『続狂短歌人生論』50 『杜子春』を一読法で読む 前半 その4


○ やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年03月18日(月)第50号


 『続狂短歌人生論』50 『杜子春』を一読法で読む 前半 その4

 一読法で読む『杜子春』――相変わらず長文を「変えられない」筆者(^_^;)で恐縮ながら、解説はまだ前半(一〜三)です。

 ちなみに、『杜子春』全六節は前半と後半(四節以降)に分けられます。それは「全体を通読したから」と思われるかもしれません。多くの(三読法)国語授業が通読後、前半後半に分けて精読を開始します。

 しかし、一読法は先を読みません。第一節で立ち止まり、二節で立ち止まり、三節末に来たとき、「杜子春は三度も大金を得て三度もそれを失う。なんて愚かな。だが、三度で気づいて仙人になりたいと思う。ここから話は違う方向に進む」とわかります。だから、「ここまでを前半にしよう」とまとめるわけです。

 そして後半を読み進めて、さらにまた違う展開が始まったら、そこまでを「中盤」として「第三節までは序盤としよう」と切り変えます。上中下とか序盤中盤終盤の三部構成かと思って「これから終盤が始まるな」と予想を立てるわけです。
 起承転結のように四つに分けることもあります。切れ目は丁寧に読んでいれば自ずとわかります。

 たとえば、禅智内供の『鼻』も当初は長い鼻に苦しむまでを前半、それを短くするところから後半開始。それに成功して「さて、どうなるだろう?」と思う。事態が転換するので、そこまでは「中盤」に変更して「終盤」の開始。
 そして、周囲の意外な(内供にとっての)反応と暴力事件まで発展して最後に鼻が元のように長くなる「結末」を迎える。ならば、「中盤」までは「3つに分けるべきだ」と振り返る。かくして『鼻』は以下のように起承転結の4つに分けられる、と最終結論を出すわけです。

 起=内供の鼻が長くて苦しんでいること。だが、内供はそれを誰にも打ち明けない。
 承=鼻を短くする荒療治をして成功したこと。これでもう誰も嗤うものはあるまい。
 転=周囲の意外な反応、内供はそれを敵意と見なして報復し暴力事件に発展。
 結=内供の鼻が元のように長くなったこと。これでもう誰も嗤うものはあるまい。

 これまた作者芥川龍之介の巧みな短編創作法と言えるでしょう(お見事!)。
 一読法なら、通読しなくても転換部分に来たら「それまでをまとめ、次の展開を予想する」ことで、この起承転結に気づくことができます。

 さて、今号は前半における「老人」=「仙人鉄冠子」の思いを探ります。

 [この前置きを読んだとき、「そうか。なら『杜子春』の構成はどうなんだろう」とちょっと立ち止まって考える――そんな癖をつけたいですね(^_^)。たとえば、以下。

 一二三は「前半」、四以降は後半……とした。(すでに読者は後半を読み切っているので、杜子春が仙人になろうとして失敗することを知っている。結果峨眉山で杜子春を襲う試練(四節)、次いで地獄に堕ちて「おっかさん」の言葉を発するところ(五節)まで来て第六節は「結末」が描かれている(ことに気づく)。
 ということは(?)……一二三は《起承転結》の起であり、四が承、五が転で、六が結か、と思う。
「何だか起がえらい長いなあ」と思えば、一が起で二三が承、四五が転で六が結かと修正する。

 私はどちらでも構わないと思います。なんにせよ四段階で事態が流れる。芥川龍之介はそれを描いたということです。
 ちなみに、これをつくりものの世界と思ってぼーっと現実世界を眺めるのが何も学ばない悪い癖。現実の事件・小さなトラブルも「起承転結で流れているかも」と思って未来を予想する。それが賢く「明のある」人の生き方です(^_^)。→『一読法を学べ』第23〜24号参照]

 青空文庫『杜子春』は→こちら


3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
 〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高

3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
 〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?

