『続狂短歌人生論』47 『杜子春』を一読法で読む 前半 その1


○ 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年03月13日(水)第47号


 『続狂短歌人生論』47 『杜子春』を一読法で読む 前半 その1

 さすがに前号を再読したり、『杜子春』を三度読めば、本稿と『杜子春』の共通点がわかったと思います。
 狂短歌「気づくこと あの親だけど愛された あの人だけは愛してくれた」はヒントだったし、前号末尾には以下のように「答え」さえ書いてありました。

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 私自身の過去を語れば、「愛されていないと感じたけれど、あの人だけは愛してくれたとわかる」具体例となる。ところが、それは長いので『続編』に採用できない。
 昨年12月には「もう具体例はないまま『続編』を終えよう」と決めた。自分以外のいい例が思いつけなかったからです。
 が、1月に発見しました。短い具体例、それが『杜子春』です。
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 すなわち、小説『杜子春』は(人間というものに愛想が尽きた=人間に絶望した)一人の若者が「母親だけは愛してくれた」とわかる物語なのです。

「本稿にとって最適な具体例が見つかった」とつぶやくもむべなるかな、でしょ?
 がしかし、それだけではありません。
 1月末に『杜子春』を読んだとき、「この小説は『続編』にとって最適であるだけでなく、最高の作品だ!」と叫んだものです。

 本稿『続狂短歌人生論』後半の大きなテーマ――変われない、変えられない人たち。
 自分が変わることの難しさ、身近の人を変えることの困難について語ってきました。
 日本的カーストを生み出している上下意識。これは日本語に基づいているから、変えるのはとてつもなく難しい。一朝一夕には到底変わらない。

 これらを語る際できるだけ「具体的に」と心がけたけれど、所詮論文的な表現に終始しています。
 論文が語るのは《理屈》です。最後に結論として「戦争は良くない。平和が大切」とか「いじめはやめよう」と主張する。これらは抽象語であり、ほとんど反論できない正しい理屈です。でも、戦争もいじめもなくなりません。

 残念ながら短い結論とか抽象的な理屈によって人を動かすことはできない。感情が認めて「ほんとうにそうだ」と心から納得する必要がある。そう感じさせるのが具体的な話です。小中高の校長先生は朝礼で理屈ではなく具体的な話題を語るべきです。

 本稿は論文ではなくエッセーだけれど、かなり論文的――抽象的に語られている。
 もっと具体的な話がほしい。それこそ人の感情に訴える力を持つから。
 後半のテーマである「変わること」について良い具体例はないかと探していた。それがようやく見つかったのです。

 すなわち、小説『杜子春』は《人が変われない》物語だった。それだけでなく、変われない理由と変わるきっかけさえ書かれていました

 これはもう触れないわけにはいかない。読者にもぜひ読んでもらって……おそらく浅い読みしかできないだろう(^.^)から、一読法による読みを詳しく語らねばならない。そう思いました。

 最終章の前に突然もう一章入れるなんぞ、「構想不足の下手なエッセー、赤面ものの情けなさ」と思います。そう批判されても挿入しないわけにはいかない。
 私にとって『杜子春』はそれほどの衝撃作だったのです(^_^)。

 なお、短く終える予定でしたが、一読法で解釈し始めると、原文も掲載するので、どうしても長くなります。特に前半(三節まで)を丹念に読んでいつもの長文となりました。
 ある部分で切って「一読法的クイズ」も取り入れたいので、今号より数日おきに配信することにします。
 また、原作も部分の読み直しをしたり、読みつつ考えることを勧めます。
 並置するため毎号「青空文庫」の原作とリンクしておきます(マウスを右クリックして小窓の「新しいタブをクリック」ボタンを押すと並置できます)。→『杜子春』


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1―――――本号
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

 注…「掉尾」は「とうび・ちょうび」、意味不明の方は検索を。



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』47 『杜子春』を一読法で読む その1 】

 それでは『杜子春』前号5つの問いに対して一読法はどのように考え、読みを深めたか、流れを書きたいと思います。
 『杜子春』は全六節から成り立つ短編小説です。本来なら第一節から順番に語るところですが、前号にて全体的な疑問・つぶやきを書いてしまったので、まずその点をピックアップして解釈しておきます。
 順番は杜子春の問題である(1)、(4)、(3)を中心に、仙人の側となる(5)(2)はその都度触れます。

