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 一読法を学べ 第 15号

実践編T 5「挫折に終わった一読法授業 (その一)」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 15号

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           原則週1 配信 2019年 7月19日(金)



 お待たせしました。今号は「挫折に終わった一読法授業」です。
 「なぜ挫折したんだ?」と興味津々のテーマではないかと思います。
 ところで、挫折の原因はすでにいくつか語られていました。気付かれたでしょうか。
  なお、長くなったので、その一・その二として分割し、間に「実践編執筆の裏話」を挿入しました。

 5 挫折に終わった一読法授業(その一)

 (1)試験時間を増やすか?
 (2)挫折の原因、一つ目は……

 6 実践編執筆の裏話と……(以下次号)

 7 挫折に終わった一読法授業(その二)
 (1)挫折の原因、二つ目は……
 (2)三読法に戻る



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 実践編 目 次
 前置き(その一)
 前置き(その二)
 1 社会(日本史)
 2 社会(文化史)
 3 現在の学校で一読法を実践するには
 (1)一読法授業で「予習をしない」わけ
 (2)現在の学校でひそかに一読法を実践するには?
 4 誤答率四割の原因を探る
 (1)誤答率四割の原因について
 (2)一読法でも誤答率四割
 5 挫折に終わった一読法授業(その一)―――――――――本 号
 6 実践編執筆の裏話と卒業試験問題
 7 挫折に終わった一読法授業(その二)
 (1)挫折の原因、二つ目は……
 (2)三読法に戻る
 8 実践編の「まとめ」


 本号の難読漢字
・愕然(がくぜん)・伏線(ふくせん)・直(じか)に・甚(はなは)だしい・醍醐味(だいごみ)・必須(ひっす)・怠惰(たいだ)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』実践編

 5 挫折に終わった一読法授業(その一)

( 1 )試験時間を増やすか?

 前号末尾は「スピードばかり要求される学校や世の中なら、行かない方がいい、家に閉じこもった方がいい」とちと過激な、感情的な言葉で終えました。
 それを受けて読者各位はどのようにつぶやかれたかでしょうか。
「同感だ」・「それは言い過ぎだ」・「どちらとも言えない」などなど。
 これがツイッターなら、親指あげた「いいね」を押すか、親指下げた「そう思わない」を押すか。
 あるいは、この主張にどう反論されるか。
「世の中でスピードが要求されているとしても、だから学校に行かなくていい、家に閉じこもっていいとは言えないだろう」とつぶやかれた方が多いのでは、と推測します。

 さらなる私の反論は本稿の最後に語ることにして、ここでは教師の立場から一つ補足の突っ込みを入れておきます。

 と言うのはスピード重視・時間制限をやめたら、それで問題解決かと言うと、そうではないからです。特に三読授業を続けている限り、誤答率三、四割は「変わらないだろう」と推理しています。

 たとえば、あらゆる試験の時間を2倍に増やすとします。三読法の通読→精読を実践して問題を解く生徒は成績があがるでしょう。一読法でアタックする生徒も余裕をもって答えられます。
 よって、中学生四割、高校生三割の誤答率は下がる。逆に言うと六、七割の正答率が八、九割に上昇する……であろうか。いやいや、とてもそうは思えません。なぜか。

 理由は三読法通読段階で答える生徒は試験時間が2倍になっても精読しないからです。時間が伸びたとしても彼らにやることはなく、机に突っ伏して居眠りタイムでしょう。

 現場に実例があります。高校の定期試験は国社数理英など1時間(五〇分)で実施されます。この五教科の先生方は真面目に問題を解けば、だいたい四〇分から四五分くらいかかるテストを作成します。残り時間は全体を見直す検証の時間にあててもらいます(中学校でも同じでしょう)。「そんなことが可能なのか」と聞かれれば、ちょっと自慢げに「プロですから」と答えます。
 若干の誤差はあって生徒から「先生。今回のは時間が足りなかったよ」と言われることもあるけれど、だいたいその範囲におさまるようテストを作ります。

 ところが、まれに音楽・美術や家庭科、体育(保健)など、実技科目で筆記試験を行うことがあります。これがほとんど項目穴埋め問題です。記述式とか応用問題がないので、五〇分必要としません。だいたい二〇分か三〇分で解き終わってあとすることがない。

