カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 8号

理論編 7「まとめ(その二)」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 8号

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           原則月3回 配信 2019年 5月18日(土)


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 目 次
 前置き
 1 国語(現代文)の授業は三読法br>  2 人の話を三読法で聞けるのか
 3 結末に早く到達したいと考える悪癖
 4 結論が大切か途中が大切か
 5 一読法の読み方
 (1)題名読みと作者読み (2)つぶやきと立ち止まり読み
 (3)予想・修正・確認  (4)共感・賛同・反発
   読み終えたら……
 (5)記号をたどって作品を振り返る (6)短い感想を書く
 6 まとめ(その一)
 7 まとめ(その二)――本号(理論編ラスト)


 本号の難読漢字
・邪険(じゃけん)・匿名(とくめい)・偏(かたよ)る・詐欺(さぎ)・川柳(せんりゅう)・披露(ひろう)・意自(おの)ずから通ず・儲(もう)け話・市井(しせい)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』理論編

 7 まとめ(その二)

 前号「まとめ(その1)」を読まれた読者各位のつぶやきが聞こえます。
「まとめと書きながらずいぶん長かったなあ。結論はだいたい短いものだろうに、むしろ本論じゃないのか」と。
 しかも、二つに分けた「結論」なんて聞いたことがないでしょう。

 その通りです。前号も今号も結論ではなくいまだ「本論」です。本稿に結論はありません。
 そもそも書いたではありませんか。「結論とか作者の主張より途中が大切だ」と。ずっと《途中》ばかりです。
 それにもう一つ書きました。「論文において結論は最初か最後にある」と。本稿の結論(作者の主張)は最初に、そして各号の冒頭に毎回出ています。『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』と。これが結論であり、主張です。

 我々はほとんどの文章を一度しか読まない。人の話は一度しか聞かない。だから、そのための《読む力・聞く力》を身につける必要がある。その力は訓練することでようやく身につく。
 だが、国語授業で学ぶ三読法ではその力がつかない。なぜなら、三読法とは二度読むことが理解と鑑賞の最低条件だから。
 ところが、多くの人は新聞を二度読まない。雑誌・週刊誌・月刊誌、単行本の記事や論文・小説を二度読まない。一度読みの訓練をしていないのに、「一回読めば充分理解できる」と思って疑うこともない。

 私は「学校を離れたとき文書類を一度しか読まないなら、直ちに一読法を学んでください」と一貫して語ってきました。三読法のデメリット、一読法のメリットを語るため、[1]〜[5]にまとめ、そこからはみ出たものを[6]としてつなげただけです。

 そこで今号の「まとめ(その二)」ですが、正直蛇足に近いかなと思います。
 しかし、語っておきたい「途中」としていくつか箇条書き風に補足します。

・ 一つ目。
 五歳の女の子、チコちゃんが問う「なぜ? どうして?」の質問が大人を困らせています。実は五歳の子どもは一読法で読み、一読法で話を聞いている――と言ったら、どう思われるでしょう。

 お母さんやお父さんが幼児に絵本を読んであげるとき、とてもゆっくり読むでしょう。ようやく文字が読めるようになった子どもも、たどたどしくゆっくり読む。お気に入りの絵本は何度も読むことだってある。
 その際多くの子どもは必ず何事かつぶやいて絵を見たり読んでいます。「大変だ」とか「良かったね」とか「この後どうなるんだろう」などと。これ一読法です。何度も読むのはもちろん三読法。もちろんいいこと。

 そして、どこの家の子でも幼児は大人が何か話すと、「それはなぜ?」とか、初めて聞く言葉に「どういう意味?」と尋ねます。これも話の途中で立ち止まって意味を確認する一読法の聞き方です。このように人は一読法でものを読み始め、一読法で人の話を聞き始めるのです。
 ところが、大人は幼児が問う「なぜ?」の質問を「うるさいなあ」と邪険に扱う。子どもが小学校に入って本や教科書をつぶやきながら読んでいると、「黙って読め」と言う。やがて子どもは問うこと、つぶやくことをやめてしまう……。

・ ついでに昨今流行の「ツイッター」についても触れておきます。この日本語訳は「つぶやき」です。世の中で起こるもろもろについて短く発信することは良いことと思われ、多くの人が利用しているようです。これまで一読法の解説において「文章の途中で疑問・感想をつぶやこう」と主張してきたことと重なります。
 しかし、私は「ツイッター」を人類史上最悪の意見表明だと思っています。一読法の「つぶやき」とは似て非なるものです。

