○ あのころの二人のように手をつなぎ スキップ踏んで歩いてみよう
ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」 2007年 4月 24日(火) 第77号
(^_^)今週の狂短歌(^_^)
○ あのころの二人のように 手をつなぎ スキップ踏んで 歩いてみよう
4月初めにフジ系朝の番組『特ダネ』を見たとき、面白い企画を見つけました。
「熟年離婚の危機を迎えた夫婦に送る」第二弾として、それを紹介します(^.^)。
『特ダネ』の企画は「あのころのように」と題して、夫婦や親子に昔に戻ってあることをやってもらおうというシリーズだ。
この日が三回目で、第一回は「手をつないで歩こう」、二回目が「親父と息子で腕相撲をしてみよう」。そして今回が「スキップをして歩こう」だった。
一回目と二回目の内容がちょっと紹介されていた。「手をつないで歩こう」では町を歩く五、六十代の夫婦(大概離れて歩いている)に「手をつないで歩いてみませんか」と呼びかけ、その反応を見る。
言われて恥ずかしいと手を振る奥さん。できないと尻込みするダンナさん。
概して奥さんはそれほどでもなさそうだが、ダンナが拒否する。
しかし、手をつないでみると、てれくさそうなそぶりを見せながら、みな結構気分良さそうに歩いていく。
それぞれの反応ぶりが面白かった。
また、親父と息子の腕相撲の一例は息子が二十代くらいだろうか、親父に負け「壁は厚いです」と言う場面が放映されていた。ナレーションで「親父の強さと弱さを知る」とあったから、息子が勝ち、親父が負けても、何かしら感じるものがあったのだろう。
私も二十代後半、父に叱られて当然の悪いことをしたとき、怒られるのではなく、逆に涙を流されたことがある。
そのとき強かった親父が弱くなったなあと感じたものだ。
今回の「スキップをして歩こう」は相当の抵抗に遭っていた。ほとんどの中高年が「できない、できない」と言ってやろうとしないのだ。
それでもスタッフの説得に負けて何人かがやってみる。
ところが、多くの人がスキップの仕方がおかしい。客観的に見てスキップになっていないのである。
妙にぎこちなかったり、かけ足だったり、かかとを引きずるだけの「スキップ」である。
私も思わず部屋の中でスキップして、できるかどうか確認した(できました^.^)。
みんなかつて一度はできたはずなのに、できなくなっているようだ。
誰かが言っていた。「頭ではできているけど、身体が動かないんだよ」と。
しかし、面白いことはみな奇妙なスキップを踏んだ後でも、ほとんど笑顔になっていたことだ。
「スキップって楽しいときにやっていたんだね」の言葉もあった。
ある六十九歳のおじいちゃんなど、身体を左右に揺すりながら抜群にうまいスキップを踏んでいた。
彼は「新橋までスキップやって帰ります」と言って去った。その後ろ姿が素晴らしい(^.^)。
見ていたこちらも自然に顔がほころんだ。ああこの人はきっと人生を楽しんで生きたご老人だろうなと思った。
逆に、その人をいぶかしげな視線で見送る通行人もおかしかった。
都会で楽しいことがあったら、子どもだけでなく大人達もスキップして歩いているなんて、さぞかし素晴らしい社会だろう。
また、三十代で幼な子を連れた夫婦の場合は、奥さんが断固できないと手を振る。「バカみたい」などと言ってなかなかやろうとしない。
しかし、ご主人は気さくな方のようで「やろう」と言い、その説得に折れ、二人は仲良く《手をつないで》スキップした。
これは二人ともうまくできていた。そして終わった後、奥さんは笑顔で「楽しかった」と言った。
これもいいなと思った(^_^)。
ちょっと深刻なエピソードもあった。小学校二年生と幼稚園の息子二人を持つ三十九歳の奥さんの話だ。
彼女は上の子がスキップできないというので、公園でそれを教えた。確かにお兄ちゃんのスキップは妙だった。右手と右足が同時に出るような、足が浮いていないようなスキップである。彼女が見本を示して一時間、ようやくできるようになった。