 大学なら早く終われば、教室を出られますが、高校(中学)はそれを許していません。かくして生徒は居眠りをするか、下手すると試験中なのに雑談する生徒まで出る始末です。そのため実技科目の筆記試験はだいたい時間を三〇分にしました。
 これは実技科目の試験範囲が狭いためで、同じ項目暗記タイプでも理科・社会は範囲が広く問題数が多いので、時間が大幅に余ることはありませんでした。

 項目穴埋め問題とは三読講義型授業における典型的な試験です。穴埋め問題が判定しているのは覚えているかどうかだけ。覚えていれば答えを書き、忘れていれば書かない……か、当てずっぽうで答える。文章をじっくり読んで考えて解くタイプの問題ではありません。

 そして、これが「読解認知特性診断テスト」例題一、二のような単純な問題においても、さあっと読んで直感で答える生徒を生み出します。
 結局、三読法は通読だけで答えて精読しない生徒、時間が与えられてもやはり精読しない生徒を育成している。ゆえに、誤答率三、四割は変わらないだろうと推理するわけです(「育成」はもちろん皮肉です)。

 私はこの観点からも一読法授業が実践されるべきだと思います。一読法なら最初から精読するから、一つ一つ問題を読み、考え、答えてから次の問題に移ります。ここんとこ生徒は真面目で問題を解かないまま居眠りに入ることはまずありません。
 もしも小学校入学から十二年間一読法授業を学んでいれば、さあっと答えて誤答が多い生徒、時間が余れば居眠りする生徒は減るはずです。むしろ時間が足りず無答に終わる設問が増えるでしょう。
 もしも一〇〇ヶ設問を出して四〇ヶ無答なら、別に時間を倍にする必要はありません。ただ、設問を六〇〜五〇に減らすだけです。


( 2 )挫折の原因、一つ目は……

 さて、本題の「挫折に終わった一読法授業」について。

 私は大学時代後半に一読法を知りました。たまたま本屋で一読法の書籍を発見して読みました。「これは素晴らしい読書法だ」と思ったので、その後は自分でも実践し、高校教員になった後「いつか授業でやりたい」と思っていました。

 なぜすぐ「これはいい」と感じたのか、その典型例を一つ語っておきます。今から四十年ほど前のことです。
 そのころ私はある芥川賞作品を読みました。内容は中学生の主人公が家庭環境に悩んだり、幼なじみの女子生徒にほのかな恋心を抱いたり、同じ子を好きになった親友の事故死などを経て心を成長させる物語です。ラストは父の死後近くの老人と母、女子生徒の四人で清流をさかのぼり、壮大なホタルの群舞を眺めるという美しい場面でした。
 五十代以上の方は映画にもなったので、記憶にあるかと思います。

 私はこの作品を読み、そこそこ感銘を覚えました。それは一読法を知る前の読書でした。一読法を知った後、経緯は忘れましたが、もう一度この小説を読むことになりました。
 そして、再読後愕然としました。自分がただ「読んでいた」だけで、小説のある特質に全く気付いていなかったと思い知らされたからです。

 その小説にあった特質とは何か。それは《視点》が移動していたことです。
 一読後の感想としては「主人公の男の子の視点で物語は語られている」と思っていました。主人公の目から母と高齢の父、近くのじいさんや友人、幼なじみの少女などを眺め、彼の内心が描かれていると。
 少年の家は窮乏しており、父の友人に換金できない手形を持って借金に行かされる。その人は「手形は金にならない。君に貸す」と無利子返済無期限の大金を貸してくれる。そのときのつらさとか、老父の死後、その地にとどまるか、叔父の住む都会に引っ越すか。母は迷っているだろうと思いやって「母の気持ちまでよく書かれている」と思いました。

 ところが、実際は「男の子と母親」で視点が分散していたのです。つまり、男の子が周囲の状況や自分の内心を語れば、次に母親が自身の過去や現在、その心の内を語る。簡単に言えば、この作品は主人公の心情も母の内心も両方知ることができる構造を持っていたのです。どおりで母親の気持ちが「よくわかったはずだ」と思いました。母親の独白や過去の思い出が直に書かれていたのですから。

 この創作方法の善し悪しは触れません。十九世紀から二十世紀初頭の外国文学などは「神の視点」で語られていることが多く、トルストイなど「犬はこの二人の関係は危ないと感じた」などという表現さえ現れます。日本でこの反省というか反発から「私小説」が生まれたのはご存じのとおりです。

