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目 次
前置き
1 国語(現代文)の授業は三読法
2 人の話を三読法で聞けるのか ――本号
3 結末に早く到達したいと考える悪癖
4 結論が大切か途中が大切か
5 一読法の読み方
(1)題名読みと作者読み (2)つぶやきと立ち止まり読み
(3)予想・修正・確認 (4)共感・賛同・反発
読み終えたら……
(5)記号をたどって作品を振り返る (6)短い感想を書く
6 まとめ
ここまでは文章の《読み》に関して語りました。通読・精読・味読の三読法は世の実態に合った読み方ではなく、問題があると。
もっと切実な問題は読みの延長である《人の話を聞く》場合に起こります。対話するとき、我々は相手の話を一度しか聞きません、一度しか聞けません。
その際三読法しか学んでいない人は読み同様さあっと聞きます。すなわち「ぼんやり聞いている」ってことです。
だから、相手の言うことを深く理解し、賛同したり、反論することができません。
話す側から見ると、話し終えて内容について質問しても、きっちり答えることができない。話し手が「何か質問はないか」と聞いても、質問が出てこない。なぜなら、ぼんやり聞いているからです。いわゆる「右の耳から左の耳に抜ける」ってやつ。頭の中にとどまらないのです。
理解度三〇で人の話を聞いている。それが世の実態です。これが進むと、高齢者になって詐欺に引っかかりやすくなります。[この部分を読んで、「おや、妙なことを言っているな。どうしてそう言えるんだ?」とつぶやいた方は一読法を学んでいます]
ここでも、読者が「いやいや、自分は相手の言うことをしっかり聞ける。反論できるよ」とおっしゃるなら、それは《ぼんやり聞かないで、集中して聞いている》からでしょう。
さらに、話の途中でわかりにくいことがあったら、「ちょっと待って。そこはどういう意味?」と質問したり、メモを取ったりして聞いている。それなら、あなたの聞き方は理解度六〇に達しています。
日常会話でメモを取ることはまずないでしょうが、講演や職場の会議ならやっている人がいるはずです。特にメモを取りつつ聞いている人は理解度六〇を超えていると断言できます。
「何か質問はないか」と聞かれれば、容易く質問できるし、反論もできる。
「ここは意味不明だった。ここは相手の意見に賛成できなかった」箇所がメモに記されているからです。
この聞き方は三読法ではありません。一読法による話の聞き方です。
一読法はこう教えます。
人の話を聞く際、一度しか聞かないから集中して聞くこと。途中で質問してもいい場合は、言葉の意味とかわかりにくいところを「ちょっと待って」と言って質問すること。途中で反論したいことがあったら、反論しましょう――と。
学校の先生やお父さん、お母さんが問題児や不肖の我が子に説教することがあります。話の途中で子どもが何か言おうとすると、さえぎって「話の腰を折るな。おとなしく最後まで聞きなさい」とよく言います。
そして話が終わると、「何か言いたいことはないか。質問はないか」と聞いたりする。
ところが、子どもは「別に。わかったよ」と仏頂面で答える。
その態度は到底反省しているように見えないので、大人は「お前は本気でこの件を考えているのか」と怒ったりする。
残念ながら、このような親や先生は自身ひどいことを言っているのに、気づいていないようです。
職場の上司にもこういう人がいるのではないでしょうか。三読法しか学んでいないから、「途中で口をはさむな」などと言う大人になるのです。
対して聞く方はぼんやり聞いている。あるいは、真面目に聞いているので途中で言いたいことがある。しかし、「最後まで聞け」と言われたら、口を閉ざすしかない。
話し終えたときの大人の結論は「お前の生活態度を改めなさい」であり、そう言われれば、自分が悪いし、正しい主張だから反論のしようがない。かくして質問も感想・反論も出てこない……ということになります。
そして、このような大人に育てられた子どもが大きくなると、また似たような大人になって「話の腰を折るな」と子どもや部下に説教するのでしょう。
