カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 17号

実践編T 7「国語教材と日本史教材の違い」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 17号

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           原則週1 配信 2019年 9月06日(金)



 今号は前号の答え合わせと「挫折に終わった一読法授業(その二)」のつもりでしたが、国語と他教科の違いについて語っていたら、思いの外長くなったので、独立させました。

 7 国語教材と日本史教材の違い [小見出し]
 ( 1 ) 卒業試験問題の答え合わせ
 ( 2 ) 『原始、女性は太陽であった』は国語教材か
 ( 3 ) 『原始、女性は太陽であった』を国語科で読むと
 ( 4 ) 国語と社会の連携

 8 挫折に終わった一読法授業、その二[以下次号]
 (1)挫折の原因、二つ目は……
 (2)三読法に戻る



 実践編 目 次
 前置き(その一)
 前置き(その二)
 1 社会(日本史)
 2 社会(文化史)
 3 現在の学校で一読法を実践するには
 (1)一読法授業で「予習をしない」わけ
 (2)現在の学校でひそかに一読法を実践するには?
 4 誤答率四割の原因を探る
 (1)誤答率四割の原因について
 (2)一読法でも誤答率四割
 5 挫折に終わった一読法授業(その一)
 6 実践編執筆の裏話と卒業試験問題
 (1)初稿から変化した思い
 (2)最初の仕掛け
 (3)次の仕掛け
 (4)前節「挫折の原因、一つ目」が長くなったわけ
 (5)一読法卒業試験問題
 7 日本史教材と国語教材の違い――――――――――――――本 号
 8 挫折に終わった一読法授業(その二)
 (1)原因の二つ目は……
 (2)三読法に戻る
 9 実践編の「まとめ」


 本号の難読漢字
・容易(たやす)く・所謂(いわゆる)・極(きわ)めつけ・促(うなが)す・『青鞜』(せいとう)・禅智内供(ぜんちないぐ)・沙弥(しゃみ)・内道場(ないどうじょう)供奉(ぐぶ)・勿論(もちろん)・蒼白(あおじろ)い・初声(うぶごえ)・嘲(あざけ)りの笑(えみ)・頻発(ひんぱつ)・貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)・鵯越(ひよどりごえ)・「仁勢(にせ)物語」・些末(さまつ)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 実践編

 7 国語教材と日本史教材の違い

( 1 )卒業試験問題の答え合わせ

 まずは前号の質問「実践編の例題一、二はなぜ国語ではなく社会だったのか」について。
 ポイントとなる言葉は漢字かな混じり□□□(3文字)と書きました。ヒントとして「実践編の例題は必ず国語以外、特に社会を使おうと考えていた。国語にしたくない理由があった。答えてほしいのはそれです」や、「国語科はそれをあまり重視しない。対して他教科はそれを重視する。ゆえに、実践編は国語以外の教科を取り上げる必要があった」とも書きました。

 国語授業は難語句の読みや意味、外来語の意味など辞書を引く活動はします。その際使うのは「辞典」。対して社会や理科の教科書はだいたい読めるから辞書を引くことは少ない。世界史の人名なぞ全てカタカナです。さすがに日本史の人名や事項名は読めないことが多いので、それこそ「調べる」活動をします。しかし、その際使われるのは百科事典や歴史事典の所謂「事典」です(大学時代こちらは「ことてん」と呼んでいました)。理科の生物・化学・物理・地学なども各種「事典」があります。

 要するに、国語授業で調べる活動は辞書まで。事典を使うことがあっても深入りしない。一方、他教科の調べる活動は事典、さらにいろいろな資料・参考文献となります。
 なぜ実践編の例題は国語ではなく社会だったか。ほにゃらら□□□(3文字)は「調べる」でした。

