○ 公園のベンチは誰のものだろう? みんなのものか 私のものか
ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」 2013年 9月 13日(金)第 157号
祝! 2020東京オリンピック開催(-.-)!
7年後日本で2度目のオリンピックが開催されることになりました。
顔文字が[(^o^)]でないのは、日本が単純に喜べない事情を抱えているからです。福島原発汚染水問題だけでなく、被災地から漏れ聞こえた「どこか別の国のお話のよう」との言葉は重いと思います。
しかし、これで被災地復興、福島原発・汚染水処理など、今後7年間で「しっかりやります」と世界に宣言したようなものです。そういう意味でも良かったのではないでしょうか(^_^)。
さて、これから3回にわたって「総論賛成、各論反対」について語りたいと思います。3回目には「総論=各論型原発存廃を問う国民投票用紙」も公開いたします。
オリンピック開催が決まったことで、原発問題は一気に《存続・再稼働》へと向かうでしょう。しかしながら、その決定を国会議員だけに任せていいのか。本気で原発存続問題を国民投票とするべきではないか――との気持ちから考えたものです。
今号はまず安部公房作『赤い繭』の授業風景から入ります(^_^)。
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(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 公園のベンチは誰のものだろう? みんなのものか 私のものか
総論賛成、各論反対というのは大から小、上から下まで会議において何かを決めようとするとき、しばしば出てくる議論です。「総論に関しては賛成だ。だが、各論は反対だ」と言うわけです。
今端的に二つの例を挙げるなら、「原発施設から出る放射能廃棄物を処理する施設を作らねばならない」が総論で、これは誰しも異存はない。しかし、各論は「私の住むところに作られては大迷惑だ」となっていまだどこにも本格的な処理施設ができていません。
あるいは、「米軍基地の7割が集中する沖縄の負担を軽減しなければならない」が総論なら、「私のところにオスプレイが来るのは断固反対」が各論です。
これについての詳細は次号に回します。今号はまず議論の前提となる《全体と個》について語りたいと思います。
四号前のメルマガで安部公房の掌編『赤い繭』について触れました。「何かを得たときには何かを失っている。逆に言うと、何かを失ったときには何かを得ている」お話として。
『赤い繭』にはもう一つテーマがあります。それは「みんなのものは個人のものか」なるテーマです。
主人公の「おれ」は浮浪者です。浮浪者に住む家がないのは当然だろうに、彼は自分の家を探して町をうろついています。なぜみんなには家があるのに、自分にはないのだろうか。もしかしたら、この家がおれの家かもしれないではないか。
そう考えた彼はとある家の扉を叩き、顔を出した優しそうな奥さんに「この家は誰の家でしょうか」と尋ねます。奥さんはけげんな顔をして「もちろん私の家です」と答える。
彼は「では、それを証明してください。あなたの家であって私の家でないことを」と続けます。
すると奥さんは「まあ(・・)」と言ってばたんと扉を閉ざしてしまう。
顔文字は(-_-;)でしょうか。
一般的にはここで権利書なんかを見せるのでしょう。
生徒も「どうやって証明する?」と聞けば、そう答えます。
しかし、私はそれが本質的な解決にならないことを指摘します。
先生:「では、その権利書を紛失するとか、なくなったらどうやって証明するの?」
生徒:「役所に原盤があると思うので、再発行してもらいます」
先生:「では、役所が火事で燃えて全ての原盤がなくなったら?」
――とたたみかけると、生徒は苦笑しつつ、困った顔を見せます。
そこで私はそれが実際にあったことだと話します。
「これは家ではないけど、土地の件では実際にあったこと。大きな戦争で自宅も役所も全て燃えてなくなってしまうと、個人の土地がどこからどこまで誰のものか、証明できなくなる。するとどうするか。役所は市民に届けさせるんだ。何月何日までに、ここからここまでが私の土地だと申し出るようにと」
生徒はみな驚きの顔を見せます。それでは正直に届ける人もいるだろうけど、不正を働く人が出るのではないか、と思っての顔です。
「その通り。たとえば戦争や大災害で関係者がいなくなって誰も異議をとなえないと、申請した当人の土地になってしまうんだ」
そこで私は「家に関しては確かに建てた人のものだろう。でも、土地がこのような不確かなものでは、自分のものと証明できる根拠などあるのだろうか」とまとめます。
その後小説に話を戻して……公園のベンチの件に移ります。
浮浪者の「おれ」はさらに町をうろつき「ここならおれのものだろう」と公園のベンチに寝ころびます。公園はみんなのものです。
すると、おまわりさんが現れてこう言います。
「おいこら。このベンチはみんなのものであってお前のものではない。さっさとどこかへ行け」と。
浮浪者は思います。ああ、おれの家はどこにもない……と。