どこの職場でもよく見かける光景に上司が部下のミスを叱責したり、説教する場面があります。部下が途中で何か言うと「いい訳をするな」と言って喋らせない。そして最後に「今後こんなミスをするんじゃないぞ」の言葉で説教は終わる。部下は「わかりました」と応じて去る。
ところが、部下はその後また似たような失敗をする。すると、上司は「先日言ったばかりじゃないか。なんで同じミスを犯すんだ」とまた叱責する。
これがたび重なると、上司の心中は「こいつはなんて無能なんだ」との思いで一杯になるかもしれません。
世の親御さんが息子や娘に対して「この間言ったばかりじゃないか」と叱責されることも多いのではないでしょうか。
これも説教・意見が三読法で話され、三読法で聞いているから起こる事態です。上司や親は自分の意見を言うだけ。部下や子は言いたいことがあるけれど、言わせてくれないので、黙ってぼんやり聞いているだけ。上司や親の言葉が身体にしみこんでいないのです。
失敗しないためにはどうすればいいか、どう生きればいいのか。残念ながら上司や親は教えてくれない。語ったとしても、だいたい精神論か「お前が考えろ」で終わる。だから、また同じミスを犯す。
部下はもういい訳をしようともしない。ただ「すみません」と謝るだけ。その繰り返しになるのが、三読法的聞き方、話し方によってもたらされる結末です。
では一読法的説教ならどうなるか。
部下が途中でいい訳をしようとするなら、上司はそれをしっかり聞く。そして「なぜそのミスが起こったか。部下の問題か、相手の問題か、会社の問題か。部下の問題ならそのミスが発生した理由・原因をさぐる。そして、今後どのようにするか」を上司と部下で話し合う――これが一読法的聞き方であり、一読法的説教の仕方です。上司が一方的に原因を分析して語ることはありません。
ミスの原因を的確に分析できる人は有能です。しかし、それをそのまま部下に喋る上司は普通レベルの有能でしかありません。最も有能な上司は失敗の原因に気付いていても、あえて語らない人です。この上司は《部下自らミスの原因に気付く》よう話を展開します。
よって、一読法的説教は基本的に《言いっぱなし・聞きっぱなし》がありません。途中で止めつつ、考えつつ、話し合う話し方であり、聞き方です。親子の間でも同じ話し方・聞き方となります。
ゆえに、一読法では「途中で話の腰を折る質問・反論大歓迎」と教えます。もちろん壇上で喋る講演などは最後まで静かに聞く。それは当然のエチケット。その場合はメモを取りながら聴く――それが一読法です。
ところが、三読法は人の話の聞き方を教えません。教えることができないのです。
なぜなら、三読法とは二度以上読むのが基本。だから、人の話の三読法的聞き方とは「相手にもう一度同じことを喋らせる」です。
皮肉ではありません。当然の帰結です。または、録音しておいて後でもう一度聞く。
もしも問題児が、説教する親や先生に向かって「すみません。今の話はさあっと聞いていました。だから、もう一度同じことを喋ってください」と言ったらどうでしょう。大人は激怒するに違いありません。
あるいは、部下が「課長のお話は録音しています。帰宅後もう一度念入りに聞かせてもらいます」と言ったら、上司はどのような反応を見せるでしょうか。
ところが、それは三読法にとっては正しい聞き方です。最初はさあっと読んで、二度目に精読するのが三読法。それを《聞くこと》にあてはめれば、最初はさあっと聞いて二度目にじっくり聞く――となります。ゆえに、どちらも間違った申し出ではないのです。
かわいそうなのは人の話の聞き方を学んでいない子どもたちと言うべきでしょう。
そして、説教とは「上司が一方的に部下に言い聞かせるものである」と信じて日々説教に明け暮れている中間管理職の方々。あなたも三読法的授業の犠牲者であると言わねばなりません。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記: ☆ お知らせ ☆
御影祐のホームページURLとメールアドレスが3月31日より以下のように変わります。
変更お願いいたします。
[http://www.geocities.jp/mikageyuu/index.html] → http://mikageyuu.flier.jp/index.html