 なお、私は『杜子春』を授業でやったことはないので、生徒とのやりとりは一部を除いて想定問答であるとご理解ください。また、重要部を除いて細かい語句の意味などは省略します。不明の場合は直ちにネット検索してください。
 もう一つ、『杜子春』は現代仮名遣いの方も現在ならひらがなとなる部分が漢字になっています。それはひらがなに転換して引用します。句点の多さが気になるものの、さすがにそれは原文のままとします。

 まず主人公「杜子春」について素朴な確認から。

(1) 杜子春は仙人から二度宝のありかを教えてもらって大金持ちになり、二度とも使い果たして一文無しになる。三度目に「もうお金はいりません。仙人になりたい」と申し出ます。
 しかし、杜子春が金持ちから一文無しになったのは二度ではなく三度です。それに気づきましたか。それはどこからわかりますか。気づかなかった人は一読法で読んでいません。

 これは冒頭をしっかり読んだか、問う質問です。
 以下『杜子春』冒頭。
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 ある春の日暮です。
 唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
 若者は名を杜子春といって、元は金持ちの息子でしたが、今は財産を費(つか)ひ尽くして、その日の暮しにも困る位、憐れな身分になっているのです。
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 杜子春は元「金持ちの息子」だった。そこから「財産を費ひ尽くして」極貧生活に落ちてしまった。

 このとき「門の壁に身をもたせて、ぼんやり空ばかり眺め」ながら考えたことが以下。
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「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、いっそ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」
 杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。
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 親の遺産を使い尽くしたこと、昨日までは誰かが泊めてくれたこと、だが、今夜泊めてくれる人はなく、何も食べていないので腹も減ってきたことがわかります。
 こうなると「死んでしまった方がましかも知れない」と「ぼんやり」考えている。

 ここの「ぼんやり」はしっかり傍線を引きたいところです。「ぼんやり」は二度出ています。二行目の「ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者」と「杜子春は相変わらず、門の壁に身をもたせて、ぼんやり空ばかり眺めていました」のところ。

 この言葉から杜子春はまだ本気で死のうと決意したわけではないことがわかります。「死んでしまった方がまし」も生き続けることと死ぬことを天びんにかけている。天びんは自死に傾いているけれど、そちらに振れ切っているわけではない。「かも知れない」も可能性であってまだ死のうと決めたわけではないことを表しています。

 こうした思いをまとめる言葉が「取りとめもない」です。この言葉はそれこそぼんやり知っているでしょう。しかし、私なら辞書やネットで意味を確認します。
 すると「取りとめもない」は「まとまりや目的・結論などがなく、バラバラとしたさま」とあります。つまり、どこかで誰かが泊めてくれれば、食事がもらえれば、まだ死ななくて済む。自死の気持ちは数ある思いの中の一つに過ぎないこともわかります。

 一読法では冒頭数行から十数行を念入りに読みます。ここだけは一度ならず二度三度と読む。短編小説――特に芥川龍之介の作品――は冒頭に豊富な情報が含まれています。
 華やかな都の様子や夕方になっても行き交う多くの人々。対照的に杜子春の「ひとり」ぼっちが浮き彫りになる。人は誰も杜子春のことを気にも留めない。
 この「ひとり」も冒頭に「一人の若者」、そして「ひとりさっきから」と繰り返して杜子春の孤立・孤独を強調しています(お見事!)。

 これだけ豊かな内容を持っているのに、ここをさーっと読んでしまう。
 余談ながら、私は文学作品とはフランス料理みたいなものと思っています。あれってどう見ても少ない(^.^)。でも、時間をかけてじっくり味わうと、一時間後にはお腹いっぱいになって「おいしかった」と思う。

 対してさーっと読む通読とは食事を味わうことなくがつがつ食らうようなもの。結果頭には何も(?)残ってなく、読後「杜子春は二度金持ちから一文無しになった」と語る……。
 これでは理解度40しかないと言われても仕方がないでしょう。通読の弊害噴出です。