その後彼女はスキップにまつわる話をした。彼女にとってそれは三十年ぶりのスキップだという。最後のスキップは父親と遊園地に行った九歳のときで、それ以後彼女は一度もスキップをしたことがないそうだ。そのとき彼女は遊園地に行くことが嬉しくて嬉しくて、最寄り駅を出てからずっとスキップをして歩いた。そして、その四日後父親は突然亡くなった……。
「今日のスキップはそれ以来のスキップなんです」と彼女は言った。
ああそういう人生もあるんだと思った。
このスキップ企画を見終えて、現代人が喜びを身体全体で表現することがいかに少なくなったことかと思った。スキップとは喜びと楽しみの表現だろう。
別にスキップでなくても構わない。我々は心から楽しみ喜び、それを身体全体で表現しているだろうか。
スキップがうまくできなかった四十代のお父さんは言った。
「最近感動することがなくなった。楽しいこともない。仕事はつらいし、子どもの教育にお金はかかるし……。年末ジャンボが当たったら、スキップするかもしれませんね」と。
今や宝くじで1等が当たるくらいしか大きな感動はないと言いたげだった。
だが、そのお父さんの生き方、感じ方はたぶん子どもに伝わるだろう。最近の高校生達の無感動ぶりって親の二重写しではないだろうか。
親が喜びを表現できない人であれば、子どもも喜びを表せない。
親が「働くこと、生きることは辛い辛い」と辛気くさい顔で愚痴をこぼせば、子どもも人生とはしんどくて辛いものだと感じる。
親は親、子は子であって関係ないと反論されるかもしれない。
だが、子どもは見事に自分の親を見ている。そして、否応なく親に似る。
辛気くさいしかめっ面がぴたりとはまる子どもがいる。かたや、そんな顔がいやだと思う子は無表情の能面を作る。
それが板に付くと、喜ばしいこと、楽しいことがあっても、喜びの顔をつくれない(-_-)。
別に人生とは明るく楽しく面白い――ことを子どもに対して演技せよと言いたいわけではない。
だが逆に、人生は辛くて苦しくてつまらない――それを演技する必要もないだろう。
こちらは誰でも心底そう思っているから「演技だなんてとんでもない」と反論されるだろう。
しかし、よーく心の中を探ってみれば、「人生は辛くて苦しい。仕事はしんどい」とつぶやくことで、慰めや同情を期待し、あるいは、人生に負けた自分の不甲斐なさをごまかすための演技であるかもしれない(^.^)。
「心からの楽しみ喜びがなければ、笑顔など出ないし、スキップもできない。つくりものの笑顔なんていやだ」と言われるかもしれない。
しかし、人間の心とは不思議なもので、顔を動かし(?^.^)、身体を動かすことで楽しくなることだってある。
スキップの話でも「スキップをやったら楽しかった」と感想を述べる人がたくさんいた。楽しいからスキップをする――ではなく、スキップをしてみたら楽しかったのである。
また、「気合いだぁー!」で有名になったアニマル浜口氏の新しいパフォーマンスは「笑いのじゃんけんぽん」だ。
それは「わっはっは、わっはっは、わっはわっは、わっはっは(^O^)」と笑いながら、左右の手でじゃんけんぽんをするのである。
見ているこちらも自然に笑顔が出る。正に身体から入る楽しさだと思う(^_^)。
どんなに苦しく、どんなに辛く、どんなにつまらない人生でも、どこかに喜びがあり、きっと楽しく面白いことがあるはずだ。
そして、時には辛いときに「わっはっは」と笑ってみると、また違った世界が開けるのではないだろうか。
それを子どもに見せることで、子どもは成人後夫婦で手をつなぎ、スキップして歩ける大人になるような気がする(^_^)。
○ あのころの二人のように手をつなぎ スキップ踏んで歩いてみよう(^.^)
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:また悲惨な銃をめぐる事件がありました。かたやアメリカ、大学構内銃乱射事件。32人の若者が亡くなりました。かたや日本は長崎現職市長銃殺事件。東京町田市でも銃を持って立てこもり。日本のは暴力団がらみですが、大きい意味では文明病なのかなあと思います。小さい意味では「感情をどうコントロールするか」でしょうか。起こったことはもはや元に戻せないので、生き残った我々がどう生きるかなんでしょうね。(御影祐)
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