○ 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても
ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」 2024年03月27日(水)第53号
『続狂短歌人生論』53 『杜子春』を一読法で読む 後半 その2
四節も含めていよいよ起承転結の「転」にあたる第五節。
五節単独で語れると思っていましたが、表現は巧みだから下手に要約したくないし、疑問とするところもちょっとだけでした。なので、第五、第六続けて読み解きたいと思います。
前号後記の課題。杜子春は閻魔大王から「峨眉山にいた理由を言わなければ地獄の責めを味わわせるぞ」と言われたところ。ここで杜子春が「実は…」と喋っていたら、杜子春は地獄に堕ちたか天国に行けたか――この考察は本文にて。
余談ながら、第五節(または四〜五)を「転」として第六節を「結」とするのはわかりやすい分け方と言えるでしょう。
が、杜子春が峨眉山で、また地獄で黙り通したことを「転」と見なせば、「結」は杜子春が「お母(っか)さん」と声を出した瞬間以後と見ることもできます。
むしろ四節以後の後半はまた起承転結が始まっていると言えるし、第四、第五節自体起承転結と見ることも可能です。
たとえば、第四節の「起」は猛虎と大蛇の出現、「承」は自然の驚異、「転」は空を埋め尽くす神兵の襲来、「結」は杜子春が神将から突き殺されたこと(お見事)。
そして、杜子春はようやく鉄冠子の言った未来「これからは貧乏をしても、安らかに暮して行く」を心から受け入れます。
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〇 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても
(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても
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****************** 「続狂短歌人生論」 ***********************
第五節冒頭は以下。
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杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静かに体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
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前号でまとめたように、夢は生きてこそ意味がある。峨眉山で神将に殺された杜子春は三又の鉾が刺さる前に「待って!」と声を発して生き延びる道を選ぶべきだった。そう思えます。
もっとも杜子春がそちらを選ばなかったのは明確な理由があります。
それは自分を襲う試練はみな幻覚であり、現実ではないと思ったから。
作品として解釈するなら、杜子春は死んで肉体は滅んだ。しかし、彼の心は依然として「仙人になるんだ」と思っている。身体はもうその夢を果たせない。だが、《心》は――魂はその夢を持ち続けている。
なんと愚かな。死んでもまだ夢を果たせると信じているとは。しかし、それもまた人間。結局、心を、自分を変えることができない。
先の例で言うなら、オリンピックを目指していたのに、足を切断して参加さえできなくなった。だが、心はそれを受け入れていない。これは現実ではない、夢だ、覚めてくれと思っている。だが、何度目覚めても脚はない。ならば、心が変わらねばならない。この現実を受け入れるしかない。
そんなことはわかっている。だが、納得できない。感情が受け入れずに苦しんでいる……これもまた人間。
どうやったら変わるか。鉄冠子は地獄において杜子春に「心を変える」最後のチャンスを与えた――そう理解することができます。
地獄に堕ちてからも、口を利くチャンスは三回。
1 閻魔大王の言葉と脅し。
2 いくつもの地獄で責めにあう。
3 馬となった両親と再会する。
これを前置きで語ったように、起承転結とすれば、先頭に「杜子春は――」を置いて
起 閻魔大王に厳しく詰問されても答えない。
承 地獄の辛い責めを課されても黙っている。
転 馬となった両親が痛めつけられても見て見ぬふりをする。
結 母親が「私たちはどうなっても構わない。お前さえ幸せになれれば」と言うのを聞いて「お母(っか)さん」と声を出す。
いずれも素晴らしい描写なので、そのいちいちを全て引用したいところですが、読者には原作をじっくり読んでもらうことにして、ここは以下3点について考えます。
(1) 閻魔大王の前で杜子春が「実は」と峨眉山にいた理由を喋っていたら、彼は天国と地獄どちらに行くだろうか。
杜子春が生きているときの実績(?)は三度大金を得ながら三度も失ったこと。これは悪行ではない。残虐非道の犯罪でもない。ただ、愚かだっただけ。
むしろ金持ちだった時杜子春は知人友人が訪ねて来て断ったことはない。貧乏になっても、彼よりもっと落ちぶれた人を泊めてあげ、乞食にはひと椀の水さえ恵んだ。
閻魔大王は杜子春の生前の善悪を調べ上げて判決を下すのではないか。
「お前はバカな人間だったが悪人ではない。これらの善行によって天国行きとする」と。
だが、杜子春は口を利かなかった。それは閻魔大王への反抗という許されない暴挙。だから、閻魔大王は地獄の責め苦を負わせて喋らせようとした。
対して杜子春は『決して口を利くな』という鉄冠子の戒めの言葉を思い出し」て黙り続ける。
