『続狂短歌人生論』30 なぜ変えられないのか

 その3「愛してほしいから」


○ 幼子は人を愛することよりも 愛してほしいと思う生き物


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2023年11月22日(水)第30号


 『続狂短歌人生論』30 なぜ変えられないのか その3「愛してほしいから」

 まずは前号一読法的質問の答え。
 作者はなぜ「尊敬される三タイプとはどれか」というつぶやきをクイズにしなかったのか。一つは「答えが簡単だから」でした。

 もう一つは以前『一読法を学べ』でしばしばやらかした罠であり落とし穴、あるいは意地悪(^_^;)。読者を突き放して崖から落としたのです。

 とある個所をクイズにして明示するということは「これをつぶやきなさい。そして疑問の答えを考えなさい」と導いているようなもの。
 これは国語の授業や試験で言うと、常に先生が質問を用意して生徒はその答えを考える――というパターンです。

 こんなことをやっているから、いつまで経っても「考える力」が育ちません。疑問を自分で考え出し、答えを探してあれこれ考える。これこそ真の考える力です。
 疑問・質問を自分で考えるとは(読んでいる途中や体験中に)「おやっ妙だぞ。なぜだろう」とつぶやくことから始まります。正に一読法。

 クイズにしても良かったのに、しなかったのは読者に「自ら疑問・質問を設定してその答えを考える」道に進んでほしかったから。つまり、突き放したのは私の読者への愛情なのです(^_^;)。

 えっ、「そりゃ疑わしい。意地悪だと書いているじゃないか」ですって?
 まー「罠にはまったかな」とにやにやしていたかも(^_^;)。


 さて、「なぜ変えられないのか」その3「愛してほしいから」。
 以前27号「愛エネルギーがほしい」において以下の狂短歌を詠みました。

 ○ 愛されたい 認められたい 誉められたい 心に秘めて人と付き合う

 このことを幼子を例として深掘りします。


11月08日  なぜ変えられないのか その1「長所と信じるから」
 〇 四タイプ それが長所と信じれば 変えなければと思うことなし

11月15日
 なぜ変えられないのか その2「尊敬されるから」
 〇 三タイプ 誉められ認められるなら 変えようなどと思いもしない

11月22日
 なぜ変えられないのか その3「愛してほしいから」―――――――本号
 〇 幼子は人を愛することよりも 愛してほしいと思う生き物

11月29日
 なぜ変えられないのか その4「愛してくれるから」
 〇 四タイプ それがあなたの愛ならば 人は続けてほしいと思う

12月06日
 なぜ変えられないのか その5「感情と理屈が結びついているから」
 〇 人間は性善なのか性悪か 溶け合っている理屈と感情



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 幼子は人を愛することよりも 愛してほしいと思う生き物

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』30 なぜ変えられないのか 】

 その3「愛してほしいから」

 今回の狂短歌もちょっとじくじ[忸怩]たるものがあります(^_^;)。
 最後に「生き物」とつけるなんてどうでしょう。非文学的です。
 それに、これは科学的、心理学的に正しいことを言っているのか。素人の私には自信がありません。

 ただ、人の感情についてはいまだ解明されておらず、統計的に見れば――すなわち多くの幼児を眺めれば、この傾向があると言えるのではないでしょうか。
 ニンゲンという生き物(?)は人を愛することより、愛されたいという気持ちをもって人生を歩み始める。子どもというものはしばらく人を愛することができず、「自分を愛してほしい」と思う。それが人間の原初の姿であると。

 これは全ての子どもに共通した性格と言うか、原感情ではないか。天が賦与した本能かもしれません。
 愛エネルギーの観点から説明すると、子ども(特に幼児)は人にまだ愛エネルギーを与えることができない。親や大人に対して「私をもっと見てほしい、認めてほしい、誉めてほしい、かわいがってほしい」と愛エネルギーをねだっているということです。
 こう書けば「確かにそうかもしれない」と思ってもらえそうです。

 そうなると、これはいけないことか。あるいは、そんな子どもじゃ困るから「人を愛する人間になりましょう」と教える必要がある(!)だろうか。

 と問えば、「いやいや、そんなことは必要ない」と(私なら)応じます。
 いけないことでもない。そもそもそれが子どもというものではないか

 なぜなら、子どもは存在ものものが愛エネルギーを発散している。太陽のように《かわいい》というオーラを発光しているからです。
 子どもの無邪気な笑顔を見ればかわいいと思う。疲れも癒され、この子のためにがんばろうと元気が湧く。つまり、愛エネルギーを得られる(もしもそう思えないなら、あなた自身に問題があると振り返るべきだ)。

 子どもには現在しかない。過去も未来もない。だから、叱られてもすぐ立ち直る。
 私たちは「泣いたカラスがもう笑う」姿をよく見かけます。誰でも――自分もそうだったと言うでしょう。
 これも私たちを元気づける。大人は過去を引きずる。未来を思って暗澹たる気分になることがある。それが現在の生きづらさにつながる。泣いたカラスは翌日も泣いている。

 黒田三郎「夕方の30分」でも、お尻をたたかれてユリちゃんは「大きな大きな声で泣く」。
 だが、その後は以下のように描かれた。
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 それから/やがて/しずかで美しい時間が/やってくる
 おやじは素直にやさしくなる/小さなユリも素直にやさしくなる
 食卓に向かい合ってふたり座る
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 この「美しい」情景をちょっと分析してみると……、
 ユリちゃんは食べながらすぐに笑顔を見せたであろう。
 テーブルについていれば、足をふりふりして卵焼きが「おいしい」と言ったであろう。
 何しろ不器用なお父さんが細心の注意を払ってつくった(初めての?)卵焼き。
 お父さんもユリちゃんの様子を見て笑みがこぼれる。
 お父さんはたぶん「叩いて悪かった。大人げなかった」と思い、ユリちゃんも「ヨッパライ グズ ジジイ」なんて言ったことを反省している(?)であろう。

