カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 6号

「五 一読法の読み方」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 6号

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           原則月3回 配信 2019年 4月28日(日)


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 目 次
 前置き
 一 国語(現代文)の授業は三読法
 二 人の話を三読法で聞けるのか
 三 結末に早く到達したいと考える悪癖
 四 結論が大切か途中が大切か
 五 一読法の読み方         ――本号(長いですが、一気に公開します)
 (1)題名読みと作者読み
 (2)つぶやきと立ち止まり読み
 (3)予想・修正・確認
 (4)共感・賛同・反発
  読み終えたら……
 (5)記号をたどって作品を振り返る
 (6)短い感想を書く
 六 まとめ


 本号の難読漢字
・納得(なっとく)・検索(けんさく)・語彙(ごい)・暫時(ざんじ)・その都度(つど)・小諸(こもろ)・遊子(ゆうし)・萌(も)えず・藉(し)くによしなし・杜甫(とほ)・禅智内供(ぜんちないぐ)・伏線(ふくせん)・生涯(しょうがい)・隔(へだ)てる・俄然(がぜん)・頑固(がんこ)・度し難い(どしがたい)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 6

  五 一読法の読み方

 人の話をどういう風に聞くか。一度しか聞かないのだから、学校はそれに見合った聞き方を、児童・生徒に教える必要がある。
 それを読み方にあてはめるなら、学校を離れたり、上の学校に進学したら、多くの文章を一度しか読まないのだから、一度読み専用の読書術を教えるべきだ。
 さらに、部分をいいかげんにして「さあっと全体を読み、結論や作者の主張を知ろう」といった読み方ではなく、音楽を聞くように、最初から部分をじっくりゆっくり読む――それを可能にする読書術が「一読総合法」です。

 私は大学時代に初めて一読法を知りました。講義や演習で知ったのではなく、たまたま解説本を見つけました。
 これはいいと思ったので、国語教員となった後も研究を続け、(最初は三読法でしたが)ある時期から一読法の授業を始めました。文章を三度読むのではなく、「最初から集中して読むこと、部分をしっかり理解し味わい、最後まで読み通したら、自分なりの感想・意見を持つ」という授業です。

 ここで一読法の授業がどのように行われるか、解説します。もちろん一人で読むときの読書法です。

 【 一読法による読みの流れ 】

 (1)題名読みと作者読み
 (2)つぶやきと立ち止まり読み
 (3)予想・修正・確認
 (4)共感・賛同・反発
   読み終えたら……
 (5)記号をたどって作品を振り返る
 (6)短い感想を書く

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 (1)題名読みと作者読み

 ほとんどの文章には「題名(表題)」があります。題名とは文章全体を短くまとめた言葉です。もしも「内容を要約しろ」と言われたら、取りあえず題名を入れて答える。それだけで三〇点はもらえます。それほど題名とは重要な言葉です。
 そこで、一読法は「題名読み」から始まります。題名を見ただけで「何が書かれているか、内容を予想」するのです。疑問点も当然メモします。

 たとえば、『空海マオの青春』なら……
 空海のことが書かれているんだろうな。マオって何だ? 空海か? 青春とあるんだから、この小説はたぶん空海の青春時代が書かれているんだろう。どういう青春なんだろうか――これくらいが予想できます。それを余白に書いておく。
 空海のことを全く知らなかったら「空海って誰だ?」と書くし、事典やネットで空海を調べることもあります。

 次に作者読みとは作者の名を聞いたことがあれば、内容予想につながります。たとえば、「夏目漱石・芥川龍之介」とあれば、「小説だろうな」と予想できます。もちろん読み始めて「あれっ漱石だけど、論説文だな」とわかった時点で修正します。
 児童・生徒のレベルでは「初めての作者」であることが多いので、深入りしません。つまり、作者について事前に事典やネットで調べることはしません(読み終えて作者に興味が湧いたり、他の作品を読んでみたいと思ったときに調べれば良いことです)。

