カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 22号

実践編U 4「一読法における意味段落について」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 22号

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           原則週1 配信 2019年10月11日(金)



 本日11日の公開目指して『鼻』後半の授業実践を書き進めて参りました。ところが、数日前(私にとっては)全く新しい解釈を発見して「これはぜひ入れたい」と思う事態となりました。
 そうなると書き直さねばならず、締め切りに間に合いません。迷った結果、取りあえず前置きとして書いてあったところまでを公開しようと決めました。後半の授業実践はまた次号です。忸怩たる思いながら、ご了承お願いいたします。

 4「一読法における意味段落について」

 [以下次号]
 5「一読法による『鼻』の授業実践(後半)」


 本号の難読漢字
・忸怩(じくじ)・毀損(きそん、傷つくこと)・勿論(もちろん)・陥(おとしい)れる・機嫌(きげん)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』実践編U

 4「一読法における意味段落」

 さて、前半最後における未来予想を終えると、いよいよと言うか、ようやく後半に進みます。
 厳密に言うと、『鼻』は大きく四つに分けられるので、残り四分の一です。ちょっとこの件について触れておきます。

 よく三読法授業において通読後「本文を三つ(四つ)に分けてみよう」と言われ、切れ目はどこか探した経験がおありではないでしょうか。改行して一文字下げた形式段落に対して意味段落と呼ばれます。これは「全体を通読しておかないと不可能」と思われているようです。

 ここでも美術と音楽を例に挙げると、美術作品は一目見て全体像がわかるから、分けることは簡単でしょう。画面全体を4等分して「ここは何々、ここは何々が描かれている」と言うことができる。肖像画なら、「背景、人物の顔、胸、手、腰、足」と分けて眺めることができる(これが国語の精読にあたります)。

 対して音楽はポップス・歌謡曲ならだいたい歌詞があって[1番、2番、3番]と分かれているので、切れ目は明瞭。歌詞もサビの部分は同じことが多いけれど、少しずつ変えられている。歌詞があれば内容について語ることができるし、短調なら日本の演歌や悲しい曲、長調なら明るく陽気な歌とわかる。長大な交響曲も[第一楽章、第二楽章、第三楽章]と分かれています。

 余談ながら前者のメロディーは繰り返しだけれど、後者はテンポやメロディーにかなり変化があります。よって、前者は何度も聞いているとやがて飽きが来る。しかし、後者は何度聞いてもまず飽きることがありません。
 も一つ余談ながら、長調と短調の中間にあって明るさと少々の悲哀を生み出せるのが「メジャーセブンス」の曲。たとえば、「Cメジャーセブンス」はドミソシの4つの和音を持っています。ドミソならハ長調、ミソシだとホ短調。長調と短調が合体しているので、明るさと哀愁を帯びた不思議なメロディーができあがります。
 日本の代表曲は「上を向いて歩こう」です。涙がこぼれても、上を向いて歩こうという歌詞にぴったり合っています。これが「スキヤキ」と呼ばれて欧米でも大ヒットしたのは、「メジャーセブンスの歌だったから」と私は思っています。

 問題は詩や小説などの文学。一目でわかる切れ目判別法がありません。まれに「第一節、第二節、第三節」と分けられていることがあるけれど、それはだいたい長編小説。ここで問題としているのは第一節の中を三つ四つに分けたいときの話です。精読のためには分けておいた方がいい。
 三読法の頼りはやはり通読。4コマ漫画のように典型的な起承転結を学んでおき、通読して「ぼんやり全体像をつかんで、大きく四つから三つに分けよう」と指導することになります。

 では、先を読まない一読法はどうするか。「立ち止まり」とは「ここで切れている・切って考えた方がいい」と思われる部分のことです。つまり、立ち止まりがうまくいけば、それは自ずから意味段落の切れ目となります。
 その際最も参考になるのが次の段落冒頭の接続詞とその一文の内容です。接続詞が順接、逆接、話題転換なのか確認し、その一文の内容を読めば、「ああここで切れている」とわかります。そこで、前の段落までをまとめ、未来(文章の先)を予想するわけです。