 その理由はツイッターを論文にたとえるなら、「本論」のない序論と結論だけの文章だからです。それも多くは感情的な結論だけが主張されています。
 本稿5「結論が大切か途中が大切か」を再度読み直してください。我々にとって大切なことは結論ではない。途中です。本論です。

 ツイッターには意見表明において最も大切な「なぜ?」がありません。なぜそう思うのか、なぜそう感じるのか。理由は書かれず、「いいか悪いか」だけが表明されています。「素晴らしい」とか「感動した」と書かれても、「どこがいいのか、どこに感動したか」は書かれない。だから、「いいね」という数だけになるのでしょう。

 逆に、批判・非難の言葉が積み重なって「炎上」と呼ばれる現象も、まとめれば《悪いぞ》という結論が語られているだけ。やはり「どこが悪いのか、なぜ悪いと感じるのか」は書かれません

 ……と書きつつ、さすがに「書かれない」は言い過ぎでしょう。どちらも短い理由なら書かれているようです。しかし、「では自分ならどうか」とか、「別の見方もある」など細々したことは書かれない。書く気持ちがあったとしても、字数制限で書き込めません。
 試験で課される小論文はだいたい八〇〇字。ツイートは最長半角二八〇字、日本語では一四〇字。原稿用紙六、七行です。序論と結論だけにならざるを得ません。試験で七行の小論文を提出したら、ほぼ0点でしょう。

 さらに、《途中》のないツイッターは匿名性と相まって書いた人の違いが見えてきません。前号で書いたように、王様には王様の、こじきにはこじきの意見、感想がある。二十代には二十代の、六十代には六十代の感じ方・主張がある。男女の違いもある。「百人の人がいれば、百人の途中がある。自らの体験や見聞に基づいた意見が語られる」と書きました。それは結論ではなく途中――すなわち本論で語られます。本論は最低でも六〇〇字必要です(序論一〇〇、結論一〇〇で計八〇〇字)。

 ところが、ツイッターに表明された意見や感想には本論がない。だから、その人の個性が感じられません。某有名大統領のツイッターを読めばわかります。大統領らしさはみじんもなく、子どもがだだをこねたような偏った意見が、結論だけ書かれている……と私は感じます。

 さらに危惧するのはツイッターの批判が過激化しやすいことです。そのわけはどのツイッターを読んでも「みな同じようなことが書かれている」と書いた当人が最も感じるのでしょう。だから、個性を発揮するには(読んで目をとめてもらうには)「より過激な言葉を並べること」と思って不思議ありません。
 ツイッターの言葉は過激になりやすい。ということはどこまでホントにそう考えているのかわかりづらいことにもなります。たとえば、過激発言のツイートが名誉毀損として訴えられ、本人が確定されてみると、結構穏やかな人で「そんな気持ちはなかった」と言うことが多いようです。
 であるなら、ツイートを真に受け、振り回されるのはバカげていると思います。

 私は十代・二十代の若者に言いたい。いくらツイッターをやっても、考える力・国語の力は身につかない。個性のない文章を読むことに何の意味も見いだせないと。
 ツイッターを読む時間、ツイートする時間があるなら、しっかりした論文を(一読法で)読む。小説やエッセーを(もちろん一読法で)読み、体験できないことを知ったり、感じ取る。人によっていろいろな意見があることを知る。

 そして、自分の意見をラインやメールではなく(これも短文にしかなりません)、知人友人と直接会って語り、討論する時間を増やす。それが自分で考える力を身につけることになり、ひいては自分らしさの獲得につながると思います。

 ……と書きましたが、さすがにツイッター否定・不要論だけでは「偏った意見」と言われかねません
 そこで強いてツイッターのメリットを考えるなら、官公庁や警察が出している重要事項、詐欺防止などのお知らせでしょうか。これは短い方がありがたいので、ぜひ活用してほしいものです。
 人によってはツイッターを「小論への入り口」として使っている場合があるようです。リンク先は八百字以上の意見・論説文につながっている。これなら読み甲斐があるし、価値ある利用法と言えそうです。

