分かれ道について[回答編]


○ 分かれ道右へ行こうと左でも未来を読めば良いことが待つ?



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ゆうさんごちゃ混ぜHP「狂歌教育人生論」          2004年3月3日 第6号

 (^_^)今週の狂短歌(^_^)

6 分かれ道右へ行こうと左でも未来を読めば良いことが待つ?

 (^O^)ゆとりある人のための9分エッセー(^O^  

分かれ道について[回答編]

 以下が前メルマガの回答編です。
 冬の散歩で体験したちょっとした出来事、私は数日たってようやくその意味に気づきました。

 一月初め、ぽかぽか陽気のある日、私は川岸を下って散歩に出かけた。20分も歩いたら叔父の家が見えてきた。そのまま川岸を進めば叔父の家、右を行けば帰路に就く道だった。私は叔父を訪ねるかどうか迷った。
 叔父の家では叔父が庭でまき割りをしていた。ところが、叔父が飼っている犬が、不審な人間である私を発見して、まだ遠いのに激しく吠え始めた。叔父の家を訪ねるのもいいなと思いながら、犬が吠えたてるのはいやな感じだった。
 一方、右の土の道は前夜降った雪のせいでぬかるんでいた。そこは数メートルに渡って湿地帯のようになり、浅く水さえたまっていた。左の道は乾いた岩に続くから、そちらを進めば靴を濡らすことはない。しかし、右の道だって水面は浅く、何とか渡れそうに見えた。
 数年前の夏、私は事故で入院した叔父を見舞い、退院時には車で家まで送った。叔父はそれをとても喜び、お返しにバーベキュー用の肉を送ってくれた。叔父の姿を見たのはそのとき以来だった。左の道を進んで叔父の家に行けば、よく来たねと歓迎されることはまちがいない。しかし、そこまでたどり着く間中私は犬にわんわん吠えられるだろう(-_-)。

 もう一つ私の心の片隅では、喜んで迎えるに違いない叔父の態度を想像して、少しだけうんざり感があった。そのとき私はお金を持っていなかった。なぜか突然仏壇にお参りするのにお賽銭がないし……などとへんな理屈をこしらえて、私は叔父に会いに行かない方を正当化していた。
 結局私は右の道を選んだ。そして、数メートルに渡る湿地帯をおそるおそる歩き始めた。しかし、案の定靴を濡らし、なおかつ靴の下半分を泥でべっとり汚してしまった(T_T)。左の道を行けば、そんな不快な目に遭わなかっただろうに、と思った。
 ところが、その後一般道に上がり帰路に就いたとき、私は見知らぬ車から呼び止められた。それは年輩の女性とその母らしい老人の二人連れで、山の向こうにある峠の茶屋への道を聞いてきた。私はちょっと話していろいろなことを教えて上げた。車は「ありがとう」の言葉を残し、Uターンして去って行った。困っている人にいいことをしてあげた。私はそう思ってその後はとても気分良く散歩を続けられた。それから神社にお参りして、さらに菩提寺に立ち寄り母の墓にも参った。靴は汚れたけれど、久しぶりによく歩いた散歩に満足感があった(^o^)。

 数日経ってふと次のようなことを考えた。

 もしあの分かれ道で左の道を選択して、叔父に会いに行っていたらどうだろうかと。当然ぬかるみで靴を汚す不快な出来事は起こらない。ところが、この場合は道を聞かれたあの車とは遭遇しなかったことになる。
 彼女はさらに車を走らせ、誰か他の人に尋ねることになっただろう。ちなみに通行人はあまり歩いていない田舎のことである。
 これは面白いなと思った。ちと大袈裟に言ってみるなら、この体験は人生の深ーい真理を表していたかも知れないと思った(^_^;)。

 人生には成長の途中でいろいろな分岐(ぶんき)点がある。分かれ道に立って右か左、どちらへ行こうかと迷う。あるいは、そのときいやな出来事が目の前に見え、違う道にもこわい事件が起こりそうだと思う。どちらにも進まず引き返したり、逃げ出したくなることだって多い。

