『続狂短歌人生論』41 一読法の復習――の復習(^.^)


○ 上はなぜ変われないのか 報復の感情 下に発散するから


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年01月31日(水)第41号


 『続狂短歌人生論』41 一読法の復習――の復習(^.^)

 前号後記に《一読法は「つぶやいて立ち止まる」と同時に「この先何が書かれるのだろう」と予想することも大切》と書きました。
 もちろんその前に、まず「おやっ」とか「あれっ?」とつぶやく。ときには「何じゃこりゃ!」と反発の言葉を吐く。そして、先を予想する。

 今号の見出しなど前々号の見出し「一読法の復習」を受けていることは明らかで、さらに「その復習」なんて、「ふざけてんのか」とつぶやいてしかるべきでしょう(^.^)。
 見出しには以下の狂短歌も掲載されていました。

 〇 上はなぜ変われないのか 報復の感情 下に発散するから

 これを読めば、《ははあ、次号は「一読法の復習」にあった「上の人が変わること」について「なぜ変われないのか」その理由を書こうとしているな》と予想することができます。
 そのために(筆者から言うと)奇抜な表題をつけたわけです。

 読者各位は「上の人が変わってくれるなんて、とても考えられない」と感じたはず。
 それは脅迫・批判・傍観・受容の四タイプが変えられない、変わってくれないのと同じ感想。

 四タイプが変われない理由は『続編』においてさんざん語ってきました。
 感情の根源を探り、幼いころの親や大人との関係、愛の獲得競争、特に親の四タイプが子どもに影響することなど。
 しかし、上の人が変われない理由はこれとちと違う。よって、本号はこの件を深掘りします。


01月17日 一読法の復習
 〇 一読法 かくも復習するわけは どんでん返しの結論だから

01月24日 日本的カーストを補強する日本語
 〇 日本では親や先生部課長を 「お前」と呼ばぬ 礼節の国

01月31日 一読法の復習――の復習(^.^) ――――――――――本号
 〇 上はなぜ変われないのか 報復の感情 下に発散するから



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 上はなぜ変われないのか 報復の感情 下に発散するから

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』41 一読法の復習――の復習(^.^) 】

 38号にて上の人と下の者という『日本的カースト』について語りました。
 40号では日本語そのものが上下関係を内包し、私たちは相手が上か下かで言葉(特に敬語)を使い分けていることも語りました。

 英語や多くの外国語では上下関係を表す言葉がない(か少ない?)。今や世界共通語となった英語では、身分の高貴卑賎、男女、大人対子供……誰が使っても私は「I」であり、相手は「you」。対等が基本となっている。ならば、日本人も対等の関係を意識し、構築する必要がある。そう主張しました。

 くどいけれど、お忘れの方のために「対等の関係をつくらないとどうなるのか、今の日本が続くだけ」と書いた部分を再々掲します(^_^;)。
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 子どもたちは学校に行くことをやめ、絶望のあまり自殺し、ボスが夜毎寝床にやって来たら黙ってそれを受け入れる。
 先輩が叱責すれば命令のままに下をしつけ、仕事を自宅に持ち帰って自己犠牲の精神で身体を痛めつける。「自分がやるしかない」と思って心を病む。

 自動車整備会社に就職すれば、故障した車をさらに傷つけて保険を水増し請求する。メーカーでは「正しい検査をしなくて構わない」と言う上の言葉に従う。下の者には「おかしい」と言う権利も自由もない。

 官僚になれば、ボスの意向を忖度して書類を改ざんする。上が犯した罪を自分が引き受ける。議員の秘書になれば、命令が違法であっても従う。新米議員は派閥の意向に逆らわない。「おかしい」と思ったけど言えなかった……そのような日本人が育つだけ(でしょう)。
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 昨年末、某自動車メーカーの検査不正が明るみに出て大変な事態になっています。生産工場は操業停止し、下請け・孫請け企業も売り上げ激減。従業員は路頭に迷うかもしれない不安を感じていると思います。

 驚くのはこの検査不正が34年間続いたこと。今回内部告発によって不正が明らかになりました。だが、過去34年間《下の者》は誰も異議申し立てをしなかった。その結果企業が倒産するかもしれない。売り上げ減によって人員削減となれば、「自分が解雇されるかもしれない」恐れが増しています。