 私はなんとなく日本の文学作品だから、視点は一貫しているだろうと思って読んでいた節があります。もちろん作品は同じ場面で「子はこう思った、母親はこう考えた」と書かれている訳ではありません。子どもの視点による表現が続いたら、次は母親の独白、さらに次は子どもの視点、と入れ替わっていたのです。
 私は初めて読んだとき、この構造に全く気付いていなかった。二度読んでようやく気付いた――と言えます。

 つまり、私の初読は三読法の通読に過ぎなかった。ぼーっと読んでいたのです。二度目は一読法にとっての初読であり、一言一句注意して読み始めたから、すぐこのことに気付きました。「あれっ、視点が男の子から母親に移ったぞ」と。同時にこれは三読法二度目の読みである精読にあたるとも思いました。
 このとき「文章をしっかり理解するには二度読むか、一度目の読みから一言一句注意して読まなければならない」と思うようになったのです。少なくとも「ぼーっと読んではいけない」と。

 閑話休題。大学卒業後私は高校の国語教員となりました。しかし、最初の十年間は三読法でした。通読と指名読み、次いで精読して解説する。ごく普通の国語教員として現代文の授業を行いました。
 教員一年目から一読法授業を始めるほど私は自信家でも開拓者でもありません。新米教師として何か新しいことをやる勇気はとてもありませんでした。と言うのは現場で一読法授業をやっている人は一人もいなかったからです。国語はもちろん他教科でも。

 当時渡された教師用指導書には「教案」がついていました。どのように授業展開するかの具体例です。そこに書かれた案はことごとく《通読→精読》の三読法でした。
 ベテランの国語教師、同輩前後の先生方は一読法授業を試みるどころか、「一読法」の言葉さえ知らない。そんな中自分だけ一読法授業を実践することなどできようはずもありません。当時読んでいた「一読法」関連本は理論が多く、どのように授業を進めるか自分の中で充分練る必要がありました。

 約十年間三読授業をしながら、一読法授業の進め方について「予習はしない、題名読みとか、鉛筆を持って記号をつけつつ読む」など、本稿理論編に記した段取りを考え、三十代の半ばころ「満を持して」といった思いで一読法授業を開始しました。もちろん現代文です。

 ところが、この試みは一年で挫折します。私はまた三読法に戻りました。
 なぜ失敗だったのか。

 その経緯を説明するに当たって今回も、読者各位がこれまで一読法を実践して読まれたか、その検証作業をする形で語っていきたいと思います。

 実は挫折した原因について、これまでいたるところにヒントが出ていました(作者から言うと、出していました)。
 果たして読者はヒントに気付いただろうか。つまり、頭の片隅に「この人の一読法授業は挫折したんだ。なぜだろう」との疑問を抱いて《精読》したか。ここから先はそれを確かめるための作業でもあります。

 ところで、この件について初めて書いたのは六号前の「実践編前置き」です。
 前置き(その一)の目次に「挫折に終わった一読法授業」と出し、前置き(その二)の中で「この目次を見て『なにっ?』とか『おやっ?』とつぶやきましたか」と書いて注意を喚起しました。

 本文末尾にも「居酒屋で私と読者が語り合ったなら」として、以下のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 おそらくあなたは「えっ、一読法授業が挫折に終わった? 失敗したのですか。どうして? なぜうまくいかなかったのですか」と驚きと疑問の言葉を矢継ぎ早に発するでしょう。
 それに対して私は「そうなんです。うまくいきませんでした。詳しくは明日お話しします。あなたもなぜうまくいかなかったのか、考えてみてください。私が実践したのは今から三十年ほど前のことです」と答えます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここを読んだとき、想定される読者のつぶやきは「考えてみてくれと言われたって、私は国語教員じゃないし、わかるわけないだろうが」でしょうか。

 そうつぶやくだろうなあと思いつつ、私は次号社会の教科書を一読法で読む実践例の冒頭でも「実践編を始めるに当たって以下の問題意識を持って読んでほしい」と書き、その4に「 なぜ私の一読法授業は挫折に終わったのか。その経緯や原因」と項目を立てました。

