『続狂短歌人生論』40 日本的カーストを補強する日本語


○ 日本では親や先生部課長を 「お前」と呼ばぬ 礼節の国


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年01月24日(水)第40号


 『続狂短歌人生論』40 日本的カーストを補強する日本語

 山頂を前にして立ちふさがるかのような二つの難所を語りました。
 一つは四タイプの自分、身近の人を変えようとしたけれど失敗して失望、絶望したこと。
 次には日本を覆い尽くす「上の人と下の者」という美しき伝統。
 下の者には発言する権利も自由もないかのような、日本的カーストという絶望。

 だが、かすかな希望として「上の人」が変わってくれることを期待したい、とも書きました。
 みんな下からスタートしているではないか。そのときの気持ちを思い出せと。

 さて、読者はこの解決策、納得されたでしょうか。
「そうだな。これからは対等を心がけよう」と思ってくれた……かどうか。
 私の予想(=読者の予想)は「無理だろうなあ」であると推理します(^_^;)。

 今号はその難しさを日本語という観点から説明します。
 私たちは日本で暮らし、日々日本語を使う。使わざるを得ない。
 日本語はとことん上下意識が詰め込まれた言葉なのです。
 ああ……(とまたも絶望のため息?)


01月04日 変えることに失敗――あなたを襲う悲喜劇と絶望
 〇 変えようと思って歩み始めたが 変えられなくて元の木阿弥

01月10日 山頂前最後の難所――日本的カーストという絶望
 〇 美しき伝統 それは上と下 これぞ我らが日本の誇り(?)

01月17日 一読法の復習
 〇 一読法 かくも復習するわけは どんでん返しの結論だから

01月24日 日本的カーストを補強する日本語 ――――――――――――本号
 〇 日本では親や先生部課長を 「お前」と呼ばぬ 礼節の国

01月31日 一読法の復習――の復習(^.^)
 〇 上はなぜ変われないのか 報復の感情 下に発散するから



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 日本では親や先生部課長を 「お前」と呼ばぬ 礼節の国

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』40 日本的カーストを補強する日本語 】

 突然ですが、読者各位に質問です。[A]とします
 [A]
 Q1 あなたが子を持つ親なら、あなたは我が子をなんと呼んでいますか。
 Q2 あなたが社長・部長・課長・係長(班長)なら、あなたは部下を
    なんと呼んでいますか。
 Q3 あなたが小中高大など学校の先生なら、あなたは児童・生徒・学生を
    なんと呼んでいますか。

 以下は逆の質問です。

 ・あなたに父母が健在なら、あなたは父母をなんと呼んでいますか。
 ・あなたは職場で上司をなんと呼んでいますか。
  1 役職名(呼び捨て)  2 役職名に「さん」をつけて 
  3 名字で(呼び捨て)  4 名字に「さん」をつけて
 ・あなたは学校の先生をなんと呼んでいますか(かつてなんと呼んでいたか)。

 上の質問はだいたい最初に呼びかけるときの言い方です。
 では、さらに話し続けるとき、
 あなたは相手を表す言葉(主語)として何を使っていますか。[B]とします

 [B]
 1 呼びかけの言葉をそのまま使う(敬語付き)。
   例「課長はそうおっしゃいますが…私は違うと思います。」
 2 呼びかけの言葉をそのまま使うが、敬語は使わない。
   例「課長はそう言うけど、ぼくは違うと思う。」
 3 「あなたは」を使う。 例「そこがあなたの悪いところだ」
 4 「お前は」を使う。  例「そこがお前の悪いところだ」
 5 相手によって使い分けている。

 質問は以上です。ここで直ちに一読法のつぶやき(^.^)。

 Bの質問と選択肢を読んだとき、「意地悪な質問だ」とつぶやきましたか。
 1〜4までのいずれかに〇をつけようとして[5]にたどりついたとき、多くの人は[5]に〇をつけたのではないでしょうか。
 そう。私たちは言葉を(特に敬語を使うかどうか)相手との上下関係に基づいて使い分けているのです。

 たとえば、私が元いた学校。一人の男性教師(ヒラ)を例に挙げると、
 彼は上司である校長や教頭に対しては「校長! 教頭!」と呼びかけ、「先日校長先生がおっしゃっていた件ですが…」と敬語付きで話し始める。

 校長・教頭に対して「あなたは」と言う人は少なく、いわんや「お前は」なんて決して言わない。すなわち、校長・教頭、目上の先生に対しては敬語を使い、同期の教員や後輩教員に対しては敬語を使わない。厳密にいうと、日常活動においては使わないけれど、会議などの場では丁寧に喋り、敬語を使う。