 以下のように書くと反発反感があるかもしれない。「そりゃ無理だ」と言うかもしれない。
 が、敢えて書きます。

 34年前上の人が「こうするぞ」と言い出したとき、下の者は34年後の未来を想像するべきだった。「いつかばれる。そのとき会社は大変なことになる」と。
 もちろんそう思った人はいるはず。だが、「やめましょう」と言う人はいなかった。
 推察するに、そのとき思ったことは「上が決めたことだ。自分には発言する自由も権利もない。言っても聞いてくれない」でしょう。

 この間入社して業務に従事した下の者、長と名の付く役職に就いた中間の人、トップもまた「上の決定、過去の決定に従って異議申し立て」をする人はいなかった。彼らはずっとずっと《下の者意識》を持ち続けたことがわかります。

 ここでいつもの一読法。
 立ち止まって「ここに《トップ》が入るのっておかしくね?」とつぶやきましたか。
 トップは最も上の人であって「下の者」ではないよと。

 この疑問に対する見解を直ちに書きます。
 あの自動車メーカーDは日本最大の自動車メーカーTの100パーセント子会社です。
 なので、トップである社長の上にはさらに上がいます。社長だって「下の者」、正確に言うと「中間の人」なのです。
 Tの社長は「知らなかった」と言っているようです。では、親会社の社長である彼はこの集団のトップか。[立ち止まってちょっと考えてみてください]

 ここで私はマスコミ・コメンテーターがあまり言わないことを書きます。
 最大の自動車メーカーのトップでさえ「下の者」であると。
 では、彼の上には誰がいるか、いらっしゃるか、おわしますか(^.^)。

 政府の役人です。経済産業省の官僚たちであり、いろいろなことを提言する有識者です。トップは大臣、そして自動車関係の法律を決める国会議員も「上の人」です。

 私には検査不正を働く気になった方々の気持ちがわかります。
 そんなに厳密な検査をやらなくても日本の自動車は壊れない、事故を起こさない。だから、ある程度検査をやれば十分だ――と考えたのではないか。

 余談ながら、私は貧しい年金暮らしなので格安中古(軽)に乗っています。
 数年前買ったとき16年落ちでした。今年車検であと2年乗るかどうか考えています。
 私の車は特に問題なく軽快に走ります。

 だいたい日本の中古車はアフリカや東南アジアで20年経っても故障なく走ると評判です。不具合があっても修繕して走る。穴が空いたり一部欠けてもガムテープ貼って走っています。

 ならば、製造する側はこう考えませんか。
 厳密な検査をしなくても問題は起きなかった。不正を10年、20年、30年続けてもトラブルはない。だから、これを(永遠に?)続けても大丈夫だと。

 この10年〜30年、下の者たちがやるべきこと、強く主張すべきことはなんだったのでしょう。もちろん不正ではなく正しい検査をやるべきでした。
 だが、それだけではない。「ここまで厳密な検査をしなくて良いのではありませんか」と、上の人に異議申し立てをすることです。

 たとえば、そのような主張をして変わった実例があります。
 以前自家用自動車の車検は新車3年、以後は2年おき、10年を過ぎると1年おきでした。それが1995年から「10年を過ぎても2年おきでいい」に変わりました(私は新車9年間は3年おきで良いのではと思っています)。

 メーカーがもしも「このような厳密な検査をしなくても大丈夫」と考えたなら、それを毎年主張すべきではないか。34年後どころか、10年くらいで実現したかもしれません。

 だが、日本的カーストにどっぷり浸かった《下の者たち》はそれをしなかった。
 メーカートップでさえ自分を下の者と思っているから、異議申し立ても意見も表明せず、黙ってひそかに検査不正を継続した

 あるいは、いつか変えてほしいから、せっせせっせと政権与党に献金するのでしょう。表は従ったふりをして裏では別のことをやっている。日本語ではこれを「面従腹背」と言います。
 いずれにせよ、私には「日本的カーストが34年間不正を継続する日本人を育てた」と思えてなりません。