 さすがにこれだけ強調すれば、読者も頭の片隅にこの件を意識して読み進めたことと思います。
 その後四号分――社会の例題一、二、「現在の学校で一読法を実践するには?」とか「誤答率四割の原因について」などいろいろ語りました。
 しかし、一読法授業が挫折に終わった件について特に語られることなく本号を迎えた……と思っているのではないでしょうか。
 失礼ながら、そのように感じた方はやはり一言一句注意して読んでいない。ぼーっと通読している方々です。

 これに対して「いやいや、そんなことはない。私はわかったぞ。あんたの一読法授業が挫折に終わった原因は、三十年前□□□□(ほにゃらら)がなかったからだろう」とつぶやかれたなら、一読法二段を進呈いたします。
 ちなみに、この□4文字はカタカナで、5文字か7文字の言葉でも構いません。

 では「答え合わせ」です。
 一言一句注意して読んでいれば、この件について語った最初の文言の中に《注意すべき言葉がある》ことに気付いたはず――と言うより気付いてほしいところです。一度目の読みから《精読する》なら、その言葉に気付かねばなりません。

 再掲すると、
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 おそらくあなたは「えっ、一読法授業が挫折に終わった? 失敗したのですか。どうして? なぜうまくいかなかったのですか」と驚きと疑問の言葉を矢継ぎ早に発するでしょう。
 それに対して私は「そうなんです。うまくいきませんでした。詳しくは明日お話しします。あなたもなぜうまくいかなかったのか、考えてみてください。私が実践したのは今から三十年ほど前のことです」と答えます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここにヒントとなる言葉があります。それは「今から」です。
 傍線を引くなら「私が実践したのは今から三十年ほど前」のところにつけねばなりません。

 通常の意味として「今」は「現在」であり、反対語は「過去」や「昔」。昔と言っても百年前にさかのぼるのではなく「三十年前」とあります。
 そこで考えるべきは「三十年前と現在のどこが違うか。そして、それが一読法授業挫折の原因とどう関係しているのか」へと進みます。

 目下十代の生徒諸君にとって三十年前は生まれる前だから、さすがに(学ばなければわかりようもない)歴史的事柄でしょう。五十代以上、ぎりぎり四十代までは三十年前――すなわち一九九〇年前後の世の中を想起できると思います。

 日本なら「昭和が終わって平成が始まり、バブルがはじけたころだ」とか、世界なら「東西ドイツ統一、ソ連崩壊」でしょうか。平成の始まりは八九年、ドイツ統一は九〇年、ソ連崩壊が九一年です。
 その中で「失われた三十年」とか「就職氷河期」などと呼ばれ、なかなか就職できず苦しんだ経験をお持ちの方もいらっしゃるかと思います。小学校で「ゆとり教育」が始まったのは八六年頃からで、そして、学力低下が甚だしいとして最近それがなくなった……なども思い出されるかもしれません。

 もっとも、「今から三十年前」のところで立ち止まっていろいろ思い浮かべたとしても、依然として「私は国語教員じゃないんだから、あなたの一読法授業が挫折した原因なんてとても考えられないよ」とつぶやかれたことでしょう。

 このつぶやきは正しいと思います。作者はこれに答えなければならず、いずれ答えは明かされる。目次を見れば「挫折に終わった一読法授業」とあるから、「ああ、その節で説明されるんだな」とわかります。

 だから、そこまでは書かれた実践例などを注意深く読めばいい、別に作者の一読法授業が挫折に終わったことは(特に触れられない限り)考える必要はない……そう思って読まれたと思います。事実私はその後の実践二例から前節まで一度も「挫折」の言葉を使っていません

 ここで論文とか小説を書く際使われる手法を知っているかどうかで読みの深さ・正確さの違いが現れます。小説ならそれは「伏線」と呼ばれます。伏線とは後半に登場する重要人物を前もってちらりと登場させておくことです。

 私が文芸部顧問だったとき、生徒に小説を書かせると、ラストで悪と戦うヒーローのところに突然初登場の味方が現れ、主人公の窮地を救う場面が描かれることがありました。「おいおい、伏線使わんかい」と言ったものです。
 伏線は人物だけとは限りません。主人公や脇役が後半において突然怒ったり、妙な悲しみ方をする――そのように描くなら、それも伏線を書いておかねばなりません。主人公の嫌いな人間が突然引っ越したり、死んだりすると、「そんなに簡単に登場人物を殺すな」と言いました。
 また、ミステリー小説などは「あれっ」と思う表現がいたるところにあり、それが後につながって「なるほど」と思わせ、感心する。これを批評して「伏線が張り巡らされている」とか「伏線がきちんと回収されている」などと言います。