 国語科は事典を使ってまで調べる活動はしない。対して社会の日本史・世界史は本来「調べる活動」をするべきだ。だが、ほとんど解説だけの講義型授業になっている。そのわけは三読法の通読→精読(解説)授業だから。
 一読法なら最初から疑問をつぶやく。その疑問が「調べる活動」のスタートとなる。
 ゆえに、社会科は一読法を使うべきである――こうした思いから実践編は日本史の例題を採用しました。

 ここでちょっと立ち止まります。ここまで読んで「あれっ?」とつぶやかれたでしょうか。「確か平塚らいてうのあれは生徒に調べさせたと書いていたようだが……」と。

 それはさておき、今回の卒業問題は前号で書いたように、実践編の開始当初、二つの[?]をつぶやいていれば、そして実践編で《調べる》が一貫して使われていたことに気付いていれば、簡単な問いでした。

 一つ目のつぶやきは「実践編の具体例は社会か。なぜ国語の小説や論説文ではなく社会なんだろう」であり、もう一つは例題一の解説を読みつつ、「おやー? なんか妙だぞ」とつぶやいたかどうか。
 例題一の「幕府は、一六三九年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」を一読法で読むには、「生徒は本文を読みながら、疑問やつぶやきを書き込み、その後それを発表。さらに調べたり話し合ったりした後先生が解説する」とあって早速「調べる」活動について語られます。

 その後「インターネットを使って調べる」など、この言葉が多用され、極めつけは「疑問とつぶやきから自身で調べて答えを探す一読法だから、『幕府は、一六三九年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた』の一文がこれだけの広がりと深みを持つのです。授業でこれを実践すれば、先生の解説も含めて相当内容の濃い授業が成立するはずです」と書いています。

 ここらへんまで読んだとき、二つ目のつぶやき――「なんか妙だぞ」が出ていいところです。特に「疑問とつぶやきから自身で調べて答えを探す一読法」の部分において。
はて? 理論編の一読法解説に『調べて答えを探す』なんてあったかなあ」と。

 この疑問がわいていれば、理論編6号「5 一読法の基本 ――鉛筆を握って本を読む」」に戻って二度読みを行う必要があります。ここで三読法だと全文読み返さねばならないけれど、一読法なら余白の記号や傍線をたどるだけで済みます。
 いずれにせよ、部分の二度読みを行えば、すぐに気付いたはずです。
一読法の読み方に『自身で調べて答えを探す』なんてないじゃないか!」と。

 あるいは、毎号上部に掲載していた理論編の目次や小見出しを眺めるだけでもわかります。「一読法の読み方」の小見出しには「読み終えたら、記号をたどって作品を振り返る、短い感想を書く」とあるけれど、「調べて答えを探す」の項目はありません

 そもそも実践編とは理論編で語られたことを実践する場であるはず。しかし、理論編では「(事典で)調べる」活動について全く説明されていない。
 ところが、その言葉は実践編において突然飛び出し、以後ずっと「一読法では調べる活動が大切だ」とか、「私の一読法授業が挫折したわけは三十年前調べる活動がし辛かったから」などと語られる。
 読者がこのことに気付けば、「それほど重要な言葉なら、理論編で説明せんかい!」と怒っていいところです。

 ただ、本稿は普通の論文と違って《読者が一読法で読んでいるか》至る所に落とし穴を掘っています。これもまたその仕掛けと見なせるところです。
 作者は一読法理論編で「調べる活動」について書かず、実践編でその大切さを説いた。一言一句注意して読んでいれば、「あれっ、一読法の読み方には『調べて答えを探す』なんてなかったぞ」とつぶやくはず。いや、つぶやいてほしい。
 それゆえ理論編では敢えて「調べる活動」について書かず、例題一においてさりげなく「調べる」言葉を出現させた。
 論文として評価するなら、かなり出来が悪い。だが、一読法読者なら、このいいかげんさ(仕掛け)に気付くはず、と読者に注意を促すための表現である……。

