『続狂短歌人生論』49 『杜子春』を一読法で読む 前半 その3


○ 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる


|本文 | 『続狂短歌人生論』トップ |HPトップ|



ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年03月18日(金)第49号


 『続狂短歌人生論』49 『杜子春』を一読法で読む 前半 その3

 前号後記一読法クイズの答えです。
 杜子春が変われない人なら、彼の周囲にも変われない人、変わろうともしない人《たち》がいた。
 それは「朝夕遊びにやって来る友だち・洛陽の都に名を知られた才子や美人」たち。すなわち「お金持ちの息子や娘たち」です。彼らも三度同じことを繰り返します。

 [ここで「えっ、一人じゃないの? 一人だと思ったからわからなかった」と答えた方。
 小中のテストで設問を早とちりして間違ったり、答えを一つと思って減点されるタイプだったでしょうね(^.^)。
 別にいじわるなひっかけ問題ではありません。金持ちの子女ひとりひとりに甲さん乙さんと名前があれば、それを答えるでしょう。名前がないのだから全体を答えるしかありません。大衆の「衆」と同じです。]

 青空文庫『杜子春』は→こちら


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3―――――本号
 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
===================================
****************** 「続狂短歌人生論」 ***********************

 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』49 『杜子春』を一読法で読む その3 】

 杜子春の友人たちは杜子春が大金持ちのときは蜜や砂糖にたかるアリのように集まり、やがて杜子春が貧乏になり、一文無しになれば離れて見向きもしない。彼らもまた三度同じことを繰り返した。

 生徒に「こんな人たちどう思う?」と聞けば、「友達甲斐がない、友達とは言えない、ひどいと思う」と感想が返って来るかもしれません。
 ただ、彼らに対して生徒も読者も(?)「愚かだ・ダメ人間だ」とは言わないでしょう
 むしろ賢いのではないか。もっと言えば「ずる賢い」だろうか。「要領がいい」という言葉もある。うまく立ち回っていい目にあって自分の財産を失うことなく生き延びているとも言えます。

 私は以前(46号後記にて)「杜子春はフツーの人であり、正直で善良な人間です。みなさんと同じように」と書きました。
 確かに杜子春は愚かかもしれない。だが、悪人ではないし、悪人になろうと決意することもない
 [この言い方、芥川龍之介のある小説を意識しています。わかりますね]

 杜子春は落ちぶれた二度目も三度目も「泊まるところがなくて困っている」と言う。それ以前を考えるなら、一文無しになったとき「強盗をやって手に入れた金で宿に泊まる」選択だってあり得る。あの「羅生門の楼閣で老婆の着物をはぎ取って闇に消えた下人」のように。
 だが、杜子春はかつての友達を頼る。バカにされただろう、叱責されたかもしれない。
 それでも、杜子春は悪事を働いて金を得ようとはしない

 杜子春同様、彼の周囲でうまく立ち回る金持ちの子女たちも悪人ではない。友達甲斐はないし、善人と言いたくないけれど、悪人ではない。
 ということは? 周囲の人間もみなフツーの人だ。

 では、杜子春が「人間は皆薄情だ」と言って友人たちに愛想をつかす(=絶望する)ところはどう解釈されるのか。この告白はとても説得力がある。
 私なら次のように話して考えてもらいます。

 杜子春は「贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想(あいそ)がつきた」と打ち明ける。彼はさらに詳しく説明して次のように言う。
---------------------
「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。やさしい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」
---------------------
 ここでふくらませたい、ふくらませるべき問題が「人間はみんな薄情」かどうか

 私なら、漢字の成り立ちにおける「三つになるとたくさんの意味を持つ」を伏線として次のように語ります。

 杜子春が無一文になったときのことは詳しく書かれていないが、《三度はたくさん》を思い起こせば、以下のような流れが想像できる。

 杜子春が一文無しとなり、住む家もなくなったとき、知人友人宅を訪ねて「今夜泊まらせてくれないか」と申し出る。もちろん断った金持ちはいるだろう。が、みんながみんな断りはしなかったのではないか
 何しろ杜子春の知人友人は「洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない」とあるのだから数百人はいるだろう。

 おそらく一度目は「いいよいいよ」と快く迎えてくれた。食事もごちそうをふるまってくれた。数日から一週間泊めてくれたかもしれない。
 だが、「そろそろ帰って」と言われれば、出て行かざるを得ない。すると、別の知人友人を頼る。それが一回りして二巡目になった。いやな顔をされつつ「今夜一晩だけなら」と言われる。ありがたいと一晩泊めてもらった。粗末な(下人用の)夕食も準備された。