冷静に考えれば、喋った方が自分のためになる。ここには仙人との誓いを後生大事に守る杜子春がいる。もはや仙人になるとの夢はつぶれているのに、それに気づかない。これこそマインドコントロールと言うゆえんでしょう。
(2) 承「地獄の責め」。転[父母の責め]はどう解釈されるのか。
杜子春は地獄の責めにあうけれど、「我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言も口を利」かない。
次に馬となった杜子春の父母は鉄の鞭でさんざん痛めつけられ、「苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程嘶(いなな)き立て」る。
だが、杜子春は「必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、かたく眼をつぶって」いた。つまり、杜子春は見ないふりをした。
私ならこの二つを次のようにまとめるでしょう。
承 夢をかなえるためには自分を犠牲にしても構わない。
転 夢をかなえるためには人を犠牲にしても構わない。
前半(三節)までの弱々しい杜子春と比較すれば、彼は比べようもないないほど強くなった――そう見えます。我慢強い、じっと歯を食いしばって耐える。必死になってかたく目をつぶる。だが、彼はここにおいてもこれが幻覚であり幻影だと信じているでしょう。
峨眉山で神将に突き殺されたとき、杜子春はうっすら感じたはず。もう死んだ以上、仙人になりたいとの思い、それを実現させることは無意味になったと。
その一方、あの後目覚めて鉄冠子から次のように言われることを期待したはず。
「よくぞ黙り通した。死んでもなお仙人になりたいというお前の固く強い意志は存分にわかった。お前は最初の試練に合格した。今後どんなに辛い修業があっても耐えることができよう。よってわしの弟子として認める」と。
杜子春は自分に振りかかる全てのことは仙人になるための試練に過ぎず、決意の固さを試されていると思っている。よって「今起こっていることは全て幻影である。いつでもどこでも目覚めて『よくぞ一言も喋らなかった』と言ってもらえるはず(と考えている)。杜子春はそれを期待して黙っているとも言えます。
あの弱々しい杜子春は確かに強くなった。だが、この強さ、我慢強さは「どこかおかしい」と感じる。
なぜなら、これがもしも幻影ではなく現実なら、彼は夢のために自分を犠牲にしている。仙人になるという目的のために辛いことがあってもひたすら耐えている。
このことを小説の中だけでなく現実社会にあてはめてみれば、実例をいくつも見出すでしょう。学校で、部活で、サークルで、職場で。
一つだけ例を上げるなら、アイドルになるためボスが夜毎寝床にやって来て身体をまさぐっても耐えている少年。夢のために自分を犠牲にする悲惨な例でしょう。
私はあのボスを死後であろうと裁判にかけるべきだと思います。きっと懲役刑が出されるでしょうから、アメリカのように墓を刑務所の中に設置するべきではないか。彼を閻魔大王の前に引き立てれば、閻魔は少年の夢を食い物にした人間を必ず無限地獄に突き落とすと思います。
そして、父母が鉄の鞭を浴びる姿を見ても黙り続ける杜子春とは「自分の夢を実現するためには人が犠牲になろうと知ったことではない」といった感性でしょう。仙人になるという目的のためなら何をやっても構わないように見えます。
閻魔大王はそれに対して「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」と言います。
これもまた現実社会にあてはめてみれば、やはり実例をいくつも見出せる。学校で、部活で、サークルで、職場で。自分のため、会社のため、選挙に勝つためには法を犯しても構わないといった考え方の人や組織に見出せるでしょう。
そして、四度目がやって来る。杜子春を変えたのは母の言葉でした。
[引用に当たって一部改行します]
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杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、かたく眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、ほとんど声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」
それは確かに懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。
そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨(うら)む気色さえも見せないのです。
大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志(こころざし)でしょう。何という健気な決心でしょう。
杜子春は老人の戒めも忘れて、転(まろ)ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸(くび)を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母(っか)さん」と一声を叫びました。
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自分のためには何をやっても構わない、夢のためには自分を犠牲にしても耐えられる、人がどうなろうと知ったことではない、人を犠牲にして生きる―それが人間の一面なら、「いや、それは間違っている」と考えるのも人間。杜子春はようやくそれに気がつきました。
ここで以前提起した問題を取り上げます。
(3) 杜子春の母は「私たちはどうなっても」と言うけれど、父親は何も語っていない。どうして「私たち」と言えたのか。
これはさほど難しくなかったのでは?
