カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 7号

理論編 6「まとめ(その一)」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 7号

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           原則月3回 配信 2019年 5月08日(水)


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 目 次
 前置き
 1 国語(現代文)の授業は三読法
 2 人の話を三読法で聞けるのか
 3 結末に早く到達したいと考える悪癖
 4 結論が大切か途中が大切か
 5 一読法の読み方
 (1)題名読みと作者読み (2)つぶやきと立ち止まり読み
 (3)予想・修正・確認  (4)共感・賛同・反発
   読み終えたら……
 (5)記号をたどって作品を振り返る (6)短い感想を書く
 6 まとめ(その一) ――本号(長くなったので二つに分けました)
 7 まとめ(その二)


 本号の難読漢字

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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』理論編

 6 まとめ(その一)

 本稿は論説文のつもりで書いてきました。よって、最後に結論を書かねばなりません。
 これまで無意味だとさんざん書いておきながら、「本稿の結論は? 作者の主張は?」と質問するのは「何それ?」の展開でしょう。
 が、敢えてお聞きします。これまでじっくりゆっくり読んだ読者なら、すぐに答えを言えるだろうと思って(飛ばし読みをした方はもう一度読み直すことを勧めます)。
 私のまとめは以下の通りです。

 ○ 三読法をやめて一読法を学び実践しましょう

 ――これが本稿の結論であり、主張です。(この結論をもう一度、さらにもう一度読んでください。「三読法をやめて一読法を学び実践しましょう……三読法をやめて一読法を学び実践しましょう」と)

 学校の国語授業で習う三読法は役に立たない。「役に立たない」が言い過ぎなら、実戦的ではない。我々はほとんどの文章を一度しか読まない、人の話は一度しか聞かない。一度しか聞けないからです。
 そして、文章の結論や作者の主張を問う質問も意味がない。詩や小説にそれはなく、論説文は最初か最後に結論があるから、そこを読めばいい。人の話は「結局、何を言いたいのですか」と聞けばいい。
 しかも、文章や人の話で大切なのは結論ではなく、途中であり部分である。だから、そこをしっかり読み、しっかり聞かなければならない。

 もちろん「詩や小説に作者の主張がない」は言い過ぎで、ある主張がこめられ、それがわかる作品はある。だが、詩や小説の冒頭とか末尾に主張が書かれているわけではない。むしろ「作者は一体何を訴えたかったのか?」、それがわかりづらい作品の方が多い。
 もしもそのような作者に「あなたは結局何を言いたいのですか」と尋ねたら、おそらく「それは読者のあなたが感じ取ってください」と答えるはず。論説文や意見文には作者の主張が書かれる。しかし、詩や小説にそれは描かれない。文学作品を授業でやるなら、「作者は何を訴えたかったのか」と問うことは愚問であり、必要ないと私は思います。

 いずれにせよ、初めて手にする文章を2倍速で読むのではなく、音楽を聞くようにじっくりゆっくり読むこと。結末まで行って考えるのではなく、途中で感じ、考え、味わうこと。読みながら、「どういうことか?」と疑問の声をあげること。「なるほどこういう見方があるか」と感嘆すること。
 逆に、「ここは賛同できない」とつぶやくこと。小説の主人公が体験するさまざまなことに共感できるかどうか、立ち止まって「自分ならどうだろう」と考えること。
 それらつぶやきによる感想は全て文章の《部分》から生み出される。ゆえに、「一度目の読みから部分をしっかり読もう」というのが一読法です。

 さて、このようにまとめつつ、どんでん返しにも似た作業として、今書いた《結論》を訂正いたします。
 まとめ冒頭の《結論》として書いた「三読法をやめて一読法を学び実践しましょう」は間違っています。気づきましたか?