 それが二回り目なら、三回り目に「泊めてほしい」と頼んだ時、彼らはいろいろ言い訳をして「今夜は無理だ」と断る。でも、まだ泊めてくれるところはあった。
 ところが、四回り目になると、もはや誰も泊めてくれない。食事もめぐんでくれない。
 杜子春が「ではせめて椀に一杯の水を」とお願いすれば、「あんたにあげる水などない。帰れ帰れ」と追いやられる。あるいは、門を固く閉じて誰も出てこない……。

 これは別に根拠のない空想ではありません。作品に「一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました」とある。つまり、住む家がなくなった当初、杜子春を泊めてくれる人がいたことが隠されている。

 このように三度同じことを続けたら、人はそれが今後永遠に続く(と考える)。だから、友人たちは杜子春に冷たくなった。二度と来てほしくないから。
 これは稼ぐことをせず、お金を使い続けた杜子春の自業自得とも言える。
 だが、杜子春の気持ちもわかる。「家やお金があるとき、私は友達がくれば泊めたし、食事もふるまった。冷たくしたことはなかったのに」と思っただろう。

 ここで生徒から「なぜ杜子春は働かないのだろう?」との質問が出るかもしれません。
 いいつぶやきですね。みなさんはなんと答えますか。[答えは後記に]

 私は次の例も話します。
 別に漢字のたとえだけでなく、日本の刑事ものドラマだって人の弱みを握って《金をせびる輩》がよく登場するじゃないか。一回限りだと言いつつ、彼は「もう一度頼むよ。これっきりだ」と言って二度目も金をせしめる。
 だが、またやってくる。脅された方が「これっきりだと言ったじゃないか」と怒れば、「いいのかい。ばらせば大変なことになるぜ」と脅してまた金を手にする。
 そのとき脅迫された善良なる市民に殺意が芽生える。「このままだと一生たかられる」と思って。

 私は「だから、人の弱みにつけこんで金を手に入れようと思うなら、ゆすりは二度か三度でやめなければならない。四度目に金を得たときには同時に命を失っている可能性が高い」と結びます(^.^)。
 何かを得ると何かを失う。これは(ゆすりで)大金を得ると命を失う例でしょうか。

 あるいは、会社の人間関係で居酒屋とか遊びを誘って声をかける。「今度どうだい?」と。一度目に「用事があるから」と断わられ、二度目また声をかけて断られ、三度目も断られたら、もう二度と声をかけないだろう。それに似ているとも話をします。
 人の弱みにつけこむゆすりだって三度で終わりにしていれば、相手から殺されることはないでしょう。

 冒頭に掲げた狂短歌は以下、

 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

 ――この末尾には次の言葉が続きます。
 「四度同じ過ちを犯したら、もう救われない」と。

 このように考えると、「老人=仙人」が「頭→胸」と来てもう一度杜子春に「腹」のところを掘ってみろと言うわけがわかります。(なぜ杜子春か、その疑問は置くとして)仙人にとって杜子春に黄金のありかを教えるのはまだ「三度目」なのです。つまり、まだ救ってもいいってこと(^.^)。

 対して杜子春にとっては(また黄金を得て金持ちになれば)これは四度目であり、四度目の無一文も見えている。さすがに「このままではダメだ」と感じて不思議ありません。


=================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:さて、杜子春はなぜ働かないのか。それは彼が金持ちの子として生まれたから。
 杜子春は働いて金を得るとはどういうことかわからない。どうやって働き口を探すのか、探す能力も職人になる技術も持っていない。商売だって(おそらく)これから学ぼうかと思う矢先に両親が亡くなったのかもしれない。番頭、使用人はみな出て行った(?)。
 幼いころから食事はいつも出てきた。欲しいものは親が何でも買ってくれた――か、(厳しい親なら)「贅沢は厳禁」と言われ、ちょっとしか買ってくれなかった。

 本稿との関連で語れば、前者なら親の愛は空気になってありがたみを感じない。後者なら「うちは金持ちなのに冷たい親だ」と思って親の愛を疑う。
 そして両親が亡くなり、自由に使える遺産が手に入った。杜子春にできることはそのお金を使うことだけ。二度ならず三度も大金を得たけれど、彼にはやはり使うことしかできなかったと解釈できる。作者芥川龍之介はそれをやや極端に描いた――と言えるのではないでしょうか。

 もう一つ。前号にて「杜子春同様三度変われない人は誰か」と問題にしました。
 そのとき以下の質問も可能でした。「杜子春は知人友人に愛想をつかした」とあるが、作品にはむしろ「杜子春に愛想をつかした」人がいる。それは誰か。
 さすがにおわかりでしょう。あの「人たち」です。


次 50号 へ
ページトップ

 以下のサイトよりメルマガ登録ができます(無料)。↓

  『ゆうさんの狂短歌ジンセー論』メルマガ登録



『続狂短歌人生論』トップ | 6 狂短歌ジンセー論トップ | HPトップ|




Copyright(C) 2024 MIKAGEYUU.All rights reserved.