ここで個人的感慨を少々――。
はるばる遠く来(き)ぬるものかな……ではありませんが、「ゆうさんごちゃ混ぜホームページ」は2003年6月、ヤフージオシティーズさんによって開設。今年で16年目を迎えます。それがサービス停止によって他プロバイダーへの移転を余儀なくされました。
4月1日よりお世話になるのは「ロリポップ」さんです。税抜き月額250円のサービスなので、今後もコマーシャルは入りません。
私の書き物はほぼホームページに掲載してあります。しかし、どれを取っても名にし負う「長文」ばかりであります(^_^;)。
ツイッター・インスタグラムなど「短文隆盛」の世の中にあって、とてもまともに読んでもらえず、化石化し埋もれてしまう運命でしょう。
私は何か偶然が起こると、「これは私にとってどんな意味があるのだろう」と考えます。
昨年初め本稿「一読法を学べ(理論編)」をほぼ書き上げたとき、すぐに公開しないで1年経ちました。そのころはなんとなく公開する気になれなかったのです。
そして昨年12月、ヤフーから「ジオシティーズのホームページサービス廃止」との連絡が来て移転作業を開始。今年「一読法を学べ」をメルマガ全読者に公開しようと思ったとき、ホームページの移転・「一読法を学べ」の配信・論文の公開を1年待ったわけ――が私の中でつながりました。この偶然の意味に気付いたのです。
今月半ばころようやく移転作業が完了しました。この間自分が書いた十数年分の文章をいくつか読み返すことがあり、「初めの頃感じ考えていたことが今も変わらないなあ」と思ったり、当初リンクして紹介していたよそ様のホームページが「リンク不能」となったりして時の流れを実感させられました。この偶然には「自分のホームページを振り返るという意味もあったか」と思ったことです。
その中で「偶然のネットサーフィン」を読み返したとき、今は亡き俳優成田三樹夫氏が若かった頃恋人(後に結婚)に語った言葉に目が止まりました。
三樹夫さんは彼女に言います。「何でも一生懸命読まなきゃ駄目だ。詩でも小説でも作者は命懸けで書いているんだ。だから読む方だって命懸けで読まなきゃ失礼なんだ。そうでなければ字面(じづら)ばかり追うだけで本当の宝物は作者は見せてくれないんだ」と。
当時感動した言葉であり、今も鮮烈で「自分は命がけで書いているかなあ」と反省する言葉でもあります。
同時にこれは「字面ばかり追うだけ」の読み方をしている読者への痛烈な批判にもなっているでしょう。
成田氏は心構えとしてこの言葉を語ったと思います。対して私は「それは読者の責任ではない。むしろ日本の国語授業が字面を追うだけの読み方指導をしてきた。だから、その読み方しかできないんだ」と考えています。この思いで本稿『一読法を学べ』を書きました。
突然ですが、私はツイッター反対論者です。わずか一四〇字の意見表明に何の意味も価値も見出すことができません(後日触れます)。
そんなものを読んで発信する時間があったら、夏目漱石を、芥川龍之介の小説を読んでください。子どもたちにスマホの画面ではなく、小説や詩を、論文を読むよう(それも本で)勧めてください。
あなたのお子さん・お孫さんがオレオレ詐欺やいじめの加害者になっている可能性があります。子どもに芥川龍之介の『鼻』や『羅生門』『蜘蛛の糸』を読ませてください。いじめの心理や「自分が生き残るためには何をやってもいいのか」について考えさせられるはずです。
芥川龍之介の作品は短編が多いけれど、古今東西の名作・力作はことごとく「長文」です。長文を読める人間になる必要がある、と私は考えています。本稿「一読法を学べ」をじっくりしっかり読んで、ぜひ「長文を読める力・テクニック」を身につけてください。
またも長い後記となって申し訳ありません。
ちなみに、ここで「私の小説を読んで下さい」と書けないのが忸怩(じくじ)たる思いです……(^_^;)。 御影祐
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「一読法を学べ」 第 4 号へ (4月 8日発行)
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