 ところが、その先生が生徒に対するときは「佐藤!」とか「太郎!」と名字や名前を呼び、「お前は最近遅刻が多いぞ。だいたいお前はなあ…」と言って説教する。
 これがほとんどであり、まれに「何々さん。あなたは最近遅刻が多いよ」と言う先生もいらっしゃる。女性教師はほぼこちらだと思います。

 さて、学校で相手によって言葉を使い分けていた先生は夕方から夜、勤務を終えて帰宅する。
 すると彼は妻に対して「お前は子どもの躾が甘い」と苦言を呈し、子どもがスマホやタブレットでゲームに夢中だと「次郎!」と名前を呼び、「またゲームばかりやってる。そろそろ勉強しろ。最近のお前は…」と小言を垂れる。
 彼は妻に対して「あなたは」と言うことはあるけれど、子どもに対して「あなたは」と言うことはまずない。

 でも、その日彼の父母、または妻の父母が訪ねていると、彼は自分の父母であろうが、義父・義母であろうが、「おとうさん、おかあさん」と呼びかけ、妻の父母に対しては敬語付きで喋り、自分の父母に対しては敬語なしでしゃべったりする。「おばあちゃんは次郎に甘すぎるよ」などと。

 これって多くの日本人がそうでしょう。私たちは人と会話するとき「相手によって使い分けている」のです。相手が上であれば自分は下。自分が上であれば相手を下とみなす言葉を使う

 おお、正に『日本の身分制度五カ条のご誓文』を日々実践しているではありませんか。

 よく「日本人は初対面の人と打ち解けるのが苦手」と言います。それは相手が上か下かわからないからです。普通は上だと思って丁寧な言葉を使う。だが、下とわかった途端に「なんだよ。下かよ」とばかりにぞんざいな言葉遣いに豹変する。これなど典型例ですね。

 前々号にて「対等の人間関係を構築するには上の人が……」と書きました。
 この裏というか対極には「下の者」がどう考えるか、何を実践するかもあります。
 たとえば、前号に書いたように「下の者は上の人に対して反抗しよう」とか、「下の者は上の人に上下の意識を変えてくれと抗議しよう」などと。

 この提言に対して「別に対等でなくていい。むしろ上下関係は必要だ。日本の伝統であり、美しい礼節じゃないか」とおっしゃるようなら、私に何の言葉もありません。今の日本が続くだけです。

 子どもたちは学校に行くことをやめ、絶望のあまり自殺し、ボスが夜毎寝床にやって来たら黙ってそれを受け入れる。
 先輩が叱責すれば命令のままに下をしつけ、仕事を自宅に持ち帰って自己犠牲の精神で身体を痛めつける。「自分がやるしかない」と思って心を病む。
 自動車整備会社に就職すれば、故障した車をさらに傷つけて保険を水増し請求する。メーカーでは「正しい検査をしなくて構わない」と言う上の言葉に従う。下の者には「おかしい」と言う権利も自由もない。

 官僚になれば、ボスの意向を忖度して書類を改ざんする。上が犯した罪を自分が引き受ける。議員の秘書になれば、命令が違法であっても従う。新米議員は派閥の意向に逆らわない。「おかしい」と思ったけど言えなかった……そのような日本人が育つだけ(でしょう)。

 しかし、日本的カーストをやめよう、なくそうと考えるなら、上の人だけでなく、下の者もその意識を持って日々暮らす必要があります。

 ところが、どうでしょう。上記に書いたある一人の生き方は自分を上と見たり、下と見なして生きる日常です。これが普通の生活であり、これが日本語です。
 対等の関係を築くことがいかに難しいか。それは単に意識だけの問題ではない。日本語そのものが上下関係を持ち(難しい言葉では内包し)、私たちはそれを使用するしかない。使えば否応なく上下関係が現れる。

 対等の人間関係を構築する――これは理屈です。
 日本の具体的世界では上記のように身分(役職)の上下、夫婦、親子、年上・年下の上下が蔓延しています。日本の現実は到底対等の人間関係ではない。

 なので見出しにつながります。「日本的カーストを補強する日本語」と(^.^)。
 さらに「対等を心がけよう」と思っても「無理だろうなあ」と感じる。それもまたむべなるかな……。

 [ここからは「である」体で語ります]

 さて、今までは日本語を使う多くの日本人の実態を眺めた。
 以前書いたように私たちは「日本同様世界もそうだろう」と思いがち。
 ここからは世界共通語としての英語と日本語を比較してみたい。
 敬語以前に「私」と「相手」との関係において日本語は対等ではなく、必ず上下関係を表していることがわかるはずだ。

