会津若松、母親惨殺事件


 ○ 文明病? こころ壊れるその前に 周囲は気づくか 何かをするか



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ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」        2007年 5月 25日(木)第78号

 初夏を通り越して真夏のような陽気が続いています。
 ご機嫌いかがですか。御影祐です(^_^)。

 このメルマガエッセーはどちらかと言うと悲惨な話題を避けているふしがあります。
 深刻かつ驚愕的な事件とは、つまり気持ちを落ち込ませる話題であり、そうでなくても苦しみ多き今の世の中。私は少しでも明るく楽しい話題、あるいはいやな話題でも、こちらが見方を変えれば「そうだったのか」と気づいたり、晴れ晴れとした気持ちになれる話題を取り上げたいと考えているからです。
 しかし、今回は悲惨な話題を取り上げます。それは会津若松で17歳の男子高校生が母親を殺し、なおその首を切断して警察に自首した事件です。

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 (^O^) ゆとりある人のための10分エッセー (^O^)

 【 会津若松母親惨殺事件 】

 (^_^)今週の狂短歌(^_^)

 ○ 文明病? こころ壊れるその前に 周囲は気づくか 何かをするか

 福島の会津若松で17歳の男子高校生が母親を殺した。
 それ自体は最近ではさほど珍しい事件ではない。だが、母親の頭部を切断し、それを抱えて自首したとなると、相当世間を驚かせる。

 少年はなお母親の右腕も切断していたらしい。その腕に白ペンキを塗り、植木鉢に差していたという。一見奇妙な行動であり、儀式的雰囲気でもある。
 少年は「殺すなら誰でも良かった」と言って無差別殺人、猟奇殺人の様相も見せている。

 だが、真っ先に殺したのが母親で、そこで終わりにしているのだから、殺したかったのはやはり母親だったろうと思う。
 彼は母親を殺した後で気づいたのではないか。「誰でも良かったのではなく、殺したかったのは母だった」と。だから、自首したのだろう。

 首を切り取ったのはある種のヒロイズム――目立ちたい気持ちがあったからではないか、との意見がある。
 妙な言い方だが、確かに「少年が母親を殺す」だけでは大きな事件と見なされない。
 そう思うと、あの行為は少年の社会へのメッセージかもしれない。
 息子が母親を殺さざるを得ないところまで追いつめられたこと、それを止められなかった周囲の大人たちへの、悲痛なメッセージではないかと私は感じる。

 少年は三人兄弟の長男で、郡部の中学校卒業後、会津若松の高校へ一人進学した。中学校時代はスキーをやり、一年次は県大会で優勝した。文武両道の優等生だったようだ。だからこそ一校しかないその町の高校には進学せず(させず?)、会津若松の進学校へ越境入学したのだろう。
 私の故郷でも、かつて同じようなことが行われていた。医師の子弟、大きなホテルの息子などはよく都市部の高校へ進学していた。実は私も貧乏公務員の子だったが、その一人だった。

 会津事件の母(両親)は彼のために会津市内に部屋を借り、そこから通学させた。母親はときどきアパートを訪れ息子の世話をした。後に弟も兄の部屋の下に住み、同じ高校に通い始めたという。
 だが、中学校時代の優等生ぶりと比べれば、高校では中くらいの目立たない成績に終始したようだ。友達もできぬままだったという。そして高二の秋から欠席気味となり、三年になるともっと休むようになった。その間に母を殺すことを決断したのだろう。のこぎりを買い、訪ねてきた母が眠っているところを襲った……。

 このように簡単にまとめてしまうと、少年の深い心の闇をあぶり出すことはできない。
 私は母親を殺したいと思うのは、形を変えた自殺ではないかと考えている。自分で自分を殺すのが自殺なら、自分を生み出した根源を殺し、消すことによって自分の存在そのものも、抹消されたかのように感じるのではないだろうか。

