦い、兄弟姉妹で戦い、友人と戦い、初対面の人間と戦ってきた。戦いに力で勝てば脅迫者となり、言葉で勝てば批判者となった。負けたくないから傍観者になり、負け続けようと受容者になった。悲しいかな、みんな阿修羅のように戦うしかなかった。

 そろそろ「確かに自分は戦ってきた。戦うことに疲れている」と感じるべきではないか。お互い弱いニンゲンだと認め合うべきではないでしょうか。

 四タイプについて「原性格」と書きました。だが、脅迫も批判も傍観も受容も、それは自分の本質ではない。人と戦うために身に着けた武器である。基地を作って心の弱さを囲っているに過ぎない――そのことに気づくべきだと思うのです。(「第4号」より)
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 四タイプを裸にしてみれば、心はみんな弱いニンゲンであること。抱えている感情は不安であり、不快、嫌悪である。人はそれを暴力や批判、傍観や受容と言うドラマ・演技によって表現している。
 3号、4号、そして前号。原感情などと書きつつ、言いたいことはそういうことです。

 ただし、前号の記述にはこれまでにないものが混じっています。
 それが「恐怖」です。

 感情を表す三つの言葉――不安・不快・嫌悪に関してはまーなんとなくわかる。
 しかし、「我々の心の奥に恐怖なんかあるかなあ」と感じます。
 むしろそうつぶやいてほしい。と言うのは「新しい言葉(概念)として恐怖が登場したのか」とわかるからです。

 親切な筆者なら「今までは人の原感情として不安と不快、嫌悪について語りました。今号はそこに新しく《恐怖》を追加しますよ」と書くでしょう。
 私は意地悪な筆者なので突然新しい言葉を読者に突き付ける。つまり、前号「原感情」について語られたところは疑問やつぶやきを吐き出すよう仕掛けられた罠というわけです(^_^;)。「どうして突然恐怖が出てきたんだ?」とつぶやいてほしかったのです。

 ここで「恐怖なんかあるかなあ」とつぶやかず、「確かに恐怖がある」と思った方もいらっしゃるでしょう。そのような人はかつて親から虐待されるとか、学校の先生から殴られたとか、いじめられたとか、悲惨な体験の持ち主である可能性が高い。対人恐怖症という言葉もあります。普通そうしたことがなければ、「恐怖なんてあるかなあ」とつぶやくでしょう。

 かくして本号があります(^_^)。「恐怖」についてもっと詳しく語るということです。
 [お気づきのように、ここまでは序論、やっと本論開始です]

 さて、本稿読者はおそらく成人が多いと思います。
 すでに働いているか、リタイア後か。一人暮らしか、誰かパートナーがいる共同生活か。子どもや孫とともに暮らす家族生活か。
 そして、日々の暮らしの中で外に出れば、上司・同僚・部下、先輩、後輩、友人、恋人、先生・児童生徒として生きている。通勤通学途中で見知らぬ他人と肩突き合わせることもある。この中で日々不快、嫌悪、不安を感じているでしょう。

 一方、家族との共同生活においても毎日父や母、祖父祖母、子どもとの間でやはり不安、不快、嫌悪を感じているはず。その中で「怖い」と感じることはあまりないと思います。
 これを短くまとめれば、《日常生活》において恐怖を感じることはめったにない

 と来れば、我々が恐怖を感じるのは「非日常生活において」ということになります。

 たとえば、地震・津波・豪雨・河川の氾濫・土砂崩れなどで自宅が破壊されたり浸水する。東日本大震災のとき、地震の一撃をまぬかれて外に出た。車で逃げたり、高台までの道を懸命に走りつつ背後から津波が迫っている。
 現地にいた人はもちろん、映像を見た我々が感じたのは「恐怖」。「死ぬかもしれない」という怖さです。それ以後も全国各地で生死にかかわる自然災害が発生しています。
 これは四タイプ分類とか血液型分類なんぞ全く関係ない。老若男女、大人も子供も等しく感じる。だから、私たちの心の底には原感情として《恐怖》があると書いたわけです。

 では、ひるがえって日常生活において恐怖を感じることはないか――と問えば、私はあると思います。

 長くなったので、日常世界における恐怖は次号後半に回します。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:「おいおい。ほとんど序論で終わっているじゃないか」とお叱りを受けそうなていたらく(^_^;)。
 ただ、ここで中断してもいいなと思いました。非日常世界における「恐怖」については最後に語っています。狂短歌に書いたように「死を意識する」ときに湧き出す。これはみなさん同感されるでしょう。
 そうなると、恐怖って非日常世界ならあるけれど、日常生活においてはないと思いがち。
 私は次号において「日常世界における恐怖、特に子どもが感じる恐怖」について語ります。

 読者各位も「それって何だろう」と考えてみてください。自分の子ども時代を振り返ればいいのだから簡単なはず。
 ちなみに肝試しの怖さではありませんよ。あれって「きゃー怖い〜」と叫びながら、みんな楽しんでいますからね。
 もしも「子ども時代に恐怖を感じたことなどないよ」とおっしゃるなら、いい親御さんに巡り合えたと言うか、もう忘れてしまったのかもしれません(^.^)。

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