『続狂短歌人生論』24「隠された原感情 後半」


○ 見捨てられひとりぼっちになる怖さ 子どもがいだく底なしの恐怖


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年10月11日(水)第24号

 『続狂短歌人生論』24 隠された原感情 後半

 前号の宿題、日常生活における「恐怖」について考えてみたでしょうか。
 非日常世界においては「死ぬかもしれない」と思うとき、恐怖が湧いてくる。
 では日常生活において恐怖はないだろうか――と問えば、私はあると思います。
 今号は隠された原感情のうち「恐怖」について語る後半です。
 後半と書きながら、実は独立しているので狂短歌を掲げています。
 子どもが感じる恐怖を詠みました。「これが答えか!」とつぶやき、ある詩を思い出してほしいものです。

 [お詫び]
 今号は本来10月04日(水)に発行予定でした。が、うっかり手続きを忘れました。
 気づいたのは3連休初日の土曜日です。どうしようか迷ったけれど、
「ええい。一週あけてまえ(^_^;)」てなもんで、本日の発行と相成りました。
 ご寛容願います。いつもの「悪いくせ」で長いです。心してお読みください。



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 見捨てられひとりぼっちになる怖さ 子どもがいだく底なしの恐怖

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』24 隠された原感情 後半 】

 前号最後にちょこっと述べたのが「非日常世界における恐怖」でした。これは四タイプ分類とか血液型分類なんぞ全く関係ない。老若男女、大人も子供も等しく感じる恐怖です。

 では、ひるがえって日常生活において恐怖を感じることはないか――と問えば、感じるときがある。
 それは突然訪れる事態と言えるでしょう。平和で穏やかに暮らしている限りは感じない。だが、突然やって来る出来事が我々を恐怖におとしいれる。
 大地震や津波、火山の噴火、台風、豪雨など自然災害は日常生活に突如起こる事態です。また、(めったにないことながら)強盗とか盗難、性被害も恐怖を感じさせる。近年では高速のあおり運転など、被害者の立場ならきっと恐怖を覚えるでしょう。
 そのように日常が突然非日常に転換する際の恐怖ならわかります。ここではもっと日常的な、毎日の生活で起こる恐怖感を取り上げたい。頻繁に、もしかしたら毎日のように感じる怖さです。

 私は以下のように三点考えました。
 1 脅迫者・独裁者に対するときの怖さ
 2 一人ぼっちになったときの怖さ
 3 子どもが親に捨てられると感じるときの怖さ

 それぞれについて説明しましょう。

1 脅迫者・独裁者に対するときの怖さ

 暴力をふるい、人を威嚇し、脅迫的な言葉を吐く。そのような脅迫者に対すると、私たちは彼(彼女)の機嫌を損ねないよう、何事も服従しようと思います。その根底には「殴られると痛い、怖い」感情があるからです。脅迫者を怒らせてもし殴られたら、打ち所が悪ければ「死ぬかもしれない」という感情に支配される。これは恐怖です。

 家庭において父や母が脅迫者になる。あるいは、(家庭内暴力のように)子どもが脅迫者になることもある。一緒に暮らす人は服従するしかない。怖いからです。
 そして、職場において上司、最終的には社長が脅迫者・独裁者になれば、部下は全て服従するしかない。たとえば、今年あからさまになった中古販売業者ビッグモーターの不正やパワハラ。芸能事務所ジャニーズの独裁的社長による男の子への性加害とは正にこれでした。

 また、政治の世界も独裁者が出現して権力を握ると、独裁者に逆らえば逮捕され、刑務所にぶちこまれる。反対の声を上げれば暗殺されることだってある。その恐怖から国民は全員従う。ロシア、中国、北朝鮮を見ればよくわかります。