 題名読みで起こった疑問は、本文を読み始めてすぐ解決されることがあるし、しばらく解決しない場合もあります。
 すぐに解決しなくても構いません。題名読みの主たる目的は「本文を集中して読むこと・疑問を持って読むこと・答えを探して読むこと」――その意識付けというか、心構えを持つための作業だからです。

 最後まで読み終えたとき、疑問が解決されたら「そうだったのか」とつぶやけばいいし、「確かに空海の青春が描かれていた」と納得できる(かどうか)につながります。
 納得できなかったら「これが空海の青春なのか、疑問に思った」とつぶやいて余白に記す。これが読後感(の卵)となります

 (2)つぶやきと立ち止まり読み

 題名読みを終えたら、鉛筆を持って本文を読み始めます。ここで大切な点は人の話を聞く際、途中で「ちょっと待って」と言うように、《異和感を覚えたところで立ち止まる》ことです。

・難語句

 最初の異和感は難語句で起こります。知らない漢字、意味不明の言葉が出てきたら、「読みは? 意味は?」とつぶやくでしょう。直ちに立ち止まって難語句に傍線を引く。すぐに辞書を引いて(またはネット検索して)読みや意味を確認する。この部分にふさわしい意味を余白に書き込んでおく。

 論説文などは輸入英語が登場することがあります。意味不明なら、やはり辞書を引いて簡単な意味を書き込む。
 また、辞書を見れば、難しい漢字も簡単な漢字に置き換わることがわかります。そのときはその漢字を上部に抜き書きします(これらの作業は語彙量を増加させる訓練になる)。

・意味不明の箇所

 次なる異和感は一文や数行に渡って「これはどういう意味だろう」とか「ちょっとわかりづらい」と感じるところで発生します。
 特に論説文などは長くて複雑な構造の一文が登場することがよくあります。そのときは「ここは難しいなあ」とつぶやいて本文に傍線を引き、上部余白に[?]を付けます。そして、立ち止まって二度、三度読み直し、どういう意味だろうと考えます。

 意味が取りづらくとも、数行前、一頁前にヒントがあることが多いので、そのへんをもう一度読み直してみます(このように《部分》における二度読みはよくやる作業です)。
 読み返して、意味がわかったり、疑問の答えがあったら、そこに傍線を引き、「わかった」という意味で、上部に[○]を付けます。
 わからなかったら、そのままにしてあまり深入りしません。と言うのは後になって意味がわかったり、答えが見つかることもあるからです。
 読み進めて先程の疑問の答え(と思ったところ)にたどり着いたら、やはり上部に[○]を付け、本文に傍線を引き、「わかった!」という意味で○の隣に「!」を付けたりします。

・小説の立ち止まり

 小説などは淡々と情景や会話が描かれることが多いので、どこで立ち止まるか微妙です(ここで読書力の差が出ます)。
 まず初めて登場した人物は□で囲み、上部余白にその人物の名を書いておきます。主人公と思われる場合には名前の上に◎を付ける。一人称で語られる「私」や「ぼく」の場合も当然抜き出しておきます。脇役と思われる人物も名前などを余白に書き出します。
 たとえば、夏目漱石の『坊ちゃん』なら、◎「おれ」(坊ちゃんではありません)、「親」、「清(お手伝い)」。四国の赴任先では「山嵐」・「赤シャツ」・「野だいこ」・「うらなり」・「マドンナ」など、登場のたびに□で囲って余白に抜き出します。人物紹介の部分に傍線を引くことだってありでしょう。

 『坊ちゃん』の場合はかなり独特な人物群だから、後に登場しても思い出せます。しかし、ごく普通の名前だったり、あるいは外国文学の場合、なじみのないカタカナ人物名だから、「これ誰だっけ?」とか「この人初登場かな、前に出てたかな?」とつぶやくことがよくあります。
 このときこの疑問を置き去りにするのが三読法最大の欠陥です。
 そうつぶやいたのに、何もせず読み進める人は早くも理解度三〇への道が始まっています。

