カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 18号

「実践編 八 挫折に終わった一読法授業、その二」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 18号

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           原則週1 配信 2019年 9月13日(金)



 今号は「挫折に終わった一読法授業 その二」です。生徒の拒否反応とはなんだったか。原因の一つ目は「今と三十年前の違い」でした。二つ目は「今も昔も同じ、一読法は□□□□□□(ひらがな6文字)」です。再読していればすぐに埋まると思うのですが。

 八 挫折に終わった一読法授業、その二 [小見出し]
 (1)挫折の原因、二つ目は……
 (2)再び三読法に戻る



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 実践編 目 次
 実践編前置き(1)・(2)
 一 社会(日本史)
 二 社会(文化史)
 三 現在の学校で一読法を実践するには
 (1)一読法授業で「予習をしない」わけ
 (2)現在の学校でひそかに一読法を実践するには?
 四 誤答率四割の原因を探る
 (1)誤答率四割の原因について
 (2)一読法でも誤答率四割
 五 挫折に終わった一読法授業、その一
 (1)試験時間を増やすか?
 (2)原因の一つは……
 六 実践編執筆の裏話と卒業試験問題
 (1)初稿から変化した思い
 (2)最初の仕掛け
 (3)次の仕掛け
 (4)前節「挫折の原因、一つ目」が長くなったわけ
 (5)一読法卒業試験問題
 七 日本史教材と国語教材の違い
 (1)卒業試験問題の答え合わせ
 (2)日本史教材と国語教材の違い
 (3)歴史教科の感想は「いいか悪いか」でいいのか?
 八 挫折に終わった一読法授業、その二――――――――――――――本 号
 (1)挫折の原因、二つ目は……
 (2)再び三読法に戻る
 九 一読法はなぜ通読をしないのか
 十 実践編の「まとめ」

 理論編・実践編の後書き

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 理論編 目 次
 前置き
 一 国語(現代文)の授業は三読法
 二 人の話を三読法で聞けるのか
 三 結末に早く到達したいと考える悪癖
 四 結論が大切か途中が大切か
 五 一読法の読み方
 (1)題名読みと作者読み
 (2)つぶやきと立ち止まり読み
 (3)予想・修正・確認
 (4)共感・賛同・反発
  読み終えたら……
 (5)記号をたどって作品を振り返る
 六 まとめ(その1)・(その2)


 本号の難読漢字
・怠惰(たいだ)・到底(とうてい)・辟易(へきえき)・雲散霧消(うんさんむしょう)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 18

 八 挫折に終わった一読法授業、その二

 (1)挫折の原因、二つ目は……

 一読法授業挫折の原因について、一つ目は「パソコン・インターネットなどなかった三十年前は調べる作業がし辛かったから」とまとめました。が、主たる理由はそれではなく、生徒が示した一読法に対する《拒否反応》でした。

 大学時代に一読法を知り、高校教員になって十年ほど。私にとっては「満を持して」といった気持ちで始めた一読法授業。生徒はきっと感嘆して活き活きと実践してくれる……と思いました。
 ところが、生徒は「先生の授業はよくわからない」と言いました。比喩として言うなら、内蔵移植の拒絶反応でしょうか。身体が受け入れないと言うか、感情的に拒否されたかのような印象でした。後に「これはカルチャーショックか」と思うに至りました。

 この件も思い当たる記述は方々に出していました。
 実践編前置き(2)において「一読法授業が挫折に終わった」ことに触れ、「みなさんも原因を考えてみてください」と問題提起しました。その直後に書かれた記述が最初のヒントです。
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 今後読者各位はさまざまな文章を読まれると思います。もしも理解度六〇に達したいと思われるなら、選択肢は二つです。「一言一句注意して疑問や感想をつぶやきながら一度読む」か、「一度目はさあっと読んで、もう一度考えつつ再読する」か。
 ここでも読者のつぶやきが聞こえます。
「一読法ってかなりめんどうだな。そんなことなら二度読んだ方がいい」と。
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 理論編を読み終えた読者が「確かに一読法ってかなりめんどうだ」と感じたなら、三十年前の生徒も同じ感想を持ったわけです。一読法は□□□□□□=「めんどくさい」と。