 閑話休題。
 人はなぜ上に立つと、下だった時の気持ちを忘れたかのようにふるまうのか
 先輩面して教師面して上司面して親面(?)して子どもや下の者に意見して説教して命令を下すのか。本号のテーマはこれでした。

[ここで立ち止まっての一読法「作者なぜ?」があります。
 作者はなぜ自動車メーカーの検査不正について詳しく書いたのだろうか。今まであまりなかったような……と。]

 私が思いつく答えは3つ。
 一つ目は「忘れてしまう」こと。大人になったら子どもの頃のことはほとんど忘れてしまう。ところが、子どもを得て親となるや、思い出すのは「自分の親」からされたこと。
 たとえば、親に殴られた子どもは自分も子どもを殴って育てる。親からたくさん批判された子は子どもを批判し、叱責して育てようとする。

 それは自分が上で子どもを下に見ている姿。それが親というものだと考えている。
 自分が子どものころ親に服従したように、自分の子も親である自分に服従するべきだと思っている。だから、子どもが反発したら「何をぉ」と言って殴る、叩く。子どもは言うことを聞くしかない(小さいころは)。

 あるいは、子どもが何か失敗したり、だらだら過ごしていると小言、文句を垂れる。「そんなことじゃ将来ろくな人間にならないぞ」と脅す。理屈で負ける子どもは親の言うことに従う。親はいつまで経っても上の意識で子どもに対する。
 自分がかつて子供だったころ、そのような親に反発したり、不快に感じたことなどころりと忘れてしまっている……。

 二つ目。一つ目の答えはかなり昔の場合。子どもが親になるまでは通常数十年かかる。よって、子どもの頃のことは忘れて当然かもしれません。
 だが、学校や職場で新入生・新人が1年経つと途端に先輩面するのは親と子の関係と違う。

 たとえば入社後数年から10年経って「長」の名が付く役職に就く。部下ができる。するとパワハラを振るって上司面する上司になる。一年前、数年前の自分を忘れるとは思えない。どうも違う理由がありそうだ。それは何か。
 私なら軍隊の「新兵と古参兵」を例として説明します。

 私が子どもの頃五味川純平原作『人間の條件』(「条件」は旧字)なるドラマがテレビでありました。親と一緒に毎週見た記憶があります。年輩の方はご存じでしょう。「初めて聞いた」という方はネット検索してください。テレビ版(全26話)では加藤剛が主人公「梶」を、3部作計9時間半の映画では仲代達也が演じました。

 内容を無理やりまとめると、「戦争という非人間的世界で人間的に生きることは可能なのか」がテーマかなと思います。戦争とはもちろん第二次世界大戦のこと。
 子ども心に怖かったのは「古参兵による新兵いじめ」です。命令には絶対服従で、個人がミスや失敗を犯せば連帯責任を負わせる。反抗的態度を見せれば殴り倒す。

 私が高1のとき五味川純平作『戦争と人間』(3部作)の映画が始まり、こちらも見ました。その関係で小説『人間の條件』を読み、改めて衝撃を受けました。
 それは感動ではない、ただただ悲惨な世界であり、戦争の非人間性にすりつぶされ、壊れていく人間の心に絶望を感じたものです。

 古参兵というのは1年目はもちろん初年兵。それが2年目、3年目になると新兵の教育係として初年兵を指導する。1年前殴られ怒鳴られて育った彼らは新兵を殴って怒鳴って育てる
 理不尽な命令であっても従うのが軍隊。「突撃!」の命令が出たら死ぬとわかっても突撃する。逃げたり従わないと部隊が全滅する。よって、古参兵による新兵教育方法は当然組織が許容している……。

 この段階で詠んだ狂短歌が以下、

 〇 上はなぜ変われないのか 報復の感情 下に発散するから

 下の時に感じた不快、嫌悪、屈辱や怒り。それは上に対する報復感情として蓄積されている。だが、上に発散することはできない
 本当に殴りたいのは上のやつら。だが、できないから報復感情を下に発散する。『一読法を学べ』で取り上げた芥川龍之介『鼻』の「中童子」がそうでした(第23号「『鼻』の授業実践(後半)3」参照)。