 たとえば、芥川龍之介『鼻』の場合、以下のように考えていきます。
 冒頭二百字ほど=主人公禅智内供、長い鼻、五十歳、内心と表面の違い
 ここまでは主人公内供の紹介。これから彼の現在や周囲との関係が描かれるだろうと予想できる。
 私は冒頭二百字ほどで立ち止まりましたが、ここに形式段落の切れ目はないので、まだ「意味段落の切れ目」ではありません。
 その後内供の現在の思い(長い鼻によって傷つけられる自尊心)などが描かれ、読み進めると以下の部分に突き当たります。
「そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損(きそん)を回復しようと試みた。/(改行)第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。」
 この改行部分までを「内供の内心や外見、傷つく自尊心が描かれていた」とまとめ、(接続詞はないけれど)この先「積極的方法、消極的方法が書かれるだろう」と予想できます。
 改行後の冒頭に「第一に〜」とあります。このような「まず〜次に〜」、「第一に〜、第二に〜」も話題転換を意味する語句です。よって、ここで切れるのでここまでが意味段落第一。

 次に消極的方法の描写が続き、積極的方法が語られ、「しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか。/(改行)ところがある年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己(しるべ)の医者から長い鼻を短くする法を教わってきた。」とあります。
 次行先頭の接続詞「ところが」と、その内容によって消極的・積極的方法の説明が終わり、話題転換となって「これから長い鼻を短くする話題に移るな」と予想できる。よって、「ぶら下げているではないか」と嘆息するところまでが意味段落第二。

 その後内供の鼻の治療の場面が続き、治療が終わると、長い鼻が短くなった。内供は「こうなれば、もう誰も嗤うものはないのにちがいない」と思い、幾年にもなく「のびのびした気分になった。/(改行)ところが二三日たつ中に、内供は意外な事実を発見した。」と続きます。
 ここでも内供の内心が描かれ、次行の先頭は接続詞「ところが」であり、「それまでと反対の何かが起こるな」と予想できる。よって、長い鼻が短くなったところまでが切れ目となって、ここまでが意味段落第三となります。その後「第四」で切れるか、「第五」まで行くかは以後の内容次第です。

 ただ、一つ断っておきたいことがあります。今も書いた通り、一読法なら、立ち止まり地点が切れ目です。それは何も形式段落の切れ目とする必要はありません
 私は冒頭二百字を、改行されていないけれど「切れ目」としました。それを意味段落「一」としても別に構わないと思います。読者が「ここで切ろう、立ち止まってそれまでをもう少し読み直そう、じっくり考えておこう」と思ったところが切れ目なのです。それが正しいかどうかなど、どうでもいいことです。
 もちろん書き込みがなされていれば、《読み直す作業》とは傍線が引かれたり、余白に抜き出した言葉であり、[!]や[?]、[○]の記号部分です。それまでの全文を読み直すことではありませんので、お忘れなきように。


 以上です。非常に短い本号となりました。

 せっかくですから「長い文章を期待した読者のために(^_^;)」一つ宿題を提供いたします。

 芥川龍之介『鼻』の前半を終えると、内供の予期に反して周囲の僧俗からつけつけ嗤われる場面が現れます。内供は鼻が長かったときの嗤いとどうもちがう、何か深い理由がありそうだと感じます。
 しかし、「愛すべき内供」は「明が欠けている」ので、その理由がわからない(と書かれています)。
 すると作者が登場して鼻が短くなったのに嗤われる理由として「傍観者の利己主義」説をとなえます。

 私としてはこの部分、「作者の解説は正しいか?」と書き込んでほしいところですが、そのような疑問を提起する生徒はまずいません。そこで次のように質問します。
「『傍観者』・『利己主義』の意味がわかりづらいと[?]を付けた人も多いだろう。そこはひとまず置いといて、この部分の最重要語として《傍観者の利己主義》を□で囲って余白に抜き出した人は?」と挙手を求めます。
 生徒は当然のように全員手を挙げます。
「確かに傍観者の利己主義は周囲の反応がなぜ起こったのか。その理由を説明してくれている。だが、ここにはもっと重要な言葉がある。その言葉こそ□で囲い、[!]を付けて抜き出さなきゃならない。それはどの言葉だ?」と尋ねてさらなる熟読を求めます。

 では、その言葉とは何か。以下「傍観者の利己主義」説を全て掲載しますので、読者各位も考えてみてください。
 私はその後「この作者解説はほんとに周囲の人の反応を説明する理屈だろうか。違うんじゃないか」と問題提起します。この質問の意味するところと、答えも考えてみてください。よーく読めば「わからない筈はない」と思います。
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 人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切り抜けることができると、今度はこっちで何となく物足りないような心持ちがする。少し誇張していえば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くようなことになる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
 そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。……
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 答えは次号にて……。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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