 もしここで人生を終わりにしようと思えば、人はどうするだろう。きっとまず最初に自殺を考えるに違いない。
 だが、「なんで自分が死ななきゃならない。悪いのはあいつらだ。オレをこんなにしたのは奴らじゃないか」と思えば、自殺しないで悪に走る。犯罪者となってまっとうな人生に終止符を打つのだ。
 会津の少年は一時期髪を染めたこともあったという。外見を「ワル」に変えることは、今までの「よい子」の自分に終止符を打つことを意味している。ぐれて不良になることで、生まれ変わるわけだ。
 それはそのような生き方を許さなかった母や父への反抗の意思表示でもあろう。

 だが、(私が思うに)少年の母は少年が道からそれることを許さなかったのではないか。いや、そのような思いを持っていることに気づいていたかどうか。我が子の内心の苦悩を分かっていなかったかもしれない。
 もし少年が何もうち明けていなければ、「相談してくれないんだから、わからないよ」と親や先生方は言うかもしれない。
 だが、果たしてそうだろうか。サインはなかったか。気づけなかっただろうか。

 おそらく少年はもう高校をやめたかったはずだ。クラスにとけこめず相談相手もなく、疎外感を感じ続けたと思う。
 だが、少年は父や母に退学を言い出せなかった(と私は推測する)。かと言ってぐれることもできなかった。自殺する気も、犯罪者になる勇気もない。
 そんな自分にしたのは誰かと考えたとき、元凶は母であり、母を殺すしかなかった……と突き詰めたのではないか。
 短絡的だが、心はそのように流れ、壊れていったと想像する。

 私はこの悲惨なニュースを聞いたとき、すぐに自分の高専時代を思い出した。
 私も田舎の中学では優等生だった。そして自ら望んで高専に入学、親元を離れ大分市で寮生活を送った。

 それから半年後なぜか突然全く勉強をする気が起きず、生きる意欲さえなくした。私は学校でほとんどの時間を机に突っ伏して眠り続けた。
 それは(今から思えば)少年時代最大の危機だった。そこにこめられた意味、いろいろな行動の原因に気づくのはずっと後になってからだ。
 寮生活だから病気が明らかでなければ欠席するわけにいかない。しかし、授業に出ても眠るばかり。なにもやる気が起きなかった。

 その経緯を縷々(るる)述べていると、一つ小説ができあがってしまう(^.^)。
 そこで、ここではどうやって立ち直ったか――それだけを書きたいと思う。
 立ち直らせてくれたのは私の家族だった。

 あるとき私は父に「高専をやめたくなった」ともらした。それはそのときだけの、つぶやきのような一言だった。
 だが、父はそれを聞くと、地元の高校へ転校できるよう動き始めたのだ。中学校や高校の関係者に働きかけ、翌年4月に2年生で転校できる約束まで取り付けた。
 普通科と工業系の高専は課程が違うので、転校はできるが一つ下の1年生に入らねばならない。だが、2年に進級する形で転校できるよう働きかけたのだ。
 私は父に転校したいと言ったわけではない。父が勝手に押し進めたのである。
 私は父がそのような活動をしていると知らないまま、相変わらずだらだらとした学校生活を送り続けた。

 ある秋の一日――土曜日だった、私は前もって連絡しないまま帰省した。
 ちょうどその日は父が勤める郵便局の新築落成式で、実家でそのお祝いが行われていた。父はその一年前郵便局長になった。古い局舎の建て替えがその条件だったらしく、父は借金をして局舎を新築した。私はその日宴会があると知らずに帰省したのだった。
 しかし、離れの勉強部屋があるので私はそこで過ごし、晩飯は母が持ってきた。
 母は嬉しそうに局舎完成の喜びを語った。私は「おめでとう」と言った。
 父とは会えないまま、私は深夜まで続く母屋のどんちゃん騒ぎを聞きながら寝についた。