 しかし、過ぎ去った未来から過去を眺めてみると、分かれ道の両方において危険でいやな出来事が出現しても、それを乗りこえるとどちらもいいことが待っている――私の体験はそんな実例であるように思えた。
 左の道はこわい犬がわんわん吠えていた。右の道はぬかるんであぶなそう。どちらもこわくていやな進路だ。だが、犬に吠えられ続けるこわさを克服して左の道を行けば、やがて叔父が歓迎してくれる。自分も訪ねて良かったなあといい気持ちになれる。
 既に私は叔父の姿を目で確認していた。これも面白い。もし叔父の姿が見えなかったら、私は躊躇(ちゅうちょ)なく右の道を選んだだろう。だが叔父の姿は見えていた。だから、私は叔父が自分を歓迎してくれる《未来》を間違いなく予想できた。
 かたや右のぬかるんだ道を進んで靴を汚しても、その後困った人を助ける善い行ないが起こった。
 つまり、私にとってはこちらも気持ちのいい《未来》が待っていたのだ。もちろん道案内の件は分かれ道の時点では、全く予想できない未来の出来事である。だが、過ぎ去った時点で振り返ってみるなら、結局右を行っても左を行っても、悪いことの後に良いことが起こっていたことがわかる。

 右の道を進んだ後に起こった道案内はたまたまであり、単なる偶然に過ぎない。たぶん人は「そのように自分をいい気持ちにさせてくれる出来事が、悪いことの後にいつも起こるとは限らない。たまたまだよ」と言うだろう。さらに「結果論ではなんとでも言える」と批評されるかもしれない。全く逆パターンだって起こり得るではないかと。例えば、左の道を行ったら、放し飼いにされた叔父の犬が私を追っかけて噛みついたり、右を進んだら靴を汚すにとどまらず、ぬかるみで転び、その上危うく車にひかれそうになるとか(-_-;)。
 確かにそのような不快で不幸な出来事はいつだって起こり得る。悪いことの後に悪いことがさらに続くことだってあるだろう。しかし、私の場合は結果としていいことが生起した。こうして私は最後にやって来るいいことを信じることができる。

 あるいは飛躍するけれど、不快で不幸な出来事とは、もしかしたら当人がそういう不幸を自分から呼び寄せているのかも知れない。逆に快適な出来事や幸運も当人が自分から呼び寄せていると。

 と言うのはあるテレビ番組で、心理学の専門家がそんなことを言っていたからだ。
 言わば不幸を招き寄せる後ろ向きの性格や考え方の持ち主と、いつでも良い方を考え感じて、ラッキーを呼び寄せる前向きの性格や考え方の持ち主――人にはその二種類があると。
 前者の例は周囲にいくらでも見出すことができる。いつもくよくよ思い悩んで、かつて悪いことが起こった、これからも悪いことが起こりそうだと、びくびくしながら生きているタイプ。
 後者のタイプはかなり少ないと思う。専門家はその例として、米大リーグで活躍し(今年日本に戻ってき)た野球の新庄選手を上げていた。確かに新庄選手って、過ぎ去ったミスや過ちはくよくよ悩まず、いつでも明日はいいことがあると、笑顔で話す前向きの性格の持ち主だった(^o^)。

 さて、私の言いたいこと、わかってもらえたでしょうか。
 分かれ道でいやなこと、こわいことが待っていても、それを乗りこえればいい未来がある――と私は言いたかったのであります。

 私の場合で言えば、二つの道をどちらにも進まず、引き返す選択だってありえました。それを逃げだ、逃避だと見るかは何とも言えません。たまには引き返して逃げた方がいいのかもしれません(^_^;)。
 少なくともそのとき私は前に進んだ。そして次には良いことが起こった。しかし私は、その次に悪いことが起こったとしても、さらにその次には良いことが起こる、と良い未来を想像できる気がします。
 人はこんな私のものの見方を宗教的と見るかもしれません。なーに、私はただ単に前向きに物事を考えようと言っているだけなんであります。

 ○ 小さなことささいなことから学ぶ知惠 分かれ道では未来を見る目

 ○ 分かれ道右へ行こうと左でも未来を読めば良いことが待つ?

 ○ 本能のままに吠えてるわんちゃんだが彼も未来を予知するかもね


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:とても簡単な理くつだと思います。自分の未来に不運不幸がやってくると予想するのと、幸運幸福がやってくると予想するのと、どちらがいいか。現在を楽しく気持ちよく生きられるのはどっちの見方か。答えは明らかだと思います。問題はなぜ前者の見方にとらわれるか、でしょうね。わかっちゃいるけど……むつかしいってやつ。(ゆう)
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