「日帰り温泉旅の偶然 考察」


○ いくつかのミスや不運があったとしても 時間稼ぎと思えば愉快



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ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」              2008年 4月 4日(金)第97号


 関東では、はや桜が満開です。いよいよ春本番ですね(^_^)。
 4月新たな気分でスタートしようではありませんか。

 しかし、我がメルマガは前号の続きです。『日帰り温泉旅の偶然』について、もっと深くその意味を探りました。
 かなり長くなりましたが、いつものように深〜い真実がつまっております(^.^)。
 ぜひ、この見方・感じ方を体得してください。
 それはミスや不運などでいやなことが続いても、人を責めたり、自分を責めなくてすむ生き方・感じ方でもあります(^_^)。
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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ いくつかのミスや不運があったとしても 時間稼ぎと思えば愉快

 (^O^) ゆとりある人のための10分エッセー (^O^)


 【 ピンポイントの偶然 】


 前号のように「偶然の出会いで悩みの答えを得た」などという話をすると、
「いいですねえ。そんな体験や出会いがあって。私も温泉によく出かけますが、悩みの答えを得るような人と一度も出会ったことがありませんよ(-.-)」と言われる。

 また、私が感激して語ったあの内容に関しても、
「どうしてそんなに感動するのかわからない。たまたま面白い人と出会ってちょっと言葉を交わしただけでしょ。それが悩みの答えを得ただなんて……大げさな(^.^)」なる感想を持たれることも多い。

 前者に関して私はこう答える。
 おそらく多くの人にそのような出会いが起こっているのだと思う。だが、気づかないだけだ。あるいは、目の前を悩みの答えを持った人が通り過ぎても、その人と言葉を交わさないだけだと。
 また、後者に関しては、あの体験が一生に一度あるかないかの《偶然の出会い》であり、だからこそ私は「大いに感動した」と言えばわかってもらえるだろうか。
 そしてそこにはミスや不運でいやなことが続いても、それが「必要だった」とわかる感激も含まれている(^_^)。

 まず「猛烈徒歩おじさん」と出会ったことを確率的に考えてみよう。

 あのおじさんのように胃ガンの手術をして、その後各地の温泉を巡り歩いている人、あるいは水を求めている人はおそらく相当数いるに違いない。特に珍しい人ではないだろう。

 だが、その人たちの多くは車を使っていると思う。いまや十八歳未満の少年少女や高齢者、障害者を除くと、車の免許を持たない人は百人に一人いるかいないかくらいではなかろうか。
 ところが、あのおじさんは徒歩で温泉巡りをしている。なおかつ10リッターポリタンクをごろごろ引きずりながら歩いている――となると、果たして何人いるだろうか。
 その確率たるや相当の低さではないかと思う。一万人に一人か十万人に一人。あるいは、百万人に一人かもしれない。

 現に私もA氏も過去数十年、そのような人とお目にかかったことがない。とても稀有(けう)な人と出会った可能性が高いのだ。
 もしかしたらこの先私が死ぬまで、もう二度とそのような人と巡り会うことがないかもしれない。
 それほどの人と出会えたことに、私はまず感激した(^o^)。

 次に彼と出会うとき、A氏が「歩けなくなった悩み」を抱えていたこと――正にそのとき「猛烈徒歩おじさん」と出会えたことがすごいと思う。
 つまり、A氏がそのような悩みを抱えていなければ、猛烈徒歩おじさんとの出会いは感激でもなんでもないだろう。
「ふーん」てなもんで「珍しい人がいるね」で終わったに違いない(^.^)。

 実は私がそうだった。だが、A氏にとっては悩みの答えを持つ人と出会えたのだ。
 A氏が最も必要としているときに、最も素晴らしい答えがやって来たのである。

 なぜA氏にとってそれが「最も素晴らしい答え」と言えるのか。
 それは前号で述べたように、A氏はこれから高齢期を迎え、歩けない悩みを抱えている。A氏は理屈ではせっせと歩かねばならないとわかっている。だが、感情が認めないから歩けないのである。
 感情が認めるためには、大きな驚き、ショック、歓喜や感激などを体験して「そうか。そうだったのか!」と納得しなければならない。
 あのおじさんと出会うことは、A氏にとってその感激をもたらしてくれる出会いだったのである。
 私はそのことに気づいたとき、その現場に立ち合った僥倖(ぎょうこう)に感動した(^_^)。

