○ [今号の狂短歌は本文末尾に掲載。表に出さないってことです]
ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」 2024年03月29日(金)第54号
『続狂短歌人生論』54 『杜子春』を一読法で読む 後半 その3
前号末尾にて作品の結末に描かれた「桃の花」について触れました。
今まで「春は描かれていなかった」とつぶやいたけれど、第三節に「春の夕暮れ」があったと。
その後(これで何度目になるか)念のため『杜子春』を最初から読み直しました。
すると作品冒頭に……
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ある春の日暮です。
唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
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とあるではありませんか。「そこからあったんかいぃ!」とつぶやいたものです(^_^;)。
あれっと思いつつ、さらに季節に注意して読み進めました。
すると、仙人と杜子春が再会する場面(二度目)に「とうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって」とありました。さらりと「三年目の春」(-_-)。その後「ある日の夕方(仙人と再会する)」と出てきます。
次の三年後(二節末尾から三節冒頭)に「春」はないけれど、三節末尾に「晴れ渡った春の夕空」を峨眉山に飛んで行く場面があります。
つまり(ちっとも春らしくないけれど)、仙人と杜子春が出会う三度は全て「春」だった。それも「日暮れ・夕方・夕空」という夕暮れの時間。
前半に「春」と「夕方」は計【三度】登場していたのです。気づかなかったあ……。
芥川龍之介『羅生門』の冒頭は「ある日の暮方の事である」から始まります。「夕暮れ」の言葉は世紀末に生まれた(1892年)作者を象徴する言葉として有名です。『杜子春』にもそれがあったとは。痛恨の「僕としたことが…」(杉下右京)です。
いつも「一読法で読んでいる」と自慢しながらこのていたらく。
敢えて弁解させてもらうと、ネットでは傍線引きつつ読まないし、読めません。
本なら傍線を引いて余白に「春の日暮れ」と抜き出すから、結末との対照、並びに三度出たことを見落とすミスはなかったでしょう。
えっ、「そう言えば、題名にも《春》があるね」ですって?
確かに……(^^;)。
気を取り直して本号。第五節から六節、最大の難問について考えます。
仙人・鉄冠子は杜子春が母の言葉を聞いても黙っていたら、「お前の命を奪うつもりだった」と言う。それはなぜか。
杜子春は何も反論していないけれど、普通は「もしも黙っていたら殺すだなんて…そりゃないよ」とクレームの一つも言いたいところです。
私が子どもの頃『杜子春』を読んで、どうにも納得できなかったのがこの部分。
みなさんはどう思いますか。
すでに私は1月以降たぶん10回近く『杜子春』を再読しています。
それでも作品からこの答えを見出すことができませんでした。
ただ、最近「そりゃ推理のし過ぎだ」と言われかねない答えを思いつきました。
第五節を一読法で読んだとき「おやっ」とつぶやき、そこから考察がふくらみました。
解釈として二つあります。本号ではその一つを語ります。
青空文庫『杜子春』は→こちら
3月13日(水) 47号 『杜子春』を一読法で読む 前半その1
〇 続編の掉尾を飾る具体例 それは『杜子春』 最適最高
3月15日(金) 48号 『杜子春』を一読法で読む 前半その2
〇 過ちを繰り返すこと二度三度 愚かなれどもそれが人間?
3月18日(月) 49号 『杜子春』を一読法で読む 前半その3
〇 痛い目にあってようやく変えられる 三度目ならばまだ救われる
3月20日(水) 50号 『杜子春』を一読法で読む 前半その4
〇 やさしさと弱さゆえに変えられぬ 絶望の中希望はあるか
3月22日(金) 51号 『杜子春』を一読法で読む 前半その5
〇 三度目に変わることなく 四度目を 迎えたならば命を失くす
3月25日(月) 52号 『杜子春』を一読法で読む 後半その1
〇 かなえたい夢が我らを強くする されど命とどちらを選ぶ?