 禅智内供から叱られた中童子は鼻もたげの板を持ってむく犬を追い回し、内供からしたたかに叩かれた。彼は内供への報復感情を弱いむく犬に発散した。
 あるいは、いじめられっ子(の一部)が年下の子をいじめたり、野良猫を殺すのもそうでしょう。

 三つ目。これが一番強い理由かもしれません。それはいつまで経っても「下の者」であること。常に上がいるのです。
 ちょっと意味不明? まー読んでください。

[先ほどの「作者なぜ?」――自動車メーカーの34年間にわたる「検査不正」について詳しく語ったことがここにつながります。つまり、前半は三つ目の理由の伏線でした。]

 新人も2年目のヒラも、係長・班長、部課長も必ず上がいる。子会社の社長はトップに見えるけれど、親会社の部長・取締役、社長が上にいる。親会社の社長だって政権与党の議員、官僚という上がいる。最終的にトップはただ一人――日本国総理大臣でしょう。

 もっとも、日本の首相でさえ、その上に(昔の院政のように)「影響を及ぼす元議員など実力者」がいれば、「下の者」かもしれない。あるいは、弱小派閥の長が総理になると、大派閥の意向を無視できない。そういう意味では総理でさえ下の者意識を抱えているかもしれません。

 1年目はもちろん最も下の者。2年目3年目になれば、下ができるから《上》にはなる。だが、自分の上には《上》がいるから、自分は下の者として生きるしかない

 ここで日本語の威力が如何なく発揮されます。上の人には下の者としての言葉を使い、下の者には上の意識をもって喋る、見下した態度で「自分が上である」ことを表現する。

 1年前、すぐ上の人がそうであったように、今またすぐ上の人が見本を示している。上の人は自分を対等に扱ってくれない。ならば、自分も下の者を対等に扱う必要があろうか。そう考える。

 自分は下の者として異議申し立てが言えなかった、言わなかった。だから、下の者が異議申し立てを言うことを許さない。下の者が「それはおかしいです」と言えば、上の人として否定する。理屈としてはそれが正しくとも、感情が許さない
 上には服従するのが学校の、社会の、我が社のルールだ。「おまえはなぜオレに従わないのだ」と感じ、「これは上が決めたこと。命令だ」と言いたくなる。下の抵抗が激しければ、いびっていじめてパワハラを駆使して集団から追い出そうとする。

 ここで(おそらくかなり少数になったであろうけれど)読者各位のつぶやきがまだ聞こえます。
 確かにそれが日本の実情かもしれない。だが、簡単には変わらないし、そもそも上下関係があるのは当然だ、悪いことではない。日本の伝統であり、敬語は美しい日本語じゃないかと。

 かくして日本人は上の人には敬語付きで喋り、下の者には敬語なしでしゃべる。下の者が対等の言葉遣いをしようものなら、「最近の若者は」とぶーたれ、「言葉の使い方がなっていない」と叱責する。

 そうなると、下の者には発言する自由も権利もない社会――日本的カーストが永遠に続く……。今の日本が続けばどうなるか。さすがに4度目の未来予想は再々再々掲載しません。再読してください。

 代わりに『人間の條件』の一部を書きます。私は「戦争下の人間」が描かれていると思っていました。が、あらすじを確認すると、最初は主人公「梶」が満州鉱山会社の仕事に苦闘する様子でした。会社は現地中国人を奴隷のようにこき使う。

 梶は労働条件を改善しようと進言する。だが、上層部の不正や違法行為が横行して梶の正義(これはむしろ良心であり、人権を守る気持ち)は敗北する。戦前・戦中、上が絶対で不正と違法行為があるなら、戦後もそうであり今も続く。ならば、日本では上の人と下の者意識、上下感情が未来永劫続き、トップの不正は消えることがない。そう思えます。

 38号「日本的カーストという絶望」の中、「現代日本身分制度五か条のご誓文」のところで「現代とはいつを差すのか」と語らせました。読者はこれを「2020年代の今のことだな」と解釈したことでしょう。

