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実践編T 目 次
前置き(その一)――本 号
前置き(その二)
1 社会(日本史)
2 社会(文化史)
3 挫折に終わった一読法授業
4 実践編の「まとめ」
本号より「一読法」実践編に入ります。
実践編は一読法の具体例と授業で行う場合の進め方などを語りますが、同時に理論編で全く触れなかったことについても解説します。
私は前号後記に以下のように書きました。
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後記:今号にて『一読法を学べ』の理論編は終了です。次号より実践編に入ります。
実践編では具体例と理論編[1]〜[7]で触れられなかったことについて解説することになります。
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これを読まれて読者各位は何を感じたでしょうか。
「ふーん。次から実践編かあ」ですか? それで終わりですか?
この後記には妙なことが書かれています。後半です。
「実践編では具体例と理論編[1]〜[7]で触れられなかったことについて解説する」と。
実はここで「おやっ」とか「あれっ?」とつぶやいて異和感を抱いてほしかったところです。一読法実践者ならここを読んで「なんだこれは?」とつぶやき、しばし立ち止まって考えます。
この部分を何も感じることなくスルーした方は(失礼な言い方ながら)、やはり「一読法なんぞ身についていない。三読法通読の弊害をしっかり実践されている」と言わざるを得ません。
ちこちゃんの叱責に習えば、「ぼーっと読んでんじゃねえよ」となります。
一読法読者なら、この後記を読んだとき、立ち止まってこれまでの内容を思い返しつつ、次を予想したり疑問をつぶやきます。
後記前半を読んだときは「なるほど次号から実践編か。具体例とあるし一読法の具体的な読み方が書かれるんだろうな」と。
これは次号の予測。まーその程度で充分でしょう。
しかし、後半を読んだときは「おやっ妙なことが書かれているな。理論編で触れられなかったことについて解説するだと? 理論編で触れられなかったことって何だあ?」と。
書き込みのできる本なら、ここは[?]マークを付けてほしいところです。そして、しばし考える。「理論編で触れられなかったことって何だったのだろうか」と。これが一読法の読み方です。
ここで答えが出ないようなら――まず出ないと思います――厳密に言うと、もう一度理論編を全て読み直すべきです。まじめな三読法読者なら前置きから理論編(7)までもう一度読み直して「ああ、確かにあの件は触れられていないな」とわかるでしょう。これが三読法の「精読」です。
また、学び立ての一読法読者もそうするかもしれません。が、ここは別に全て読み返さなくとも大丈夫です。
後記の後半に「実践編では理論編[1]〜[7]で触れられなかったことについて解説する」と書かれている。この内容をしばし立ち止まって吟味すれば「なるほど」と思えるでしょう。
まず「理論編[1]〜[7]で触れられていない」というなら、一体どこで触れられていたのか。
理論編の構成は以下のようになっていました。
・前置き
・理論編1234567
これに対して「理論編[1]〜[7]で触れられなかったこと」と書かれています。
……ということは、、
「もしかしたら《前置き》のところか?」、前置きでは触れていたが「1から7の理論編では触れられなかった」という意味か――このように推理することで、読み返すなら最初の「前置き」で充分だと気付きます。
前置きを再読すれば、あることが理論編では全く書かれていないとわかるはず。もちろんその件は今後実践編にて語られるわけです。
これは私が前号後記に仕掛けた落とし穴です。三読法さあっと読むだけの読者はここをスルーする(わなにはまる)。しかし、一読法実践者なら、「おやっ、妙なことが書かれているな?」と立ち止まる。
むしろ立ち止まってほしい、立ち止まってちょっと考え、前に戻って《前置き》を再読してほしい――そう思って後記を書きました。
この部分、もっと突き放した表現だと「実践編では理論編で触れなかったことについて解説します」となります。
これでは全て読み返さねばならず、「前置き」に戻るのが難しい。ここはヒントを入れておこう」と考え、敢えて理論編に[1]〜[7]と挿入しました。別に全部読み返す必要はない、せめて「前置き」だけでも読み返してほしいとの気持ちをこめて。
また、別の書き方も可能です「実践編では前置きで書きましたが、理論編では触れなかったことについて解説します」と。こちらはとてもやさしい表現だと思います。
しかし、この表現では「おやっ妙なことが書かれているな」と感じないのではないか。「ふーん。そうか」とスルーする可能性が高い。果たして前置きに戻って読み直してくれるかどうか。そう考えて「やさしい表現」をやめました。
作者はときに懇切丁寧に書くことがあれば、突き放した表現にすることもある。この後記はその中間と言えましょうか。
どうでしょう。これが一読法の読み方です。前号後記からすでに《実践》が始まっていたのです。
読者各位が一読法に精通したいと思われるなら、ぜひこのような読み方を実践してください。
とにかく何でもかんでも「おやっ?」と感じたら立ち止まる。しばし考え、場合によっては前に戻って再読する――すなわち「部分の二度読み」を実践する。
一読法だからと「一回しか読まない」では、結局さあっと目を通すだけの通読に戻ってしまいます。部分の二度読みはとても大切な作業なのです。
何度でも書きます。さあっと目を通すだけの一読は理解度三〇です。しかし、部分の二度読みを行えば、理解度五〇に上昇します。
あれっと思ったら、立ち止まる。ここは難しいなと感じたら、その一文を再読する。ちょっと前に返って数行から一頁を読み直す。これだけでも文章の理解度は限りなく六〇に近付きます。