3月27日(水) 53号 『杜子春』を一読法で読む 後半その2
〇 夢のため耐えて唇噛みしめる 自分を 人を 犠牲にしても
3月29日(金) 54号 『杜子春』を一読法で読む 後半その3―――――本号
〇 [今号の狂短歌は本文末尾に掲載。表に出さないってことです]
(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ [今号の狂短歌は末尾に掲載。理由は後記に]
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****************** 「続狂短歌人生論」 ***********************
杜子春は地獄の責めにあう母の言葉を聞いてようやく「お母(っか)さん」の声を発する。
そして、六節。杜子春の「その後」が描かれます。
鉄冠子が「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」と言うと、杜子春は「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、かえって嬉しい気がする」と答え、「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」と言います。
すると仙人・鉄冠子が(私には問題と思える)言葉を吐く。
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「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳かな顔になって、じっと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」
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「黙っていたら殺すだなんて…」とつぶやいて言いたいクレームは
・そりゃないでしょ。あなたが口をきくなと言ったんじゃないですか。
・あのとき声をあげないことは死刑に当たるほどの重罪なんですか。
・そもそも私を殺す権利があなたにあるんですか。
もちろんこの反論に対して「いや。あそこで何も言わないことは死罪に値する」との考え方はあるでしょう。閻魔大王が「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな」と言うように、親不孝は重罪と見なされる時代もありました。が、さすがに死刑にはならない。
ただ、日本には長らく「尊属殺人」という決まりがあって直系の父母を殺せば、死刑か無期懲役になっていました。廃止されたのは1995年です。もちろん芥川龍之介が生きていた時代、この法律は存在するから、杜子春の父母を見捨てるかのような言動(「言」はないけれど)は「死罪に値する」と思う人がいるかもしれません。
私は小学校のころ『杜子春』を読んで無感動でした。母の言葉――すなわち母の愛に対して「そういう親がいるかもしれないが、全員とは限らないだろう」と思ったし、何より「それで殺そうとするか」と反発がありました。
以前も書いたように十年ほど前再読して「母だけは自分を愛してくれた」物語だと気づいて涙が出ました。しかし、「杜子春を殺すのはおかしいやろ?」との感想は続きました。
実は今回十度近く読んでも、作品からこの答えを見いだすことができませんでした。
つい最近第五節を一読法で読み直し、「傍線を引いて授業で質問するならこの場面かな」と思ったとき、一気に想像が広がり、ある推理に到達しました。
それは鬼どもが黙り続ける杜子春に音を上げ、再度森羅殿に引き立てたところです。
閻魔大王は以下のように描かれます。
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閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、
「この男の父母(ちちはは)は、畜生道に落ちているはずだから、早速ここへ引き立てて来い」と、一匹の鬼に言いつけました。
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私はここを読んだとき「おやっ」と声が出て、「《眉をひそめて、暫く思案に暮れる》って前にもあったな」とつぶやきました。
そう。生徒に「暫くってどのくらいだろう。1分か」と演技してもらったところです。
第三節、杜子春が「仙人になりたい」と言うと、
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老人は眉をひそめたまま、暫くは黙って、何事か考えているようでした……