 実は私自身に限れば、このような偶然の出会いと感激を何度か体験したことがある。
 特に六年前父と一緒に出かけた東北の旅では、驚きの出会いがあった。

 そのころ私は『ケンジとマーヤ〜』二冊を執筆中だった。
 私は単なる小説ではなく、科学や哲学、心理学を取り入れた総合小説を書こうと考えた。そして、そのような「売れそうにない(^.^)」しちめんどくさいものは書かなくていいのではないかと悩んでいた。
 また、小説中に上層部に無断で「空間移動装置」を研究する自衛隊科学班を構想した。
 私は書く上で実感を重視するので、自分の体験にはない、主人公と自衛隊とのかけ合いを、一体どのように書いたらいいか。それがまた悩みの種だった。

 ところが、この東北の旅で、私は偶然にも妙な動きをする自衛隊の団体さんと出会ったのである。
 それこそ私が最も必要としているときに、最も素晴らしい答えがやって来た瞬間だった(^o^)。

 それは青森の三内丸山遺跡で起こった。
 私と父は午前9時半ころ遺跡に到着した。そして遺跡内を案内してくれるボランティアがあることを知った。
 これはラッキーと思って受付で案内を頼んだ。
 すると「もうすぐ団体さんが来ますから、その人たちと一緒になってください」と言われた。

 それから十分ほどしてやって来た観光バス1台の団体さんが、なんと自衛隊の一班数十人だったのである。
 私はその偶然の出会いにびっくりして「悩みの答えがやってきた(^o^)」とつぶやいたものである。
 そして東北の旅を終えたとき、総合小説を目指して書いていいという結論も得たのだ。

 同じようなことが友人の身に起こり、私もまたその現場に居合わせたことに、私は大いに感激したのである(^o^)。

 さて、次に猛烈徒歩おじさんとの出会いがとてもピンポイントであったこと、そして、その前のさまざまなミスや不運による事件が全てそこに集約され――妙な言い方だが、必要な不運であり、必要な失敗であったことを説明したい。

 以下旭温泉に到着する前、私とA氏に起こったいやな事件を列挙してみよう(^.^)。

1.梅見に出かけたのに、まだ花が咲いていない不運とミス

 私たちは青梅(おうめ)に梅見に出かけた。ところが、不運にも花は全くと言っていいほど咲いていなかった。梅林はせいぜい数本が一分咲きでしかなく、ほとんど枯れ木だらけの寒々しい風景だった。 なのに、入園料は取られたし、駐車料金も高かった。

 ここで私たちが犯したミスがある。それはインターネットで開花状況を調べなかったことだ。
 最近では観光地のホームページでそうした情報が流されている。もしそれを調べていれば、私たちは青梅に寄ろうと思わなかっただろう。

 しかも、A氏は昨年二月末に一度訪ねて《つぼ見》に終わっていた。当日朝も「まだ早いかな」とつぶやいていたのである。その不安が的中したから、A氏は「やっぱり行かなきゃ良かった」と身の不運を嘆いたかも知れない(^_^)。

 一方、私はと言えば冬枯れの景色であっても、そこに自分の現在をあてはめる。だから、花見ができなくても別にがっかりしなかった。
 むしろゴルフや競馬で不如意続きながら、蕾のような明るい芽を感じている。「ああ、この梅も十日後くらいには盛大に花が咲く。私もいまはこの芽と同じなんだな」と実感した程度である(^.^)。

