「あっさり死にたければ」


○ あっさりと死にたいならば 世の中の役に立ちつつ楽しく生きて



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ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」        2014年 4月 11日(金)第 164号


 ようやく暖かくなってきました(^_^)。
 当地の桜は寒気のおかげで長引き、今は葉桜に移りつつあります。他の花々も咲き誇って春本番の雰囲気です。
 ところで、ノーベル賞ものと言われたリケ女の「STAP細胞」発見――妙な方向に流れています……が、しばらく静観でしょうか。

 本日は科学と全く関係ない「ゴミ屋敷問題」についてちょっと逆説的に語りたいと思います。ずばりお年寄りとお年寄り予備軍各位へのメッセージです。
 珍しく長くないので、気軽に読んでください(^.^)。なお、今号は「である」体です。
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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ あっさりと死にたいならば 世の中の役に立ちつつ楽しく生きて

 (^O^) ゆとりある人のための10分エッセー (^O^)

 【 あっさり死にたければ 】

 隣近所から眉をひそめられている「ゴミ屋敷」問題。以前にも増して広がっているようだ。先日もテレビで紹介されていた。
 私の基本的な見立てはゴミを片付けられないのではなく、心の問題であるということ。

 ゴミ屋敷のタイプは大きく二つに分けられるようだ。
 一つは路傍に捨てられた粗大ゴミなどを、まだ使えると拾い集めてくる人。
 もう一つは食べ残しや菓子袋・パックなどのゴミを、片付けたりゴミ捨てに出すのがめんどうで「ちょっと置いて」おいたら、そのうち家の中がゴミだらけになってしまった人。こちらの部屋にゴミまがいの「貴重品」はない。

 前者は一軒家の一人暮らしに多く、後者はマンションなど外から見えない部屋に広がりつつあるとのこと。
 一般的なゴミ屋敷は庭など家の周りにもゴミがうず高く積まれ、道にはみ出すほどだから、すぐにわかる。対して後者は一軒家でも外周はきれい。マンションの一部屋がゴミで埋まっていても、訪ねていかない限りわからない。

 最近きれいな顔したアイドルが「実は部屋がゴミだらけ」と告白するのを耳にする。彼女の片付けはずっとお母さんがやっていたのかもしれない。それが突然一人暮らしを始めたら、なかなか片付けられないだろう。

 外から見えないゴミ屋敷は夫や子どもがいる主婦にも広がっているという。これは意外な報告だった。結婚当初からではなく(それもあるらしい。大概離婚するとか^.^)、ある日突然片付けられなくなった。夫との関係など何か別の問題がありそうだ。
 ここでは私の守備範囲である一人暮らしのゴミ屋敷について考えてみたい。

 一人暮らしの場合、みなに共通しているのは人が訪ねてこないことだ。
 根本にはひとりぼっちのさみしさがある。私も一人暮らしだから、彼らの感情はよくわかる。

 以前メルマガに「テーブルやちゃぶ台の上に新聞紙や紙類がごちゃごちゃ重なることがあって、私はそれを片づけないまま飯を食っている」と書いたことがある。
 そのとき「ちょっとちらかっている方が、まっさらなテーブルや飯台で食べるより心が落ち着くのです」と書いた。それは心のさみしさを物で囲っていることを示していよう。
 私の場合は人が訪ねてくれば、さすがにそれを片付ける。幸い訪ねてくれる友人がいるので、我が家はゴミ屋敷にならない。だが、訪ねてこなければ、相変わらず散らかったテーブルでご飯を食べることが多い。

 ゴミ屋敷住人の心の中をのぞき見れば「誰か訪ねてきてほしい。でも、訪ねてほしくない」といった矛盾した気持ちもあるようだ。いわば、ゴミで防護壁を作っている感じ。さみしい心をモノで囲っているのではないだろうか。
 三十代のゴミ屋敷女性がある日業者を雇って家をきれいさっぱり片付けた。聞けば「恋人ができてあなたの部屋を訪ねたいと言ったから」だと。訪ねてくる人がいれば、やっぱり家はきれいにするものだろう。

 番組の中で、かつて教員だったゴミ屋敷住人が登場していた。男性はいま八十歳。庭にはゴミが積まれ、道まではみ出しかけている。その前で男性は渋々インタビューに応じた。奥さんを亡くしてから鬱病に陥ったとのこと。
片付ける気になれない。どうしようもないんだ」と言い、「死ぬのを待っているだけ」とつぶやく。元教員だけあって心の中をうまく表現していた。
 そろそろ人生の終わりが見えつつある八十歳の人に「まだまだ生きがいが持てます。夢を抱きましょう」と言うことは難しい(-_-;)。

 だが、私の父を振り返る。彼は八十歳まで生きたけれど、癌が発覚して十ヶ月で旅だった。
 父は癌が発症する直前までとても壮健で、三十歳違いの息子と全く同じペースで歩き、一緒に旅行ができた。趣味は詩吟に尺八に水墨。教室に通い、詩吟では支部の師匠だった。盆踊りで口説きをやり、お祭りでは笛を吹いた。廃油から石けんをつくる公民館活動に参加し、行政の説明会があると、出かけて質問をし、意見を述べた。週に一回子供達に剣道を教えた(これは四十数年に渡る活動)。畑を耕して野菜を作り、(ゲートボールは気にくわないとやめた後は)グランドゴルフがお気に入りだった。

 そして、喜寿の祝いでは「あと十年は楽しんで生きられる」と笑いながら語っていた。そういうお年寄りだっている(^_^)。
 父に似た八十歳は全国にあまたいらっしゃるだろう。
 対してゴミ屋敷の八十歳男性は鬱病状態にあるとは言え、「死ぬのを待っているだけ」と語る(-.-)。

 不思議なことだ。もっと長生きしたいと思った我が父はあっさり逝ってしまい、「早く死にたい。もう死ぬのを待っているだけ」とつぶやくご老人はなかなか死ねない。
 だが、彼はまだまだ自分の思いや考えを口にできる。歩けるし、自転車に乗ることもできるようだ。彼にはできることがたくさんあると思う。

 たとえば、ゴミで一杯の屋敷の庭を畑にして野菜を作れば、ふさぎこんだ気分はきっと変わる。ボランティアなどで悩めるニートや不登校児に働きかければ、元教員の体験が生きて大いに役立つだろう。彼自身きっと若返るような気がする。
 そのとき男性は「もっともっと長生きしたい、やることができた」と思うだろう。そのとき死に神は直ちにやって来るのではないだろうか(^.^)。

 ときに神様は皮肉である。「もう死にたい。死ぬのを待っているだけ」と思う人はなかなか死なせてくれない。
 逆に「生きたい。もっともっと生きてこれをやりたい。あれもやりたい」と人生を謳歌する人をあっさり殺してしまう。

 妙な言い方だが、早く死にたければ、楽しみを見出し、人の役に立ち、「生きてて良かった。もっともっと生きたい」と思えるような、やりがいのある活動・生きがいを見つけることではないだろうか。
 そうすれば来るべき時が来れば、さほど苦しむことなくぽっくり逝けるような気がする(^_^)。


 ○ 人生は「楽しい。もっと生きたい」と 思えばすぐに 死に神来たる(^.^)


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:今「考えるとは何か」と「新しい読書法」について書いています。
 ちょいと時間がかかりそうなので、来月は休刊といたします。ご了承下さい。(御影祐)




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