 ただ、『一読法を学べ』で何度も書いたように、私は読者を責めているわけではありません。
 責めているのは「まず通読」の三読法を小中高の授業で教え続けた日本の国語教育です。何の反省も検証もなく、変えようともしない文部官僚・有識者・国会議員……読者諸氏はその犠牲者です(ぷりぷり(^_^;)。

 それはさておき、第三節まで読めばその後仙人が黄金のありかを教えて二度金持ちになり、また一文無しになる。つまり、杜子春は計三度金持ちから極貧に落ちたことがわかります。

 後に仙人の側からこの物語を考え直すなら、仙人が最初に杜子春と出会ったとき、「彼は杜子春が以前金持ちの息子であることを知っていただろうか」と問うこともできます。

 ここで私なら中国発祥の漢字について「3つ集まるとたくさんの意味になる」ことを話しておきます。
「漢字で一本の木は《木》、2本で《林》、3本で《森》。では木が4本の漢字は? ないよね。つまり、三本の木が集まった森は数えきれないほどたくさんの木々ということだ。
 同じような漢字に《品》とか大衆の《衆》がある。《衆》ってお日様の下に人が3人いる様子を表している。1、2、と数えて3に来たら『たくさん』とイコールなんだ」と。ちなみに「姦(かん)」もありますね。「姦しい」と読みます。[読めなければ検索を]

 また、冒頭部において(先を読むことなく)確認したり、ふくらませておきたいのは「杜子春がたぶん一人っ子であったこと」、「どのような親だったか・何か商売をしていたのか・先祖伝来の金持ちだったか・一代で築き上げたか」、「なぜ杜子春は親から譲り受けた財産を使い切って無一文になったのだろう・両親は杜子春をどのように育てたのだろう」との疑問。先は読まないものとして可能性を考えます。
 生徒からいろいろ(予想される)意見を引き出したいところです。

 ただ、読み進めれば、無一文になったわけはわかるけれど、他に関しては言及がないのでわからないままです。このことを作品全体として解釈するなら、杜子春は具体的な一人の人間というより、《金持ちの息子が三度無一文になった》という、その点だけで語られているとも言えます。

 以前本稿では一人っ子について以下のように書いています。
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 一人っ子は愛の獲得競争と無縁に思える。同胞(きょうだい)がいないのだから、両親と祖父母の愛を独占して全ての家族から愛されるだろう。一人っ子は愛の欠乏を感じることなく育つはずだ。
 一般的に一人っ子はお人好しで疑うことを知らないと言われる。常に愛されていれば、確かに人の愛を疑うこともあるまい。
 半面わがままに育ちやすいとも言われる。いつも甘やかされ、何でも許し受け入れられれば、そりゃあわがままな人間になりがちだろう。一人っ子政策によって大量に生み出された中国の一人っ子は「小皇帝」と呼ばれているらしい。(第13号) ***********************************

 これはごく一般的な見方であり、杜子春はどうだったか。そこのところは原作に書かれていません。
 読み進めた後(二度目の金持ち→貧乏、三度目の金持ち→貧乏)ここに戻って杜子春はなぜ親の遺産を使い切って一文無しになったのか、一人っ子との関連で考えてみるのもありでしょう。
 少なくとも、二度目三度目と同じように最初もぜいたくをして使い切ったであろう――と推理できます。

 では杜子春はどうすれば良かったのか。現代のみんなはどうするか
 これもちょっと考えてみたいテーマです。通読した後でなく[一]〜[三]の途中で。

 貯金するとか宝石・金塊を買い込んで隠す。積み立てニーサなど投資の話題にふくらませることもできます。
 私なら政府日銀がこの30年利子をほぼ0円としたことが投資話や詐欺に引っかかる理由だと問題にするでしょう。ただし、授業では深入りしない程度に(^_^;)。

 ちなみに、このような授業展開は一般の人だけでなく、生徒も国語の先生も不要だと言うかもしれません。
 しかし、これは小説という架空のお話を、他人ごとではなく《自分のこと》として――「自分だったらどうか」と考えるための作業です。

 その後読み進めれば、仙人から黄金をもらった後の表現で「一文無しになった経緯」が明かされます。
 その部分が以下。
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・大金持になった杜子春は、すぐに立派な家を買って、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮らしをし始めました。……[細かい描写はじっくり味わいたいところ]

