いじめについて


○ シカトして いじめることはここちよい それがいじめのスタートライン



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ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」        2007年 8月 17日(金) 第81号

 こんにちは。ほんとは残暑見舞いの時期ですが、夏本番のような厳しい暑さが続いています。いかがお過ごしでしょうか。
 今回も著書『狂短歌人生論』第7章「いじめと教育」の中におさめた狂短歌とエッセーの紹介です(^_^;)。

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 (^O^) ゆとりある人のための10分エッセー (^O^)

 【 いじめについて 】

 (^_^)今週の狂短歌(^_^)

 ○ シカトしていじめることはここちよい それがいじめのスタートライン

 子どものいじめによる自殺が大きく取りあげられている。
 事件が浮上するたびに「いじめがいかにひどい行いであるか。いかに命が大切であるか、子どもに訴えよう」と言われる。
 もちろん子どもにそう言い続けることは必要だ。だが、心の奥深くを掘り起こしていじめをなくそうと考えるなら、私は次のように子どもに問いかけるべきだと思う。
 「いじめることはなぜ気持ちいいのだろう」と。

 いじめについて子どもたちが取っている態度は次の三つに分かれる。
 1 いじめたことがあるか、現にいじめている。
 2 いじめの現場を見たことがある。
 3 いじめられたことがあるか、現にいじめられている。

 このうちいじめたことがある子どもの中に、いじめることは気持ちいいと感じている子どもがいる。そして、その現場を見ている子どもの中にも、いじめられている子が気にくわない人間だと「いい気味だ」と感じている子どもがいる。
 私はその感情を問うことがいじめについて考えるスタートラインだと思う。

 私はかつて一度だけいじめの加害者になったことがある。
 そのいじめは楽しくて面白かったのである。

        *       *        *

 それは私が小学校一、二年のころのことで、いじめた相手は年上の男性だった。
 片足を悪くしてびっこをひく(すみません。この言葉を使わせてください)青年が小学校の上の家に住んでいた。確か私より十いくつほど年上だったと思う。その人を仮に太郎さんとしておこう。太郎は左足が右足より短く、いつも足をくねくねさせながら歩いていた。走ることはほとんど不可能だった。

 隣の子で二歳年下のAと私は遊び友達だった。私たちは放課後よく校庭で遊んだが、なぜか太郎と仲が悪く、口げんかをすることが多かった。
 そんなとき私とAは「ヤーイヤーイ、びっこの太郎」と言って彼をからかった。
 すると太郎はびっこをひきながら私たちを追っかけた。だが、私たちはまずつかまらなかった。それはそのころの私にとって面白い鬼ごっこだった。
 もし親や先生に知られていたら、さぞかし叱られたことだろう。しかし、知られないまま、私とAは太郎と出会うと、けんかをした。

 ある日の夕方のことだ。私とAが校庭で遊んでいると、太郎が通りかかった。他の子どもは一人もいなかったと思う。
 何がきっかけだったかわからない。私たちはまた彼と口げんかになった。私とAはいつものように逃げの体勢をとりながら、彼のびっこをからかった。
 彼もまたいつものように私たちを追っかけ、私たちは校庭を逃げ回った。普段なら二人は逃げ切り、彼はあきらめてこの鬼ごっこは終わる。

 だが、この日の太郎は違った。
 彼は右足でけんけんをしながら、かなりの速さで私たちを追ってきた。
 私とAはつかまりそうになったので、ジャングルジムの上に避難した。私たちは足の不自由な彼がジャングルジムに登れないことを知っていたからだ。

 私とAは勝ち誇ったかのように笑い、「ヤーイヤーイ」と彼をののしった。
 太郎は私たちを見あげて憎々しげににらんだ。
 しばらくにらみ合いが続いた。その間も私たちはののしり合った。

 それから何分たっただろうか。しかし、この日の太郎はなかなかあきらめなかった。ジムの下からずっと私とAを見あげていた。
 私たちは次第に不安になり始めた。そこで自分の家に逃げこもうと、すきを見て下に降りることにした。だが、彼は巧みにそっちに回り込んで逃がさない。私とAはジムを何度も上がったり下がったりした。

 それでも、二人いるので一人だけはなんとか逃げ切れる。Aはうまく下に降りて走り去った。
 太郎はAだけは逃がしていいと思ったのかもしれない。取り残された私は再び太郎とにらみ合った。

 また何分かたった。太陽が山の端に沈み、あたりが急に薄暗くなる。
 私はとうとう怖くなって彼に謝った。だが、太郎は許してくれない。
 ふと気づくと、私の父が正門の向こうから私たちを見ていた。夕食を呼びに来たのだろう。
 だが、父は近づいてこない。
 太郎も私の父に気づいたが、あきらめる気色がなかった。
 私はとうとうジャングルジムの上で泣き出してしまった。
 そして、そこで記憶は途切れる。

 これ以後、私とAは二度と太郎のびっこをからかわなかった。

        *       *        *

 いやな奴をからかうことは楽しくて面白い。当時の私には相手が年上だったこともあってそれが言葉によるいじめという意識はなかった。だが、いじめている当人にそれがここちよいということ。それをそばで見ている子どもにとっても、ときには面白いと感じることがある。その気持ちを掘り下げることも大切ではないか。
 そして、いまいじめられている子どもがこれを読んでいるなら、太郎さんのように、ときには命をかけていじめっ子に立ち向かうことも必要ではないか、と言いたい。


 ○ シカトして いじめることはここちよい それがいじめのスタートライン


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:これは長くなって見開き4ページ分の文章です(^_^)。これ以外にもなぜ子どもが親や先生にいじめられていることを訴えないのか、今の教育や今後のあり方についても取り上げています。ところで、参院選自民惨敗、民主躍進の件ですが、執筆意欲が湧かず話題としませんでした。一つ思うことは、参院選自民惨敗とは年金問題の怒りや与党にお灸を据える一時的な傾向に過ぎないのか、あるいは宮崎の(自分で考え自発的に投票する)そのまんま現象が続いたのか。後者なら大歓迎ですが(^_^)。(御影祐)




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