○ 今世紀 幸せもたらす理屈とは 自分のために みんなのために
ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」 2005年1月14日(金)46号
寒中お見舞い申し上げます。m(. .)m。
いかがお過ごしでしょうか。
2005年「狂歌今日行くジンセー論」メルマガ初配信です。
今年より、隔週配信、要約なしで行きたいと思います。よろしくお願いします。
本文が長すぎると不評です(^_^;)ので、できるだけ短くまとめたいと思っております――が、保証のほどではありません(^_^)。
私は読み続ければいいことが起こる……と思っておりますが、これも保証の限りではありません(^.^)。
(^_^)今週の狂短歌(^_^)
○ 今世紀 幸せもたらす理屈とは 自分のために みんなのために
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21世紀も5年目に入ったというのに、【21世紀を見通せば】など、なにを大それた表題を記しておるんじゃ……と言われかねないノー天気ぶりの表題です(^_^;)。
しかし、昨年最後の狂短歌、
04(ゼロヨ)年 自然と人の「災」の年 次の芽生えを探すときかも
――に書いたとおり、私は結構本気で「次の芽生え」を探しております。
それは社会のいろいろな混乱ぶりは、人々が「大きな理念・大きな夢」を失ったからだと考えているからです。
でっかいことを言えば、社会主義・共産主義が崩壊した後、人は「自分が生きるためには何をやったっていいんだ」とか「刹那(せつな)の快感こそ全て」といった風潮に流されているように思えるのです。
いわば芥川龍之介『羅生門』の世界です。
死体の髪の毛を抜き取り、それを売って食糧を得る婆さんは「生きるためには仕方ない」と言います。するとそれを聞いた若い下人は「それなら、お前の着物を奪っても文句は言うまいな」と言って追いはぎになるのです。
それと同様の混乱と無法が現在起こっているようです。
人は大きな理念・大きな夢を失い、自信を持って「この生き方が正しいんだ」と言えなくなっているように感じます。
だから、私は混乱を克服できる次の芽生えを探しています。いや、探していると言うより、すでにその答えを見つけだしているつもりでいます(^_^)。
それはとても単純な理屈でして、私はそれを「第四の目覚め」と名付けました。
「目覚め」などと書くと、なにやら宗教的うさんくささを持って見られがちですが、私は神様仏様アラーの神様、その他もろもろを信仰しようなどと言う気はありません(もちろん現に信仰されている方に対して、やめなさいと言う気もありません)。
第四の目覚めの原理原則はとても単純です。
それは「自分のために生き、みんなのために生き、そして人生を楽しむ」ということなんです。
どうです、単純な理屈でしょう(^_^)?
新しい理念として最高だと自画自賛しております(^o^)。
えっ?「そんなものは誰でも言っていることで、取り立てて目覚めだなどと言うべきものではない(`´)!」ですって?
うーん……まあもう少しお付き合い下さい(^.^)。
しばしば、正義とか善悪を論ずるとき、
「何が正しくて何が悪いなんかはない。善悪とは相対的なものだ」などと言います。
つまり、絶対的な正義や絶対的な悪はないと言うのです。
この理屈で行くと『羅生門』の下人のように「自分が生き残るためには何をやってもいい、人を殺してもいいんだ」となってしまいます。
たとえば、戦争だってテロだって正しいんだ、などと言ったりします。
しかし「自分のために生き、みんなのために生き、そして人生を楽しむ」第四の目覚めからは、絶対的な悪や絶対的な正義が存在するのです。
第四の目覚めの理屈を逆に言うと、
「相手にとって、みんなにとってはいいことだが、自分にとって良くないことは……悪」であり、
反対に「自分にとってはいいことだが、身近の人・みんなにとって良くないことは……悪である」となります。
ここでは絶対的な正義、絶対的な悪が存在するのです。
たとえば、人をだまして金をせしめたり、人を殺して金を奪うことは――加害者にとってはいいことだが、だまされたり、殺される方にとってはたまらなく悪いことであるから、絶対的な「悪」なのであります。
あるいは、何か商売を始めたとします。みんな自分だけが儲かって金持ちになることを目指すでしょう。それは自分が幸せになるための活動だから「いいこと」です。
しかし、とても儲かって近くの人の商売を圧迫したり、同業者を廃業に追い込むとすれば――その人たちに不幸が来るから、その活動は「悪」となるのです。
この理屈おわかりでしょうか。
また、たとえば小さなグループや集団があるとします。全体で何かを決めます。その決めたことが一人にとってとても不快で耐え難いことであるなら、その決定は「悪」なのです。
だから、多数決の原則はここでは成り立ちません……と言うと極端過ぎますから、一応民主主義的多数決の原理に従って、多数が決めた決定で行動することにしましょう。
しかし、第四の目覚めから言うと、その決定を不服とするたった一人の存在をみんなが認め、許す――これが第四の目覚めの理屈であり、実践なのであります。
たとえば、学校で頭髪とか服装のルールを決める。親と先生の多数決の原理(普通生徒は入らない(^_-)によって「頭髪は自然に、服装は制服」のルールが決められる。それは「いいこと」です。
しかし、それをいやだと思うたった一人の、あるいは数人、数十人の生徒の存在を認めること。これが第四の目覚めの原理原則です。
だから、頭髪に色をつけ、制服を着ない生徒を認め許す――なら、この決定(校則)は正しいけれど、そうでないなら、この頭髪・服装のルールは「悪」なのであります。
おわかりでしょうか。これが第四の目覚めの理屈です。
「相手にとって、みんなにとってはいいことだが、自分にとって良くないことは……悪」であり、
また、「自分にとってはいいことだが、身近の人・みんなにとって良くないことは……悪である」
この理屈はひとりひとりが「人生を楽しむ」ための原理原則であります。
そして、以上を肯定的に述べると、「自分のために生き、みんなのために生き、そして人生を楽しむ」となるのです。
私は21世紀はこの理屈が広まっていくのではないかと予測しています。
ちなみに、以前我が父親にこの理屈を話したことがあります。すると父は即座に言いました。
「人は自分のためには生きるが、みんなのためには生きやせん」と。
うーん……道はまだまだ遠いのでしょうか(^_^)。
なぜ「第四」なのか、その他の原則等々詳細はこのメルマガで徐々に明らかにしていきます。
昨年はある事情からあまり述べずに来ましたので。
今年5月には『ケンジとマーヤのフラクタル時空』完結編を出版します。
その中にかなり詳しく書いていますので、その出版後もっともっと触れたいと思います。
……って「おいおい結局宣伝かよ」と思われても、しょんなかですね(^_^;)。
○ みんなのため その理念を述べながら 自作の宣伝 するもまたよし(^o^)
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:2005年初メルマガにしてはわかりづらかったと思います。次回からは普通の「わかりにくさ」に戻ります(^.^)ので、ご容赦を。(御影)
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