 また、前置き(2)の途中には「考えさせられる」作品を敬遠する読者について「『だから私はそんな小説は読まない、そんな映画は見ない』と言う人も多いでしょう。考えさせられる作品は疲れます」と書いています。一言一句集中して読むのはしんどい作業です。
 例題一、二の実践でも、「生徒がこのようにつぶやくかもしれない」という実例をたくさん紹介しました。みなさん方はその具体例をじっくり読んだでしょうか。「こんなにつぶやくのか。めんどうだなあ」と感じて斜め読み、飛ばし読みしたのではないかと推測します。

 それが三読法通読の癖です。何度も書いているように、小学校入学から十八歳まで十二年間(高校入学時は九年間)、一度目はさあっと読んだり、飛ばして読む通読の癖が身体にしみついています
 それは簡単な読み方です。きつくない、疲れない、楽な読み方です。

 かたや一言一句注意しながら読む一読法はしんどいです。めんどうです。立ち止まって「おやっ?」とつぶやいたり、前に戻って二度読みしたり、考えながら読む作業は疲れます。一回読み切るのに、かなり時間がかかります。しかし、文章の理解度は間違いなく六〇以上。
 対して三読法を通読だけで終えれば、文章の理解度は三〇しかない。本当はもう一度読まねばならない。それが国語・現代文授業で学んだ三読法だから。だが、学校を離れたら一度しか読まない。
 よって、文章を読む際、通読だけで終えることは悪癖だと言わざるを得ません。

 しかしながら、ここで「悪癖ですよ」と指摘されたからと言って簡単に変えることができましょうか。
 たとえるなら、油っこい食事、甘くておいしいケーキやチョコ、砂糖たっぷりの炭酸飲料。食べ始めたらやめられないスナック菓子と同じです。メタボだ、糖尿病予備軍だと医師に指摘されても、長年の食生活は簡単に変えられません。車を運転するようになると、自宅から1キロ先のコンビニでも車を使います。「歩かなければ」と思っても、人は楽な方を選択する……。

 また、「誤答率四割の原因を探る」では、例題一・二を見たときの生徒の気持ちを推理した表現があります。「例一は離れたところにある二つの文を、要素に分けて同じかどうか検討しなければならない。めんどくせえなあ……」、「例二はカタカナがたくさん並んでいて、まず『オセアニア』がどこにあるか発見しなければならない。めんどくせえ……」と。
 そうつぶやいて誤答した生徒が三、四割。同じことをつぶやいて「こっちにしちゃえ」とやってたまたま正解した生徒が二、三割。きちんと精読して正解した生徒は四割から五割だろうと私は推理しています。

 このように「人間とはいつもめんどくさいとつぶやき、なかなか自分を変えようとしない、変えられない、怠惰を愛する動物である」とまとめたら、さすがに言い過ぎです。人は何かをきっかけに劇的に変わる、変えられる動物でもあります。

 大げさに言えば、教員人生初の一読法授業は生徒のこの感情にぶつかりました。彼らは小中で一度も一読法を学んだことがありません。実践したのは高三でしたが、高校入学後ももちろん知りません。私の授業で初めて一読法の読み方を訓練したわけです。

 ちなみに、一読法授業を実践したのは私一人だけであり、同僚の国語教師に働きかけることはしませんでした。理由は三読授業に問題意識を持たない人を説得しなければならないし、まずは自分でやってみて「好結果が出るなら、その後働きかけよう」と考えたこともあります。

 生徒はもちろん私の指導に従ってくれました。鉛筆を握って疑問の[?]やつぶやきを教科書に書き込む作業を、黙々とやってくれました。当初「教科書をきれいに保ちたい」と言っていた女子生徒も、やがて教科書に記号や傍線を付け、どんどん書き込むようになりました。

 ところが、ここでぶつかった壁が今も書いた通読の悪癖です。生徒は最後まで早く読んでしまいたいと感じた(ようです)。
 たとえば、多くの教材は教科書数頁から長くとも十頁くらい。通読すると短ければ二十分、かかっても四十分ほどで読み終えてしまいます。逆に言うと、国語の多くはそのような教材が選ばれています。

 一読法授業は最初から精読するので、一時間(五〇分)では到底最後まで到達しません。やっても見開き二頁分くらい。切れたところでやめて次の時間に前の部分を再読しつつ、新しい部分に入ります。約五、六時間の授業はこの繰り返しです。