 もう一つ。ツイッターを短文随筆と考えるなら――言わば季節の雑感・近況報告を綴るハガキのようなものとして利用されるなら充分意義あることだと思います。
 さらに、ツイッターが川柳とか狂歌の発表場所となることも大歓迎の利用法です。そもそも日本は世界に冠たる短詩型文学の国ではありませんか。
 一四〇字どころか、五七五の俳句に川柳、ブラス七七の短歌に狂歌。交通標語や詐欺防止キャンペーンにも秀逸な五七五があります。わずか十七文字で大きな意味を含めることができるのです。ツイッターの意見文には個性が感じられないけれど、随筆的短文・短詩なら、本人らしさ、個性が間違いなくあふれています
 社会の様々な問題に対して感情的な意見と結論を主張するのではなく、サラリーマン川柳のような風刺と皮肉の効いた短詩を披露する。そのようなツイッターなら読もうと思うし、私も「やってみたい」気持ちになります。

 ちなみに、この「ツイッター論」は原稿用紙六枚ほど。「長すぎる」とお叱り受けそうですが、私にはこれだけ必要です。
 最後にこの項のまとめを自作狂歌で締めくくってみます。

 ○ ツイッター 結論だけの小論文 いっそ川柳狂歌にしたら?

・ 次に再度三読法について。
 三読法は戦前から現代に至るまで子どもたちに教えられた読書術です。おそらく「読書百遍、意自ずから通ず」が元になっているのでしょう。しかし、江戸・明治の「読み書きそろばん」時代ならいざ知らず、大量の知識習得が求められる現代において、とても読書百遍とはいきません。
 戦前なら「通読」はたやすかったでしょう。新聞から雑誌まで、文章は全て総ルビ(漢字にふりがな付き)でした。だから、ひらがなとカタカナさえ学んでいれば、小学校一年生でも哲学書や学術書を読むことができました。

 しかし、今は教科書も書物も総ルビではありません。だから、各自の学力によって読めない漢字・意味不明の漢字がある。なのに、ほったらかしにして《読んで》います(私は三読法を続けるなら、総ルビを復活すべきだと考えています)。

 もちろん辞書を引けばいいし、ネットですぐ確認できる時代になりました。がしかし、学校を離れてさあっと読んでいる多くの人が難語句を調べつつ読むことはまずないだろうし、ほとんど一度しか読まない。だから、理解度三〇で終わる。その責任は読み手本人にあるのか、三読法の国語授業にあるのか。私は後者の責任であると思って本稿を書きました。

 今後文章の読みはパソコンやスマホ・タブレットが主流になるでしょう。書き込みはし辛いと思います。それでも、何かを勉強するとき、やはり書物や参考書は切り離せません。
 人によっては本を汚すことになる「書き込みはいやだ」と言う人がいるかもしれません。私の教師体験では女子生徒がよく「教科書をきれいに保ちたい」と言ったものです。
 その場合は「頁と行を記してノートに難語句・感想・疑問を書き出しなさい」と指導しました。教科書は作品の最終頁にあまり余白がないので、一読後の短い感想はノートに書かせました。
 もっとも、教科書に直接書き込む方が楽だし、後で振り返ったとき見やすいので、一読授業を続けているうちに、ほとんどの生徒が教科書に書き込むようになりました。
 パソコンの場合文章に直接書き込むことはできないので、読書ノートを作成した方が良いかもしれません。いずれ一読法に慣れたら、書き込まなくとも、途中で立ち止まる一読法の読みができるようになります。

 一読法を習得すると、人の話を聞くときも、途中で「あれっ?」と思って「何かおかしい」とつぶやいたり、「ちょっと待って」と疑問点を質問できるようになります。
 さらに、年老いて息子や孫から「オレだよオレ」と電話がかかったり、「うまい儲け話があります。年利一〇パーセントです」といった勧誘の電話に対して、「妙だなあ」とつぶやいたり、「ちょっと待て」と言えるようになります。

・ 本稿は研究論文ではないので、実際の所全国の小中高で三読法授業がどれほど行われているか、調査したことはありません。少なくとも私の国語教員生活二十数年間において、私以外一読法授業をやっている先生を見たことがありません。
 なぜ勧めなかったのか、と問われるなら、「説得できなかったから」と答えます。そもそも私自身一読法授業を始めたのは教員になって十年後くらいでした。
 ネット検索すると、一読法授業を実践した報告をいくつか見ることができます。ただ、どの程度広がっているのか、それも調査したことはありません。あくまで私の個人的体験から生み出された小論であり、提言であるとご理解下さい。