・するとこういう噂を聞いて、今までは路で行き合っても、挨拶さえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました
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 授業ではもちろん「玄宗皇帝」について調べるけれど、本稿では「みなさん検索してください」に留めます。

 この部分の重要部として傍線を引いてふくらませたいのは「洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない」のところ。
 国語表現的にも「〜ない(ものは)〜ない」という否定の否定は《強い肯定》の表現だと解説します。

 私なら「一体何人の才子や美人、すなわち金持ちの息子や娘が杜子春の知り合いになったのだろう。全員というのだから、数百人はいるんじゃないか」とまとめます。
 かつて中国の「都」は日本の首都・東京などと違ってかなり狭かったことは触れておきたいところです。

 このぜいたくな暮らしと金の使いっぷりはおそらく親の遺産のときも同じだったと考えられます。結果、以下のようにお金が消えていく。
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 しかしいくら大金持ちでも、お金には際限がありますから、さすがに贅沢家(や)の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。
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 仙人からもらった黄金の一度目も二度目も、同じようにぜいたくして同じように使い切って貧乏になったことがわかります。

 当然一読法でなくても、次の疑問がわく。

(4) せっかくの財産を三度も失うなんて杜子春は愚かでダメ人間か

 これについて生徒に考えてもらうことになります。
 多くの生徒は「愚かだ・ダメな人間だ」と答えるでしょう。
 誰かが「そうではないかもしれない」との意見と根拠を表明したら、それをふくらませます。
 が、いないときは以下の例を取りあげます。

 私はある男子生徒A君を指名して
君に宝くじが1億当たったらどうするか」と聞きます。
 隣の生徒B君は彼の部活の親友だと知っています。
「B君に宝くじが当たったと話をしたら、いくらあげるかい? 仲がいいんだから全くあげないってことはないよね」と。
 すると、A君はしばし考えて「10万あげる」と答え、クラスから失笑がもれます。
 B君はいいやつだから、「オレはそれくらいでいいよ」と殊勝なことを言います。

 これは実話で、私は「何かを得たら何かを失う――大金を得たら友情を失う」例として話をしました。
 そして「みんなは笑ったけど、A君は正直である」こと、もしも親友であれ、そうでない知人であれ、「宝くじで1億当たった」ことを打ち明けたら、相手は少しくらいもらえるのではと考える。親友ならなおさらだと話して以下のように続けます。

「だが、分け前が少なければケチな奴だと思われる。100万あげれば満足してもらえるかもしれない。ただ、100万を10人にあげればもう1000万だ。知人友人の前に両親とか同胞(きょうだい)とか親戚のおじさん、おばさんとか。気前よくあげていたら、1億くらいすぐなくなってしまう」

 そこで「じゃあどうするかい?」と聞けば、多くの生徒は「宝くじが当たったことを秘密にする」と答えます。今なら一等前後賞合わせると6億だから、6億でこの話を進めましょう。

「じゃあ6億全部貯金とか投資に回して全く使わないかい?」と問えば、さすがに「少しは使いたい…」と返答がある。
「そうだよね。6億手にしたら、せめて1億くらい使いたい。これは人情だ。私なら豪邸を建てるか買う。ベンツやポルシェを買って乗り回す。するとどうなる?
 私のことは町内のうわさになる。『どうもあいつは大金を得たらしい』と。
 知人友人たちはそれを全く知らされていない。いくら秘密にしても使えば漏れる、うわさになる。

 問題はここから。もしかしたら知人友人たちから聞かれるかもしれない。宝くじが当たったんじゃないかと。いや、そんなことはないとしらを切る、当たっていないとうそをつき続ければどうなる? 友人関係はぎくしゃくする。
 また、このようにも言える。単なる知人が友人になるのはお互い嬉しいことがあったら喜びを共有し、悲しいことがあった時は悲しみを共有する。それが親友だ。自分の弱みとか悩みを打ち明けるのは相手を信頼しているからだ。

 だが、宝くじが当たって大金を得たことを秘密にすれば、友人と歓喜を共有することがない。そして、彼は死ぬまでほんとのことを話せない。うそはしばしばうそを呼ぶ。友人関係はたぶん壊れ始める。あるいは、付き合うことをやめる。もう以前と同じ親友ではあり得ない。