 途中をさあっと読み、結論を重視する読みに慣れた人は、この《結論》を読んで何とつぶやかれたか。
 推察するに「この人は三読法反対論者か」ではないでしょうか。そして、ブログやツイッターに、「この小論は三読法反対をとなえ、一読法を推奨している」と書かれるかも知れません。

 失礼な言い方ながら、「この結論は正しい」と感じた方、もしくは本論を読み終えて「三読法反対論が書かれている」とまとめた方は、理解度三〇の通読で終わる弊害が噴出したと言わざるを得ません。

 なぜなら、私は本論において「三読法をやめましょう」などとどこにも書いていないからです。
 むしろ「三読法は三度読めば、理解度九〇に達する読書術」と書いています。仮に一度目がさあっと読まれたとしても、二度目に内容を詳しくたどるなら、理解度六〇に達することができる。三回読めば理解度・鑑賞度は九〇に達する。それは間違いなく三読法の効能です。
 また、十代、二十代で読んだ作品を、時を経て二度目、三度目として読むなら、「素晴らしい三読法だ」と書きました。
 このように三読法を称賛しているのだから、「やめよう」などと言うはずがありません。よって、結論の前半「三読法をやめて」が間違っています。

 ここで「しかし、お前は『三読法は役に立たない』と書いているではないか」と反論の言葉をつぶやかれた方、いいつぶやきだと思います。それに対して私はこう答えます。

 あるものが素晴らしいことと、それが実生活で役に立つかどうかは別であると。たとえば、きらきら輝く宝石は美しく、さらりと使用されれば、女性を一層魅力的にします。しかし、ガラス切断に使うダイヤモンド以外、ほとんどの宝石は実生活で役に立ちません。無人島で一年暮らすなら、持っていくのは宝石ではなく釣り糸・釣り針であり、黄金のナイフではなく鉄のナイフでしょう。

 人が学校を離れても、文章を必ず二度、三度読んでくれるなら、三読法はダイヤモンドのきらめきを発揮する。ところが、三度どころか二度読むことさえない。だから、三読法はお飾りでしかなく、役に立たないということです。
 しかも、人の話を聞くことに関しては全く使えません。人は同じことを二度喋ってくれない。人の話を録音して帰宅後それを聞く人はまずいないでしょう。
 しかし、正装して出かけるときには宝石を身につける(男性も宝石付きネクタイピンをする)ように、ときには三読法を実践する。すると、「こんなに読みが深まるのか」と驚くはずです。
 最近気に入った映画を二度三度鑑賞する人が増えているそうです。あるいは、DV・ブルーレイ化された作品をもう一度見る。これこそ三読法であり、作品の理解度は格段に高まっていると思います。

 本稿前半や前節[一読法の詳細]をじっくり読んでいれば、「三読法をやめて」の結論がおかしいと感じたはずだし、ここはそう思って[?]を付けてほしかったところです。

 繰り返しますが、私は三読法を否定しているわけではありません。一度目の通読が「(難語句や難しい部分をいいかげんにして)目で追っているだけ、さあっと読んでいる点」を問題視しているのです。それが癖になって人の話もさあっと聞き流している――それが問題だと主張してきたのです。

 よく会社の会議が「だらだらして長い」とか、質疑応答など、似たような質問が続いて「先程もお答えしたように」と繰り返されることが多々あります。
 この弊害は一読法を学んでいないから起こります。会議に参加した全員がメモを取りつつ聞いていれば、質問と応答が明確になり、議論は深まるし、時間短縮が可能です。それがなく、お互いぼんやり聞いているから、堂々巡りの議論が行われて時間がかかるのです。

 前節一読法の詳細を読み終えたところで、次のようにつぶやいていれば、結論の間違いに気づいたかもしれません。「一読、一読と新説を提唱しているように思えるが、三読法の精読を最初からやろうと言うだけではないのか。それに記号や書き込みを見直すことは二度読みにあたるとも書いている」と。
 これは鋭いつぶやきと言うか突っ込みです。

 私は一読法について「最初の読みの段階から調べたり、考えたり、書き込みをしよう。一読後記号や書き込みを振り返れば、二度読みの効果が得られる」と書いています。つまり、一読法を言い換えるなら、正に最初から精読することなのです。
 本稿の途中をじっくり読んでいれば、結論は「三読法をやめましょう」ではなく、「三読法の一度目、二度目を逆転して最初から精読し、読み終えたら、記号や書き込みを振り返ることで二度読みに代えよう」と主張していることがわかるはずです。
 要するに、正しい結論は《三読法の通読→精読を逆転させた、精読→通読の一読法、最初から精読する一読法を学び実践しましょう》となります。