 残念なことに、今世界の半数は個人の独裁か軍の独裁、いずれにせよ脅迫者が支配する国です。民主主義はだらだら話し合うばかりで決定が遅いか、なかなか決まらない。すると人々は一人が素早く決めてくれる独裁にあこがれる。かくして独裁者を支持する。
 独裁体制が完成すると自由に発言したり行動できない。特に当局やリーダーを批判できないことに気づくけれど、どうすることもできない。独裁者が「戦争をするぞ」と決めたら、兵士となって戦地に行くしかない。
 独裁者が「聖人君子となって国民全体のことを考え仁政を敷いてくれる」と思うのは幻想です。
 独裁者の心の奥に「恐怖」があることは彼らの行動と顔を見ればよくわかります。家臣に裏切られるかもしれない、敵に殺されるかもしれないといつも疑心暗鬼で生きています。
 だから、独裁者は恐怖政治を敷く。たった一人の反対者が怖くて仕方ないから、全服従を求める。

2 一人ぼっちになったときの怖さ

 これは一人暮らしのことではありません。たとえば、アパートや一軒家の自宅で一人暮らしをしている人が「誰にも知られることなく亡くなった」と時折報道されます。死後何日も経って発見されるなんて誰だっていやでしょう。
 その度に独居生活者は「私にも同じことが起こるかもしれない」と感じる。しかし、これは不安であって恐怖とまでは言えない

 私事ながら私は生涯独身の一人暮らしです。ただ、私にはこの不安はありません。次のように考えているからです。
 ある日あるとき一人暮らす部屋で突然倒れて全く動けない。電話に手が届かず声も出ない。そうなったらどう思うか。「ああ自分もとうとう死ぬ時が来たか。まあ一人暮らしを選んだから仕方ないな」とあきらめるでしょう。あきらめるしかありません。

 そして、動けないまま呼吸が止まり、心臓が止まる。脳科学によると人が死ぬときは快楽物質のドーパミンがどばどば出るそうです。亡くなった人の顔が穏やかなのはそのせいだとか。
 呼吸が止まっても心臓は同時に止まらない。数分後に心臓が停止するのはドーパミンが出ている時間ではないかと思います。つまり、最後はこの上なく気持ちよく眠りにつくイメージ。だから、恐怖を感じることなく静かにあの世に逝く。

 死んでしまったら、「後のことは知ったこっちゃない」というか、死人に自分の処理はできないので、誰か早く見つけてと祈るしかない。早く発見できないのは社会の問題であって別に私の落ち度ではない……とまーこのように思っているので、私はこの不安を感じません(^_^;)。

 閑話休題。
 ここで言う一人ぼっちの怖さとは無人島か山奥で一人暮らす場合とも違います。
 子どもの頃ダニエル・デフォーの『ロビンソン漂流記』をわくわくしながら読んだことがあります。自給自足の漂流生活は怖さよりむしろ楽しそうだと感じたものです。

 無人島の一人暮らしとて普段はない。やはり非日常の世界でしょう。では、日常生活において一人ぼっちになったときの怖さとは何か。それは近くに人がいるのに、助けを求めることができない。あるいは、助けてくれない。孤立無援の怖さと言ったら、わかるでしょうか。「それって一人暮らしのことじゃないのか?」とおっしゃるかもしれません。

 違います。一人暮らしで突然倒れ、歩けなくとも手や体が動き声が出れば、119番に電話して救助を求めることができます。日本では救援隊が必ず駆けつけてくれます。電話が通じなければ、這ってでも外に出て隣人や通行人に助けを求めるでしょう。しかし、もしも救助が来ず、誰も助けてくれなければ、これは恐怖です。

 最近長野と富山の県境にある北アルプスで遭難者が行方不明になって8日後に救助されました。食料や水など持ちこたえたのでしょう。ただ、驚くのは5日後に声が聞こえる、まだ生きているとわかったのに、助け出されるまで3日かかったことです。
 そこは「不帰嶮(帰らずのけん)」と呼ばれる難所で、谷底(か中腹)にいる遭難者の声が山に反響して発見できなかったのです。この遭難者は3日間ひとりぼっちに耐え、死ぬかもしれない怖さを感じ続けたと思います。
 私は一度だけこれに似たひとりぼっちの恐怖を体感したことがあります。