 翌朝目覚めたとき、両親はすでに外出して(お礼回りだったろう)、私は冷めた朝飯を一人で食べた。
 その後つまらないと思って寮に戻ることにした。
 離れの机の上に「高専へ帰ります」と書き置きを残して列車に乗った。そして、市内で映画を見て夕方寮に帰った。
 別に両親に何か相談事があったわけではない。気ままな帰省――と当時は思っていた。

 しかし、いま振り返るなら、おそらくそのときの私はさみしかったに違いない。高専にとけこめず、やめたいと思いながら、家に帰れば父も母も自分のことで忙しい。自分のことなんかどうでもいいんだ、と感じていたような気がする。

 その数日後私は母の手紙を受け取った。
 帰宅した両親は私がいなかったので、ちょっと心配したらしい。夕方になって母はやっと離れの置き手紙を発見したようだ。
 母は「置き手紙を見て涙を流した」と書いていた。そして「いろいろ話したいことがあったんじゃないか」とか、「世話ができなくてごめんね」と謝る言葉もあった。
 当時の私はそれを読んで「別に話したいことがあったわけではないし、宴会のごちそうも食べられたから大したことじゃないのに」と思った。
 おそらく母は連絡もせず突然帰省して、そして何も言わずに寮に戻った息子の行動から何かを感じ取ったのだろう。だが、そのときの私は母の手紙をさらりと読み流しただけで、それで変わることはなかった。

 私を決定的に立ち直らせてくれたのは兄だった。
 兄も当時同じ市内の大学生で寮に入っていた。私は大学祭が行われているとき、兄に呼ばれて寮に行った。そしてそこで一晩兄と語り明かした。兄は大学の自治会執行委員をやっており、生きる意味や楽しさ、本を読み勉強する必要などをたくさん語ってくれた。その詳細は省くけれど、私はやっと何かをつかんだような気がした。そして高専でがんばろうと思い、立ち直ることができた。

 その後父は転校手続きが整ったことを知らせてきた。
「来年4月には地元に戻れるぞ」という父に、私は自ら高専を希望したこともあって「もうちょっと続けてみる」と言ってその転校話を断った。
 そのときは「頼んでもいないのに、余計なことをして」と父の独断専行をなじる気分さえあった。

 だが、いま振り返るなら、このとき見せた父の心遣いはとてもありがたかった。私の父は厳しい人だったが、当時「高専でもっとがんばれ、そんな弱々しいことでどうする」と叱責することはなかったのだ。ただ、息子のためにばたばたと行動してくれた。

 また、母の手紙は後になって、もっともっとありがたいものだとわかった。

 私は中学校の一時期母が嫌いになったことがある。それは母が弟の私より兄を構い、私のことなどどうでもいいと思っている――と感じていたからだ(これはあとになって気づいた)。
 だが、「離れの置き手紙を見て涙を流した」と書かれた母の手紙を見て、私は母が「自分を心配してくれている」とわかった。私はそれで救われたのだと思う。

 ある時期まで、私は自分の少年時代の危機を救ってくれたのは兄だと思っていた。兄と一晩中語り明かしたことが、自分を立ち直らせてくれたと感じていたからだ。
 だが、いまではこのとき父が私のために取ってくれた行動や、母の手紙が私を立ち直らせる大きな要素になったと思っている。

 いまでも母の手紙を思い出すと涙が出そうになる。母は、父は、そして兄は私を心配してくれた。その気持ちがその後くじけそうになったり、妙な方向へ行こうとする自分を、励ましたり戻してくれる原動力になっている気がする。

 いまの世の中、確かに心が壊れかけている人が多くなったようだ。
 だが、周囲の人が気づき、そしてその人のために何をするか――それも問われている気がする。
 少なくとも「自分は愛されている」とわかれば、心は壊れないのではないかと思う。


    ○ 文明病? こころ壊れるその前に 周囲は気づくか 何かをするか




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