 ここでも「順番を逆にしただけなら、一読法も三読法も同じではないか」とつぶやかれた方、どんどん一読法が身に付いています。

 それに対しては「全く違う」と断言できます。
 精読を二度目に実行する、三読法最大の欠陥は「もはや疑問が生まれない」点にあります。と言うか、途中で湧いた疑問が解決されてしまうのです。
 いくら通読の理解度三〇と言っても、小説などとにかく読み終えてしまうと、初読の途中で感じた多くの疑問、つぶやきはかなり解消されます。
 初めて読むから「あれっ、ここはどういう意味だ?」とか、「どうしてこんなことをしたんだ?」とか、「この先どうなるんだろう?」というつぶやきが生まれるのです。
 そして、読み進めることで「なるほどこういうわけか。こうなったか」と疑問や予想が解消されます。
 三読法の通読では、この《疑問→解消、疑問→解消》のステップが起こりません。
 さすがに「起こらない」は言い過ぎで、読む限りかすかな疑問は湧いています。誰でも「あれっ、どうして?」と思いながら、読み進めているはずです。
 ここで疑問が湧いているのに、それをそのままにして読み進めるのが三読法最大の欠陥です。通読だからさあっと読んで立ち止まることがない。当然余白に疑問を書き留めることもしない。だから、全て読み終えると、「どこで何を疑問としたか、忘れてしまう」状態に陥ります。
 あるいは、最後まで読むことで多くの疑問は解消される。そして、「なるほどね」で終わる。本当は解決されなかった疑問がある(はずな)のに、そのことを思い出せません。夏目漱石『坊ちゃん』を例にあげるなら、「マドンナはなぜうらなり君ではなく、赤シャツを選んだのか」は、最後まで読んでも理由がわかりません。

 ここでもう一度丹念に読み返すと、ある部分に来たとき、「そうだ! ここで一つ疑問が湧いていたんだ。しかし、最後まで読んでも解決されなかったな」と気づきます。
 実はそこで立ち止まって前の表現、後の表現を思い起こしながら、「なんでだろう」と考える――この作業が精読です。
 ところが、何度も書いてきたように精読は学校でしか行われず、多くの人は一度読んで「なるほどね」で終わります。

 文章を読む際最も大切なことは、この《最後まで読んでも解決されなかった疑問について考える》ことです。
 人が書いた文章とは結局、他人の体験であり、感想であり、考えです。私たちは自分の体験から人生を生きる力というか信念や信条を組み立てます。しかし、何でもかんでも全て体験できるわけではありません

 たとえば、王子はこじきの気持ちがわかりません。こじきは王様の気持ちがわかりません(もちろん某児童文学の名著を意識しています)。金持ちの子として生まれれば、貧乏人の子の心情が理解できず、逆に貧乏人は金持ちの心情を理解できない。サラリーマンは職人や商売人が日々何を考えて物をつくり売っているか、漁師や農民の気持ちがわかりません。逆もまたしかり。

 毎月決まった賃金をもらえるサラリーマンは漁獲がなく「今月無収入」の漁師の不安を理解できないだろうし、突然巨大マグロを捕まえ、「今月数百万円ゲット」の喜びも理解し辛いでしょう。
 あるいは、男と女に分かれた世の中。男性は「彼女が私の気持ちをわかってくれない」とぼやき、女性は「彼が私のことを理解してくれない」とつぶやく……。

 もっと大げさに言うと、我々は戦国武将や足軽の、江戸時代の将軍や庶民の、明治時代の政治家や平民の内心を理解できません。戦争に行った兵士の気持ちを、爆撃を受け、親やわが子を失った人の気持ちを理解できません。実際に体験しないのだから。「あんたに私の気持ちがわかるわけない」との言葉は自分でも言いたくなるし、よく耳にする言葉です。

 もしも人間に与えられた伝達ツールが音楽と美術だけだったら、人は他人や過去の歴史を知ることができず、その気持ちを理解できないままだったかもしれません。
 しかし、人間には言葉が与えられました。我々は他人が書いた文章、歴史が書かれた文章を読むことで、「ああ、こういうことか。相手はこんなことを感じていたのか。あの時代の人々はこんなことを考えて行動したのか」と知ることができます。感じ取ることができます。