 このとき私とA氏はお互い相手を責めることができた。
 青梅に寄ろうと言いだしたのは私だった。だからA氏は「なんで青梅に行こうと言ったんだ!」と語気を荒げ、対して私は「最終的に行こうと決めたのはあなたたでしょ!」など、売り言葉に買い言葉の口げんかを交わしても不思議でなかった。
 だが、二人は……内心の感情は別にして(^.^)穏やかに青梅と別れを告げた。

 2.最初の迷い道

 青梅の梅林公園を後にすると、韮崎(にらさき)へ向かうので、東京外環道から中央高速へ戻ることになる。
 このとき私は中央高速に近い日の出インターへ行こうとした。だが、助手席のA氏は青梅インターへ行こうと言う。
 どちらも数キロの距離だから、日の出インターから入る方が料金は安い。しかし、A氏は青梅インターの方が近いからそっちへ行こうと言い張る。ならばと私はA氏の意見を採り入れてそちらに向かった。
 ところが、走り初めてすぐA氏は自説を撤回して「Uターンしよう」と言いだした。
 「なんじゃそりゃ」と思ったが、私はこれにも従った(^.^)。

 すでに青梅インターへの道を走り出していた。そこは片側一車線なので単純にUターンできない。そこで、まず右に曲がり、さらに右に曲がって元の道へ戻ろうと考えた。
 ところが二度曲がってみると、車は住宅街に入り込み、道がどんどんせまくなる。A氏は道の分かれ目に来ると「右に行こう」「左に行こう」と指示した。
 しかし、最後は民家の庭みたいなところに迷い込んで、川の堤防に乗り上げ行き止まりとなった(^.^)。

 A氏は目の前の川とその向こうの山々を眺めながら、「あの向こうが日の出なんだがなー」とつぶやいた(--;)。
 もちろん行けるはずもなく、そこで苦心してUターンした。
 さらに細道をうろちょろしたあげく、ようやく元の道に戻り、日の出インターへ向かった。
 これで三十分は時間をロスしただろう。

 ここでも「なーにやってんだ!」とか「あんたが青梅インターに行こうとか、余計なこと言うからでしょうが!」とか「あんたのリードはちっともあてにならない!」など、口角泡を飛ばす口げんかをしても不思議でなかった。
 だが、二人は……内心の感情は別にして(^.^)穏やかに中央高速へ乗り入れた。

 ここでリードしたのはA氏で、私はかなり彼の意向に従った。彼のもろもろの指示で悪いことが起こったから、私の方が彼をいくらでも責めることができた。だが、私は彼を責めなかった。

 そのわけは「そのような批判を重ねれば、この次同じようなことで私がミスを犯すと、彼から批判のしっぺ返しを食らう」とわかっていたからだ。それに道に迷ったとき、私がリードしてうまくいくとは限らない。つまり、このミスはお互い様のことではないか。

 そして、私のこの予感はすぐ的中した。韮崎(にらさき)に着くと今度は私のリードで道に迷ったのである。
 これだからまったく人生は面白いと思う(^.^)。
 ちなみに、ナビは(妙なところを走っているので)全く役に立たなかった。

 3.またも道に迷う

 最後は韮崎でのことだ。
 私は自宅を出発したとき、ナビを目的地の《旭温泉》にセットしていた。
 だが、車が中古だからナビは約十年前の製品。旭温泉は数年前に設立されたので、ナビには出ていない。そこで電話番号を打ち込んで目的地を設定した。

 ところが、ナビの指示通り行ってみると、そこは韮崎の市役所周辺だった。
 近くのコンビニで旭温泉の場所を聞くと、南西の方角数キロのところにあるという。
 私は店員が教えてくれた大ざっぱな道を頭にたたき込んで、そちらの方角へ向かった。
 まず市役所の西を流れる釜無(かまなし)川にかかる武田橋を渡った。

 ところが、なんとなくそっちだろうと山勘で進んだものだから、またも道に迷ってしまった(^.^)。
 人に聞こうにも田舎のことで歩いていない。ナビは目的地を入れていないので、もちろん役に立たない。
 ここで分かれ道になると、今度は私の勘で右に行ったり左に行ったりした。A氏は黙っていた。