 生徒はこの遅々として進まぬ精読作業に耐えられなかった(ようです)。
 もちろん「予習はしないように」と教科書は学校に置かせている。「最後まで読んでしまうと一読法にならないから先を読むな」と言いました。
 確認はしていませんが、この指導に従ってくれた生徒が何人いたことか。多くの生徒は昼休みか放課後最後まで読んだようです。あるいは、残り二頁で終わりのチャイムが鳴ったら、もはや「先を読むな」とは言えません。彼らは「早く結末(結論)を知りたがった、早く読み終えたかった」のです。

 なぜそれがわかったかと言うと、次の時間新しい頁に入ったとき、書き込む[?]が激減したからです。そこが初めて読む頁なら、出てしかるべき疑問や感想が出てきません。
 この件に関しても13号「一読法授業で『予習をしない』わけ」で語っています。
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 前もって読んでいた生徒が授業で一読法を実践すると、彼らから疑問のつぶやきがなかなか出てこないという問題が発生します。〜中略〜妙な言い方ですが、前もって読んで疑問を解消してほしくない。初めて読む授業においてどんどん[?]をつけ、つぶやき、それを提示してほしい。だから、「予習をしないように」と言います。
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 つまり、最後まで読まれてしまうと、もう一読法授業にならない。読み終えた生徒にとっては通読→精読授業でしかありません。しかも「どうしてこんなところにいちいち[?]をつけるんだ」と反感さえ芽生えたようです。

 一読法だから、「なぜ? どうして?」の答えを探して二度読みを行ったりします。前の部分に答えがないと、「読み進める前に疑問の答えを考えよう」と問い、立ち止まって「ああでもない、こうでもない」と推理し、それをノートに書き留めます。

 今回の「一読法授業が挫折に終わった」例で言うなら、「今から三十年前」のところで立ち止まって「今とそのころの違いは?」と考えるようなものです。あれやこれや思い出し、「そのことと一読法授業挫折の原因は関係しているか推理」します。
 しかし、先(すなわち五節や本号)を読めば「答えはそこに書かれている」。
 みなさん方は先に答えがあると知ったら、途中で立ち止まってあれこれ考えようと思うでしょうか

 もちろんこれは全て読み終えてから精読に入る三読授業ではごく普通の活動です。
 たとえば小説なら、主人公の途中の言動について「なぜだろうか」と質問することがよくあります。この答えはその前にあったり後にあったりします。生徒はそれを探して「こうだと思う」と答えます。これが三読法における精読活動です。

 ところが、一読法では立ち止まったところで「なぜだろう」と考え、先を読みません。よって、先に書かれている(かもしれない)答えはわかりません
 ではどうするかと言うと、それまでの表現からヒントを探します。もしも一つしか答えが見つからないと、私は「これ以外に考えられることがあるのではないか」と生徒にあれこれ推理することを求めます。これが生徒は苦手です。

 と言うのは彼らは小中高を通じた学習の悪しき結果として――敢えて「悪しき」と書きます――「正解は一つ」と思いがちだし、一つか二つの答えで満足して、それ以外の可能性について考えようとしないからです。

 私は授業において立ち止まったところで「なぜか」と問い、答えが出ても「それだけじゃないだろう、まだあるはずだ」としつこく尋ねます。答えが出なければ、「この可能性もある、めったにないけどこう考えることだってあるぞ」と確率1パーセントの可能性まで列挙します。

 ここで生徒が反感を持つのはある意味当然かもしれません。それを言葉にするなら、「先生は最後まで読んで《なぜ》の答えを知っているから、他にある、他にあると言うんでしょ」という気持ちです。後に出てくる「答え」を生徒が言うまで、追及をやめないと感じているのです。

 これはあながち的外れの批判ではないので、処理に困ります。私は初見の教材はもちろん一読法で読むけれど、授業でやるときは最後まで読み切った上の立ち止まりであったり、《なぜ》の問いを設定していることがあるからです。生徒が「ずるいよ」と感じるのもむべなるかな、です。

 ともあれ、末尾まで読んだ生徒は「先に答えがあるじゃないか」とうんざりし、先を読んでいない生徒も「なぜこんなにあれこれ考えさせるんだろう」と辟易した……これが始めてやった一読法授業の実態であり、生徒が示した拒否反応です(この件は次号にてもっと詳しく語ります)。