 この驚きにも似た感想は初読において最も強く湧き起こります。それは書き留めることで自分の中に定着します。初読の感想の多くは「なぜ?」という疑問が多い。それは読み進めることで、「なるほどこういうことか」と解消される。しかし、最後まで読んでも解決されなかった疑問が必ずある。
 そのとき自分なりに感じ、考えることで、体験したことのない他人の気持ちを実感することができます。行ったことのない過去の時代を知ることができます。
 確かに体験したことがなければ、気持ちを理解することはできない。しかし、文章を読み、人の話を聞くことで共感することができる。逆に反発して「自分だったら、どうだろう」と考えさせられる。それが言葉の持つ力であり、読むこと、人の話を聞くことの最大のメリットです。

 ところが、何も書き留めない通読では、どの疑問が解消されなかったのかわかりません。結局、解決されなかった疑問を置き去りにしたまま読書を終え、人の話もぼんやり聞いて終わることになります。
 ゆえに、読書も人の話も最初から精読した方が良い。疑問を抱いたら、そこで立ち止まってメモする。人の話は「ちょっと待って」と言って疑問の答えを求めるべきなのです。

 文章を読みつつ「あれっ?」と思ったら、その部分に直ちに傍線を引き、上部余白に[?]をつけておく。その段階で精読するのが一読法ですが、通読に慣れた人はそこで考えることはめんどうでしょう。ならば[?]を付けるだけでいい。それなら早く読み進めたい人でもめんどくささが減ると思います。

 全て読み終えたら、最初からページをたどって[?]をつけた部分だけ読み返す。そして「この疑問は解決された」とつぶやく。しかし、「おやっ、この疑問は解決されなかったな」とつぶやいたところは自分なりの答えを考える。
 このわずかな一手間だけでも文章の理解度は数倍に跳ね上がります。

 その都度その都度疑問を抱き、それが解消されるというステップを取ること、しかし最後になっても解決されない疑問について考えること――それが読書や人の話を聞く際大切なことであり、それを可能にする読み方・聞き方が一読法です。
 一読総合法なら、一度しか読まなくても理解度八〇、鑑賞度も八〇に達することができる。さらに短い感想を書けば、九〇に到達する――私は自信を持ってそう言えます。

 ちなみに、このどんでん返しを仕掛けたのは、「文章は結論ではなく途中をじっくり読むこと。人の話も途中をしっかり聞くこと。それが大切だと実感してほしかった」からです。
 国語力が未熟な児童・生徒は途中と結論が合致しない文章をよく書きます。親を心配させたくないと、「いじめられていないよ」と結論を言う子どももいます。その言葉が本当かどうかは、途中で語る言葉をしっかり聞かねばなりません。

 また、意図して途中と結論を変える人もたくさんいます。本論で例にあげた「戦争は良くない。平和が大切だ」と結論を言いながら、途中は「仮想敵国から攻撃される可能性がある以上、武器を持たねばならない。最強の武器は核兵器だ」と語っているなら、その人の真意は途中にあることがわかります。「あれっ?」と思ったら、ここで止める必要があります。途中の言葉をしっかり聞いていないと、耳に心地よい結論だけが頭に残って「彼は良いことを言っている」という感想が生まれるでしょう。

 以上『一読法を学べ――学校では国語の力がつかない』と題した本論・結論の全てです。
 前置きで書いたように、本稿は当初「長編小説を一読法で読もう」との意図で書き始めました。ところが、三読法や一読法について解説しているうちに、長編小説だけでなく、文章全般について、さらに比較対照の意味で「話の聞き方についても語った方がいい」と、どんどん広がってしまいました。
 文中至る所で過激な言葉、失礼な言葉が噴出しました。ご容赦下さい。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:以下本稿と関係ない話です。
 目下我がパソコンが不調で、寿命が近付いている諸症状が現れています。現在予備のノートパソコンなども機能不全のため、壊れると一切公開できません。よって、突然何の予告もなく更新されない可能性があります。その際はご容赦下さい。
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「一読法を学べ」  第 8 号へ (5月18日発行)

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