偏食・崩食について


○ 偏食を危険と見なす医師と親自分にとってはここちよい穴



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ゆうさんごちゃ混ぜHP「狂歌教育人生論」        2004年 4月28日 第13号

 (^_^)今週の狂短歌(^_^)

13 偏食を危険と見なす医師と親自分にとってはここちよい穴

(^O^)ゆとりある人のための9分エッセー(^O^)  

偏食・崩食について

 ワイドショーで、若者の「偏食・崩食(?!)」ぶりが放映されていた。
 取材された若者はともに十代後半の女性で、二人紹介されていた。
 一人は16歳、母親と二人暮らし。彼女は朝昼晩ほとんどスナック菓子しか食べない。ところが、晩ご飯のテーブルにはごはんに魚、野菜などとてもバランスのいい食事が並んでいる。あれっと思ったら、それは全てお母さん用の食事だった。そのそばで娘はスナック菓子の袋を広げてぽりぽり食べ始めた。二袋ほど食べるとそれで晩ご飯終わり。それが一週間のうち朝昼晩ほとんど全てというから驚く(・o・)。
 娘によると1年前から塾に通い始めた。そのとき塾で夕食代わりにスナック菓子を食べるようになり、それ以来こうなったそうだ。彼女はごはんや豆腐などは味がしないから食べたくないという。母親もいくら言っても聞かないと半分諦めている。
 この子は医師によると完全な味覚障害と診断されていた。

 もう一人の女の子は一週間ひたすらパン食である。彼女は朝から晩まで食パンを中心に菓子パンしか食べない。他のものは一切口にしないらしい。
 こちらは朝食の場面が放映されていた。家族構成はわからなかったが、一人黙々とパンを食べる娘のそばにおばあちゃんがいた。見かねたおばあちゃんがコーンスープを作ってあげる。しかし、娘はパンと一緒に食べると、味が混ざっていやなので食べたくないと言う。辛うじてパンを食べ終わった後スープを飲んでいた。
 こちらは菓子パンのとろんとした甘いものばかり食べているので、甘味の程度が判定できず、乖離(かいり)性味覚障害と診断された。

 その後番組では若者30人に対して味覚の診断テストが行われていた。
 結果は約4割が味覚障害と認定された。何にでもマヨネーズをかけるマヨラーとか、スナック菓子派とか、激辛嗜好(しこう)人間が増加している。正に偏食・崩食(食の崩壊現象?)の若者たちが放映されていた。

 私はそれを見ながら思った。もう理由は単純、「心にぽっかり空いた穴」なんだと思った(^_^;)。
 極端な例として紹介された女性二人のうち一人は母子家庭だった。もう一方の家族はわからなかったが、朝食を娘一人だけで食べていた。彼女らは何かをきっかけに心に空いた穴を、スナック菓子とパン食で埋めているのだと思う。

 何も食べたくない拒食、ただもう食べずにいられない過食。こちらはほぼ心の病として認定されている。数年前は拒食・過食がよく取り上げられていた。今は偏食だろうか。食べないより、あるいは食べ過ぎるよりましに思える。だから、彼女らは親やおばあちゃんの心配をよそに、ひたすら偏食に走っている。まだ心の病としてはとらえられていないようだ。
 医師からは味覚障害と診断され、このままでは身体がおかしくなるよと言われていた。しかし、その食生活を変えられるだろうか。食パンオンリーの女の子が「パンだけでもこんなに大きくなったよ」と言っていたから、なかなか変えられないかも知れない。

 ただ、私はさほど心配していない。普通の子ならいずれ気づくと思う。その食事のおかしさに。ただ、気づいて変わるには、病気や事故など大きな痛みを必要とするかもしれない。にしても、いずれ気づくのではないか。今はただそうすることが心を落ち着かせることだから、かたやスナック菓子を、かたや食パンのみを食べてしまう。

 この問題は私のホームページのサンプル狂歌――《万引きの中高生と中高年一字違いの心の病》でも取り上げたように、心の病だと思う。偏食によって心に空いた穴――さみしさという穴、愛されなかった思いこみの穴が埋められるのだと思う。