 生徒が感じた「途中で立ち止まってあれこれ考えつつ読むことはしんどい、結末まで早く読んでしまいたい」という気持ちをむげに否定できません。それまでずっと通読で、とにかく最後まで読み切る読み方をやって来たのであり、それは知の欲求とも言えます。当時の私は「とにかく早く読みきりたい」という生徒の気持ちに応える方法を見つけることができませんでした。

 今振り返るなら、一読法の重要性についてもっと説明すべきだったと反省しています。
 当時私は一読法を「読みの問題」とだけ考えて、それが人の話を聞くときにも使われる「話の聞き方」としてとらえていませんでした。
 もしも「人の話を聞くときは一度しか聞かない。だから、最初から一言一句注意して聞く必要があるよ」と説明し、さらに「それは文章を読む際にも使われる。だから、題名から文章の最初から一言一句集中して読む必要があるんだ」と理論面を説明してから実践に入っていれば、まだ生徒の反応は違ったかもしれません。

 このように私が一読法授業をわずか一年でやめたわけは、調べるための資料類がなかったことより、圧倒的に生徒の拒否反応でした。彼らは「一読法はとろとろ進むのでじれったい」とか「早く最後まで読んでしまいたい」とか「途中でああでもない、こうでもないと考えるのはしんどい」などと言いはしません。つぶやいた言葉は「先生の授業はわかりにくい」でした。

 そして、当時の私はその言葉の意味をくみ取ることができませんでした。特にそれまで慣れ親しんだ通読の癖で「早く最後まで読んでしまいたい」という欲求を一読法授業で満たすことはほぼ不可能。
 一読法とは長編小説の読み方です。長編小説はさあっと目を通すだけでも一日、二日かかります(二十四時間、四十八時間という意味です)。これを仕事や勉強など他の活動をしつつ一言一句注意しながら読めば、一週間、いや、ひと月、ふた月かかるでしょう。一気に読み切ることは不可能。これを短い文章でもやろうと言うのが一読法です。通読なら二十分で読み終える教材を、五コマ、五時間かけて精読する。しかも、「先を読むな」という一読法授業は生徒にとってめんどくさく、不可解だったようです。

 結局一年間一読法授業をやったけれど、疑問を書き込んだとしても調べることはできない、小中で三読法しか学んでいない生徒が一読法を身につけることは難しすぎる。そう思って一読法授業から撤退しました。

 もう一つ国語教師側の問題もあります、私個人で一読法を実践したのは三年生でした。一年後彼らは卒業しました。当時一読法授業を一年生でやることは「もっと困難だ」と思いました。
 と言うのは私一人が全クラスの現代文を担当するわけではなく、二人から三人で分担するからです。
 二年に上がるとクラスはシャッフルされます。となると、二学年のクラスには、私の指導によって一読法を知った生徒と知らない生徒が混在します。私にとっても他の国語教師にとってもやりづらい授業になることは明らかです。
 一読法授業をやるなら、一年の最初から国語教員全員でやらねばならない――それを働きかけるにはイバラの道が想像され、もはや一読法授業をやろうという気持ちが萎えてしまいました。

 余談ながら、四月に一読法を初めて半年後、生徒が最も記憶に残ったのは「途中で立ち止まれ」だったようです。当時担任だったクラスが文化祭で飲食店をやることになったとき、彼らは飲食店の名前に「ゆうさんの立ち止まり喫茶店」と名付けました。
 お客さんはきっと「なぜわざわざ立ち止まり?」と感じたことでしょう。私も「なんだ、その名は」とあきれつつ、立ち止まりは一読法の要なので、内心嬉しかったことを覚えています。


(2)再び三読法に戻る。

 私は生徒に一読法を教えることをあきらめ、再び三読法に戻りました。
 ただ、それまでの[予習をせよ→指名読みによる通読→二度読みによる精読]授業はやりたくない。そこで若干ヴァリエーションをつけました。
 題名読みはもちろんやる。作者読みは少々。そして、本文は必ず鉛筆を握って読むこと。もちろん「予習は厳禁」。
 よって、指名読みはやめました。私が最初から最後まで読み通す。難語句・意味不明語句はその都度短く解説して書き込ませる。そして、鉛筆を握っての記号付けは4つ。[?]と[○](感嘆・賛成)と[×](反感・反発)。さ らに、重要だと思われるところに傍線を引き、重要語は□で囲み、上部に[!]をつける。