 もしも秘密とうそに耐えきれず、何年か経って『実はあのとき宝くじが当たっていた』と打ち明けて友情を復活しようとするかもしれない。だが、相手は『どうしてあのとき言ってくれなかったんだ。自分は別に分け前なんか求めなかったのに』と思い、信じてくれなかった友にがっかりする。だから、友情が復活することはない……」

 このように語った後、私は「どうだい。大金を得ると友情が失われるんだ。わかっただろ」と締めます。そして、『杜子春』に戻ります。

 彼は三度大金を手にしている。その三度で大金を得たことを秘密にしたか
 一度目は大金持ちだった両親の遺産だから誰もが知っている。それをぜいたくして使い尽くした。
 二度目、三度目はひそかに手に入れた大金だから秘密にできたはず。だが、杜子春は秘密にしなかった。なおかつ豪邸を買い、ぜいたくな暮らしを始めたのだから、すぐに知人友人の知るところとなった。そして、杜子春は金がなくなるまでその暮らしを続けた。三度目も同じことを繰り返した。

 ここからわかる杜子春の人となりは……

・杜子春はうそつきではない。正直な人だ。
・杜子春は知人友人を大切にしている。訪れる人を拒んでいない。共に酒盛りをしている。
・だが、杜子春に親友はいない。一文無しになったら誰も助けてくれない。
杜子春はやさしい

 杜子春は「やさしい」とのまとめは異論が噴出するかもしれません。
 生徒が「そんなことはわからない、書かれていない」と言うようなら、私は「いや。杜子春はやさしい若者だ。むしろ善良と言えるかもしれない。それはどこでわかるか。探してごらん」と部分の再読([二]節)を促すでしょう。

 それが以下。杜子春が一文無しになった時、知人友人たちに対して「薄情だ」と感じる部分です。これは杜子春が落ちぶれた状況を(客観的に)描いているだけのように見えるけれど、返照して杜子春が金持ちだった時、どのような人だったかを推理できます。

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 一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。そうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさえ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸すどころか、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
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 この「一つ」を続ける表現の巧みさ、味わいたいところです。「挨拶一つ(しない)」「一文無し」「(彼を泊めてくれる知人友人の)家は一軒もない」「椀に一杯の水(さえ恵んでくれない)」。
 先の杜子春が金持ちになった時の表現「洛陽の都に……杜子春の家へ来ないものは、一人もない」と見事に対応させています。
 面白いことに以前の「一人もない」は否定なのに《全員訪ねてきた》という意味。一方、極貧となった杜子春を顧みることもない「一軒、一杯の水もない」は全くないという全否定です。
 まるでテレビカメラの映像のように、「広い都」→「宿を貸そうという家」→「椀に一杯の水」と、上空から杜子春の手元に降りて来る。それが目に見える(お見事!)。

 ここで確認しておきたいのは一文無しになる前には貧乏な状態があること。豪邸は当然維持費用がかかるから手放すはず。もしかしたら小さな家に住んで、まだ友人たちは訪ねてきたかもしれません。
 だが、宴会はできない、豪勢な食事も出ない。となると、どんどん杜子春から離れてゆく。そして、杜子春は小さな住む家さえ失う。

 私は「では、杜子春は貧乏だがまだ住む家があったころ、訪ねて来る人にどのような態度を示したか。この部分から次のように想像できる」と説明します。

 杜子春は知り合いを家に泊めてあげただろう、ご飯を食べさせただろう。自分以上に落ちぶれた人が来れば、一杯の水を恵んだのではないか。たとえば「食事を恵むことはできませんが、一椀(ひとわん)の水ならあげられます」と言って。だから、杜子春はやさしい人とまとめられるわけです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:第三節末尾まで仙人は「老人」と書かれています。杜子春は仙人になりたいと打ち明けるとき、「隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜(ひとよ)の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ないはず」と言います。

 しかし、私なら(本論からは若干それるけれど)「仙人とは限らないんじゃないか」と生徒に質問するでしょう。つまり、「黄金は彼が作り出したのではない」ということです。もちろん本文中に根拠があります。それはどこか。答えられなければ……まー再読しなくて結構です(^.^)。ちょいと考えてみてください。


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