○ 我々の元気の素はエネルギー 食べ物がくれ 人がもたらす
ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」 2007年11月 30日(金) 第89号
今号よりまた『狂短歌人生論』の部分紹介です(^_^)。
これまで「脅迫者・批判者・傍観者・受容者」について述べてきましたが、この分類は私の発案ではなく、『聖なる予言』の作者ジェームズ・レッドフィールド氏によるものです。私は読んでとても感激しましたが、最初はとてもわかりづらい内容でした。
しかし、いろいろ考えてみると、親子間にもとづくこの四分類は血液型4分類よりよっぽど素晴らしい性格分類だと気づきました。
私は同氏か日本人による解説書が出てほしいと思ったのですが、結局出ないままでした。ジェームズ氏もその後は「霊や魂の世界」へ進んでしまいました。「ならば私がやるしかない」と思った次第です(^.^)。
ところで、『聖なる予言』では人が与えたり、奪ったりするエネルギーについて述べています。これもとてもわかりづらい考え方ですが、私はこれをできるだけやさしく解説しました(^_^)。
この考え方もとても素晴らしいと思います。なぜなら、私たちは自然や人がもたらすエネルギーによって生きているからです。
(^_^)今週の狂短歌(^_^)
○ 我々の元気の素はエネルギー 食べ物がくれ 人がもたらす
まず人が日々獲得するエネルギーについて考えてみよう。
エネルギーとは文字通り人間の活力源である。生きていくための養分であり、元気の元である。私たちは食べなければ生きていけない。エネルギー源として普通思い浮かぶのは主食のごはんやパン、副食の肉や魚・野菜・果物など食べ物や水分である。
朝起きて朝食を摂る。通勤通学の後、職場や学校で活動して昼食となる。そして、午後の活動を経て家に帰ると夕食。全て食べ物としてエネルギー源を獲得している。
だが、私たちが獲得するエネルギーはこれだけではない。「人はパンのみにて生きるにあらず」と言う。食べるだけでなく、《精神的なエネルギー》も必要で、それは身近の人たちから受け取ることがある。
たとえば、人と話したり触れ合ったりして、なんとなく元気が出て「よーし。やったるぞー」と思うときがある。人と関わることで元気になったのだから、それはエネルギーを獲得したと考えるのである。
一方、人と接した結果ため息をつき、なんとなく元気をなくすこともある。こちらは人と関わることで元気が出ないのだから、エネルギーを失ったと考えるのである。
このことをもっとよく理解するためには、人生の様々な場面における《勝ち負け》を想像してもらうといい。最も身近な例はゲームやスポーツをやって勝った時、負けた時どのように感じるかである。
まずゲームやスポーツに勝つことで、人はどんな気持ちになり、どのような表情を見せるか。
その答えは……明るくなる。生き生きとして元気が出る。爽快感や優越感を味わう。自然に笑みがこぼれ、ガッツポーズが出る。人生は生きるに値すると思う。「よっしゃー。今度もがんばるぞー。練習するぞー」と思ってやる気が出る。
これこそエネルギーが獲得されたのであり、負けた相手からエネルギーを得たことを意味している。
逆に負けたとき、人はどのような気持ちになり、どんな表情を見せるか。
その答えは……くやしいと思う。意気消沈して元気が出ない。不快感や劣等感を覚える。顔の表情はこわばり、笑みが浮かぶことはない。暗ーい気持ちになる。むなしくなり、怒りさえ湧いてくる。人生は生きるに値しないと思う。「こんなことならやらなきゃ良かった」と思ってやる気をなくす。
これはつまり自分のエネルギーが失われたのであり、勝った相手にエネルギーを奪われたと考えることができる。
もちろん負けたからと言ってそのような気持ちにならない人もいるだろう。だが、本気でやった試合なら、多くの人は負ければ暗く不快な気持ちに襲われる。「別に負けてもくやしくなんかない」と言ったとしても、大概負け惜しみであることが多い。