 二人は食事前のどたばたで愛エネルギーを与え合うことはできなかった。
 感情が爆発して幼子はひどい言葉を吐き、父は娘のお尻を叩いて報復した(^.^)。
 でも、食事によって自然のエネルギーを得た

 詩の表現は食べる前で終わっている。だが、その後訪れるやさしい食事風景は充分想像できる。
 詩人にとってその様子を具体的に描くことは容易い。だが、ここでは「しずかで美しい時間」とまとめ、具体的な情景は書かなかった。なぜか。「読者が自由に想像してください」というわけだ。

 料理した人にとって食べる人が「おいしい」と言い、笑顔を見せることは愛エネルギーを得られることを意味する。相手のために「明日もおいしい料理をつくるぞ〜」と元気が湧く。
 ユリちゃんとお父さんは「二人で仲よく暮らそう。お母さんが帰って来るまで」と思って元気が出たのではないか。
 お父さんの笑顔は子どもに反照する。この思いは二人に共通しているはず。
 自然のエネルギーを摂りつつ、親子は愛エネルギーを与え合った。それが「美しい時間」の中身だと思います。

 ところが、子どもはいつからか、かわいいオーラを発光しなくなる。
 やがて十代になり二十代になっていじめたり、万引きをしたり、強盗になったり、詐欺に加担したり、ストーカーになったりする。「人を愛することの大切さ」を教えなければならなくなる……が、なかなかそう思ってくれない。毎週教会に通うキリスト教の大国でさえ難しい。

 教師をやっていたころ、心理学を教える大学の先生からこの理由について聞いたことがあります。
 彼は「人のものを盗むのは与えられなかった愛を取り戻している」と言いました。
 私はなるほどそうか、と納得したものです。

 あるいは、こういう話を聞いたことがあるかもしれません。
 愛というものはコップに注がれる水に似ている。コップから水があふれ出すためには、ふちまでためなければならない。つまり、愛という水を充分注がれた人だけが、人に愛を与えることができると。
 もしもコップに半分の水しかたまっていなければ、確かに「水を注いでくれ」と思うでしょう。
 盗みを働く人の心には愛が半分しかたまっていないことになります。

 以前(27号「愛エネルギーがほしい」において)四タイプを以下のようにまとめました。
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 四タイプは人に愛エネルギーを与えることが苦手である、へたくそである。
 逆に「私を認めてよ、もっと誉めてよ、愛してよ」と思っている。
 先んじて結論を言うなら、彼らは人に愛エネルギーを与えることができず、自分こそ愛されてしかるべきと思っている。まるで子どものまま大人になってしまったような人たちだ。
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 なぜそうなったのか。理由は子どもの頃充分な愛エネルギーを与えられなかったから
 ゆえに、大人になっても愛エネルギーを求め「私を認めてよ、もっと誉めてよ、愛してよ」と思って(もちろん心の底に隠して)四タイプの生き方を実践する。

 言い換えれば、子どもの頃親や大人から愛エネルギーを充分もらえなかった人が四タイプの悪しき性格を露にする……と言えそうです。

 脅迫者・批判者は腕力を誇示し、能力の高さと正しさを自慢する。「見て見てすごいでしょ」と言わんばかり。だが、それで終わらず弱い連中、能力の低いやからを軽蔑する。「だから自分が命令を下し、リードするんだ」と。

 受容者は殴られたくない、叱られたくないから何でも受け入れて服従する。傍観者はそれがいやだから傍観する。この二タイプは「同情してよ、慰めてよ」とほのめかして少々のエネルギーを得る。誰かがもっと強くなれと言うと、「強くなれないんだから仕方ないじゃないか」とつぶやく。
 前者は人のエネルギーを奪うからいつも元気。変わる必要を認めない。
 後者は変えるためのエネルギーが不足しているからいつも弱々しい。

 かくして結論は「子どもをもっと愛しましょう。愛エネルギーを与えましょう」となります。

 しかし、これは抽象的な言葉に過ぎない。我々は具体的な世界に生きている。そして、感情は日々生み出されて成長する。そこで次なる問題が生まれます。

 それは、私たちは相手のどのような言動を受けて「ああ愛されている」と感じるか。逆に「これでは愛されていない」と感じるか――この問題です。

 愛エネルギーを充分与えようと、毎日子どもを誉めまくるのか。
 某国文化圏のように毎日「I love you.」と言うのか。
 それで愛エネルギーを充分与えたことになるのか。
 子どもは「ああ愛されている」と感じてくれるか。
 考えてみてください。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:最後に問題提起した「相手からどう扱われると愛されていると感じるか」について次号で語ります。その前に最近恒例のクイズ的質問(^_^)。

 みなさん方は子どもにとって父と母のどちらが必要と思われますか。
 両方だよと言われそうですが、敢えて選べば、父か母か……。

 私の父は十代のころこの問題について友人と議論したそうです。
 友人は「そりゃ父だよ」と主張した。私の父は「いや、母だ」と反論した。

 チョー難問のクイズが以下、
 友人はなぜ「父だ」と主張し、私の父は「母だ」と言ったのか。
 その理由です。一週間考えてみてください。

 ヒントは「なーんだ」と思えるような理由です(^_^;)。


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