 私がこう解釈すると、みなさん方はそんなに単純な理由とは思えないとすぐに反論されるだろう(^_^;)。

 偏食の子を抱える親に聞けば、「私はこの子を愛していたし、今も愛している」と答えるだろう。しかし、子どもは愛されたと思っていないし、現在愛されていると思えない。仮に子どもが「私は親から愛されていると思う」と答えるとしても、自分の感情を偽(いつわ)っている可能性がある。いや、偽っていること自体に気づいていないかもしれない。
 親にかつて愛されなかったさみしさや不快な感情は心の奥の奥に閉じこめられている。だから、それは心の表層に現れず、意識されない。それが心に空いた穴だ。その穴を異常な行動が埋める。
 それはとても気持ちのいいことで、なぜかそうしていると心が落ち着く。だから、その行為をやめられないのだ。やめるのは親や身近の人から愛されていたと実感できるときだろう。

 私自身を振り返るなら、中学時代に一つ異常な行為にふけったことがある。ずっと後になってそれがブラックホールであり、愛されていないと思いこんだ心の穴だったと気づいた。
 それから現在の生活でも思いつくことが一つある。それは私の台所にあるテーブル上の様子だ。
 私は一人暮らしで、友人など客がやって来るときはテーブルの上をきれいにする。ところが、四、五日経つと、そこは新聞やら本やらダイレクトメールやらで雑然とちらかってしまう。必ずそうなる。
 私は朝食はテーブルで食べ、晩飯は隣の部屋のコタツでテレビを見ながら食べる。台所のテーブル上が物で一杯になっても、私はしばらくそこを片づけない。それらを端っこに寄せて真ん中に空き地(?)を作り、そこで朝飯を食べる。

 たぶん人が見ると、どうしてテーブルをきれいにしないのかと思うだろう。その方が気持ちいいでしょうに、と言うだろう。
 実はそうしようと思えばいつだってできる。実家に帰省しているときこんなことはない。実家では父が一人暮らし(兄一家が近くに在住)で、私が帰省中は主として私が食事を作る。
 父はきれい好きだから結構まめに掃除しているし、実家のテーブルやちゃぶ台はいつもきれいに片づいている。我が父ながらなかなか感心である。
 ところが、私は自分の家では台所のテーブルをちらかり放題にしておくのだ。

 自分にはその理由がわかっている。それはテーブルががらーんとしているより、ちらかっている方が心が落ち着くということだ。つまり、きれいなテーブルでごはんを食べるより、ごはんの周囲を新聞やら何やらで囲ってあった方が気持ちよくごはんが食べられるのだ。
 おそらくこの感覚は人にはわかりづらいと思う。もちろんあるとき思い立ってきれいに片づける。だが、すぐまたテーブルはちらかり放題となる。

 思えば私は小学校の頃からそうだった。兄と同室の時、兄の机はいつもきれいだった。対して私の机上は教科書やら細々した物が雑然と置かれ、漫画や本が積み重ねられていた。母からしばしばきちんと片づけなさいと注意された。一、二週間に一度くらいは母が片づけてくれることもあった。しかし、すぐまた元のようにごちゃごちゃ机となる。今思うに、あれって心のさみしさを物で埋めていたような気がする。もっと言えば、心の中のさみしさという穴を、物で囲うことで安心していたのではないだろうか。

 最近テレビでは片づけられない人、巨大ゴミ屋敷の件がしばしば取り上げられる。私には片づけられない彼らの内心がわかるような気がする。(私の小中時代の心の穴についてはいつか作品化したいと思っています)


 ○ 偏食を危険と見なす医師と親自分にとってはここちよい穴

 ○ 偏食にふける心の深層に見つめるべきは愛されない穴


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:葉桜となり、公園や山々の緑が色鮮やかな季節となりました。先週二日連続して大きな公園を二つ訪ねました。平日の日中だったこともあって、ご高齢の方々がたくさん歩いていました。働き盛りの人も時には平日散歩できるような世の中だといいのに、と思いました。甘いかな(^_^;ゆう)



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