あるいは、高校野球や大相撲のように「勝ったからと言って大っぴらなガッツポーズなんかしちゃーいかん」と指導されている場合もある。ところがどすこい、よーく観察してみれば、勝った選手や勝ち力士から、抑えようとして抑え切れない笑みと明るさがこぼれていることに気づく。
逆に負けた方はある種放心状態で、くやしさを表すわけにもいかず、冷静に無表情を装っているが、その顔は明らかにウス暗い。
負けてなお暗い気持ちにならないタイプもいる。四タイプの中では傍観者と受容者に圧倒的に多い。なぜなら彼らは負けることに慣れっこだからだ。逆に典型的な脅迫者と批判者ほど、負けたくやしさをもろ出しにする。
ところで、勝つことで元気というエネルギーを得る。負けることによってエネルギーを失うという考え方はわかってもらえたと思う。ただ、そのことがただちに、相手からエネルギーを得たとか、相手に自分のエネルギーを奪われたと見なすことは飛躍だと思われるかも知れない。
だが、元気になるとはエネルギーが身体に充満したと感じることである。たとえば、物理にエネルギー不変の法則というのがある。なめらかな平面を転がってきたボールが他のボールと一直線上で衝突する。すると転がってきたボールは止まり、いままで静止していたボールが同じ速さで動き出す。あれである。
なぜそのようなことが起こるのか。それは衝突の瞬間動いていたボールのエネルギーが、静止したボールに全て移されたからである。ならば人間だって一対一の対決で勝った方が元気になり、負けた方が落ち込んで元気をなくすのであれば、負けた方が持っていたエネルギーが勝った方に移った(奪われた)と見てもいいのではないだろうか。
『聖なる予言』では食物のエネルギーも人から与えられるエネルギーも、一括して「エネルギー」と呼んでいる。だが、私はそれを区別したいと思う。自然のエネルギーは自然エネルギー。人が与えてくれるエネルギーは元気のエネルギー、愛のエネルギーと呼びたい。そして、人のエネルギーについてさらに考察を進めてみると、四タイプはそれぞれのやり方で人からエネルギーを獲得していることがわかった。この章ではそれについて考えてみたい。
○ 我々の元気の素はエネルギー 食べ物がくれ 人がもたらす
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※人のエネルギー、自然のエネルギーについての狂短歌は……
・ 勝ち負けの実態いろいろ眺めれば エネルギーの争奪戦
・ 美しい自然とどぶ川比べれば どちらが元気をくれるだろうか
いつも勝っている脅迫者・批判者タイプのエネルギー争奪は……
・ 脅迫と批判タイプは勝つことと 命令指図でもりもり元気
いつも負けている傍観者・受容者だってエネルギー争奪のための生き方がある……
・ 傍観と受容者タイプは 勝ち組のおこぼれもらってやや元気
・ 傍観者 完全無視を貫いて 勝った勝ったと喝采(かっさい)あげる
・ 受容者は弱い弱いと思わせて ときに怒りの不意打ち見せる
逆にどうやってもエネルギーを奪えないことが……
・四タイプエネルギーを奪えない 逆転ドラマと無視反抗
詳細は拙著『狂短歌人生論』にて(^_^)。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:四国の祖母と孫二人の行方不明事件は悲惨な結末を迎えました。まるで探偵気取りのようなマスコミの報道もどうかと思いましたが、事件のもろもろがわかってみると、最も悲惨なことは貧困が元凶にあったような気がしてなりません。家賃を踏み倒すとか、借金漬けの生活とか、働けない家族とか……。誰も言いませんが、そろそろうん十年前のように「悪いのは格差を生み出す高度資本主義だ。もっと賃金寄越せ! 正社員にしろ! 仕事を寄越せ!」とシュプレヒコールあげて大規模デモでもやる時期なんじゃないでしょうか。(御影祐)
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