 筆者の思いは違います。この「現代」とは明治・大正・昭和前期の現代であり、戦中の現代であり、敗戦後の現代です。そして、戦後数十年たった現代であり、21世紀に入った正に今の「現代」である――だから、いつの時代か明示しませんでした。

 昨年ボスによる子どもへの性加害、音楽学校の実態が明らかとなり、一般企業から国会議員まで不正・違法が暴露された。それこそ昔から今まで日本人が上下意識を持ち続けたこと、美しき伝統の悪しき側面が噴出したことの証明です。

 大人が「上の人には服従し、下の者には発言する自由も権利もないよ」と子どもや若者にしつける限り、50年後日本の人口はほんとに半減するのではないか、と私は危惧しています。

 先ほど書いたように、二つ目の理由を考えたところで詠んだ狂短歌が以下。

 〇 上はなぜ変われないのか 報復の感情 下に発散するから

 そして、三つ目の理由を書き上げたところでさらに一首狂短歌を詠みました。

 〇 上はなぜ変われないのか 永遠に 上になれない下の者だから

 本節見出しの狂短歌としてどちらを使おうかと考え、決めたのは前者でした。
 変われない理由については「報復感情」の方がわかりやすい。「上になれない下の者だから」はちらと読んだだけでは意味不明。一読法クイズにもし辛い。
 そう思って最初の狂短歌を採用しました。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:また長くなって恐縮ながら、執筆裏話を少々。
 本稿はしばしば読者に「一読法で読んでください」と書いています。筆者の側から言うと、本稿には下書きがあるものの、いざ執筆となると、かなり修正、変更しています。そして、書き上げたら配信する。

 実は読者が配信された各節を読むとき、私も再読しています。そのとき私は一読法で読んでいます。自分の文章であっても。
 そして、立ち止まって「あれっ」とか「おやっ」とつぶやきます。その中には(筆者であるがゆえに)「しまった。書くのを忘れた」とか「これを書いていない」と気づくことがあります。「おいおい」てか?(^_^;)

 その典型例が「日本特有の上下関係を対等に変えるには上の人が変わること」と書いたところです。38号「日本的カーストという絶望」後記に「解決策」として「上の人が変わるべきだ」との結論を提起しました。

 その部分を読み終え、さらに39号『一読法の復習』を読んだとき、あることに気づいてつぶやきました。「しまった。上の人がなぜ変われないのか。その理由を追究していない。結論だけ書いて本論がないじゃないか」と。

 かくして、上の人が変われないわけを考え始め、書き始め、「どこに入れよう、表題は何としよう、狂短歌は?」とふくらませ、表題を『一読法の復習――の復習』としたわけです。

 皆さん方はこのような筆者を、裏事情をばらす筆者を軽蔑されるかもしれません。
 もっとよく練って全体構想を作ってから執筆しろ。推敲して完璧な作品として配信するべきじゃないか、と言うのではないか。大学教授が本稿を読めば、きっとそう言います。

 しかし(思うのです)、大げさながらこれが《人生》ではないかと。

 生まれて数歳になり、物心つき始めてから小中高大などの学校を経て社会に出た。そのどれかの段階で「我が人生の全体を構想した人」などいるだろうか。
 もちろん稀にはいる。小学校のころから夢を持ち、目標に向かって活動する人。小学校の卒業文集に「夢はオリンピックで金メダル」と書いて実現させる人。米大リーグの大谷翔平さんなど、正に人生設計を描き、実現させているアスリートでしょう。

 それができる人は(本人だけでなく許される家庭環境も)素晴らしいと思う。恵まれていると言えるかもしれない。
 だが、どのような人生も途中で「あれっ」とか「おやっ」とつぶやき、「これは失敗だった。こうすれば良かった」と思うことがある。順風満帆などあり得ない。そして、失敗だったと思っても、過去に戻ってやり直すことはできない。
 私の『続編』も人生のように書き継ぎ、成長しているのです。《過去》を書き直すことができないから、追加、追加の構成になっているのです。

 えっ、「などと言いつつ、つまりは失敗の言い訳だな」ですって?
 確かに……(^_^;)。

 [この部分、作者はなぜ「一読法の復習――の復習」などという妙な表題をつけたのだろうか」との疑問を抱いた人に対する回答です。]


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