3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3
 〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる

3月20日(水) 50号 『杜子春』を一読法で読む 前半その4―――――本号
 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』50 『杜子春』を一読法で読む その4 】

 私たち《ニンゲン》は「人間」の漢字が示す通り、人の間で生きている。離れ小島や山奥で一人暮らすなら、そこが温暖な気候で住む家と充分な食糧、水と火さえあれば、一つを除いて何の悩みもないでしょう。
 が、人の間で生きる限り――小説がそれを描く限り、主人公だけ取り出せばいいとはならない。必ず周囲の人(登場人物)との間で様々なことが起きる

 このような当然のことを敢えて書くのは小説『杜子春』の前半を読んで、杜子春のことだけ取り出してあれこれ考えたり、感想を言うことに違和感を覚えるからです。
 特に杜子春が感じたこと、語ることを「真実」として《正しいことが語られている》と受け取りやすい。他の可能性があることを考えない

 前置きで取り上げた『鼻』の主人公禅智内供もそうでした。彼は周囲の僧俗がみんな「鼻の長い自分を嘲笑している」と思い込んで他の可能性を考えなかった。ならば、読者としては「他の可能性を考えつつ読みたい、自分だったらどうするか考えて読む」――それが一読法授業です。
(『鼻』の一読法的解釈については『一読法を学べ』実践編U第19号〜)

 『杜子春』には単なる脇役以上と言える「都の金持ちの子女」と「仙人鉄冠子」が登場します。
 杜子春が三度大金を失う愚かな人間とまとめるなら、金持ちの若者や娘だって杜子春と同じように三度たかったり冷たく対応する。それを「ひどい、友達甲斐がない」と批判することはたやすい

 だが、杜子春が貧乏から一文無しになったとき、三度「泊めてほしい、食事を恵んでほしい、せめて一杯の水を」と頼って来たとき、相手は徐々に冷たくなる。(金持ちではない)我々だって同じ対応を取らないか。これもまた人間としてよくある姿でしょう。つまり、知人友人たちは三度助けてほしいとやって来る杜子春に「愛想をつかした」のです。

 杜子春はそのことに気づいて友人の家を巡るのは二度目、三度目でやめるべきだった。四度頼ったから誰も助けてくれない羽目になった。そうも言えます。
 だが、前号後記で書いたように、杜子春にはこれ以外の生き方ができない。

 では、なぜ作者芥川龍之介はそのような(個別の)詳しい事情を『杜子春』で書かなかったのでしょう。これに関して生徒から次のような「作者なぜ?」の疑問が提起されるかもしれません。
「確かに杜子春の知人友人たちは最初から一文無しの杜子春に冷たくしたわけではないかもしれない。その方がリアルだ。でも、芥川龍之介はなぜそのように描かなかったのだろうか」と。

 これに関して以下二つの答えが考えられます。
 一つは「このように詳しく描写すると、長くなって短編でなくなってしまう。杜子春が一人っ子かどうかとか、親が金持ちになった経緯なども書いたらどんどん長くなる。短編にする意図があれば、いろいろな表現は切り捨てる」

 もう一つは「知人友人たちの態度を薄情だと感じたのは杜子春であり、彼がどう感じたかを書けばいい」。つまり、実際のところどうだったか、どのような経緯だったかは問題ではないと。
 私なら生徒に次のような質問をします。
「たとえば、あなたのことを親とか先生がいろいろ批判したり誉めたりするとき、先にいい点を言って最後に悪いところを言う。あるいは、逆に先に悪い点を言い立てて最後に良い点を誉める。誉めるのも悪い点を言うのも同じ1だとすると、どちらがより誉められたと感じるかい?」と。
 生徒はほとんど「最初より最後に誉められた方」と答えます。

 つまり、杜子春は貧乏になって住む家もなくなったとき、暖かく迎えてくれた一度目、二度目より、冷遇された三度目、四度目の方が強く心に残っている
 特に知人友人は数百人もいるのに、最後はたった一人さえ泊めてくれない、食事も出されず、水さえ恵んでくれない。その印象が強いので「人はみな薄情だ」と黒一色に塗りつぶす。
 今無一文になって街角にたたずむ杜子春にとって誰かから「薄情でない人がいるかもしれないよ」などと言われても肯定できない。杜子春は「いや、全ての人は薄情だ、冷たい」と言い張るだろう。作者はそれを描いたと。

 閑話休題。
 杜子春に充分対抗できる登場人物「老人=仙人鉄冠子」について表現をたどっておきます。
 仙人そのものについてはネット検索してください。ちょうど『空海マオの青春』論文編(29-30号「山岳修行」)で道教・神仙思想について詳しく語っています。おヒマなら一読を。

 『杜子春』前半の大きな疑問は「仙人はなぜ杜子春に黄金のありかを教えて助けたのか」――これに尽きるでしょう

 第一節の段階では杜子春が「今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えている」と正直に答えるのを聞いて「可哀そう」と思ったからと書かれています。これは一般的には「乞食」であり、今なら浮浪者・ホームレスと呼ばれます。
 いくら都であっても、そのような「乞食」は何人もいるだろう。なぜ仙人は杜子春に黄金のありかを教えたのか。私ならいろいろ推理を言ってもらって次の選択肢にまとめます。