 ここで私が犯したミスは旭温泉について電話のメモしか持参しなかったことだ。
 ナビは電話番号だけでなく、住所を入力しても目的地に到達できる。
 A氏が「旭温泉の住所は?」と聞き、私は「住所は書いてこなかったんですよ〜(--;)」と答えた。

 そうして二十分ほどうろちょろした挙げ句、A氏が「携帯で旭温泉に問い合わせてみたらどうかなー」と言った。
 私は携帯電話を持っていないので、そうした発想がわかない。「そうだ。その手がありましたね」とお願いした。
 A氏が携帯を取り出してメモを見ながら電話をかけた。相手はすぐに出た。
 そして、先ほど渡った武田橋からの道順を教えてくれた。

 そこでナビの地図を頼りに武田橋へ戻り、電話の指示通り車を進めてようやく旭温泉に到着できた。
 この迷い道で費やした時間も三十分ほどだった。

 ここでも「なーにやってんだ!」とか「うっるさいなー!」と口げんかを交わすことができた。
 夫婦や恋人同士なら「だから、お前が」「だからあなたが」と非難合戦になってもおかしくないところだ。

 ここでリードしたのは私だった。A氏は道に迷った私を責めなかった。なにしろ先ほどA氏のリードで道に迷ったことがある。
 しかし、もし最初の迷い道で私がA氏を責めていたら、彼はおそらくここで私を責めただろう。
 批判されたり、バカにされた感情は後で報復を果たそうとするからだ。
 結局、私とA氏は(内心そうであったとしても)非難・批判の応酬とならなかった(^_^)。

 実はそのとき私の内心はもっと穏やかだった。
 不思議なことに私はそのように道に迷ったりうろちょろしても、不安とか苛立ちを全く感じないのである。
 自分で正しい道を見つけられればオッケーだし、最終的に自力で解決できないと思えば、どこかで人に聞けばいいと思っているからだ。誰かと約束したわけでもない自由な旅行だから、こうしたミスで1、2時間ロスしたとしても、私はなんとも感じないのである。

 むしろ私の心の深い部分では「こうした時間の無駄と思えるような行動にも何かしら意味があるかもしれない」と思っていることもある。
 それはこれまでの海外旅行や東北の旅で、いやというほど――いや、むしろ歓喜を伴って体験したからでもある。
 つまり、ミスや不運でいやな事件が起きたとしても、後で「良いことが起こるかもしれない」と思っているのである(^.^)。

 そして、この予感は的中した。
 私たちがあのように無駄な時間かせぎをしないと、(結果論だが)あの猛烈徒歩おじさんと出会えないからだ。
 今になってみると、あの道に迷った無駄な時間は、まるで悩みの答えを得るための時間つぶしのようにさえ思える。

 とはいえ、やっとのことで旭温泉に到着したときはほっとした(^_^)。
 梅見で花が咲いていない不運にかち合い、ならばゆっくり温泉に浸かろうと思えば、アホな迷い道や遠回りを二度もしてしまった。もしこれらの事件がなければ、午後一時には旭温泉に着いたであろうに、温泉に浸かったときはもう二時半になろうとしていた。
 だが、この無駄な時間つぶしがなければ、あのおじさんとは出会えなかった。そこが「ピンポイントの偶然」というゆえんである。

 私たちが猛烈徒歩おじさんと出会ったことがいかにピンポイントであったか。これまた箇条書きで述べてみたい。

 1 時間のピンポイント

 私たちが旭温泉の浴槽に浸かって十分くらいしてから、あのおじさんがポリタンクを抱えて入ってきた。
 浴室には浴槽の外に掛かり湯があり、そこに源泉が出る蛇口がある。ペットボトルを持参した人は大概そこで汲んでいた。

 だが、ポリタンクおじさんはわざわざ浴槽の源泉湧出口までやって来た。
 そのとき私は湯口のすぐ隣にいてA氏は私の左側にいた。
 おじさんは私に「すみません。水汲ませてください」と断り、私は「どうぞ、どうぞ」と応じて湯口から離れた。
 そこから我々の会話が始まったのだ。