 今から20年ほど前のこと、私は空海が二度行った百万遍修行を追体験しようと、四国の太龍山と室戸岬を訪ねました。なぜ二度だったのか。なぜ太龍山であり、室戸岬だったのか解明されておらず、現地に行ってみようと思ったのです。

 空海は平安遷都の数年後行き詰った状況から脱却しようと短い真言(注※)を一日一万回となえる百万遍修行に入ります。22歳の時は徳島県にある太龍山の聖地「南の舎心岳」で。これだけではまだ足りないと思って翌年室戸岬の双子洞窟まで行き、再び百万遍修行を実践する。そして「明星が口の中に飛び込む」神秘を得てようやく仏教に突き進むことを確信できた。
 ――とまとめましたが、これは私も現地に行って追体験して得た結論です(詳細は『空海マオの青春』論文編「百万遍修行その4」42号〜44号参照)。

 百万遍修行は深夜東から南が見渡せる野外で開始します。明けの明星を見ながら実践するからです。そして、一万回を達成して終わります。
 よって追体験したければ、深夜その場所に行かなければなりません。私は二日にわたって午前2時頃「草木も眠る丑三つ時」に空海が修行した山に登り、室戸岬の双子洞窟に入りました。

 太龍山も双子洞窟も昼間場所を確認するため、宿から歩いて行きました。
 室戸岬の双子洞窟は宿から徒歩10分ほど。太龍山は麓の駐車場から山道を歩き、太龍寺を経て一時間弱で山腹にある「南の舎心岳」に到着。そこは巨大な磐座いわくらがある断崖の頂点でした。
 東に四国の連山を見渡せる絶景で、崖の突端に空海座像がありました。観光の名所として道は整備されていたし、「これなら深夜来るのはさほど難しいことではない」との感触を得て宿に戻りました。

 そして、深夜また出かけました。そのとき感じたのは鳥肌が立つほどの恐怖です。まず宿から車で駐車場まで行くとき、一車線の狭い道を走りながら「脱輪したらしばらく発見されないだろうな」と不安を感じました。そして、駐車場からペンライトを灯して南の舎心岳まで行くとき、何度も立ち止まり、総毛立つほどの怖さを感じました。

 最も困ったことは妄想が湧いて仕方がない。山道の途中にあった仏像が「動き出すのではないか」との思いにとらわれたのです。昼間だったら「そんなバカな」と言える。しかし、深夜一人で山中にいると、「もしかしたら本当に動き出すかもしれない」との想像を否定できません。こんなところ来るべきじゃないと思い、何度も飛んで帰りたくなりました。

 翌日深夜室戸岬の双子洞窟に入ったときは前夜と違う恐怖にとらわれました。
 こちらも昼間洞窟の中に入ったときは何でもなかったし、深夜でも洞窟の外は灯台の灯火で満月の明るさがありました。ところが、洞窟の中に入って十数歩、ペンライトを消すと目の前は真正の闇に変わります。すると、もう一歩も前に進めません。

 明星を見ながら真言をとなえるには入り口を見なければならない。しかし、洞窟の奥に背を向けることが怖くて怖くてぶるぶる震えました。背後から何者かに襲われるような恐怖を感じたのです。振り返ったらそこに魔物がいるのではないか、との妄想から抜け出すことができませんでした。追体験をするという目的がなかったら、すぐに宿に戻ったでしょう。

 昼間だったら、山に登っても洞窟に入っても、観光客がたくさんいたし、恐怖なんぞ感じなかった。深夜一人で行動したとき、とてつもない怖さを感じたのです。そのとき「誰かと二人で来たら、こんな怖さは感じなかっただろうな」と思いました。
 太龍山では近くの寺に人が寝ています。室戸岬では10分歩けばホテルがあった。しかし、自分勝手な行動なので、人に助けを求めることはできません。

 ちなみに、私はある方法でこの怖さを克服しました。ここでは割愛します。興味のある方は当該ページをご覧ください。

 もちろんこれも深夜であるし、一人という非日常の世界と言えるかもしれません。ただ、四タイプに関係なく、我々は原感情として《恐怖》を持っている。それは一人ぼっちになったときに噴出するものだと痛感した体験でした。