 伏線は小説の大きな特徴であり、小説を読む醍醐味でもあります。が、通読でさあっと読んでいる人は伏線に気付きません。と言うのは読みつつ、新たに登場する人物をしっかり頭に入れておかねばならないし、「あれっ、妙な表現だ」とか「どうしてこんなことが」など疑問を抱きつつ読まねばならないからです。

 よって、推理小説を読んでいる途中「ここは伏線かもしれない」とつぶやける人は一読法で読んでいる方です。さらに、再読すれば「ああ前半のここは謎解きの伏線だったか」と気付きます。映画なども二度鑑賞すれば、伏線にかなり気がつくはずです。だからこそ私は一読法を勧めているのだし、作品を「二度読みましょう」と主張しているのです。

 実は論文においても(呼び名はないけれど)伏線と同じように、次節(もっと先のテーマ)と関連することを、前もってちらちら書いています。それをその都度「この部分は私の一読法授業が挫折に終わった原因と関係ある表現ですよ」と書いたりしません。
 小説の伏線として書いたところに「この人物は後々重要な役割を果たします」とか「この出来事が一年後大変な事態を招く」などのネタばれを書かないのと同じです。
 ただし、読者の関心をつなぎとめるため「主人公は後に大変な事件となることを知る由もなかった」などと書かれることはあります。テレビの連続ドラマの末尾で多用されるナレーションです。

 ちなみに、論文で伏線に似た表現を取るのは別にミステリー小説を意識するからではありません。そのことを語る節に進んだとき「より深く理解してほしい」からです。突然そこで出すより、前もってちらちら触れておくことで、より一層理解してもらえる、そのような思いで書きます。
 もう一つ「同じ内容、同じ表現の繰り返しを防ぐため」という理由もあります。これによって「以前このように書きましたが」と短くまとめることができるからです。

 では、前号までのどこに「私の一読法授業が挫折に終わった原因」のヒントが書かれていたか。それを具体的にあげていきます。一言一句注意して読んでいたかが問われる場面です。その際「今と三十年前の違い」に注意しつつ読めば、気付いたはずです。

 たとえば例題一において三読授業と一読法授業の違いを説明した言葉の中に最初のヒントがありました。
 三読法は先生が講義して質問し生徒が答える。対して一読法授業は「生徒は本文を読みながら、疑問やつぶやきを書き込み、その後それを発表。さらに調べたり話し合ったりした後先生が解説する」と。ここに「生徒は調べる」といとも簡単に書いています。
 では「調べる」の具体例はと言うと、以下のようにあります。
「生徒自身がネットや事典類で調べたりして『時代は江戸時代、徳川幕府』とか『鎖国の歴史や事実』をノートに書き込んでいきます。『沿岸』の意味、一六三九年が何時代かわからなかった生徒も当然調べて答えを得るでしょう」と。
 何を使って調べるか。「ネットや事典類」とあります。

 また、私自身の活動として「今回これらの作業を経てネット事典ウィキペディアで『鎖国』を検索してみました。つぶやきの答えを探究したわけです」とあります。それによって「一六四〇年、ポルトガル使節団皆殺し」の史実を初めて知りました。
 さらに「時間が許せばその先も調べたいところですが、授業はそこまでとして、後は先生の解説に留めれば、時間短縮が可能です。最後に先生が『この先もっと関心があるなら、帰宅後調べてごらん』と言えば終わりにできるでしょう」とか、「生徒が発した疑問やつぶやきを全体のものとして調べ、次から次に浮かぶ疑問やつぶやきも調べる。ときには『なぜ江戸幕府はポルトガルをそれほどまでに敵視したのか』に絞って調べ、調査結果を発表して生徒間で意見を闘わせる」ともあって一読法授業では「調べる活動が多くなる」ことを繰り返し書いています。

 ここらで四十代以上の読者なら、「今と三十年前の違い」について思い当たる言葉が浮かんだのではないでしょうか。

 また、例題二「三大宗教の世界的分布」のところでは、
「国名が出ないようなら、ネットで世界地図(や所持している地図帳)を見ながら、一つ一つチェックする作業に入ります」とあり、「一読法によって教科書を読めば、そして生徒が活発に疑問を提示するようになれば、教師の手に負えない疑問が続出する可能性があります。しかし、今なら『授業ではそこまで深くやらないけど、パソコン検索使って調べてごらん』と言って構わないと私は思います」とあります。この文中に「今なら」があることに気付かれたでしょうか。