 そして、彼は私たちと十数分言葉を交わすと、身体も洗わず「お先に失礼します」と言って出ていった。
 私は彼がのんびり浸かるようなら、韮崎(にらさき)駅まで送ろうかと思っていただけに、「あれっ、もう出るのか」と思った。

 彼はたぶん午前中に増富(ますとみ)温泉に浸かっていたのだろう。
 それに歩こうとする人に対して「車に乗せてあげますよ」と言うことは、善意の押し売りになりかねない。そう思ってそのまま別れた。

 つまり、結果から見れば、彼は午後二時半から三時くらいの間だけ、あそこを訪ねたのである。
 ということは、私とA氏が彼と出会うためには、私たちもまたその時間帯に旭温泉に入っていなければならない。遅すぎてもいけないし、早すぎてもいけない。正にピンポイントの時間帯である。

 ならば、青梅で時間をつぶしたこと、そこで道に迷ってうろちょろしたこと、さらに旭温泉までの道がわからず、またもうろちょろして合計一時間余り時間をつぶしたこと。それらは妙な言い方だが、彼と出会うために全て必要な時間稼ぎだったことになる。

 もし青梅に行かなければ、私たちはおそらく正午前後に韮崎へ着いただろう。さっさと温泉に入ってさっさと帰路に就いたに違いない。おそらく帰る途中どこかへ立ち寄る程度だ。当然彼とは会えなかった。
 さらに青梅を出た後、二つの道に迷う事件がなければ、やはり午後一時には旭温泉に到着する。おそらくタイミングがずれて彼とは会えなかっただろう。

 2 場所のピンポイント

 しかも、彼が浴槽の湯口から源泉を汲むとき、私たちはそのすぐ近くにいる必要がある。
 これがまた相当のピンポイントであることに驚く。

 もしそのとき私たちが広い浴槽の別の場所にいたら、おそらく彼とは言葉を交わさないだろう。
 彼は黙々と(あるいは他の客と言葉を交わしながら)源泉をポリタンクに入れ、私たちは遠くからその様子を眺めていたに違いない。
 ところが、不思議なことに我々は彼が入ってくる直前、湯口近くへ移動したのである。

 私はインターネットで旭温泉について検索したとき、炭酸がぶくぶく出ていること、浴槽の中では湯口付近が最も気泡の出がよく、入浴者はそこに陣取るといった内容を読んでいた。
 私たちが入浴したとき客は五、六人で、そのうち二人がやはり湯口近くにいた。ぶくぶくを味わうにはそこが最適だが、いわば先着順だから、彼らが離れるまで近寄ることができない。
 私とA氏は窓際近くに浸かって外の景色を眺めたりした。

 十分ほどして先客二人が湯口から離れた。
 私は「これ幸い」とすぐにそちらへ向かった(^_^)。
 そしてA氏にも「こちらへ来て。ここがいいよ」と呼びかけた。
 その直後にポリタンクおじさんが入ってきたのである。

 こうして(全てが終わった地点から振り返ると)ほんとうにピンポイントの時間と場所の出会いであったことがわかる。
 早すぎてもいけないし、遅すぎてもいけない。出会える場所は湯口近くしかあり得ない。
 私がこの偶然の出会いに「ものすごく感激した」というのもわかってもらえるのではないだろうか(^.^)。

 3 言葉を交わすこと

 最後に決定的でとても大切なことがある。それは猛烈徒歩おじさんと言葉を交わさねばならないことだ。
 彼と言葉を交わさない限り、彼がA氏の悩みの答えを持っていたとわからない。私たちは単なる通行人としてすれ違うだけで終わっただろう。

 当然のことだが、私とA氏は時間の流れに従って青梅に行き、不甲斐なくも二度も道に迷った。その時点では、その後悩みの答えに出会うとか、そのために時間稼ぎをしているなどと全く意識していない。
 また、二人で湯口近くにいたとき、近寄ってきた人がA氏の悩みの答えを持っていると知るはずもない。
 つまり、この最後のところでおじさんと言葉を交わさない限り、A氏は悩みの答えを得られないのである。
 それこそ「多くの人にそのような出会いが起こっているのだと思う。だが、気づかないだけだ。あるいは、目の前を悩みの答えを持った人が通り過ぎても、その人と言葉を交わさないだけ」と言うゆえんである。

