○ 不快感 不安 嫌悪の反対語 快感 安心 好意 好感
ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」 2023年10月18日(水)第25号
『続狂短歌人生論』25 快感・安心・好意好感
前号「不快・不安・嫌悪」についての反論、試みたでしょうか。
上記見出しを見れば、「なるほどこれを使うのか」とわかったはず。
読者が学生なら「二項対立」を使えば、だいたい反論を言える(書ける)ようになります。
小中高の漢字テストでしばしば「反対語を書きなさい」という問題があったはず。
上と来れば下、右と来れば左。これはまー小学校レベル。
やがて抽象語となって戦争と来れば平和。理想と来れば現実等々。
善の反対は悪。では夢の反対は? これはちと難しい。
夢には「昨日悪い夢を見た」の意と「将来の夢は何々」のように二つあるからです(答えはネット検索を)。
なんにせよ、反対語を思い浮かべれば、あることを主張する人に対して有効な反論を提起することができます。
今号は私自身が私自身の説に反論します(^_^;)。
(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 不快感 不安 嫌悪の反対語 快感 安心 好意 好感
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****************** 「続狂短歌人生論」 ***********************
ちょっと文学的香りに乏しい狂短歌で、「もっとどうにかならんのかい」と呻吟したけれど、できませんでした。ご容赦あれ。
とまれ不安の反対は? 安心。
不快の反対は? 快感。
嫌悪の反対はネット辞典では「愛好」となっています。
これ「愛好家」くらいしか使わないので、私は「好感」とか「好意」が良いのではないかと思います。嫌いの反対は「好き」ですからね。
これまで語って来たのは以下の通り。
人はみな心の底に恐怖を持っている、日々不安、不快、嫌悪を感じて生きている。
大人はそれを隠す、と言うか我慢して人と付き合う。子どもは隠さない。
そして、四タイプはその感情を脅迫、批判、傍観、受容というかたちで外に出す。
ただ、外では我慢しても、家に帰れば不快と嫌悪をあからさまに吐き出すことがある。
それは外で感じた不快、不満、嫌悪など(まとめれば)《不快感》を誰かにわかってほしいからでしょう。
自分は正しい、人が間違っていると誰かに訴えたい。そして、「あなたが正しい」と言ってほしい。
その相手としてパートナーがいる。夫にとっては妻、妻にとっては夫。子どもが大きくなれば親は子に、子は親に話す場合もある。それは多くの場合、愚痴となる。
ここで困ったことがあります。自分は不快をあれこれ、ぐちぐち話したい(^_^;)。
だが、我々は人の愚痴をあまり聞きたいと思わないことです。
外部のことだけでなく、家庭内においてもこの問題が発生します。
夫は妻の言動に対して不快と嫌悪を感じる。妻も夫に対して。それを言うことがあれば、我慢して言わないこともある。
ここで面白い点は職場なら部下のミスや言動に不快を感じて口にするけれど、家庭では言わない夫(妻)がいることです。覚えがあるのでは?(^_^)
また、子の言動に不快と嫌悪を感じれば、親は子にその感情を吐き出す。
躾とは子どもの言動を正す行為であると思われています。しかし、底にある感情は不安・不快・嫌悪でしょう。
子の言動を許せば、子どもにとって良くない。子の将来が不安と思ったり、周囲に迷惑をかける人間になるのではと思えば、叱ったり怒鳴ったりする。根底には不安があります。
また、子の言動が自分にとって不快であり、嫌悪を催すと感じれば、「やめろ」と言う。
読者各位は「そりゃあ言い過ぎ。躾に不快感はない」と反論しますか。
いやいや、以前例にあげたことがあります。
子どもが帰宅した親に向かって「ねえねえ、今日こんなことがあった、あんなことがあった」と盛んに話しかける。すると、ある種の親は「うるさいなあ。静かにしろ」と言う。子どもは黙る――といった状景です。これって躾じゃありません。
やがてこの子は中高生になると、学校で起こったことを親に話さなくなる。
親が「何かあったか?」と聞いても「別に…」と答える。
親は「うちの子は自分に何も話さなくなった」と嘆くけれど、そのような子に育てたのは自分だと思いもしない……。
これを逆に言えば、自分の気持ちをわかってくれない夫婦、親子であれば、一緒に暮らす意味がない。一人で暮らした方がいい……となって不思議はないと思います。
またまた復習と補足が長くなってしまいました。本号の趣旨はこれらの論説に対して反論すること。
パートナーや家族で暮らすことは確かに不快、不安、嫌悪がある。だが、その反対の感情である快感(喜びと言うべきか)、安心、好意・好感がある。
まずはパートナーと暮らしたり、家族で暮らすことによる安心感。
真っ先に言えることは突然家で倒れても(亡くなっても)すぐに見つけてくれること。これこそこの上ない安心(^_^)。
そもそも見知らぬ男女が一緒に暮らすことは互いの好意なくしてありえない。好きな人だから一緒に暮らすし、同じ布団で寝る。セックスがこの上ない快感を生む。これも間違いない夫婦(パートナー)生活の良さでしょう。
共同生活を送ることで快感と言うか喜びがあり、相手の言動に対して好感を覚える。すると「一緒に暮らして良かった」と思う。これこそ誰かと一緒に暮らすメリット。
もう一つ追加すれば、誰かとともに暮らせば、一人ぼっちのさみしさを感じなくて済む。
一人で食べる夕食はさみしい。誰かと一緒にいろいろ語り合いながら食べることは楽しい……はず。
歌集『サラダ記念日』が大ヒットした俵万智さんの歌に
・「 寒いね」と 話しかければ「 寒いね」と 答える人のいるあたたかさ
――というのがあります(さすがの文学的芳香)。
もっとも、狂短歌人の私はアンチテーゼとして以下のような歌を詠みました。
・「寒いね」と 話しかけれど「寒いね」と 答えてくれず 隙間風吹く
閑話休題。