 ここで正式に立ち止まります。
 さて、これは前号同様、読者が一読法で読んでいるか確認するための仕掛けでしょうか。あるいは、私の構想不足、執筆ミスでしょうか。

 正直に告白します。これは仕掛けではなく、私のミスです。自ら落とし穴にはまりました(^_^;)。もしも仕掛けだったら、前号「執筆上の裏話」で取り上げたでしょう。
 理論編の最後に「以上は国語科における一読法の読み方です。他教科の理科社会はここに追加して《調べる活動》が入ります」と書けば、うまくつながったはずです。

 もう少し説明すると、本稿全体の構成として、私は
 1 「一読法の読み方、理論編」=例として国語の小説・論説文を採用。
 2 「一読法の読み方、実践編」=例として社会の日本史を採用。
 ――と構想していました。

 つまり、私の中では理論編は国語教材、実践編は他教科――特に社会にすると決めていました。両者最大の違いは「調べる活動を重視するかどうか」にあるからです。
 理論編は国語教材だから、読みの活動まで。それを応用するのが他教科であり、特に理科社会において「調べる」活動が入る。
 よって、実践編の具体例は理科でも良かった。そうしなかったのは、理科の授業はすでに調べる活動が入っているからです。理科は実験や調査活動が入り、結果をレポートとして提出させたりする。その基本には「なぜこの現象が起こるのか」という疑問のつぶやきがある。もちろんこれは一読法。
 有名な事例を一つあげるなら、万有引力の法則には五歳児のような疑問、「なぜリンゴは木から落ちるのだろう」がありました。意識されていないけれど、すでに一読法なのだから特に言うべきことはない(相変わらず項目暗記主義の講義も多いようですが)。

 ところが、中高における社会の授業は「調べる」活動が入ることなく、講義・解説ばかりである。それは(繰り返しになりますが)三読法の通読→精読授業だからであり、入試の項目暗記主義ゆえである。もしも三読法から一読法に切り替えれば、[疑問のつぶやき→調べる]活動を取り入れることができる。そのような構想から実践編は国語ではなく理科でもなく、社会を例としました。

 以上、まとめると、
 国語は難語句や外来語について辞書を引くけれど、読み終えてさらに調べる活動はあまりしない。国語はどのように文章を読むか。どのように考え、どのように調べるかを学んでいるのであって、その先の《調べる》実地活動は無理にやらなくていい。
 国語(現代文)における「精読」とはあくまで解釈であり、解釈を深めるために調べる活動をすることはあっても、生徒に作品を超えて調べることまで要求しない。それが国語(現代文)の授業である。
 対して国語以外の教科は文章を読んで考えるだけでなく、体験したり実験したり、調べる活動が中心となる。いわば国語は基礎・基本であり、他教科が応用である。

 ――こう書くと、先程遠慮がちにつぶやかれた批判の言葉がはっきり口に出されたはずです。
「あんたは平塚らいてうの作品を単元学習でやったと書いていた。あれは生徒に調べさせる活動ではなかったのか」と。

 このつぶやきに対して私はこう答えます。
 それは「平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』が国語の教材と言うより、社会の資料集に載るべき教材だったからです」と。


( 2 ) 『原始、女性は太陽であった』は国語教材か

 平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』は作者二十五歳(一九一一年)のときの作品です。雑誌『青鞜』創刊の辞として書かれました。『青鞜』は男性が編集に参画しない女性のみの文芸誌です。冒頭に置かれたのは与謝野晶子の詩「そぞろごと」。その第一行「山の動く日来(きた)る」は女性の解放・自立宣言として有名。

 一方同時期の一九一六年、二十四歳で漱石の激賞を受けて華々しくデビューしたのが『鼻』の芥川龍之介です。ともに高校現代文の教科書に掲載されていることがあります。
 この二作品をA・Bとして、私がなぜ『原始、女性は太陽であった』を単元学習でやったのか、その理由を説明したいと思います。