 一読法はそれまでのページに戻ります。いや、戻らねばなりません。
 戻らなかったら、一読法であろうと理解度三〇まっしぐらです。
 その際人物名を□で囲ったり、上部に抜き出しているかどうか。たったこれだけの一手間で、再登場なら直ちにその人物名に気付きます。そして「ああ、この人か」とつぶやけるし、人物紹介の箇所に傍線が引かれていれば、それを読み直せます(読み直すべきです)。「そうか。主人公の上司か、叔母か、叔父か。主人公はあまりこの人が好きじゃないんだな」などと確認できるのです。
 もちろん確認後は立ち止まった場面に戻って読み続けます。このたった数分の読み直し作業によって作品の理解度六〇の道に乗れるのです。

 人物名をなぜ□で囲むか、なぜ上部余白に抜き出すか。これで理由がわかったと思います。何もしていなければ、その人は一体どこに出てきたのか、初登場なのか。探すのは大変だし、探す気さえ起きないでしょう。しかし、余白に抜き出していれば、そこだけぱらぱらとめくればいいのです。すぐに判明するし、作品の理解度が深まること間違いありません。

 小説の場合、主人公や他の登場人物が突然妙な行動を取るとか、激しい感情表現が描かれたところでしばしば異和感を覚えます。そして、「どうしてこんなことをするんだろう。なぜこんな風に感じたのだろう」とつぶやきがちです。これこそ重要な立ち止まり地点です。

 疑問を抱いた行動や心理表現の部分に傍線を引き、本文上部に[?]を書きます。
 この場合は[?]だけでなく、[?感情]・[?言葉]・[?行動]などと書いておくと、後で振り返ったとき、[?]の中身を思い出せます。そして、「自分だったらどうだろう。こんなことをするだろうか。こんな風に考えたり、感じるだろうか」と(本文から目を離して)暫時考える

 このように論説文の「この部分はどういう意味だろう?」とか、詩や小説において「どうしてこのような……」とつぶやくことは一読法にとって最も大切な作業です。その都度その都度つぶやきながら、しばし考えながら、本文を読み進めます。
 なお、自宅で一人読むときは「声に出してつぶやけ」と言いますが、さすがに授業では「心の中でつぶやくように」と指導しました。

 先程「文章は音楽を聞くようにゆっくりじっくり読みましょう」と書きました。ここで文学作品としての詩や小説を楽しむことと、音楽を聞いて楽しむことの違いを述べておきたいと思います。
 両者の最大の違い――それは音楽は途中で立ち止まれないけれど、詩や小説なら《自分の好きなときに、好きなように立ち止まれる》ことです。

 クラシックの交響曲であろうが、好きな歌手の歌であろうが、細切れにして聞くことはあり得ません。ポップスのサビの部分など耳障りのいいところとか、好きな部分を口ずさむことがよくあります。しかし、音楽を聞く際そこだけリピートして聞く人はまずいないでしょう。
 それが詩や小説では可能です。詩を読んでいて「ああ、ここいいなあ」と思ったら、立ち止まって何度も口ずさめばいい。小説の主人公がある決意を語ったところで、大いに賛同・共感できたら、そこに傍線を引いてそこだけ何度読み返してもいい。それは誰からも強制されない、自分が勝手に感じて勝手に立ち止まっていい作業です。

 詩は「どうもよくわからない。面白くない」とつぶやく人はこの楽しみを知らない人だと思います。
 あるいは、国語授業において「作者はこの詩を通じて何を訴えているか考えてみよう」などという質問が詩の楽しみを阻害しているとしたら、「一体誰のため、何のために授業で詩をやるのか」と言いたくなります。