父は杜子春を責める言葉を言っていません。たとえば、閻魔大王が言う「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」――この言葉を杜子春の父が言ってもいい。
もっと進んで「どうして喋らないんだ。俺たちはこんなに苦しんでいるのに。現世でお前を育てた恩を忘れたのか」と叫んでもいい。
だが、父は何も言わない。杜子春を責めることなく鉄の鞭に耐えている。母は「夫もまた私と同じ気持ちだ」と感じたからの言葉でしょう。
ただ、次のようなうがった見方も可能です。父は果たして母と全く同じ気持ちだっただろうかと。
作品創作的には母と全く同じことを父に言わせる――ようなことはしない。だが、父の内心で閻魔大王同様、杜子春を責めたい気持ちはあったかもしれません。黙っていることが半分は妻と同じ気持ち、もう半分は杜子春を責めたい気持ちの表れかもしれません。
まーこれを書くと、せっかくの感動が薄れてしまうので、母も父も我が子のためなら自分が犠牲になっていいと感じている――と信じたいと思います。
そして、杜子春はようやく鉄冠子の言った未来「これからは貧乏をしても、安らかに暮らして行く」を心から受け入れます。
第六節冒頭が以下。
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その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
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目の前には「片目眇(すがめ)の老人」がいて「微笑を含みながら」言います。
「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」と。
だが、杜子春に悔いはない。
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「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、かえって嬉しい気がするのです」
杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」
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すると仙人・鉄冠子が(私には問題と思える)言葉「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていた」と言います。これについては次号。
ただ、杜子春はその言葉を気にも留めないというか、殺されても仕方がないと思ったか、スルーします。
そして、鉄冠子の「お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきたはずだ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思うな」との言葉に対して次のように答えます。
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「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子がこもっていました。
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第三節末尾で「金はもういい。人間に愛想が尽きた」と言ったとき、鉄冠子は「これからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」と問うた。
だが、杜子春はためらう。「今の私にはできません」と言う。理屈ではその道に進むしかない。だが、感情が受け入れない。それがかつての杜子春でした。
杜子春は峨眉山と地獄の仙人修行に失敗することで、ようやくこの未来を受け入れた――そう言えるでしょう。
仙人・鉄冠子はそのご褒美でもあるかのように「泰山」山麓にある自分の家と畑を杜子春に与えます。
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「今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。
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杜子春の晴れ晴れとした声、ピンク色の桃の花。自分を変えることの素晴らしさを謳歌しているように思えます。
ただ、私は(9回目の?)末尾を読んで、一ついちゃもんつぶやきました。
日本では桃の花が咲くのは4月上旬の春。洛陽も同じころ。確か今まで「季節が春」とどこにも出ていなかったよなと。
念のため、第三節杜子春と仙人が再会して峨眉山に向かう場面を読み直しました。
すると……
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竹杖はたちまち竜のように、勢いよく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。
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――とあるではありませんか。「しまった。春の夕空に傍線引き損ねた」てなもんです(^_^;)。
うっかりぼーっと読んでしまったとは言え、そこには「杜子春は胆(きも)をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下にはただ青い山々が夕明りの底に見えるばかり」とあって描かれたのは青く薄暗い景色。敢えて言うなら、先行きの暗さを象徴している(厳密に言うと、「晴れ渡った」から杜子春の「仙人になれるぞお」のわくわく感はある)。
「そうか。ここに明るく暖かい春景色は描かない。結末の桃の花が一層引き立つ」と対照の巧みさに感心したものです。
最後の「お見事!」(^_^)。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:「杜子春を一読法で読む」の最初に「この作品は続編にとって最適・最高」と書き
ました。実は『杜子春』は昨年ある事件について書き、保留したテーマについても最適な物語でした。
それは第15号「長野県N市、4人殺害事件」について語ったところです。
狂短歌は以下。
〇 リーダーが殺し合おうと言う世なら 普通の人も武器を持つ
その後記に加害者が書いた中学校の卒業文集を掲載しました。
その中で彼は「この世の中で最も大切なものは『命』だと思います。では二番目は何かと問われたら私は間違いなく『金』と答えるでしょう」と書いていました。
これに対して私は「そんなことはないよ」と言って話し合わねばならない、問題はこの子とどのように話し合うか。彼の言うことを否定し、論破するだけではダメ」と書きました。後記最後に「いつか再度このテーマを取り上げたい」と記したけれど、(年末全体を再読したとき)「これを残りで取り上げるのは無理だな」と思いました。
ところが、『杜子春』とは正にこのテーマについても最適な物語でした。
彼の中学校時代に『杜子春』を読みながら、議論したかったものです。
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