一読法と意識されることなく使われている例は結構見られます。
 予備校や塾に行ったことがあるなら、一読法の読み方が国語(現代文)入試問題の解き方に似ていると感じたかもしれません。教える方は意識していないにせよ、入試問題で本文を読むときは、最初から鉛筆を握って傍線を引いたり、余白に抜き出したりして、重要部やポイントを《見える化》してから設問に取りかかります。これは一読法の読みです。時間が限られた入試問題などは何度も読み返しては時間が足りなくなる。だから、一度目から精読する一読法を使わざるを得ないのです。

 また、以前「学生は多くの書籍・研究論文をさあっと一度しか読まない。他の書物・論文の理解度三〇のまま自身のレポートや論文を作成するので出来が悪い」と失礼なことを書きました。
 おそらく多くの学生は過去の研究論文を読む際、(自分の本やコピーなら)疑問点に「?」を付けたり、重要部に傍線を引いたり、論文のポイントを余白やノートに抜き書きしているはずです。これも意識せずに使われている一読法です。
 この方法なら、一度しか読まなくとも、充分理解度六〇に達した優秀なレポートや論文が書けているでしょう。なぜこの読み方を小学校・中学校で(全教科に渡って)教えないのかと不思議でなりません。

・ 最近テレビで、ある小学校の総合学習の時間が放映されていました。それは土地の農業や林業従事者から体験談を聞くという授業でした。
 そのとき児童が手に鉛筆を持ち、配布された用紙にメモしながら話を聞いていたので驚きました。
 用紙を見ると、いくつか項目があり、書くスペースが設けられていました(おそらく先生が話し手と相談して作成されたのでしょう)。児童は話を聞きながら、項目毎にメモを取っていたのです。
 おじさんのお話が終わると、担任の先生が「何か質問はないか」と聞きました。すると、児童の手があがってどんどん質問が出ます。「総合の時間では一読法的聞き方が教えられているんだ」と感心したことです。

 二十代、三十代の若者は「ゆとり世代」と呼ばれてやや見下されているかのような印象を受けます。しかし、総合の授業でプレゼンをしたり、メモを取りながら話を聞く癖が付いている若者は、上の世代よりよっぽど会議上手であり、人の話をしっかり聞ける人たちだと思います。

 このように受験や大学のゼミ、小学校総合の時間などでは、必要に迫られて一読法的読み方(聞き方)が実践されています。なのに、小中高の国語授業では相変わらず通読・精読・味読の三読法が幅を利かせているようです。小中高全ての国語授業で、まず一読総合法を教えるべきではないでしょうか。

 最後に、三読法による「まず文章を通読し、二度目に精読して結論を重視する読み方」の弊害をもう一つ取り上げます。私は十代二十代の若者が死に急ぐわけがこの読書法にありはしないかと危惧しています。

 人生の結論とは何でしょうか。もしも私たちの人生を文章化するなら、最後に書かれる言葉……それは《死》です。男も女も、金持ちも貧乏人も、大統領も市井の平凡人も、悪人も善人も必ず死にます。それが我ら人間の結論です。

 そして、人生はもう一度やり直すことができるか……と問うなら、誰もが「できない」と答える。時間を巻き戻すことができないように、我々は過去に戻ってやり直すことができません。十代の人生は一度きり、二十代の人生も一度きり。三十代には三十代の、四十代、五十代、六十代……にもそのときだけの人生があります。

 一度きりの人生をさあっと走ってはいけない。じっくりゆっくり味わって生きるべきだと思います。二度目はないのですから。そして、人間の結論なんぞどうでもいい。途中を味わい、感じ考えつつ生きてこそ意味があります。

 人生において大切なことは結論ではない、途中である――この意見に賛同なさるなら、「文章をさあっと読みましょう」などと言ってはいけない。それは「人生をさあっと生きましょう」に通じる悪しき言葉だと思います。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:今号にて『一読法を学べ』の理論編は終了です。次号より実践編に入ります。
 実践編では理論編[1]〜[7]で触れられなかったことについて解説することになります。
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「一読法を学べ」  第 9 号へ (5月28日発行)

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