 もちろん漢詩など難しい部分の意味は確認する必要がある。しかし、後は音楽を聞くようにひたすら《楽しむ》ものです。音楽を楽しめるなら、詩も楽しめます。そして、音楽は立ち止まれないけれど、詩は好きなところで立ち止まって「ああ、いいなあ」と感じ、繰り返し繰り返しリピートできる。やがてその部分を自然に暗唱してときにふっと口ずさむ――詩とはそのような芸術です。

 もう一つ。詩とは音楽・美術に比べれば最も安い芸術作品です。
 音楽や美術を生で楽しむにはコンサート会場や美術館に行かねばならない。交通費や入館料・チケット代がかかる。しかし、詩は詩集一冊代だけ。昔の作品ならネットで無料。いつでもどこで読んでも構わない。自宅で読むも良し。外に出て春や秋の景色を眺めながら読むも良し。
 たとえば、藤村の「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ。緑なすはこべは萌えず、若草も藉くによしなし……」や、杜甫の「国破れて山河在り。城春にして草木深し……」などなど。「うまい表現だなあ」とつぶやき口ずさめば、しばし心は解放され、芸術を味わうことができる。

 中学や高校の授業で詩を暗唱させられた経験があるのではないでしょうか。学生時代の課題に終わらせないで、自分だけの「お気に入り」を見つけてほしいものです。
 一人暮らしだったり、高齢になり人と喋ることが少なくなると、喉がどんどん衰え、かすれ声となります。気に入った詩を朝晩朗唱することは喉の健康に最適です。詩とは最も安価に楽しめる芸術であり、健康サプリメントなのです。

 (3)予想・修正・確認

 題名読みで内容を予想したように、本文もあるところまで読んだら、さらに「この先どうなるのだろう」と予想します。
 ちょっと長めの小説だと、節や章に分かれていることが多いので、一節を読み終えたら、立ち止まって「この先どうなるのか」と予想することは、より深い読みをもたらす作業です(予想を書き込むともっといい)。
 もちろん予想がずれていたら、直ちに修正します。意外な展開となったら、上部余白に「意外!」と書くも良し。

 さらに半分から三分の二くらい読んだら、一気に結末を予想することもあります。
 小説の場合は読み終えてどんでん返しがあるか、予想的中となるか。あるいは、「うーん、こういう結末か〜」と物足りなく感じることもあるでしょう。
 肯定的評価のときは結末部に[◎]を付け、「感動した、面白かった!」とか「意外な結末だった!」と書いたり、逆に否定的評価――物足りないと感じたときは[?]を二つ付け、「結末はがっかり」などと書き込む

 この《予想と修正・確認》は小説を読む楽しさでもあります。
 これら題名読みからの予想、途中の疑問、さらに結末予想と確認など、全て読了後の感想の材料となり、同時に作品を深く味わったことにつながります。

 途中で湧いた疑問の答えがわからないままだと、本文上部に[?]が残り続けるでしょう。それも別に構いません。
 最後まで読み終えたとき、最初からぱらぱら頁をめくって[?]の付いた箇所を読み直してみる。すると、「疑問は解決した!」と言えることが多いからです。余白に答えを書き込むのが良いけれど、[?]の隣に[!]をつけておけば、「解決した!」の意味を表せます。

 また、小説においては途中で疑問として取り上げた人物・事件・心理表現などが《伏線》であったと気づくことがあります。
 しかし、最後まで読んでも、途中で浮かんだ「なぜ?」の答えがわからないこともあります。そのときは読後の感想として「あの部分はどうして何々だったのか、私には疑問が残った」と書けます。

 もしも知人友人が同じ小説を読んでいれば、その人に「あの小説を読んだら、こういう疑問がわいた。あなたはどう思う?」と聞くことができます。すると、相手の見解が出されたり、二人で話し合って答えにたどり着く……ことがあれば、結局不可解なまま終わることもあります。
 答えが出なくとも、知人友人との会話は盛り上がるだろうし、小説の理解も一層深まるはずです。

 ある作品を読んで、どうしても答えが見つからない疑問が残っても、無理して答えをこじつける必要はないでしょう。人生はなんでもかんでも答えが見つかるわけではありません。