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とありました。眉をひそめて暫く考える――これはたまたまか、自然な流れか。
あるいは、作者のうっかりか、深い意図があるのか。
授業をやるなら、ここでも生徒に「閻魔大王はしばらく何を考えたのだろう」と聞くでしょう。「思案に暮れる」とは辞書に「どうしようかと考えあぐねる。迷って考えがまとまらないさま」とあります。この答えはさほど苦労なく出ると思います。
[閻魔大王の思案]
・これほどの責め苦を与えても声を上げないか、これは困った。
・こいつの決意はそれほどまでに固いのか。さて、どうしたものか。
・そうだ。こいつの両親は畜生道に堕ちて馬になっているはず。親を痛めつければさすがに口を利くのではないか。
このように下書きをまとめていたとき、ひょいと「閻魔大王って仙人・鉄冠子が変化(へんげ)した姿ではないか?」とひらめきました。
考えてみれば、第四節の峨眉山、第五節の地獄、全て仙人・鉄冠子が杜子春に見せた夢のような、幻覚幻影の世界。最後に目が覚めてまた都の西門にいるのだから、これは間違いない。途中何度か「本物かもしれない」と思った。が、やはり幻覚であった――と杜子春も我々も知る。
このときの読みをドラマや演劇で考えるなら、仙人・鉄冠子は監督であり、神将や閻魔大王は俳優。だが、監督=俳優だってある。
よって、峨眉山で杜子春を突き殺す神将とは鉄冠子であり、閻魔大王も彼その人である。これまでは全く別人と思っていたけれど、神将と閻魔大王の顔をよーく見れば、鉄冠子が浮かんでくる(?)。
作者芥川龍之介はそれを意識させるべく、閻魔大王に「眉をひそめて暫く思案に暮れ」る演技をさせた(そう描いた)のかもしれません。
このように解釈すると、以前鉄冠子が眉をひそめた理由と閻魔大王が眉をひそめた理由が重なってきます。
杜子春が「仙人になりたい」と言ったとき、鉄冠子が眉をひそめて暫く考えた理由を再掲すると、
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・杜子春が仙人になりたいなどと言うとは思わなかった。これは困った。
・言うかもしれないと思ってはいたが、まだ三度目だから黄金を得れば満足すると思った。まさか二度目で言われるとは。どうしよう?
・仙人になる修行は厳しい。こんなひ弱な若者にできるだろうか。
・いや、たぶん無理だ。ならば、しばらくその気分だけでも味わわせてやるか。どうせすぐ音を上げるに違いない。あれこれ悩むほどのことではない――等々。
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この思いを峨眉山の神将、地獄の閻魔大王に置き換えることができます。
峨眉山の試練も、地獄の責めも実はすでに仙人修行が始まっていた。鉄冠子は杜子春の「仙人になりたい」との決意がどの程度か試すつもりだった。「決して口を利くな」と言っても大概の人間は守れない。杜子春だってすぐに声を出すに違いない。鉄冠子はそう思って峨眉山の試練を始めた。
猛虎と大蛇→自然の驚異→空を埋め尽くす神兵。それでも声を上げない杜子春。
ここでは「なかなかやるじゃないか」と内心つぶやいたかもしれません。
だが、わけもなく殺されるとわかって「やめてくれ!」と言わない人間はいない。
だから、神将は杜子春に三又の戟を突き刺す――刺してみる――ことにした。
それが刺さる寸前、杜子春はきっと「やめて!」と叫ぶだろうと予想した。
ところが、杜子春は悲鳴さえあげない。
そのときの神将すなわち鉄冠子の内心を想像すると……
「なんと死んでも黙り通したか。決意の固さはよくわかった。だが、こうなると仙人にするわけにはいかん。ならば、地獄に堕としてあきらめてもらおう」
そして、鬼による地獄の責め。鉄冠子は「さすがにこれで音を上げるだろう」と思った。
地獄の責めに耐えられる人間はいない。きっと悲鳴を上げる。「勘弁して」と哀願し、「私が悪うございました。心を入れ替えます」と言う。地獄の責めに耐える人間なぞいない。だが、杜子春は歯を食いしばって耐え続ける。
かくして閻魔大王(=鉄冠子)は「これは参った。ここまで痛めつけても悲鳴さえ上げぬか。さて、どうしたものか」と《眉をひそめて、暫く思案に暮れ》た……。
これは鉄冠子のくせだったかもしれません。それがひょいと閻魔大王に表れたと見ることもできます。
ここまで来ると、演劇なら仙人と閻魔大王は別人ではない。仙人は閻魔大王として舞台に立っている。
こうして杜子春の父母を鉄の鞭で責め立てる最後の手に出た。杜子春にその様子を見せて「お前はそれでも喋らぬか。それでいいのか」と迫る。
このように仙人・鉄冠子の内心をたどってみると、彼が「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていた」理由に思い至ります。