 このようなとき、特に傍観者タイプはなかなか言葉をかけられない。A氏も一人だったら、果たして「その水は効きますか」と声をかけただろうかと思う。
 ここで伏線として面白いのは、二年ほど前からA氏が健康法として「毎日二リットルの水飲み」を習慣としてきたことだ。だからこそA氏はさらりとその言葉が出たのかもしれない。

 こうしてピンポイントの時間と場所、そして最後の言葉の交換に成功して、A氏は悩みの答えにたどりついた。
 しかもこの答えは、たとえばテレビでそのような人が紹介されて「ふーん」と思ったのと違う。彼ひとりにだけやって来た答えである。「最近歩けなくなった」悩みを抱えたA氏が最も必要としているときに、最適の答えが稀有(けう)な偶然を経てやってきたのである。

 それを見た(気づいた)私がとても感動したわけがわかってもらえただろうか(^_^)。

 本当に妙な言い方だが、あの時間、あの場所にいるためには、それまでに何かしらのことで時間を稼がねばならない。その時間稼ぎが梅の花が咲いていないのに、梅見に行き、二度も道に迷うことであったなら、それらいやな事件は全て必要な時間稼ぎだったことになる。何度も言うけれど、それがなければ猛烈徒歩おじさんとは出会えなかったのである。
 ならば、その不運やミスに対して運命を呪い、相手を責めることはない。不甲斐ないと自分を責める必要もないだろう。全て必要な不運であり、必要なミスだったのだから(^_^)。

 もちろんミスや不運によるいやな事件のあと、毎度毎度素晴らしい偶然に出会えるわけではない。
 出先で不愉快な事件が起こり、不愉快な気分のまま帰ってくることはたびたびある(^.^)。
 しかし、私は出先で奇妙な出来事が続くと、「おやーこの先何かあるのかな」とか「もしかしたら、後でいいことが起こるかもしれない」などと勘を働かせる。
 あるいは道に迷ったとき、すぐにそれを修正しようとせず、そのまま行くこともしばしばである。
 それは「このまま進むことで何か自分にとって必要なもの、いいものが見られるかもしれない」と感じているからである。
 もっとも同乗者は私の内心をわかってくれず、「早く元の道に戻れ」とうるさいことが多いけれど(^_^)。

 初めに述べた通り、私のこのような話を聞くと、人は「悩みの答えを得るような偶然に出会ったことがない」と言う。
 だが、ほんとうは起こっているに違いない。ただ、気づかないだけだと思ってほしい。
 普段から偶然の出来事に対して「自分にとってこれは何か意味があるのだろうか」と自問したり、あるいは「なんとなく行こうと思った」とか、「なんとなく気になった」という動物的直感、野生の勘を大切にしていると、そのような機会が訪れる。

 そうして最後にそのとき傍観せずに勇気をもって――あるいは、そんなことは意識せず、ただ無心にさらりと言葉を交わすと「思いがけず歓喜の答えが得られる(^o^)」のだ。


 ○ いくつかのミスや不運があったとしても 時間稼ぎと思えば愉快


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:みんなが携帯電話を持つことによって『君の名は』のような「すれ違いの恋物語」はなくなりました。車もナビに頼っていると、迷い道や寄り道がなくなる。インターネットで最適な開花状況を調べて行くと、このような事件に遭遇せず、逆に歓喜の出会いもなくなってしまう。文明の利器にどっぷり浸かれば浸かるほど、わくわく感や動物的直感、原始の勘が失われてしまう――と考えるのは私だけでしょうか(^_^)。
 ところで、「東北旅の偶然」については以下をご覧下さい。(御影祐)

おヤジとキタぞー東北道中膝栗毛




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