まとめれば、確かに私たちは生きていく上で不安や不快を感じている。だが、それが全てではない。誰かと一緒に暮らすことで、安心と喜びを感じることができる。
そもそも日本では病気になっても低額で病院に行ける。高額医療費はなんとか払える程度に納める制度がある。年金を納めていれば、少額とは言え老年をなんとか生きていくことができる。働けなくなった時は生活保護と言う制度もある。つまり、安心を提供してくれる。日本について「批判ばかりじゃなく、良い点も見てくれ」と思う政治家は多いでしょう。
――とまーこのように反論することができます。
しかし、これに対する再反論も可能。
確かに私たちは誰かと一緒に暮らすことで安心、快感を得られる。
良好な人間関係が毎日続けばいいけれど、そうは問屋が卸さない。
杉良太郎さんが歌ってヒットした演歌(作詩「いではく」)に次の一節があります。
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人を愛して 人は心ひらき
傷ついて すきま風知るだろう
いいさそれでも 生きてさえいれば
いつか やさしさにめぐりあえる……(「すきま風」)
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私も昔カラオケでよく歌いました。
先ほどの狂短歌「隙間風吹く」は二人で暮らす違和感、さみしさを詠んでいます。
すき間風ってだいたい恋人、夫婦、親子の間で吹きます。
ときに風ではおさまらず嵐となって吹き荒れる。すなわち良好の反対である「険悪」な関係に陥ることもしばしば。感情的な夫婦喧嘩、親子喧嘩の後、気まずい雰囲気になるのは避けられないでしょう。
小さなユリちゃんとお父さんの詩「夕方の30分」でもありました。
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かんしゃくもちのおやじが怒鳴る
「自分でしなさい 自分でェ」
かんしゃくもちの娘がやりかえす
「ヨッパライ グズ ジジイ」
おやじが怒って娘のお尻をたたく
小さなユリが泣く
大きな大きな声で泣く……(黒田三郎『小さなユリと』)
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なぜ人は共同生活を送ると、感情の対立(口げんか)を避けることができないのか。
これはいずれしっかり考察しなければならないテーマです。
ここは本文を短くするため(^.^)、テーマの提起だけに留めて四タイプの「快感と安心」について最後に短く語ります(くどい?)。
四タイプが自分のタイプに固執するわけはその性格と生き方が快感と安心を生むからです。
【 四タイプの快感と安心 】
脅迫者…人を暴力(怒り)によって支配する、服従させる快感
批判者…人を言葉(批判)によって支配する、服従させる快感
傍観者…傍観することによって負けない、責任を負わずに済む安心
受容者…服従さえしていれば危害は加えられないという安心
上二つは「快感」、下二つは「安心」とまとめました。
ただし、下の二タイプにだって人を支配し、服従させる快感がある。それが子育てにおける快感です。
先ほど躾の「底にある感情は不安・不快・嫌悪」と書きました。この反対である快感もまた子育てから生まれます。特に傍観者と受容者において。
子どもは親から見捨てられたら生きていけない。だから、取りあえずあらゆることで親の言うことを聞く。それはつまり服従。
外の世界では傍観者と受容者であっても、子育てという内の世界になると、子どもを支配し、言うことを聞かせることはたやすい。そこに快感が生まれる。その際傍観者は批判者になりやすく、受容者は脅迫者になりやすい(と以前語りました)。
根っからの脅迫者と批判者は人を服従させる快感を知っているけれど、傍観者と受容者にはそれがない。親になってはじめて人(子ども)が自分に服従する快感を味わうわけです。
注意したいことはこの快感、「子どもの成長が楽しみ」といった類の喜びではない。「我が子が自分の言うことを聞くのは気持ちいい」という意味の快感です。
問題は片方に快感があれば、もう片方――つまり服従する側には不快がある。
今は親に従っているけれど、不快感は少しずつ少しずつ心にたまる。そして、あるとき爆発する。それが親子喧嘩ではないか。
よく言う子どもの第一反抗期、第二反抗期。これも子どもの心にたまった不快感が生み出すのではないか、と私は考えています。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:一読法の復習です。本文冒頭次のようにありました。
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〇 不快感 不安 嫌悪の反対語 快感 安心 好意 好感
ちょっと文学的香りに乏しい狂短歌で、「もっとどうにかならんのかい」と呻吟したけれど、できませんでした。ご容赦あれ。
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そして、途中で
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歌集『サラダ記念日』が大ヒットした俵万智さんの歌に
・「 寒いね」と 話しかければ「 寒いね」と 答える人のいるあたたかさ
――というのがあります(さすがの文学的芳香)。
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対応していることに気づきましたか。前者は「文学的香りに乏しい」、後者は「(さすがの文学的芳香)」とあります。
後者を読んだとき、「筆者は今まで他人の短歌を引用したことがない。珍しいなあ」とつぶやくかどうか。そうつぶやけば、冒頭の狂短歌と本文を思い出せる。
さらに一読法なら「なぜ人の短歌を引用したのだろうか」と疑問に思ってもいい。
これはチョーのつく難問ですが、挑戦してみますか。
答えは次号にて。ヒントはこの後記中にあります。
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