私はまた生徒に聞きます。
「このおまわりさんの言っていることはどこかおかしくないかい?」と。
ここまで読んでこの問いにすぐ答えられる読者は言葉の使い方にとても敏感な方です(^_^)。
私の授業では生徒はほとんど答えられませんでした。
そこで私は次のような全体と個の図を描いてヒントを出します。
全 体 全 体 ○ 全 体 ×
――――――― ――――――― ―――――――
|個 個 個 個||○ ○ ○ ○||× × × ×|
|個 個 個 個||○ ○ ○ ○||× × × ×|
|個 個 個 個||○ ○ ○ ○||× × × ×|
|個 個 個 個||○ ○ ○ ○||× × × ×|
|個 個 … …||○ ○ … …||× × … …|
――――――― ――――――― ―――――――
この図は全体とは個の集まりであり、全体が○なら、一人一人も○であること。全体が×なら、一人一人も×になることを表しています。
そして、次のような答えを導きます。
公園のベンチがみんなのものなら、みんなの一員である私のものでもある。だから、この浮浪者もベンチを使っていい。おまわりさんの言う「みんなのものであってお前のものではない」の理屈は間違っている――と。
逆に言うと、「公園のベンチはお前のものではない」と言う限り、個人ひとりひとりが×なのだから、全体である「みんな」も×になる。つまり、「みんなのものでもない」ことを示しています。公園のベンチが「お前のものでない」なら「みんなのものでもない」のです。
おわかりでしょうか。おまわりさんの理屈を押し進めると、「公園のベンチはみんなのものではない」ことになるのです。
では、おまわりさんはどう言えば良かったのでしょうか。
この問いはもっと難しいらしく、生徒はなかなか正解にたどりつけません。
みなさんはいかがでしょう?
答えはこうです。
「公園のベンチはみんなのものだから、お前も使っていい。でも、お前がそれを独占して1年も2年も使ったら、他の人たちが使えなくなってみんなのものではなくなってしまう。だから、ある程度使ったら他に移ってくれ」と。
これが「みんなのものは個人のもの」についての正しい解釈でしょう。
みなさんは都市部の河川敷にブルーシートで住みかを作っているホームレスを知っているでしょう。そこは国や東京都、神奈川の土地、つまりみんなのものです。
ときどき年に一回くらい「清潔にする」との名目で、一日だけブルーシートの住みかを片付けてもらって清掃活動を行っています。その様子がニュースで流れたりします。翌日にはまたブルーシートの住みかが立ち並びます。
それを見た人の感想は「一日だけそんなことをやるくらいなら、完全に排除すればいいのに」と思う人と「かわいそうだから、そんなことしなければいいのに」に分かれるようです。
これ、『公園のベンチ』の理屈から言うと、「みんなのものを個人が独占することを防いでいる」形になっています。
おわかりでしょうか。全体がイエスなら、個人もイエスであり、全体がノーなら個人もノーであるということ。
逆に言うと、個人が一人一人ノーであり、その人数が全体に到達するなら、全体もノーになるということです。
国で全体の方針を決めるとき、基本的には全国民が同じ結論――○なら○、×なら×になるのが望ましいことです。
しかし、現実にはあり得ないことなので、民主主義を採用していれば、多数決の原理が使われます。
つまり、過半数が○なら全体も○と見なす。×が過半数なら全体も×と見なすわけです(安部公房にはこの民主主義の根本原則を諷刺した『闖入者』という傑作短編があります)。
ただ、憲法など重要事項に関しては3分の2を超えることが求められたりするようです。(以下次号へ)
○ 公園のベンチはみんなのものだから 私も使ってかまわない
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:安部公房『闖入者(ちんにゅうしゃ)』(戯曲では『友達』)を補足説明します。
内容は安アパートに一人で暮らす「男」のところに、全く知らない九人家族が突然乗り込んで居すわる物語です。彼らは愛と友情を届けるため、一人ぼっちの孤独な人間を探してやって来たと言います。困った男は大家や警察に訴えるけれど、取り合ってもらえません。九人は「我々は家族だ」と主張し、警察は「家族内のもめごとだから」と訴えを取り上げず、大家は「めんどうに関わりたくない」と黙り込みます。つまり、男は「この部屋は自分のものだ」と証明できないのです。契約書を示しても、相手が認めてくれなければ証明できないのと同じことです。
かくして居すわった闖入者は部屋の中の物を勝手に使います。男が抗議すると「では誰の物か多数決で決めよう」と言われます(^.^)。手を挙げれば、当然人数の多い闖入者が勝ちます。多数決の怖さであり、全体と個において個がいかに弱いかも示していますね。
このお話、男はやがて檻の中に監禁され悲惨な結末を迎えます。これとよく似た事件が数年前神戸で発覚しました。現実になれば、とてもこわいお話です。(御影祐)
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