 [なぜ老人は杜子春に黄金のありかを教えたのか?]
 A 華やかな都だから乞食は一人もいない。杜子春が目立っていた。
 B 杜子春が正直な人間でかわいそうだと思った。
 C 仙人の気まぐれ(^.^)。
 D その他[       ]。

 杜子春は「さすがに眼を伏せて、思わず正直な答えをしました」とあるように、普通の人は(恥ずかしくて)困っていると正直に答えない。仙人は正直な杜子春がかわいそうだと思った――と読み取れば、Bが正しいように思えます。

 だが、実はAとC、Dも捨てがたいのです(Dは後述)。
 Aの可能性は以下。
 私は二十年ほど前友人と二人で中国西安(かつての長安)観光をしたことがあります。
 [これもおヒマなら詳細は→「西安宵の明星旅」8-9にて。西門の城壁など画像もあります]

 西安に今残っている城壁は明代のものですが、それ以前の長安も一辺数キロの城壁に囲まれた都城でした。城壁は周囲約14キロの長方形であり、壁の高さ12メートル、底の幅18メートル、頂部の幅15メートルもあって壮観でした。

 洛陽も全盛期は一辺4キロの城壁に囲まれていたようです。その城壁の中に皇帝の宮城や家臣、商人の館があり、東西の市場があった。つまり、城壁内には中流以上の人々が住んでいるとすれば、そこに物もらいの乞食はいなかったかもしれません。城壁の外に田畑を耕して暮らす貧農とさらに下層の乞食が住んでいたのではないか。
 杜子春が西門の外でたたずんでいたというのはもはや城内では暮らしていけない。今後城を出て外の貧農か乞食の群れに行くか(あるいは自殺するか)迷っていたかもしれません。ぼんやりたたずむその姿は仙人の目を引いた――と考えられます。

 C「仙人の気まぐれ」説は第三節末尾にある鉄冠子の漢詩が根拠です。
 三行目に「三たび嶽陽がくように入れども人らず」(三度洛陽の都に入ったけれど、人は私が仙人だと気づかない)とあります。

 ということは、仙人は初めて洛陽に来たとき、杜子春と会って黄金のありかを教えた。それから三年後、二度目に洛陽を訪れ、杜子春がまた西門でぼんやりしているのに気づいてもう一度黄金のありかを教えた。
 そして三年後三度目の洛陽訪問。(ちょっと文学的表現を拝借するなら)「なんとあの杜子春がまた西門の外にたたずんでいるではないか」と思って杜子春に声をかけた

 よって、47号に提示した「仙人が最初に杜子春と出会ったとき、『彼は杜子春が以前金持ちの息子であることを知っていただろうか』」との疑問は「知らなかった」とわかります。二人はほんのちょっとしか言葉を交わしていないので、仙人は杜子春の生い立ちなど詳しく知る機会はありません

 同時に仙人は黄金のありかを教えたのが杜子春であると承知していたこともわかって次の部分が納得できます。
 私は前号末尾で以下のように書きました。
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 このように考えると、「老人=仙人」が「頭→胸」と来てもう一度杜子春に「腹」のところを掘ってみろと言うわけがわかります。(なぜ杜子春か、その疑問は置くとして)仙人にとって杜子春に黄金のありかを教えるのはまだ「三度目」なのです。つまり、まだ救ってもいいってこと(^.^)。
 対して杜子春にとっては(また黄金を得て金持ちになれば)これは四度目であり、四度目の無一文も見えている。さすがに「このままではダメだ」と感じて不思議ありません。
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 仙人が洛陽の都を訪ねたのはこれが三度目。杜子春と会うのも三度目。杜子春に黄金のありかを教えるのも三度目。そして、たぶん四度目はない。黄金は頭、胸、腹の三カ所しか埋まっておらず、仙人は杜子春に三度しか教えるつもりはない
 ものすごくどうでもいい余談ながら、日曜夕方の大喜利番組。3月末であの落語家さんが卒業します。彼の著名な持ちネタが「いやんバカん(^.^)」。顔や胸、腹と来て以後は歌わない。それに似ています。

 ところが、杜子春は《二度目なのに》「もう金はいらない」と言った。これは仙人にとって驚きでしょう。

 作品は仙人の様子を次のように描きます。
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 老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。
「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。……」
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 急に「にやにや笑」って「お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ」と言う。
 ここから普通は三度過ちを犯してやっと気づくところ、「よくぞ二度で気づいたな」と感嘆の気持ちがあることがわかります。
 ところが、杜子春にとって無一文になるのは三度目だった。仙人はそれを知らないということです。