 要するに、一言一句注意して読むことだけはやってもらう。結構ゆっくり読むし、一段落を終えたところで、ちょっと振り返る時間を与えることもありました。
 たとえば、小説なら状景が淡々と書かれたところはどんどん読み進め、「おやっ?」と思える表現のところはゆっくり読んだり、間をあける。論説文なら、難しい表現のところは「この段落もう一度読んで[?]があれば付けてごらん」と言ってちょっと待つ。
 本来の一読法授業なら、これは生徒自身がやるべき立ち止まり作業です。私が(ある意味無理矢理)同じところで立ち止まらせたと言えるでしょう。一時間内に読み切るためには仕方ありません。

 そして、「集中して読む」ために課したことが通読直後の「百字感想文」です。
 このかなりゆっくり読む通読でも、多くの国語教材は二十分〜三十分ほどで読み終えます。残った時間に百字程度の感想を書いてもらう。
 基本何を書いてもいいけれど、ポイントは二つ。作品を読めば、部分において全体について「これはどういうことだろう」と疑問が湧く。答えはこうではないかと思った場合は自分なりの答え(解釈)を書く。答えがわからなかったら、その疑問を書きなさいと。
 以前本稿理論編で短文ツイッター否定論をぶちかました私ですが、授業では短文感想文を書かせていたのです。

 それはさておき、用紙はB4用紙の4分の1に原稿用紙(題名・氏名の二行とマス目は十字×十二行)をこしらえて生徒に書かせました。だいたい通読後の残り時間で書き終えます。私にとってはここからが大変です。
 生徒四十五人分の感想を次の時間までに読んで、約半数分の感想を取り出し、縮小コピーしてB4用紙2枚から3枚にまとめ、それをクラス人数分印刷して次の時間に「みんなの感想だよ」と配布。私が読みつつ寸評を加えました。

 基本優秀作品を掲載しましたが、疑問だけの感想ももちろん掲載する。それから徐々に「自分なりの答え」や「反論」など末尾に行くほど鋭い読み、深い読みができている作品を入選としました。
 当時一学年の学級数は六から最大十二。私が受け持つ現代文のクラスは三〜四クラス。
 通読が終わると、次の時間にはもう百字感想文プリントを配って読み合わせます。次の時間まで一日とか二日、土日が入ればまだいいけれど、翌日ということもあります。そのときは自宅に持ち帰って作成することもありました。次の時間に感想を読み合うことに意味があるからです。

 通読を終えれば、三読法だから《精読》に入ります。その前に「この作品ではどんな疑問が湧いていたか、それに対して(ある生徒は)どう感じ、どのような答えを出したか」知ることができ、それを精読によって確かめる、あるいは、教師の側からより深い解釈、別の見方を提示することにつながる。要するに、より集中して精読活動に入れるからです。

 記名は実名かペンネームも可としました。題名は必須。ただし感想文によくある「〜を読んで」だけは認めない。「書いたものの題名とは全体の要約になるんだから、内容にふさわしい題名にしなさい」と言いました。ときには「内容は普通だが、題名が素晴らしい」と誉めたりしたものです。
 基本クラスの半数を入選作としたものの、間に合えば他クラスの「鋭い解釈」などを紹介することもありました。

 この百字感想文、生徒はかなり熱心に読んでいました。まずは「自分の感想文が採用されたかどうか」が気になり、次に「自分はこう感じ、考えたけれど、他の人はどうなんだろう」と知ることができます。新しい単元に入るたびに書いてすぐに作品が公開されるので、「次は入選作になりたい」と意欲も湧き、初読の読みも集中度が増します。

 多くの教科書では最初の方に本文と関連した美術作品(絵画)が掲載されています。変わり種百字感想文として「この絵を見た感想を書きなさい」とやったことがあります。そのとき担当したクラスに「美術コース」があったからです。これは美術の意識が高い子どもたちだけに、かなりの優秀作ができあがりました。

