○ いやがらせ――普通はいやな言葉だが 母の手作り弁当ならば
ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」 2015年 4月 2日(木)第 174号
3月卒業、4月入学・入社のシーズン。満開の桜が華やかです。
たまにはあれこれ考えず、普通のエッセーを、と思って書きました。
最近話題の「いやがらせ弁当」について(^_^)。
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(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ いやがらせ――普通はいやな言葉だが 母の手作り弁当ならば
通常「いやがらせ」なる言葉は使いたくない、聞きたくない言葉だが、キャラ弁にその名を冠したお母さんがいる。
名付けて「いやがらせ弁当」。
娘さんが反抗期に入ってなかなかなコミュニケーションを取り辛い。そこで高校入学から卒業まで三年間キャラ弁を作り続けた。その中身がすごくて面白い(^_^)。色鮮やかで丹念につくられ、芸術作品と言いたいほど。ただし、いやがらせと言うくらいだから、かなりひねりが効いている。
たとえば、車で送れないと伝えているのに、電話で「来て」と言われた翌朝はウィンナーとゆで卵で歩いている人型を作り、「歩け!」の文字。
娘さんそれに文句を言ったらしい。すると翌朝の弁当には「呪」と書かれている(^_^;)。
帰宅後弁当を出さず、洗うのが大変だったときは「弁当箱出せよ!」。夕食の食器をほったらかしで立ったときは、「皿はかたせや」もあった。
文字はノリや白かまぼこを切り刻んで作っている。母と高校生の娘、中学生の妹の三人家族らしい。
手の込んだキャラ弁はつくるのに一時間はかかる。月曜から金曜まで暗いうちから起きてつくり続けた。風邪をひいたときにはマスクをした顔。月曜の朝は「毎日が日ようだったらいいのにな……」と弱音も見せる。
普通に考えれば、とても愛情あふれるお弁当だと思う。しかし、家族とは不思議なもので、外から見れば愛の言葉や行為であっても、当人には「愛」と感じられないことが多い。特に子どもにとって母の愛はときに「うざったい」と感じられる。
昨今の高校生は一人で弁当を食べない。必ず仲のいい数人が固まって弁当箱を開く。だから、彼女のキャラ弁は間違いなくクラスメイトの話題となり、期待され、うらやましがられ、時にはからかわれることだってあっただろう。
そんなうざったい気持ちが出たのだろうか、一度娘さんが「明日は弁当つくらなくていい」と言ったのに、朝になって「やっぱりつくって」と言われ、キャラ弁が間に合わないことがあった。娘さんはおにぎりだけの普通弁当をうきうきしながら持っていったようだ。
それを見た母親は翌日「キャラ弁ヤメナイヨー」と書いた弁当をつくった(^.^)。
こうして三年間休まず、いやがらせ弁当を作り続けた。意地もあったかもしれない。母は卒業式の日に一人では食べきれないおかずとごはんの二段重ね弁当を渡した。娘が開けてみると、ごはんの上にノリ文字で作られた「表彰状」が。
そこには「あなたは嫌がらせのお弁当を残さず三年間食べ続けました。その忍耐を称えここに表彰します」と書かれていた。
これって最後のいやがらせで、本当は「お前が私に表彰状を出すべきだよ」と言いたかったのだろう。「三年間休まずキャラ弁を作ってくれました。その忍耐を称えここに表彰します」と。
母の期待に応えて娘が表彰状を送ったかどうか。どうやら表彰状どころか、「3年間ありがとう」の言葉もなかったようだ。
その後彼女のいやがらせ弁当は本になった。母は完成本の中に(彼女が知らなかった)娘の感謝の言葉を読んだからだ。
もっとも、娘さん「プライバシーの侵害だ」とも書いていたらしい(^.^)。
この話題をテレビで見た数日後、別の局で「ありがとうを伝える」という企画があった。街行く人にインタビューして「ありがとうを伝えたい人に、テレビカメラの前で言ってください」とお願いするパターンだ。
長年連れ添った夫婦が改めて「ありがとう」を言う。お世話になった人には感謝の言葉。
中に一人、専門学校を卒業した二十一歳の女性が「三年間弁当をつくってくれたお母さんにありがとうを伝えたい」と言ったので、おやっと思った。
彼女は母親に「ありがとう」を言っていないとのこと。これは推測だけれど、スタッフが「この後言いますか」と聞いて「てれくさいから言わない」と答えたかもしれない。
そのままだと放映されても母は見ない可能性がある。スタッフはそう思ったのだろう。おせっかいと思いつつ家を訪ねた。