 たとえば英語で「私」は「I」であり、「あなた」は「You」である。
 英語の小説を読むと、会話にはこの二語がしょっちゅう出現する。たまに「We」とか「he・she・they」が出るけれど、一対一の基本は「I」と「You」である。
 これを読む限り、英語は身分の上下関係を示す主語が存在しないと言ってよさそうだ。

 家庭では親が子どもに対して「I」と言い「You」と言う。
 子どもも親に対して「I」と言い「You」と言う。
 学校では先生が児童生徒に対して「I」と言い「You」と言う。
 児童生徒が先生に対して(校長に対しても)「I」と言い「You」と言う。

 もちろん先頭に呼びかけの言葉として「ファーザー・ダディ、マザー・マミィ」、校長に「school principal(school headmaster)」と呼ぶことはある。
 だが、その後は一貫して「I」であり「You」だ。

 これを日本語では「私は…」と訳し、「あなたは…」と訳す。
 だが、翻訳家は「You」を「おまえ」と訳すことだってある。
 逆に日本語なら「あなた・あんた・お前・そなた・そち・てめえ」、方言の「な・おまん・にしゃ・ぬしゃ・いゃー」等々は英語にすると全て「You」一ヶだけ。日本語のビミョーな違いが雲散霧消してしまう。

 アメリカはかつて黒人を奴隷として使役する国だった。奴隷が使う主人への呼びかけは「マスター(ご主人様)」であり「ミスター」とか「ミス」とも呼ぶらしい。
 ただ、呼びかけの後は以下のようになる。

 映画『カサブランカ』より、黒人のピアノ弾き奏者サムと、イングリッド・バーグマン演じる(元主人の)イルザが久しぶりに再会したとき、サムが言った言葉がネットにあったので拝借する。

 ここでサムはイルザに対して
「Hello, Miss Ilsa. I never expected to see you agin.」と言っている。

 これを以下のように3タイプの日本語に訳してみよう。

1「こんにちはイルザ様。あなた様とまたお会いできるとはわたくし思いもしませんでした」
2「こんにちはイルザ婦人。あなたとまた会えるとは(ぼくは)思いもしなかった」
3「やーイルザさん。お前にまた会えるとはオレは思いもしなかった」

 1はかつての奴隷制度を匂わせる敬語を入れた訳し方。
 2はそれを意識しつつ日常用語を使った訳し方(「ぼく」は言わないことが多かろう)。
 3は対等を超えてかなり乱暴な言葉遣いと感じられる。

 だが、この3タイプを英語に変えると、「Hello, Miss Ilsa.〜」の一つしかない
 英語ではみな同じだから、イルザさんは「3」のように感じたかもしれない。
 だからと言って何の痛痒も感じない……のではないか。

 日本人なら久しぶりに再会した相手から「お前にまた会えるとはオレは思いもしなかった」と言われたら、同級生であってもかちんと来るだろうし、後輩だったら「言葉遣いがなっていないぞ」と叱りつけるかもしれない。

 サムの話し方は奴隷制度下の時代もそうだったし、みんな同じように喋っていた。現在だってそう。すなわち、主人と奴隷の関係にあっても、イルザもサムも自分を「I」と言い、目の前の相手を「you」と言う。

 そもそも英語には日本の敬語にあたる概念がほぼない。呼びかけの言葉だけは上下が含まれているけれど、その後は完全に対等の関係で喋っていることがわかる。

 よって、前後の脈絡なく「I never expected to see you agin.」単独を訳すなら、2でも3でも構わないことになる。もしも翻訳家がこの英語を1のように訳したら――日本人にとっては二人の関係がわかって疑問を持たないけれど――それは誤訳と言うべきだろう。サムは敬語を使っていないのだから。

 逆に3のように翻訳して読者に「サムは元奴隷の黒人だから、ろくな教育も躾も受けていないんだろう」と感じさせるとすれば、こちらも誤訳と言わざるを得ない。

 英語の言葉には自分を奴隷として下に見ることも、相手をかつてのご主人として上に見ることもない。人間は対等なんだということが言葉になっている

 結局、無難な日本語訳としては
4「やーイルザ婦人。また会えるなんて思いもしませんでした」となろうか。
 アイもユーも訳さず、敬語も末尾の丁寧語にとどめる。

 もう一つ別の例もとりあげたい。
 アメリカでは大統領に対して記者が呼びかける言葉は「Mr.President」と言うらしい。「大統領閣下」てな感じだろうか。
 だが、そう呼びかけた後記者が喋る言葉は「自分」のことを「I」、やはり大統領のことを「You」と言う。これは子どもが「ファーザー」と呼びかけた後と全く同じ。