それはやはり三度を超えたこと。峨眉山の杜子春を一度目とするなら、二度目は地獄で痛めつけられても変えようとしない杜子春。三度目は人を――杜子春の父母を痛めつけても自分の夢にこだわり続ける人間杜子春が現れている。
以前例にあげた、弱みを握られた善良な市民でも三度強請られたら殺意を覚えるように、さすがのお人好し仙人・鉄冠子も三度目にして殺意が芽生えた(かもしれません)。
しかも、ここにはもう一つ別の深い理由もありそうです。
それは「このような人間を仙人にするわけにはいかない。ここで殺してしまおう」という考えです。
自分を犠牲にする人間、人を犠牲にしても構わないと考えるような人間、自分を最も愛してくれる人(父母)でさえ犠牲にしても構わないと考える――そのような人間が仙人の能力を得たらどうなるか。鉄冠子は杜子春の未来を予想した。
このまま黙り続けたら杜子春は仙人になるための修行に入る。そして、仙人になるかもしれない。だが、仙人になった杜子春は最も危険な存在ではないか。
もしもこのような人間が仙人の能力を持ったなら、この男は何をやるだろう。
以前と同じように自ら黄金を掘り当てて豪亭でまた遊び暮らすか。いや、杜子春はひと椀の水さえ恵んでくれなかった友人たちに報復するかもしれない。仙人の能力を使えば、人を殺すことなぞ造作もない。誰にも見られず実行できる。
あるいは、その能力を使って王家に取り入ることだってできる。出世して家臣筆頭となり、やがて帝王に取って代わることだってたやすいだろう。するとどうなる。
杜子春は人の心の痛みがわからぬ独裁者となってこの世に君臨するかもしれない。
この男は一体何人の人間を不幸にするだろう。何人の親や子を悲しませるだろう。
そのような人間を生かしておくわけにはいかない。今ここで殺すしかない――と鉄冠子は考えた。
〇 人間の痛みを感じない者は 殺すしかない 殺して当然
鉄冠子は言います。
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「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に厳かな顔になって、じっと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」と。
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ときどき小説や映画にありますね。科学者がとてつもない能力を持つ超人間を生み出した。だが、彼は人類に害を及ぼす怪物だった。科学者は生み出した者の責任として彼を消滅させようとする。仙人・鉄冠子の言葉はそう解釈できるかもしれません。
私が思い浮かべる古典的小説はメアリー・シェリー作『フランケンシュタイン』です。つぎはぎだらけの怪物として有名ですが、彼はやがて知能・感情と言葉を得て次から次に殺人を繰り返し、生み出した科学者から憎まれる。
怪物の孤独、伴侶を作ってくれと頼むなど、単なる怪奇小説を超えた深みのある作品です。
鉄冠子は杜子春に仙人の力を見せたこと、仙人になれるかもしれないとの希望を抱かせたことを後悔しているかもしれません。それが弱々しくともやさしい若者を強くした。だが、そのせいで杜子春は人間にとって最も大切なことを失いかけた。
おお!(とこれは私のつぶやき)何かを得たときには何かを失っている。
夢を抱き固い決意に従って生きる強さを得たとき、杜子春から人の痛みを感じ取る力が失われてしまった――そう言うこともできそうです。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:「人の心の痛みがわからぬ独裁者」が誰を指しているか、おわかりでしょう。
別にP大統領だけではない。今や世界の半数が独裁国家であり、独裁的リーダーがもてはやされています。
狂短歌を本文に埋めることにしたのはこれがテロの発想だから。革命にしても、主義・宗教における原理主義にしても、もちろん独裁にも「目的のためには手段を選ばない。敵は滅ぼすべきだ。殺しても構わない」との発想があります。
彼らの目的は平和であり、自由・平等であり、愛である。「えっ、愛はないだろ?」とつぶやきますか。
家族を守るため、国を守るため敵と戦う――というのは《愛》ではありませんか。国家・世界統一という夢もあります。それが人を殺していい理由になっている。
本文は仙人が杜子春を殺そうと思った理由を推理しました。
私としては仙人が「自分が生み出そうとした怪物を自分の手で始末する」ことを認めたくない。やはり「あなたに人を殺す資格も権利もない」と言いたい。
そこで、もう一つ別の理由を考えてみました。それを次号にて語ります。
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