 余談ながら、理論編において「美術と音楽の違い」を語りました。美術はぱっと一目で全体像がわかる空間芸術であり、音楽は鑑賞時間を短縮したり省略できない時間芸術であると。
 実は「精読活動」は美術・音楽においてもあります。音楽は自然に精読し、自然に三読法になります。というのは歌謡曲であろうが交響曲であろうが、時間をかけ、何度も何度も聞いてようやく「ああいいなあ」と感じるからです。やがて歌謡曲は自然に覚え、歌えるようになります。
 鑑賞に時間がかかることは音楽最大の短所だけれど、じっくりゆっくり《精読》して何度も聞いてもらえる点では最大の長所です。

 ところが、美術は《精読》してもらえません。展覧会の鑑賞者が一作品の前で何分立ち止まっているか、それを見れば正に一目瞭然。せいぜい十数秒で次の作品に移動しているはずです(高額作品なら時間をかけるでしょうが)。その他多くの作品は細部をじっくり見てもらえません。画家が百号以上のでっかい作品を描きたいと思うようになるのは、げに「立ち止まって細部をしっかり鑑賞してほしい」からでしょう。
 一目で全体像がわかることは美術作品最大の長所だけれど、ゆえに最大の短所でもあります。
 私は美術コースの生徒に「じっくり一作品を眺めて感想を持つ大切さを教えたい」と思って絵画の百字感想文を実践しました。

 ついでに小説や詩の文学について触れておくと、「全体が一目でわからない点で音楽に似ている」とまとめました。思うに三読法とはこの短所を補うために美術の長所を取り入れたと言えそうです。「全体像をつかむためにまずさあっと読もう」と通読を勧めたのです。
 ところが、多くの人が美術作品を細部に渡って《精読しない》ように、通読によって全体像をつかんだ読者は作品の前から立ち去ってしまう。すなわち、さあっと一度読むだけで精読しない読者を大量に生み出してしまった。結果、文学が持っていた音楽的長所(じっくりゆっくり読んで鑑賞すること)さえも雲散霧消してしまった、と言わざるを得ません。

 そろそろ本節の結論です。
 結局、その後一読法を復活させることはなかったけれど、私はこの一読法的三読授業を退職まで続けました。
 ちなみに、本稿を現役国語教師の方がお読みなら、通読直後の百字感想文作成は決して勧められる授業ではありません。生徒の読解力、作文力の醸成、人の見方を知るなど、効果は絶大です。しかし、どう見ても教員の負担が大きすぎるブラックな働き方としか言えないからです。

 私がやりたかったのは一読法です。一読法は通読=精読後に百字程度の感想文を書くことを推奨しています。しかし、一読法授業なら、私は精読後「百字感想文を書く」作業はしなかったでしょう。
 と言うのは一読法授業なら作品の理解・鑑賞度八〇に達します。作品をしっかり理解した上での「感想」は各自持てばいいことであり、もはや「この感想は作品の理解が浅い、甘い」と批評することはありません。
 これは三読法授業も同じで、通読→精読後に「感想を書く」作業はめったにやりません。処理が大変なだけでなく、作品をしっかり理解できたなら、どのような感想を持っても構わないからです。

 そうなると、理解度三〇でしかない三読法の通読直後に百字感想文を書かせることは「矛盾している」と言うか、「浅い読みの感想しか出てこないのではないか」と思われるかもしれません。
 そこが作文の面白いところです。生徒は「読んだらすぐに感想を書くよ」と言われると、初読から集中して読むようになります。ぼーっと読んでいたのでは感想なんぞ書けません。
 さらに、さっともう一度読み返して(ここで傍線や記号が役立ちます)理解度六〇に達した感想も出現します。私は「この感想は作品をしっかり理解している」と誉めます。
 三読法通読直後の百字感想文とは通読をできるだけ一読法に近づける、初読から一言一句集中して読ませるための作業でした。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:次回は今号で問題とした「文章の先に答えがあるのに、途中で立ち止まってあれこれ考えるのはなぜか」について、芥川龍之介『鼻』の授業実践を例として解説します。ネットの「青空文庫」に原文があり、閲覧無料です。一読しておくと、理解が一層深まると思います。
 一読法習得を意識されるなら、プリントアウトして傍線を引いたり、重要語を□で囲ったり、[?]や[○][×]を付けるなど、一読法で読まれることを勧めます。

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