 このように英語圏社会では相手が年上であろうが、社長であろうが、部課長であろうが、大統領であろうが、夫が妻に対して、妻が夫に対して、子どもが大人に対しても、呼びかけの言葉以外は全て「アイ」であり「ユー」を使う

 これは「オレは…お前を」と訳してもいいことになる。完全に対等である。
 子どもがお父さん、お母さん、学校の先生、大統領に「I love you.」と言えば「オレはてめえが好きだ」と言っているのである。

 逆に相手の身分が下であろうが、年下であろうが、同じく「アイ」であり「ユー」と言う。社長が部下に対しても、大統領が記者に対しても、子どもに対しても「アイ」と言い、「ユー」と言う。これは「私は…あなたを」と訳してもいい。要するに、英語を使った会話には上下関係が存在しない

 たとえば、とある外国映画で誰かと誰かが英語で会話を交わし、その言葉が英語で字幕表示されているとしよう。「I love you.」と。
 もしも字幕の文字は見えるけれど、画面を真っ暗にして音声も消してしまうと、我々には喋っている人が男女か、大人か子どもか一切わからない。大統領なのか社長なのか、牧師かシスターか、町の浮浪者か。全く推理できない。

 だが、同じことを日本の映画でやると、喋っているのが男か女か、年上か年下か、社長か部長か、課長かヒラか、先生か生徒か、親か子どもか、かなりの確率でわかる。
 社長は「オレはあの子が好きだ」とまず喋らないし、男は「お慕いしております」と言わない(女性も言わなくなった?)。身分・役職、親子、妻子、年上年下などが言葉で判別できるからだ。

 余談ながら、かつて川端康成がノーベル文学賞を獲ったとき、私は「外国語に訳された小説を読んで、川端文学がわかるのだろうか」と思った。日本語の微妙なニュアンスが移されないと言うより、原文の会話にはほとんど「私」や「あなた」がない。なのに英文では全て「I」と「You」がくっつくのだ。

 閑話休題。
 私は日本的カーストの解決策として「上が変わること」を提言した。
 だが、ここでの結論がそれだけでは足りないことがおわかりいただけよう。

 もう一度書く。対等の関係を築けない限り、
 子どもたちは学校に行くことをやめ、絶望のあまり自殺し、ボスが夜毎寝床にやって来たら黙ってそれを受け入れる。
 先輩が叱責すれば命令のままに下をしつけ、仕事を自宅に持ち帰って自己犠牲の精神で身体を痛めつける。「自分がやるしかない」と思って心を病む。
 自動車整備会社に就職すれば、故障した車をさらに傷つけて保険を水増し請求する。メーカーでは「正しい検査をしなくて構わない」と言う上の言葉に従う。下の者には「おかしい」と言う権利も自由もない。

 官僚になれば、ボスの意向を忖度して書類を改ざんする。上が犯した罪を自分が引き受ける。議員の秘書になれば、命令が違法であっても従う。新米議員は派閥の意向に逆らわない。「おかしい」と思ったけど言えなかった……そのような日本人が育つだけである。

 下も変わらねばならない。言葉としては敬語を使うとしても、「相手が上で自分が下」という意識を捨て去る必要がある。
 逆に部下や年下、子どもに対して「自分が上で相手が下」との意識も捨てて「対等を表す言葉、もしくは丁寧な言葉」を使う必要がある(と私は思います)。

 最後に男性アイドルグループを育てた「ボス」の良い点を一つだけあげたい。
 あのボスは年下・後輩が年上・先輩を「くん」付けで呼ばせた。あれなどアイドルに上も下もないことを意識させようとしたのではないか、と推察する。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:一読法は「つぶやいて立ち止まる」と同時に「この先何が書かれるのだろう」と未来を予想することも大切です。
 本号前置き最後に置かれた次号予告の部分、表題を読んで「何じゃそりゃ。ふざけてんのか」とつぶやきましたか。
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01月31日 一読法の復習――の復習(^.^)
 〇 上はなぜ変われないのか 報復の感情 下に発散するから
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 とありました。《ははあ、01月17日 一読法の復習にあった「上の人が変わること」についてさらに何か書こうとしているな。狂短歌からすると「上の人がなぜ変われないのか」についてだな》と次号を予想してほしかったところです。


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