 と言うのは、解決できなかった「なぜ?」は大げさに言うと、生涯考え続ける疑問なのかもしれません。後日突然「そうだったのか!」とひらめくこともあります。

 このようなときこそ、時を隔てた三読法が有効です。十代で読んだ小説を二十代、三十代、または子が生まれて親となった後、年老いた両親を亡くした五十代、六十代になってもう一度読み返してみる。
 すると、「そうだったのか!」と答えを見出せることがあります。

 日本や世界の児童文学はだいたい十代後半で読まなくなるでしょう。しかし、大人になって子どもが生まれ、我が子が十歳前後になったら、かつて読んだ児童文学を再読することはお勧めの読書法です。
 おそらく大人になって失ったもの、忘れてしまった子どものころの感情を思い出すのでは、と思います。時を超えた三読、四読なら、素晴らしい小説の読み方だと間違いなく言えます。

 (4)共感・賛同・反発

 小説の場合は登場人物の行動や心理に共感できることがあります。「同感だ」とか「痛快!」とつぶやいたところはやはり傍線を引き、上部に[◎]を付ける。「いい表現だなあ」と感じたところにも傍線を引き、[◎]を付ける。

 また、論説文などは作者の意見に賛同できるかどうかが、大きなテーマになります。
 各部を読んで自分には思いつかない観点が書かれていると、しばしば「なるほど」と感嘆の声が出ます。当然傍線を引いて上部に[◎]を付ける。作者の意見に賛同できるところも傍線と[◎]。大いに賛成なら、◎の隣に「同感!」と書くこともあります。

 逆に「自分はこういう風に思わない、作者の意見に反対だ」とつぶやいたときは[×]を付け、やはり本文に傍線を引く。強調の意味で「違う!」と書いたり、[×]を二つ付けることもあります。

 気を付けたいのは、途中で「この意見には賛同できないなあ」と[×]を付けたとき、読み進めてみると「先程……のように書いたが、私の意見は何々」と前の意見や見解を否定する所に出くわすことがあります。
 これは傍線を引いて前の[×]を付けたところに戻って[?]を付けたり、×に二重傍線を付けておきます(消去のつもり)。修正すべきところは必ず修正しておかないと、誤解の原因になります。

 たとえば、人と話をしているとき、相手の見解に同意できず、すぐに反論することがあります。
 すると、相手は「まあ待て。世間ではこのように言っているが、私の意見は別で……」と違う見解が述べられ、誤解だったかとわかるようなことです。

 小説では、登場人物の言動・心情だけでなく、ごくまれに「作者はどうしてこのように表現したのだろう」と異和感を覚えることがあります。もちろん[×]を付けたり[?]を付けますが、他の[?]とちょっと性質が違います。そこで[作者 なぜ?]と書いておくと、違いがはっきりします。
 たとえば、芥川龍之介の『鼻』は高校国語教科書によく載っているし、読んだことがある人が多いと思います。『鼻』の時代背景は平安時代くらいで、言わば昔の出来事であり、禅智内供という長〜い鼻を持ったお坊さんのお話です。
 普通この手の小説は私小説ではないのだから、作者が登場することはありません。ところが、『鼻』では真ん中あたりに作者が登場して周囲の人間が内供の鼻に同情したり、冷淡になることを「傍観者の利己主義である」と解説します。
 ここは「作者はなぜ小説に登場したのか」とか、「なぜ解説したのだろう」など、「作者なぜ?」と書き込める部分です。

 作者に関する「なぜ?」は小説の《より深い読み》につながります。最後まで読んで「そうだったのか」と納得できることがあるけれど、むしろ解決されないことが多い。なぜそのように描いたか――そのわけは説明されないことが多いからです。『鼻』における作者の登場と心理解説もほとんど大学国文科の研究課題なので、授業で深入りはできないけれど、提起されていい疑問です。

