○ 善行にお返し期待しても良し ただし返しは違うとこから
ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」 2005年 2月18日(金) 49号
(^_^)今週の狂短歌(^_^)
○ 善行にお返し期待しても良し ただし返しは違うとこから
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「一日一善」の合い言葉で有名な善行。
善行と言えば、無償と相場は決まっている(^.^)。
しかし、私はしばしば《お返しを期待して》小さな善行に励む。
たとえば、私が運転して車に乗っているとき、横道車が表通りに出かかっている場面にでくわす。
あるいは、片道一車線道路の交差点で、対向車線の車が右折しかけている。対向車線はたった1台の右折車のために、先へ進めないでいる。
そんなとき、私は可能な限り相手車に対して道を譲ろうと考えている。
もちろんいつもではない。後ろの車に注意しながら、パッシングして相手車に進んでもらう。いわば小さな善行である。
普通、この状況ではお返しもなにもない。相手が軽く会釈したりする程度である。あるいは、なにも挨拶しない人だっている。
ところが、私はこの善行にお返しを期待する。ただし、そのお返しが当の相手からではなく、その後どこかで私が困っているときいいことが起こると、それを「お返しがやって来た!」と喜ぶのである(^_^;)。
たとえば、今度は自分が片道一車線の交差点で右折したいとき、相手車に譲られてすんなり右折できた!
あるいは、横道から表通りに出ようとしたとき、これまたすんなり入れてもらえた!
そのとき私は、「ありがとうっ! ラッキー、さっきのお返しがあった(^o^)」と感激するのである。
「なんじゃそりゃ」と思われるかもしれない(^_^;)。
しかし、これがなかなか楽しい「有償の善行」なのである。
つまり、善行のお返しが違うところからやって来ることを期待し、来たときには「ラッキー!(^o^)」と喜ぶのである。
おそらく多くの人は「それとこれとは関係ない」と言うだろう。
自分が他人に道を譲ってやっても、人はなかなか譲ってくれない。
そう言うかも知れない。
たとえば、ある友人とドライブしているときこんなことがあった。
友人と温泉に出かけた帰りのことだ。ハンドルは車の持ち主である友人が握っていた。
私は助手席に座っていた。
面白いなと思ったのは、彼が横道車や右折車に対してほとんど道を譲らなかったことだ。
ある海岸沿いの片側一車線の道で、かなりの渋滞があり、しばらくのろのろ運転が続いた。
とある三叉路に来たとき、対向車線(ここだけ向こうは2車線だった)に右折車が7、8台並んでいた。その三叉路に信号はない。
それまで友人は前の車と間をあけてとろとろ走らせていた。このときも前の車と数台分はあいていた。私は停止して向こう側の右折車を行かせたらどうかなと思った。
しかし、口には出さなかった。
すると友人は急にスピードを上げて前の車に追いつき、右折車に譲ることなく三叉路を進んだのだ。
そして、我々の車は渋滞のため停車した。
追いついてもすぐ停車するほどの渋滞なんだから、対向車線の7、8台全部を行かせたって大したことはない。
むしろその善行に対して返ってくるであろう《愛とラッキー(^.^) 》を思うと、私はもったいないことだと思った。
なにしろその行為によって7、8人に喜ばれ、彼らから感謝の思いを受け取れるのだ。この善行のお返したるや、相当のものがあるだろうに――と私は思った(^_^;)。
車はその後ものろのろ運転が続いた。そして、ある所で友人は「旧道を行こう」と言って脇道にそれ、狭い旧道を走り始めた。
その道に車はなくどんどん進んだ。それはかなりの節約で優に百台分は先に進んだのではないかと思われた。
そして、先ほどの道と合流する地点へやって来た。
今度は斜めに進入する三叉路で、ここにも信号がなかった。
私は意地悪く(^_^;)「かなり進んだけど、うまく入れるかなんだよね」と言った。
だが、その辺りは既に渋滞の先頭だったのか、車がびゅんびゅん飛ばして走っている。
友人は何とか早く入ろうとしてややいらついている。
一、二度強引に入ろうとしたが、向こうは止まってくれない。
20台もやり過ごした頃、彼は「どうして入れてくれないかねえ」とつぶやいた。
たぶんそのときの友人には、ついさっき右折車に対して道を譲るどころか、行かせないぞとばかりにスピードを上げたことは記憶に残っていないに違いない。
私はその罰が来た――などと言うつもりはない。しかし、さっき道を譲っていれば、すんなり入れたのではないかと思った(^.^)。
そう言うと、多くの人は「そんなことは関係ない。さっきはさっき、今は今だ」と言うだろう。
しかし、私はさきほど道を譲って、今度すんなり表通りに入れたなら、「よっしゃあ、お返しがやって来た」と感激する。そして、もしそうでなければ、次のいいことを期待するだけである(^_^;)。
そして、別の場所で違ういいことが起こると「よっしゃあ、お返しがやって来た」と喜び、ますます善行に励もうかと思うわけである。そのお返しが競馬の万馬券的中なんぞだったら、もう歓喜の雄叫びである(^o^)。
ところが、道を譲らなかった友人は「どうして人は譲ってくれないかねえ」と愚痴る。
そうなると普通の人は、この次同じような状況になったとき、「おれだって譲ってやらねえぞ」となりはしないだろうか?
だから(時間は逆転するが)、友人は先ほどの場面で譲らなかったのかもしれない。
大概の人は3度譲ってもらうと「私も譲ってあげよう」と思うだろう。
しかし、3度譲られないと「誰が譲ってやるもんか」と思うものだ。
とてもささいなことだ。しかし、このささいなことにその人の全体の生き方が現れると思う。
つまり、この理屈は人からの愛やラッキーが欲しければ、先にこっちから与えてやればいい――たったそれだけの(たぶん不変の)真理だと思う。
しかし、人は往々にして与えることよりも、自分だけに愛とラッキーをほしがる。
そして、自分に愛とラッキーがやって来ないことを、「不運だ、人は無情だ」と言って人と世をなじり恨む。
別にこれは友人に特有の傾向ではなく、多くの人の性癖でもあろう。
私はこの友人をとても尊敬している。がしかし、その彼でさえ人の悪癖に陥ってしまうのだ。
私が実践している無償の善行ではなく、有償とでも言うべき善行。
ご褒美(ほうび)とラッキーが違うところから返って来る――その楽しさと面白さをもっともっと人々に広めたい気がする。
○ 善行は無償と相場が決まってる しかし私は有償善行
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:ちなみに、車で上記のような小さな善行をほどこすときには充分注意を。私の姪は相手車に譲ろうとしてバックしたら、後ろの車にぶつけてしまいました。もちろん姪の不注意ですが、ありがちなことです。後ろはしっかり確認しましょう(^_^)。でもその前に、譲る気持ちがなければ、いつまで経っても譲れないでしょうね。それと反省でしょうか。「しまった、譲ってあげればよかった」と思えるなら、次は譲れると思うのですが……(^.^)。(御影)
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