A 芥川龍之介『鼻』の冒頭部
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 禅智内供(ないぐ)の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上からあごの下まで下がっている。形は元も先も同じように太い。〜略〜五十歳を越えた内供は、沙弥(しゃみ)の昔から内道場供奉(ぐぶ)の職にのぼった今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んできた。勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。
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B 平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』の冒頭部
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 元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
 今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
 さてここに『青鞜』は初声を上げた。
 現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声を上げた。
 女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。
 私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。
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 A『鼻』の時代背景は平安か鎌倉室町ころで、身分の高い僧侶のことが書かれています。しかし、内容は平安時代でなくてもいい、僧界でなくても起こりえるお話です。つまり「池の尾」がどこか、「沙弥(しゃみ)・内道場供奉(ぐぶ)」とは何か辞書を使って調べたとしても、さらに平安時代とか僧侶の階級について調べることはしません。
 ソーセージのような鼻を持つ中年男性が周囲の目を気にして悩み、改善しようと四苦八苦する話は時代を問わない。よって、『鼻』の感想文を書くなら、主人公の心理、周囲の人間の思惑、自尊心とか劣等感、作者解説の「傍観者の利己主義」についてあれこれ感じたこと、考えたことを書くでしょう。

 では、Bはどうか。この作品は国語の教科書に載ったけれど、実は社会の資料集(明治大正時代)に入っておかしくない作品です。
 そもそもBを国語に入れると、ジャンル分けに困ります。小説ではないし、論説文でもない。一文字下げて分かち書きされているので詩的雰囲気はある。だが、詩とは言いづらい。エッセー風ではあるけれど、随筆と呼んだら天国の作者は怒るでしょう。敢えて分けるなら「雑文」ですが、これも心外だと頬をふくらませるに違いありません。

 Bの文章は雑誌創刊の辞であり、男性に抑圧された女性の自由と解放を求める宣言文のようなものです。いわば『青鞜』という「女性の、女性による、女性のための雑誌」創刊宣言です。
 たとえるなら、フランス革命の「人権宣言」、アメリカの「独立宣言」、現代日本の「日本国憲法」に似ています。これら三例は国語と言うより、社会科の歴史、政治経済、倫理社会などで読まれるべき文章でしょう。
 歴史や公民の授業で「明治時代、男尊女卑の世の中で女性解放を訴えた女性活動家がいた」と解説し、その一例として読まれていい。すなわち、歴史資料のような作品です。
 社会科でBを扱うなら、まず語られるのは明治という時代と社会状況であり、その具体例として本文を読むでしょう。

 ところが、Bが国語の教科書に載りました。この場合国語科はどう読むか。


( 3 )『原始、女性は太陽であった』を国語科で読むと

 三読法では当然のように通読し、次いで精読に入ります。ここで教師にとってどこまで深く説明するか、かなりの難しさに突き当たります。深く解説すると、社会(日本史か公民)の授業になります。作品を理解するには明治時代をある程度知らなければならないからです。逆に浅く解説すると作品の理解も浅いままです。

 たとえば、「明治時代は男性中心の社会だった。外で働くのは男、女性は家庭を守って食事に掃除洗濯。出産と子育てに追われ、内助の功・良妻賢母が理想の姿だった。『三従の教え』と言って幼い頃は父に従い、嫁いでは夫に従い、老いては息子に従いなさいと教育された。自由な恋愛、結婚は許されなかった。明治とはそんな世の中だったんだよ」と説明するとします。さて、この程度でいいのでしょうか。
 この解説によって「元始、女性は自立して太陽のように輝いていた。だが、今は男の陰で病人のように蒼白い月だ」と訴える作者の激しい思いを感じ取れるか。女性のみで雑誌を作る困難さ、「女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである」の意味をどれだけ理解できるか。