 また、次節「三 現在の学校で一読法を実践するには」でも「一読法においては《予習はしない。復習は一教科数分で充分。家庭学習は自分が抱いた疑問を調べたり考える時間に当てられる》」と書かれ、「逆に一読法の必須アイテムは辞書です。読めない漢字、意味不明の漢字は生徒によって違います。だから、そのような漢字や語句が現れたら『すぐに辞書を引きなさい。教科書に書き込みなさい』と言います。今なら使うのはタブレットでしょうか」とあり、ここでも「今なら」という言葉が使われています。

 今ならパソコンやタブレットを使ってインターネットですぐに調べることができる。ということは《昔(三十年前)》はそれができなかった……とつながります。

 もうおわかりでしょう。私の一読法授業が挫折に終わった一つ目の原因がこれです。三十年前はパソコンがなかった。もちろんタブレットなどなく、インターネット検索などできようもなかった。

 授業で使えたアイテムは国語辞典か漢和辞典くらい。つまり、漢字の読みや意味確認の作業はできるけれど、より深く調べるための百科事典類は身近になかった。せいぜい図書室であり、家庭でも事典類をそろえているところは少数。とても「家でも調べてごらん」と言える状況ではありませんでした。

 私は現代文の授業で、一度だけほぼ一読法授業と重なる「単元学習」を行ったことがあります。教材は平塚らいてうの『元始、女性は太陽であった』という文章です。明治四十四(一九一一)年に発行された雑誌『青鞜』の創刊号に掲載された文章で、男尊女卑の世の中に対して女性の自由と解放を訴えています。
 本文全体を生徒数人のグループに班分けして「生徒自ら調べ、発表させる授業」を行いました(これを単元学習と言います)。
 調べるのは当然図書室です。図書司書と協力して五、六時間調べるための時間を設定しました。このときのクラスは真面目な子が多かったので、生徒はしっかり調べて発表してくれました。

 しかし、図書室の百科事典・歴史事典など参考書籍は奪い合いになりました。事典類は図書室から持ち出せないけれど、単行本などは貸し出しできます。参考文献を紹介したとき、「それは借り出さないように」と言ったけれど、借りる生徒が続出。「先生、本がありません」と言われ、借りた生徒に「すぐ返却しろ」と言うこともありました。皮肉なことに「家で作業するな」と言っていたのです。
 逆に「そこまでやってくれたか」と感心するグループもあって「うちの図書室になかったので、隣町の大きな図書館に行って調べました」という生徒もいました。

 この単元学習授業が生徒を啓発したことは間違いありません。終了後生徒に書かせた感想の中に「初めて国語らしい授業をやった気がする」との言葉があったほどです。
 しかし、実行した私の内心はと言えば、「単元学習は今の学校ではできない」との思いでした。もちろんこの「今」は三十年前の現場では、との意味です。

 単元学習とは簡単に言えば大学の演習とかゼミで行われている活動です。大学なら図書室に膨大な辞典・事典、参考書籍がある。教官自身も研究室に備えている。だから、いろいろ調べることができる。しかし、高校では(中学校もそうでしょう)ほぼ不可能だと気付きました。

 かくして三十年後の今なら、「一読法授業も単元学習もできる」というわけもおわかりでしょう。パソコンを使い、タブレットを使ってインターネットと接続すれば、辞典、事典が見放題、参考書籍・論文も探して読むことができる。
 例題一に関連して長崎大学教授の論文を取り上げるなんてことは、三十年前なら専門外の私にはほぼ不可能。しかし、今なら数分で探し出して読むことができます。

 これが当時の学校を取り巻く環境であり、一読法授業が挫折した外的要因とするなら、もう一つは生徒自身の反応です。生徒は一読法授業に拒否反応を示したのです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:今号末尾は思わせぶりの表現を使って次号への関心をあおっています。「知る由もなかった」と同じ手法です。「生徒の拒否反応ってどういうことだろう?」とつぶやき、「生徒の拒否反応について今までヒントがあったかな?」へと進んでこれまでの記述を想起するなら、それこそ一読法の実践です。
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「一読法を学べ」  第 16 へ (7月26日発行)

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