人の話を聞くときも同じです。相手の言葉が意味不明だったり、とても「おいしい話」をしていたり、一度聞いただけではわかりにくいことをぺらぺら喋っているときは、直ちに「ちょっと待って」と言って止める。そして、「もう一度説明してください」と要求する。
これが会話・対話における「部分の二度読み」に当たります。特に初対面の人で二度聞いても異和感がぬぐえなかったら、三度目を要求する。これこそ三読法の実践ではありませんか。
ただ、三度目を要求してほんとに三度説明してくれる人は「怪しい」と思うべきかもしれません。
なんにせよ、こうした再読行為は正直めんどくさいと思います。しかし、このめんどくささに耐えて再読を実践してこそ、一層深くそれ以降の文章が理解できるし、一読法の体得につながります。
……というわけで、実践編の《前置き(その一)》はこれで終わりです。
次号までに理論編前置きを読み返してぜひ「前置きでは触れているのに、理論編では一切語られなかった」ことを見付け出してください。理論編の内容が頭に入っていれば、「ああこの件は触れていないな」とわかります。
わからなければ、もう一度理論編を(さあっとで構わないので)再読してください。
答えは次号明かされます。
以下めんどくさがり屋のために「理論編、前置き」を再掲しておきます。
クイズです。
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『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』理論編、前置き
本稿は当初『長編小説の読み方』と題して「文章を一度読んだだけで八〇パーセント理解できる読み方=一読法」の読書指南書として書き始めました。
私が執筆した空海の青春時代を描いた小説『空海マオの青春』は原稿用紙一千枚の長編です。歴史的背景や仏教理論もかなり書き込んだ結果、長くなってしまいました。
短くできなかった作者の責任はもちろんあるけれど、長編を読めない読者のために本稿を書こうと決めました。
しかし、書き進めるうちに、むしろ「現代日本人の国語力の弱さ――読む力・聞く力・話す力・書く力の弱さ」について、もっと触れるべきだと考えるようになりました。
総じて言えば、文章をさあっと読んだり、人の話をぼんやり聞いている人が増えている。
五歳の女の子から「ぼーっと生きてんじゃねえよ」と怒られかねないほどに。
一体その原因はどこにあるのか。それを指摘し、《根本的な解決策として『一読法』を学ぶべきだ》と主張することに方針を変えました。
たとえば、みなさん方は常々次のような疑問や感想をお持ちではないでしょうか。
・新聞・雑誌・小説など文章を読み解く国語力が弱い。
・人の話を聞き取る力が弱い。感想を求められても「いいよ」としか言えない。
・人に話すことが苦手。ディベート(討論)をしても自説をうまく主張できず、水掛け論になって中身が深まらない。
あるいは、あなたが児童、生徒、学生なら、
・授業が面白くないので集中できない。いやいややっている。
・どの科目も基礎問題はできるけれど応用問題が苦手だ。
・親や先生の話をぼんやり聞いていることが多い。
……等々の悩み、感想を持たれているのではないでしょうか。
もっとも、親や先生の話をぼんやり聞くことは悩みではないかもしれません。
こうした問題の根本原因を、私は学校の国語授業にあると考えています。さらに国語に基づく他教科の授業も被害を拡大していると。
具体的に言うと、国語の授業が世の実態にあった読み方を教えていない。そして、他教科は国語と同じ方法――つまりその読み方の授業を行っている。だから、国語力がつかないし、他教科の文章を読み解く力も身につかない。
さらに、この読み方に基づく講義型の授業は面白くない。講義型の授業とは先生が内容を解説し、先生が発問し、児童生徒はそれに答える。児童生徒が自ら疑問を持って教科書を読んだり、探究することがない。
講義型授業は知的好奇心を刺激しません。だから、面白くないし、自ら考える力もなかなか身につきません。
人の話の聞き方も同じです。国語の授業では聞き方を教えていません。聞き方を学んでいないから、子ども時代も大人になっても、人の話をしっかり聞くことができない。だから、うまく話すこともできません。
なぜ国語の授業で聞き方を教えていないのか。そのわけは「三読法」という読み方にあります。通読・精読・味読と言って基本的に「文章を三度読もう」という読み方です。
この読書術は聞き方を教えることができません。また、社会に出た後ほとんど役に立たない読書術です(ここで「なぜ? そんなばかな」とつぶやいた方はぜひ本稿をお読み下さい)。
もしも読者が「自分はどうして国語の力が弱いのだろう」と悩んでいるなら、それはあなたのせいではありません。失礼な言い方ながら、同じやり方で文章の読み方を教えてきた国語の先生のせいであり、三読法が最高最上の読み方だとして、教師を指導した文科省の方々、大学の先生、それをほったらかしにした政治家のせいです。
実はその中に元高校国語教師であった私自身も含まれています。よって、本書は国語教育関係者に対する告発の書でもあります。
しかし、原因を他人に求めても事態を改善できません。環境が変わるのを待っていても一朝一夕には変わりません。まずは自力で、自学自習によって、実戦的な《真の国語力》を身につける必要があります。
もしもあなたが小・中・高校生なら、本書で示す「真の読解力が身につく読書術=一読法による読み方・話の聞き方」を学んでください。
本書を読み終えて一読法を実践すれば、国語力・他教科の読解力、考える力が必ず身につくと思います。
さあわかったかどうか(^_^)。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:次号は前置き(その二)回答編です。
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「一読法を学べ」 第 10 へ (6月08日発行)
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