 と言うのは作者はなぜこの思想に到達したか、生い立ちに何があったのか、誰のどのような影響を受けたのか。また、彼女の言葉や行動に対して嘲り笑うのが男性であることは間違いないけれど、女性の多くも歓迎どころか眉をひそめた……そこまで読みとる必要があるでしょう。作者自身の研究も不可欠です。
 要するに、平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』は芥川龍之介の『鼻』と違って明治・大正時代と切り離せない、作者と不可分の、私小説のような作品なのです。

 これは一読法でやっても、同じ困難が伴います。
 たとえば、Bの冒頭を社会の例題一同様、生徒に「疑問や気付いたこと」を書き込んでもらうとしましょう。以下のように板書できます。

 [ 『原始、女性は太陽であった』冒頭部一読法板書例 ]
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 元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
 ↑「そんなことわかるの?」「なぜ太陽であったと言うの? 今はどうなの?」「真生の人ってどういう意味?」

 今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
↑「今っていつのこと?」「なぜ女性は月だと言うの?」「他によって輝くって月は太陽があるから輝くのだから当然だ」「青白い月の輝きをなぜ病人と言うの?」「そうか。昔女性は自ら輝く太陽だった。だが、今は太陽が男で女性は月だと言うのか!」

 さてここに『青鞜』(せいとう)は初声を上げた。
↑「『青鞜』って何?」「初声って?」

 現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声を上げた。
↑「現代の日本の女性とは?」「男性は雑誌に全く参加しなかったの?」

 女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。
↑「今はただ嘲りの笑みって誰があざけるの? 誰がバカにしたように笑うの? 男?」

 私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。
↑「嘲りの笑みの下に隠れた「或もの」って何だ?」
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 これらはもちろん私が高校生になったつもりでつぶやいた[疑問や感想]です。現役高校生でもこれくらいはつぶやけると思います。

 冒頭部から早くも最大の壁にぶつかります。「原始」はどこまでさかのぼるのか、そして「今」とはいつか。読者が読む時点の「今=現代」か。
 作者読みをすれば、この「今」は明治時代(後半)であるとわかります。しかし、すぐに昔の話としていいのかどうか。「現代の女性もいまだ男の陰ではないか」と考えつつ読み進めることは可能だし、そうすべきかもしれません。

 この教材をやった三十年前、中高の家庭科は女子のみ必修でした(男女必修になったのは一九九三年以後)。就職の求人票は男女別々であり、「男女雇用機会均等法」ができたのは一九八六年のことです。
 また、一九八九年の参議院選挙では社会党が大勝して与党を破り、女性議員が多数当選しました。歴代初の女性委員長土井たか子氏が「山が動いた」と与謝野晶子の言葉を引用して男女平等、女性の活躍を予感させる時代でもありました。

 が、それから三十年。今も国会議員に占める女性議員の比率は1割強で先進国最低の水準です。「女性への差別と偏見」は明治時代だけの話ではない。女性が参政権を得るには昭和二十年の敗戦と米国占領まで待たなければならない。女性活躍社会の到来と言われながら、男性の意識は変わっただろうか。中年男性の「子育ては妻に任せている」との言葉をどれだけ聞いたことか……などなど三十年前であっても「現代」であっても、語りたくなることが多々あります。

 いずれにせよ、三読国語授業では普通これらの疑問を先生が質問として生徒にぶつけます。しかし、この作品の場合、答えられる生徒はほぼ皆無でしょう。冒頭部以降の文章も「三従の教え」など、歴史的知識がなければ、答えられない箇所が頻発します。

 ちなみに、私がこの作品を授業でやったとき、日本史において明治時代が終わっていたかどうか、記憶にありません。高校生だから中学校である程度は学んでいたはず。しかし、生徒に明治時代の社会状況を質問してまともな答えが返ってくるとは到底思えません。結局、私が説明するしかなく、そのいちいちについて解説すれば、一体どれくらい時間がかかることか。しかもそれは詰まるところ社会の解説であり、社会科の講義です。