 いずれにせよ「感想を書く」ことになったら、疑問や異和感・反発、それに対して自分なりの答え(解釈)を詳しく書くことになります。おそらく素晴らしい感想文ができあがるでしょう。

 余談ながら、途中でわき起こる疑問・感想、この先どうなるかという予想を「つぶやきながら」読む読書法――これは小説に限らず、映画やテレビドラマを視聴する際、とても有効な一読的鑑賞法です。

 私は映画を見るとき、常に題名読みから始めます。最近見た映画で全く不可解な題名は『君の名は。』(二〇一六年公開)でした。
 題名を見て「君って誰だ? どうして名を聞くんだ? どうして最後が[?]じゃなく[。]なんだ?」などわからないことばかりでした。
 しかし、見終えて全て解決しました。これは疑問形ではなく、確かに[。]が必要でした。もっとも、[……。]の方が良いのではと思いました。
 また、前半は「高校生の男女の心が入れ替わる」という、よくあるお話で正直退屈でした(ただ、隕石落下で涙を流すヒロインの姿は大きな謎であり、伏線であることは注意していたし、その答えは後でわかるだろうと予想していました)。
 ところが、あるところから俄然話が面白くなり、単に男女の心が入れ替わるだけでなく、タイムラグとも言える秘密が隠され、そこに隕石落下が絡んでいることがわかって「そう来たか!」とつぶやきました。これは「面白い!」の意味です。
 そのころから結末を(絶望的状況なのに救いはあるのだろうかと)予想しつつ、感動的なラストに至りました。結末は半分ほどの予想的中でした。

 (5)記号をたどって作品を振り返る

 実は鉛筆を持って読むこと、いろいろつぶやいたり、[?]を書き込みながら読むということは、疑問を持って読んでいること、集中して読んでいることを示しています。つまり、一度目からぼんやり読んでいない証になるのです。
 とにかく、疑問・反発・賛同など気づいたこと、感じたことをどんどんつぶやき、教科書や書物の余白に書き込む
 記号を多用するのは簡単だからです。他に[△]や[□]など独自の記号を生み出すこともありでしょう。
 そして、[?][!][×][○][◎]の記号を本文上部に付けておくと、全体を読み終えてから、先生が次のような質問をしても、生徒は直ちに答えることができます。
 ・この作品でいいなと思ったところは?
 ・疑問に思ったところは?
 ・(論説文の場合)作者の意見に反対の者は? それはどこ? どうしてそう思ったの?

 生徒は頁をぱらぱらめくって記号を付けたところを振り返りながら、ほとんどの質問に答えられるし、自分の解釈・意見を言うこともできます。
 先生がそれらを板書すれば、生徒から「そこは疑問に思わなかった」の感想が出たり、「その答えはここにあるんじゃない?」などの反応も返って授業は大いに盛り上がります。
 読み終えたら、記号や傍線をたどって作品を振り返る――これこそ一読法の仕上げとも言える大切な作業です。実はこのとき「二度目の読み」を超速で行っているのです。

 三読法の場合は一度目をさあっと読むから、ぼんやりした全体像はつかめても、部分の疑問・感想はほとんど出てきません。もう一度詳しく読むことで、ようやくそれが出てきます。
 しかし、同じ文章をもう一度読むなんてめんどうです。精読は同じ時間が掛かると言うより、調べたり考えたりするのだから、初読の倍以上の時間がかかります。だから、めんどくさくて誰も「もう一度読もう」などと思わないのです。

 対して一読法の場合は最初から立ち止まって記号や疑問・感想を本文余白に書き込んでいます。だから、振り返るときはその記号や書き込みの言葉、もしくは傍線を引いたところだけ読み返せばいいのです。
 短ければ数分、長い作品でも十分二十分で記号や書き込みをたどることができます。それは作品全体をもう一度読み直すのとほとんど同じ効果が期待できます