 そして、ここにこれを書いたのは次の「3 子どもが親に捨てられると感じる」根底に「恐怖」があること、一人ぼっちにされることは不安以上に恐怖であることを言いたいためです。

3 子どもが親に捨てられると感じるときの怖さ

 余談ながら、大人と子供の違いについて考えたことがありますか。
 私は感情を露にするか、隠すかの違いではないかと思います。
 元となる感情はもちろん不安であり、不快・嫌悪。人は赤ん坊として生まれ、幼児期、子ども時代を経て少年少女から大人になる。不安・不快・嫌悪の感情を隠すことができないのが子どもであり、それを隠す――隠すことができるのが大人ではないでしょうか。

 赤ん坊は腹が減っては泣き、くそをしては泣く。抱いてほしいとぐずり、親が構ってくれないと泣く。子どもは好き嫌いが激しい。ピーマン・ニンジン・シイタケ・トマト……嫌いだと言い張って食べない。学校へ行けば「あの先生は嫌い」ともらす。嫌いなこと妙なことをきっかけに相手とケンカすることもある。男だとののしり合ったり、取っ組み合いのケンカになることもある。大人はそれを隠す。隠して人と付き合う。

 だが、大人であっても、職場など外では隠すけれど、家庭では隠さないことが多い。だから、夫婦喧嘩や親子喧嘩が起こる、と言うことができます。
 夫婦・親子は怒ったり、腹を立てたり、しかめっ面になったり、不平や文句を垂れる。一緒に暮らしている限り、感情のぶつかり合いは避けようがない。これは四タイプによって微妙に違うので、これまでそのように解説しました。日常世界の悩みの種であり、不快、不安、嫌悪を毎日のように感じ、それを顔面(!)や言葉で表していると言えるでしょう。

 自分の子どもの頃を振り返ってみてください。赤ん坊から幼児の頃、最も大きな、そして隠された感情に「恐怖」があったと気づくはず。
 それは生存に関わっています。端的に言えば「親から見捨てられたら、生きていけない」という感情です。これは不安とか不快だけでなく、死につながる恐怖です。

 我々は子ども時代、親の言うこと(命令・指示)をほぼ聞きます。
 途中で駄々をこねたり、泣いたり、地団駄踏んだとしても、最終的には言うことを聞く。

 たとえば、スーパーやある種のお店の前でよく見かける光景があります。
 親子らしき二人から数名が立ち止まっている。子どもが菓子とかおもちゃを「買って」と言う。親が「ダメだ」と言うと、子供は「買って買って」と地団駄を踏み、時には床に座り込んでぐずる。泣き出すこともある。
 親が仕方ないなと買ってあげれば、闘争(?)はそこで終わるけれど、親があくまで買ってあげないとばかりに「じゃあそこにいなさい」と置いて行くことがある。するとだいたいの子供は降参して親を追っかける……。

 このとき子どもに沸き起こる感情は不安、不快、嫌悪でしょうか。最初はもちろんそう。その感情を表現することで親に「言うことを聞かせよう」とするわけです。
 しかし、親が聞いてくれないだけでなく、自分を置き去りにする。このとき湧き出す感情が「恐怖」だと思います。
 実は子どもにとって最も怖いことは親から「言うことを聞かないなら出ていけ」と言われること。捨てられることです。

 冒頭の狂短歌を読んで黒田三郎の詩を思い出したでしょうか。第17、18号にて詩集『小さなユリと』について語りました。18号では「ぼくを責めるものは」を取り上げ、ユリちゃんが幼稚園にあずけられたある朝、激しく泣いてお父さんを呼ぶのはなぜか、問題としました。

