定年を迎える方々へ


○ 外界に不安と恐怖があるでなく 自分の心がそれを生み出す



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ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」        2007年 3月 29日(木)第76号


 (^O^) ゆとりある人のための10分エッセー (^O^)


 【 退職を迎える方々へ 】

 4月からいよいよ団塊の世代の定年が始まります。最近その話題がクローズアップされているので、私も一足先に第二の人生を歩み始めた先達として(^.^)――退職後早くも7年目の春を迎えます――4月から退職なさる方々へ、ちょっとしたメッセージを送りたいと思います。

 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 外界に不安と恐怖があるでなく 自分の心がそれを生み出す

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 退職を迎える人へ贈る狂短歌としては、ちょっと「?」だろうか(^.^)。
 それに「外界に不安と恐怖があるわけではない」も言い過ぎかも知れない。

 先日震度6の恐怖をもたらした能登半島大地震のように、自然の災害は明らかに「外界の恐怖」である。
 もちろんそのように「みんなに襲いかかる不幸」は避けようがなく、恐怖を感じても仕方ないだろう。この狂短歌で言いたいことは、個人的にとらわれがちな恐怖や不安について、である。
 そして、退職を迎えのんびり落ち着いているはずなのに、意外に不安や恐怖を感じているかもしれない――そのことについて考えてみたい。

 これはあるとき友人数人で温泉旅行に出かけたときの話である。

 宿の食事や温泉を満喫して一晩を過ごした翌日、私たちは小さな寺を見に行った。
 寺は旅館から車で十数分の所にあった。小雨が降っていたけれど、私たち四人は傘を差してその寺に向かった。寺は元寇の頃建てられ、真言宗系だった。例の如く弘法大師空海の像があった。しかし、庭園が見栄えする程度で、取り立てて言うほどの寺ではなかった。

 そこを出て案内看板を見ると、近くに鎌倉元寇時代の北条三氏の墓があるらしい。私たちはついでにと思ってそれも見に行くことにした。数分で杉の大木が林立する小さな山があり、その中腹に神社があった。墓はその境内にあるようだ。

 下から見上げると神社まで長い石段が続いている。石段は幅一メートルほどしかなく、傾斜もきつい。それに杉の枯れ葉が至る所に散らばっていた。雨模様だし、登るのは危険そうに見えた。

 A氏が真っ先に尻込みした(^.^)。しかし、私や他の人はせっかく来たんだから行こうと言った。

 結局三人が登ると言うので、A氏も私たちに従った。私を先頭にして四人は石段を登っていった。全部で百数十段はあっただろうか。みな慎重に登った。

 上には神社ではなく、古ぼけた小さな祠(ほこら)と手作りの土俵があった。周囲の杉は樹齢数百年は経っていそうな立派な木ばかりである。しかし、北条三氏の墓はなかった(下りたあとで別の場所だとわかった(^.^)。

 私たちは「墓がないなあ」と言いつつ、祠の前で記念写真を撮り、引き返すことにした。
 今度はA氏が先頭で私が続く。四人は急な石段を慎重に下り始めた。

 そのとき私はA氏の奇妙な行動を見た。

 彼は最初ゆっくりと下りていた。ところが、ある所からまるで駆けるかのようにスピードを上げ始めたのだ。それはとんとんとリズムを付け、小走りの速さである。そして、私たちをどんどん引き離す。

 私はへんだなと思った。危険だとも思った。しかし、その様子はまるで楽しんでいるかのように見える。一段ずつしっかり下りているし、いい大人だから踏み外すことはないだろう。そう思って私は何も言わなかった。

 結局、A氏はその調子であっという間に下まで達し、そのあとを私たちはゆっくり下りた。
 そして、それだけのことだった(^.^)。

 ところが、帰宅して翌日の夜、A氏と電話で話す機会があった。そのときA氏は石段を上り下りしたことを話題にした。
 彼は「あの石段の昇降は危ないと思った。旅行するときなど、ああいうところを上り下りするのは考えた方がいいぞ」という。
 さらに「家に帰り着いてあのときのことを思い出したらぞっとした。登るときはそれほどでもないが、下りるときはかなり怖かった。もし石段を踏み外して落ちていたらと思うとホントにぞっとした」とかなり深刻な口調で語るのである。

 私はあれっと思った。石段を下りるとき、彼はとんとんと小走りで下りていた。それはまるで楽しんでいるかのように見えた。だが、実際はとても怖がっていたのだ。つまり、A氏の中では矛盾する心理と行動だったことが、彼の話で明らかとなった。

 私は彼の言葉を聞いてははあと思った。これぞまさしく「恐怖を自分で作り出している」例ではないか。彼は自分が半ば駆け足で下りたことなど、全く覚えていないのだろう。

 しばしば言われることだが、恐怖は自分で作り出していると言われる。いわゆる「幽霊の正体見たり枯れススキ」ってやつだ。
 枯れススキは見る人によって幽霊に見える。単なる枯れススキなのに、人は幽霊が現れたと言って怖がる。だが、その恐怖はその人自らが生み出しているのだ。

 A氏の石段下りの場合も、ゆっくり一段ずつ踏みしめて下りるなら、それほど怖がらずとも下りていけた。私や他の者はそのようにした。そして確かに怖かったけれど、さして問題とするほどの怖さではなかった。

 ところが、一人A氏だけは不思議なことに自ら危険な状況を作り出していたのだ。つまり、駆け足で下りていくことで、自らその恐怖を倍増していたのである。
 誰かが走って下りろと命令したわけではない。自分から進んで小走りに下り始めたのだ。そして「ぞっとした」と言って怖がっている。

 あるいは、そのときの矛盾した心理と行動を推理してみるなら、急な石段が怖くて早くそこから離れたい、逃げ出したいとの心理が、駆け足で下りる行動となって現れたのかもしれない。だが、その行為のおかげで、かえって恐怖は倍増されたのである。

 そして、その怖さが頭の中に残るなら、この次同じように急な石段が登場したとき、彼はもはや登ろうとしないかもしれない。ホントに不思議な心理であり、行動だなと思った。


 ○ 外界に不安と恐怖があるでなく 自分の心がそれを生み出す


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:この3月で退職なさる方々、長らくのお勤めお疲れさまでした。
 これから第二の人生を歩み始めるにあたって、私が言いたかったことは、退職して「何か重大な事故がおこるのではないか」とか「ひどい病気になるかもしれない」など、いろいろ気にかかることもあるでしょう。しかし、その不安や恐怖は自分で生み出していることが多い――と言いたかったのです。それにとらわれることなく、自分のやりたいことを見つけ、正しいと思う人生をじっくり味わってください。最近私がメモして机上に置き、つぶやいては元気になる言葉、「心のままに行け。最後はきっとうまくいく」を再度贈ります(^_^)。(御影祐)



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