 長編小説などは数時間とか一日で読み通すことがなかなか難しい。そのため翌日、もしくは一週間後続きを読まねばならない。すると、前に何が書かれていたか忘れ、やがて読まなくなる――といったことが起こります。しかし、一読法によって書き込みや傍線があれば、それをたどることによって読んだ部分の内容が思い出せるはずです。

 ただ、情景や会話が淡々と描かれたところでは、立ち止まりが少なく、書き込みもあまりないといった状態になりがちです。このようなときは一節・一章を読み終えた段階で「そこまでの感想やまとめを書いておく」ことがお勧めです。たとえば、「主人公が父と口げんかした」とか、「父の方が問題だと思った」などと。

 週刊誌の連載小説では最初に「前号までのあらすじ」が書かれていることがあります。それを自分もやろうということです。後日続きを読むとき、それまでの書き込みをさあっと見直してから、新しい部分を読み始めると、うまくつながります。ときには「なかなか面白い」とか「退屈だ」と書き込むことだってありでしょう。「この頑固な父親はひどいと思った」とかも。

 以前「小説のテーマとか、作者は何を言いたいか短くまとめること」は意味がないと書きました。それは結末まで読み終えたときの話です。ここは小説の途中であり、自分がそこまで読んだ内容を思い出すための《まとめ》です。
 よって、長く書く必要はないし、そのまとめが正しいかどうかも問われない。「主人公が道を歩いていろいろ考えた」とか「誰それが友人と恋について語り合った」など、その節に見出しを付けるつもりで書いておく。後日読み直すとき、内容がよみがえるはずです。

 この二例のまとめは国語授業で採点すると低い点数です。先生は「主人公がいろいろ考えた、その内容を書きなさい」とか、「恋について語り合った中身を書きなさい」と言うはずです。しかし、自分一人で読むのだから、そんなのどうでもいい。後日読んだとき思い出せればいいのです。

 ただ、一週間後「さあ続きを読もう」と前節の「小見出し的まとめ」を読んだとき、「あれっ、主人公は何を考えていたんだ?」とか、「二人は恋についてどんなことを語り合ったんだ?」とつぶやくようなら……当然前節をぱらぱらめくって見返すことになります。ところが、余白に何の抜き出しもなく、文中に一つも傍線がない。つまり、中身を全く思い出せないなら……その節を最初からもう一度読み直す必要があります。
 めんどうでしょうが、これが部分の二度読みであり、長編を読む際特に大切な作業です。これをおろそかにすると、また理解度三〇まっしぐらです。
 読み直すと、今度は「主人公が道を歩きながら考えた」内容の所に傍線を引くことができます。二人が「恋について語り合った」肝心なところにも傍線を引けるでしょう。この作業によって再び理解度六〇の軌道に戻れます。

 お気づきかも知れませんが、一読法と言いながら、途中では二度も三度も読んでいます。また、読み終えたら、このように頁をぱらぱらめくって全体を振り返ります。[?]と[◎]のところだけ読み返しても、「ああ、こういう作品だったか」と頭の中に全体像が浮かんできます。

 この振り返り作業によって作品を一層深く理解し、味わうことになります。つまり、記号や書き込みを見直すだけで、三読法における二度目、三度目の読みに限りなく近付いていると言えるのです。
 ここまでやれば、一度読むだけで作品の理解度、鑑賞度は八〇に達していると言い切れます。

 これが一読総合法の具体的な読み方であり、理解度六〇から八〇に達する読み方です。生徒は一度読んだだけで、作品の感想を書くことができます。本文に付けられた記号や傍線など、材料がたくさんあるからです。
 たとえば、「途中まではなかなか面白いと思ったけれど、結末はちょっとがっかりした」とか、「途中は退屈だったけど、その後ものすごく面白くなった」とか、「途中まではひどい父親だと思ったけど、最後まで読んだら、子どものことを考えている人だとわかった」などと。
 もちろんその具体例を書くことだってできます。途中の疑問を書くことも、それについて「自分はこう思った、こう感じた」と書ける。感想を言う(書く)のに困ることはありません。