 以下(長くなって恐縮ながら)そのときの記述を再掲します。
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(お父さんは夜寝入ったユリちゃんを残して外に酒飲みに行き、帰って来ては「ユリ―ユリ―」と起こす。それはさみしいから)もちろん小さなユリちゃんに、お父さんのそんな気持ちなどわかるわけがない。だから、泣くしかない。しかも、父は自分を置き去りにして酒を飲みに出ていった
 ユリちゃんの心には不安がどんどん芽生えてくる。だから「あの健気なユリはもういない/いっしょにふとんにはいるとき/今ではきっと念をおすのだ/夜中にどっか行っちゃいやよ」と。
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 ここの部分ユリちゃんに芽生える感情は「不安」です。
 そして以下、私はユリちゃんに湧いた感情は「恐怖」であると語りました。
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私:ユリちゃんは「夜中にどっか行っちゃいやよ」と言い、「幼稚園へ送ってから勤めへゆく父親を/今では泣いて呼び返す」。「父親を呼ぶユリの泣声は/一丁行っても二丁行っても僕を追いかけてくる/五人の保母さんが代る代るなだめてもすかしても/二階へ連れてっても砂場へ連れてっても/小さなユリは泣き止まない……このせっぱ詰まった泣き声が「甘えたい」から起こした泣き声でないことはわかるよね。
 じゃあこの泣き声は一体何か。なぜユリちゃんは「お父さーん、お父さーん」って呼ぶんだろうか?

 こう問いかけてやっと、一人の女子生徒から答えが返ってくる。
生徒:ユリちゃんはお父さんがもう自分を迎えに来ないんじゃないかと思っているんじゃないでしょうか。夜中にお父さんは自分を置き去りにして出ていった。それと同じように自分を幼稚園に置き去りにしてしまうのではと感じている。それが怖くて泣いているんじゃないかしら。

私:そうなんだ。ユリちゃんが泣くのは親から捨てられる恐怖なんだ。
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 ユリちゃんのお母さんは入院してそばにいない。幼稚園には先生がいる。だが、先生は自分が捨てられそうになっている恐怖を消してくれない。自分はひとりぼっちと感じている。ユリちゃんが激しく泣くのは恐怖を感じているから。

 これは幼児に限りません。少年少女から大人になっても、私たちは「ひとりぼっちの怖さ」を感じやすいと言えるでしょう。
 ビッグモーターの社員は社長以下店長の不正やパワハラになぜ服従し続けたか。意見を言えば「じゃあやめろ」と言われるからです。ジャニーズの男の子は社長の性加害をなぜ両親や先生・大人に訴えなかったのか。

 自分で入りたいと決めたことだから。そして、言うことを聞けば利益がある。聞かなければ不利益になる。「生殺与奪の権」というのがあります。脅迫者の言うことを聞かなければ、自分(や家族)が路頭に迷う、生きていけない。
 その怖さにとらわれたとき、人は大人も子どもも黙って耐え忍ぶ。独裁者が支配する恐怖社会では日常生活の中にこの恐怖が蔓延している。
 近くに人がいても、「自分はひとりぼっち」と思ったとき、恐怖にとらわれる。この「恐怖」は私たちみなが等しく持っている、と思います。

 以上日常生活における「恐怖」について語りました。


※注「百万遍修行の真言」……「のうぼう、あきゃしゃー、きゃらばや、おんありきゃー、まりぼりそわかー」の真言(呪文)。これを一日一万回となえる。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:後半も長くて恐縮至極です。今後は短くなるよう鋭意努力したいと思います。
 えっ、期待できない? 確かにどこかの大臣の言葉に似ていますね(^_^;)。

 さて、これまで人の原感情について語ってきました。
 読みつつ、反論を考えたでしょうか。
 特に不快、不安、嫌悪について「確かにそれはあると思う。だが全てではない」とつぶやいていいところです。
 これが学校なら、生徒に「反論を原稿用紙2枚から5枚にまとめて提出しなさい」と宿題を出すところです(^.^)。
 さすがに多忙な読者各位にそのような宿題を出すのは忍びない。
 そこで次号において私自身が「反論」を提起します。
 おヒマなら、メモ程度でいいので、試みてください。
 そして、次号を読んで「なるほどこのように反論するのか」と感心(?)してほしいものです(^_^;)。


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