 これが同じ明治時代に書かれた作品でも、漱石とか鴎外、島崎藤村、芥川龍之介などの作品は多くの[?]がつけられたとしても、社会科の解説になることはありません。質問に対する答えは作品内の記述をヒントとして考えたり、答えることができるからです。志賀直哉など私小説作家の作品でさえ、ほぼ作品のみで解釈できます(私はむしろ安易に作者の事実から説明すべきではないと考えています)。

 いかがでしょうか。私が平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』を授業でどう扱うか悩み、結局単元学習を選択したわけがわかってもらえたのではないかと思います。私はこの教材を社会科でやろうと決めました。
 しかし、講義型授業にはしたくない。ならば、社会科本来の「調べる活動」を生徒にやってもらおう――そう考えて単元学習としました。「本文の解釈」・「作者平塚らいてう」・「雑誌『青鞜』」・「江戸時代の女性と明治時代の女性」・「明治時代に輸入された西洋思想」・「参政権の歴史」など、テーマを設定して班毎に調べてもらい、発表させました。

 以前書いたようにこのときのクラスはとてもよく調べてくれました。しかし、私の内心は「学校の図書室資料では単元学習はできない」との失望であり、以後単元学習をやることなく退職しました。
 また、「生まれて初めて国語らしい授業をやった気がする」と感想を言った生徒は《調べて答えを探す》活動にとても充実感を覚えたことがわかります。
 それを聞いた私は「本当は国語じゃなく社会科で行われるべき活動なんだよ」と言いたかったところです。もちろん彼女の感動に水を差すようなことは言いませんでしたが。

 このように、平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』は国語教材というより社会の資料集に掲載されるべき文章でした。そして、社会の授業で明治時代を採りあげたとき、この文章を読むのが相応しいと思います。理想を言えば、社会科で「作品の内容を調べる単元学習を行うこと」です。調査結果を報告して生徒同士議論すれば、より深く明治時代を、女性の実態を知ることができるでしょう。

 しかし、私は社会科の先生にこのことを働きかける気持ちにはなれませんでした。理由は何度も書いた通りです。国語教員にとって資料不足の図書室で調べる活動ができないなら、社会科の先生にとっても同じこと。それに、この部分だけ深く掘り下げても、大学入試にはまず出ない。出ても点数2点分くらい。もっと全体を、広く浅くやりきる――それが日本史の最大目標なのですから。

 以前も書いたように、私は日本史の先生を責めている訳ではありません。中学や高校の図書室に大学並みの資料を用意できないのは国の責任だし、高校入試や大学入試が項目・年号暗記確認テストに終始している以上、現場はそうせざるを得ないからです。


( 4 )国語と社会の連携

 今振り返れば、社会科と国語科が連携すれば良かったかなと思います。日本史の授業では省略されることの多い資料の読み。それを国語科で行うことです。日本史で明治時代をやっているとき、現代文で『原始、女性は太陽であった』を読むという形があります。

 特に高校では古文を学びます。たとえば、万葉集の「貧窮問答歌」は当時の民衆の生活を知る貴重な資料として社会の教科書や資料集に入っています。が、全文掲載されることはないようです。古文教科書にも(調べた限りでは)載っていません。
 これも日本史で奈良時代をやっているとき、古文で「貧窮問答歌」をやることができます。
 例題一に採りあげた江戸時代の鎖国についても、幕府の指示や長崎関係者の言葉は古文です。それを国語古典で読む(口語訳する)活動は正に国語で学んだことを社会で応用する、あるいは、社会で学んだことを国語で補強する実践だと思います。

 私は「おもしろ古文」と題して自主教材をやったことがあります。「貧窮問答歌」は全文紹介して口語訳させました。また、『平家物語』の「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」や『仁勢(にせ)物語』も採りあげました。前者は義経が一ノ谷の合戦で平家の背後を奇襲攻撃した有名な話です。読めば迫力満点、とても面白いです。後者は『伊勢物語』の逐語的パロディー作品。江戸時代の下世話な話が多く、高校の教科書にはまず載りません。