 こうして三節末から振り返ってみると、先ほどの「なぜ老人は杜子春に黄金のありかを教えたのか?」の疑問について別の解釈が生まれます。都の人は誰も老人が仙人だと気づかないというのです。ということは仙人らしい不思議を見せた人間はただ一人杜子春しかいないことになります。
 生徒に「もしもあなたが空を自由に飛び回れる、どこに財宝が埋まっているか透視できる能力を身に付けたらどうだい?」と聞いてみれば、D「その他」が出て来るかもしれません。

 [なぜ老人は杜子春に黄金のありかを教えたのか?]
 A 華やかな都だから乞食は一人もいない。杜子春が目立っていた。
 B 杜子春が正直な人間でかわいそうだと思った。
 C 仙人の気まぐれ(^.^)。

 D その他[       ]。
 仙人は「都の人間は誰もオレが仙人だと気づかない。ならば、一人くらいオレ様が仙人だとわからせるようなことを見せてやろうか」と考え、たまたま困っていそうな杜子春に宝のありかを教えた。
 華やかな都で豪華な姿格好で行き交う人々の中で、途方に暮れたようにぼんやりたたずむ人は杜子春しかいなかった――だから助けることにしたというわけです。
 かくして私の「仙人はなぜ杜子春を助けるのか」について答えはAからD全てです。

 三節最後の問題として杜子春の仙人になりたいとの思いは実現できるか未来予想をします。
 杜子春がめでたく仙人になれるかどうか。

 生徒には「作品を読んだことがある、あらすじを知っている」としても、読まないものとして予想してもらいます。当然[三]までの杜子春の人となりは参考になります。

A 見事仙人になって自分で黄金を見つける。四度目どころかなくなればまた黄金を掘り出し、都一の大金持ちになる。もはや貧乏になることはなく豪華な邸宅で妻子を得て死ぬまで幸せに暮らした。めでたしめでたし(^.^)。これは楽観的未来。

 もう一つの予想は「仙人になれなかった」。この場合の未来はさらに二通り考えられます。

B 杜子春は同じ過ちを三度も繰り返すような人だから、仙人になる試みも失敗したのではないか。結局極貧生活を続けるしかなく、乞食となって自身と人間への失望・絶望を抱えながら、しかし悪人にはならずに老衰で死ぬ。これは悲観的未来。

C 仙人になれなかったが、以下五つの予想が可能。これが中間的予想であり[その他]でしょう。

a 杜子春は全てに絶望して山奥で首をくくって自殺する。誰も杜子春が死んだと知らず気にも留めない。

b 自分を冷遇した金持ちの子女のうち最も冷たかった数人を殺して死刑になる。都中で「あの杜子春が?」と大きな話題になる。

c 仙人になれないなら金持ちの金を奪う義賊になろうと、詐欺師や強盗の元締めとなって大金を得る。獲得した金はひそかに地面に埋め、やがて掘り起こすことなく死んでしまう。

d 杜子春は仙人になれなかったけれど、なれなくていいと感じ、「大金は得られなくとも穏やかに生きていこう」と思って貧しい暮らしを始める。

e 仙人にはなれなかったが、なにくそと奮起して自分の体験を小説に書き、小説がベストセラーとなって大金を得る。さすがに以前のようなぜいたくな暮らしはせず、落ちぶれた友達が来たら「帰れ帰れ」と追いやる。

 冒頭の狂短歌は相変わらず杜子春の思いを取り上げています。

 〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか

 三度も同じ過ちを犯したのは杜子春の弱さであり、やさしさゆえであり、不器用であるとも言える。
 だが、器用な生き方を誰からも学ばなかったか。親もそれを教えなかったのではないか。教える前に亡くなったのかもしれません。
 杜子春が絶望の中思いついたのが仙人になること。
 この願いが叶うかどうか、実現できるかどうか。後半で語られることになります。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:一読法クイズです。
 授業において(a)〜(e)の未来予想の中、私が「90パーセントの確率で正解は《d》だとわかる」と言うと、
 生徒は「そりゃあ先を読んでるからでしょう。自分だってあらすじ知ってるから、それが当たりだとわかりますよ」と非難ごうごう。

 私は「いや、[三]を読めば、この未来予想が正しいことは一目瞭然。
 それはどこからわかるか。探してごらん」と言って部分の二度読みを促すでしょう。
 みなさんも試みてください。

 青空文庫『杜子春』は→こちら


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