母親は娘が「弁当ありがとう」と言う映像を見た後、「昨日の残り物を入れただけの普通の弁当でしたけど」と言いつつ、うれしそうだった。
丹念につくられたキャラ弁も、ごくごく普通の弁当も、ともにお母さんの愛情弁当だなと思った(^_^)。
これらを見てふっと自分の弁当を思い出した。私も中学校時代(当時給食は小学校までだったから)三年間母親の弁当を食べた。その後私は家を出て高専三年(寮生活)→中退浪人(寮生活)→他県大学→遠距離就職と歩んだので、母の弁当を食べたのはこの三年間だけだった。
彼女の弁当も大概前の日の残り物だった。弁当箱は今のようにご飯とおかずが別々ではなく、アルミの平べったいやつで、ごはんが多くておかずが少なかった。だから、「もっとおかずを入れて」とか「今日のはまずかった」と文句を言った記憶がある。もっとも、卵焼きだけはとてもおいしかった。その後何度か自分でつくってみたけれど、あの味に到達しない。そのうち作り方を聞こうと思っていたら、母は亡くなった。
私は当時弁当が母の愛情であるなどと思いもしなかった(ようだ)。給食がないのだから、弁当をつくってくれるのは当たり前――程度にしか考えていなかった(気がする)。
だから、卒業式を終えたとき、母に「三年間弁当作ってくれてありがとう」と言った記憶はないし、その後もこの件で話したことはない。母も中学校時代の弁当を話題にしたことはなかった。ただ、弁当をめぐって一つだけ記憶に残っていることがある。
中学校時代で伸び盛りのころだし、私は運動系の部活動に所属したから、昼飯の弁当だけではとても足りなかった。だから、弁当を食べ終えると、必ずパンを買って食べた。
余談ながら、私は小学校、中学校で下校時の買い食いを一度もしたことがない。別に品行方正な子どもだったからではない。家と小学校は徒歩一分、中学校とは徒歩三分の近さだったからだ(^.^)。それゆえ昼飯をたくさん食って晩飯までもたせねばならなかった。
購買にパンはたくさん売られていたけれど、私が行く頃は砂糖をまぶしたやつとか、揚げパン、ソーセージ入りなど、おいしそうなやつは大概売り切れていた。だから、残り物で我慢するしかなかった。それでもパンはおいしくてもりもり食べた。
ちなみに、なぜ先に買いに行かなかったかと言うと、購買の前に人だかりができて時間がかかりすぎるからだ。昼休みは弁当→パン→仲間と遊ぶ、と流れが決まっていた(^.^)。
当時クラスに一人だけ毎日昼食はパンで済ましている女の子がいた。その子は昼休みになると、すぐ買いに行くので、いつもうまそうなやつを食べていた。
私はあるとき彼女に「毎日おいしいパンを食べられていいね」と言った。
彼女は微笑みながら「うん」とうなずいた。
私の母も三年間弁当をつくってくれたけれど、一度だけ作れない日があった。前夜母はすまなさそうにそう言い、「私はパンが買えるからいいよ」と答えた。心中むしろ「明日はうまいパンを食べられるぞお」と思って嬉しい気分だった(^_^)。
翌日昼休みになるやいなや、ダッシュで購買に走り、普段買えないパンをゲットした。いつもの倍くらい買って教室に戻ると、わくわくするような気持ちで食べ始めた。
だが、不思議なことにパンはちっともおいしくなかった。いや、ソーセージ入りのパンや揚げパンがまずいわけはない。ただ、なぜかみな味気なかった。
これなら、まずくても母親の弁当の方がよっぽどおいしいと思った。売れ残りのパンでもおいしいと感じたのは弁当の後だったからだと思った。
そして、いつもパンを食べている女の子に「毎日おいしいパンを食べられていいね」と言ったことを後悔した。
その後この件で彼女と話したことがないから、彼女が毎日のパンを味気ないと感じたか、本当においしかったかはわからない。
それでも、当時「この弁当は母の愛だ。感謝しなきゃ」などと思った記憶がない。
あるいは、母もごく当たり前のこととしてやってくれたような気がする。
母の愛とは子どもにとって空気のようなものなのかもしれない。
○ 母の愛 感じるのはずっと後だけど それでいいんじゃないですか?
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:最近はシングルファーザーも多いようだから、父が作る弁当もありそうです。それって子どもはどう感じているのか。どうも想像できません(^_^)。
ちなみに、「いやがらせ弁当」の画像はネット検索で見ることができますのでどうぞ。アドレスを紹介しても良いのですが、書籍になっており、著作権の関係でリンクが切れるかも知れないのでやめておきます。
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