 ちなみに、「おもしろ古文」は1年間の4分の1くらいやりました。生徒は結構楽しく読んでいました。高校は偏差値レベルで言うと中位校で、しかも管理職には内緒でした。
 が、偏差値上位校なら、生徒から「こんな古文はやらなくていいです」と言われたかもしれません。管理職も知れば「源氏物語をやってください」と要求したでしょう。

 高校の国語科(古典)も大学入試を意識せざるを得ません。大学入試に「貧窮問答歌」は出ません。鎖国に関連した文章もまず出ないだろうし、「鵯越の逆落とし」も出たことがないだろうと思います。
 入試に出ない理由は単純で古文にとって簡単すぎるからです。知らなくていい難語句がある程度で、文法的にはとても簡単な古文。敬語多数で主語が省略され、難解な『源氏物語』と比較になりません。

 さて、今節の小見出しは「『原始、女性は太陽であった』は国語教材か」と疑問形で書かれています。末尾を「〜国語教材であろうか」と書けば、反語的であり、「いや、国語教材とは言えない。社会の資料だ」となります。
 ここまでの流れでは「『原始、女性は太陽であった』は現代文の教科書に載せるべきではない」との結論となってもおかしくありません。

 しかし、私は(矛盾するようですが)「『原始、女性は太陽であった』は現代文の教科書に掲載されてもいい」と考えます。なぜか。

 理由は社会科に資料を読む時間も余裕もない以上、国語科でそれを行う――つまり単元学習を実行することは生徒の読解力・調査力の養成に大いに貢献すると思われるからです。
 インターネットのなかった三十年前、中高では「調べる活動」そのものがほぼ不可能でした。しかし、今や生徒個人が大学並み、いや国会図書館並みのデータとつながっています。各人の力に応じて事典を調べる活動、さらに参考文献を読む活動が可能となりました。パソコン1台、タブレット一つ持っていれば、一読法も単元学習も可能な世の中になったのです。

 ただ、ここでも最大の問題は高校・大学入試です。入試が些末な項目暗記主義を変えてくれない限り、中学も高校も「調べる活動」を重視する授業に変えることができません。
 なのに、大学の先生方から聞こえてくるのは「最近の学生は深く物事を考えていない。なおかつ知っていい常識的なことさえ知らない」という嘆きです。

 不思議なことです。入試が求めているのは「広く浅く知識を持っている学生」であって、「何か深く物事を追求している学生ではないでしょう」と言いたくなります。
 項目暗記主義は入試が終わればどんどん脳内から欠落していきます。すぐ忘却の彼方に消え失せます。大学史学科でない限り、「平安時代はどんな時代だったか、末期になって武士が登場したのはなぜか」と問われても、「平安時代が始まったのは鳴くよウグイスだから七九四年ですね。一一九二年に頼朝によって武士の時代が始まりましたね」くらいしか答えることができません。「江戸時代に幕府はなぜ鎖国をやったのか。なぜキリシタンは弾圧されたのか」と問われて答えることができる人(学生)が何人いるでしょう。

 ここで突然ですが、二〇二一年の大学入試改革について触れます。「大学入学共通テスト」は記述式問題が初めて取り入れられます。項目暗記偏重の反省からかと思ったら、記述式問題は国語現代文と数学のみで、社会と理科は依然としてマーク式のままとか。
 結局、昔も今もこれからも、学生に求められているのは脳内パソコンの優秀さでしかないことがわかります。
 私は入試についてある極論を考えています。それは全ての試験において受験者にスマホ・タブレット所持を認めることです。些末な項目暗記はパソコンに任せればいい。これからの人間に求められているのは記憶力の優秀さではないと思うからです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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