 (6)短い感想を書く

 このようにして最後まで読み終えたら、百字から二百字程度の短い感想文を書きます。
 文庫本や単行本なら、最後の頁は大概余白が多い。そこに数行の感想を書きこみます。
 これまで書いてきたように、一読法の読みなら材料は立ち止まったところの上部にあります。[?]や[!][×][○][◎]などを見つつ、本文の傍線を引いた箇所を読み直したりすると、一読後なのに書きたい気持ちが湧いてくるでしょう。私は感想を書くことが三読法の三度目である「味読」にあたると考えています。

 読者がもしもこの一読法によって、ブログやツイッターに作品の感想を書くなら、それは理解度六〇から八〇に基づく感想だと信じることができます。

 最後にもう一つ、小説の「感想」について。
 小説の主人公が青年か少年少女であったとき、感想は《主人公について書かれるべきだ》と考えている人が多いと思います。しかし、一読法では脇役について感想を書いても何の問題もありません。
 たとえば、「どうして主人公の父親はあんなに頑固なのだろうか。私の父とよく似ている。ただ、最後の方であの父も息子のことを心配したり、考えていることがよくわかった」などと主人公そっちのけで感想を書く、大いに結構。

 夏目漱石『坊ちゃん』なら、脇役への感想とは「赤シャツ・野だいこ」論であり、「うらなり・マドンナ」論に発展します。「マドンナはなぜうらなり君ではなく赤シャツを選んだのか」など面白いテーマであり、次作『三四郎』につながると教えることができます。

 芥川龍之介の『鼻』に作者が登場した件も、この観点があるとより深い感想文が書けます。『鼻』の主人公は長い鼻を持つ禅智内供です。ところが、突然登場した作者は「傍観者の利己主義」と言います。これは禅智内供ではなく、脇役である周囲の人たちの心理を説明した言葉です。作者は禅智内供について解説していません。

 では、禅智内供について「作者はどう考えているのか」――そんなことは問う必要のない愚問です。「読んだあなたは内供についてどう思ったか」と問うべきであり、読者が「私はこう思った」と感想を述べる(書く)ものです。

 禅智内供は周囲の人間の目を気にし、長い鼻を苦労して短くしたのに、へんな空気を感じて鼻が元に戻ったら「これでもう誰も私を笑うまい」とほっとする……このような禅智内供についてどう自分と突き合わせ、どう感じ考えるか。それを思うがままに書けばいい。以前触れたように、この感想に「正解」はありません。

 どうでしょう。「作者なぜ?」の疑問は作品と作者についていろいろ語ることがあると気付かれるはずです。感想文として「私は主人公ではなく、脇役だが彼の父親について語りたい」と書いてなんの問題もない。むしろ作品への深い理解と鑑賞になり、鋭い指摘が生まれる可能性が高いのです。

 よって、こうした感想文に対して国語の先生がもしも「脇役ではなく主人公について書きなさい」と言ったり、感想文の評価を下げるようなら、度し難い俗物先生と言わざるを得ません。感想は何を感じてもいい、何を書いても良いのです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:参考までに年齢別一読法実践について少々アドバイスを。

 本稿読者がもしも小中高大学など学校で学ぶ年齢の人なら、明日からでも全教科に渡ってこの一読法を実践してください。おそらく一度読んだだけの理解度がものすごく深まることに驚かれるでしょう。
 すでに社会に出て日々働いている方は一読法を実践するのはとても難しいと思います。「こんな読み方学んでいないし、やったことないし、めんどくさい」と感じることでしょう。
 そのような人たちに贈るアドバイスは「とにかく文章を読んであれっと思ったら、立ち止まって数分考えること。ここは難しいと思ったら、その前1ページ分くらい返って読み直すこと」――この二点です。これは人と話すときにも使いたい《立ち止まり》です。これをやるだけでも様々な文章についてより深い理解が得られるし、詐欺や儲け話にひっかかることもなくなるはずです。

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