カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 28号

実践編U 10「『鼻』の語り手は作者か?」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 28号

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           原則週1 配信 2019年12月06日(金)



 芥川龍之介『鼻』の解釈最終章とも言える、「『鼻』の語り手は作者か?」について論じます。たまには「短い文章を」と思って「一読法はなぜ通読をやめようと言うのか」は次号に回しました。ただ、読み終えて「短くないよ」と言われるかも……(^_^;)。

 [以下今号 小見出し
  10  『鼻』の語り手は作者か?

 以下次号
 11「三読法の《通読》が日本人を《傍観者》にした」


 本号の難読漢字
・頻繁(ひんぱん)・体裁(ていさい)・陥(おとしい)れる・稚拙(ちせつ)・遂(と)げる・揶揄(やゆ)・偽(いつわ)る・背(そむ)く
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』実践編U

 10 『鼻』の語り手は作者か?

 本節最後のテーマとして『鼻』の語り手は作者芥川龍之介だろうか――この点について触れておきたいと思います。この考察は作者がなぜ作中に登場して「傍観者の利己主義」と解説したか、その解明にもつながります。想定問答は省略して結論だけ書きます。

 その前に芥川龍之介デビューのころを簡単に紹介しておくと、彼の処女作は一九一四(大正三)年、帝国大学(現在の東大)在学中、第三次『新思潮』に掲載した小説『老年』です。筆名は「柳川隆之助」、二十二歳でした。
 そして翌年十月、『帝国文学』に「芥川龍之介」の名で『羅生門』が公開されました。筆名やその後の評判ぶりを見ても芥川の実質的処女作は『羅生門』と言っていいでしょう。このころ漱石門下に入ったと言われます。
 翌年二月、第四次『新思潮』に『鼻』が掲載され、漱石に賞賛されました……が、漱石はこの年十二月逝去しています。
 ちなみに、高校の国語教科書ではよく高一に『羅生門』が、高三に『鼻』が掲載されています。

 さて、『鼻』は至る所で作者が登場します。特に「傍観者の利己主義」について解説されたところは異和感を覚えるほどの顔出しであり、巨匠には失礼ながら「説明が足りないのではないか」と感じさせるところです。

 余談ながら、この小見出しは「『鼻』の語り手は作者か?」と疑問形で書かれています。多くの作品は「語り手は作者」であり、普通の読者は「『鼻』も当然作者である」と答えるでしょう。
 しかし、一読法の要点をつかんだ本稿読者なら、「筆者御影祐は『鼻』の語り手は作者ではないと言おうとしているな」と予想されたことと思います。

 その予想、もちろん的中です。私は『鼻』はAではなくBの構造を持つと考えています。
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 『鼻』の構造
 A 「内供の物語」を語る語り手=作者芥川龍之介――ではなく、
 B [「内供の物語」とそれを語る語り手]の小説を書いた作者芥川龍之介。
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 通常「内供の物語」を語る語り手はイコール作者です。前作『羅生門』は間違いなく作者が、悪の道に進もうとする「下人」を語っています。
 ところが、『鼻』は主人公「禅智内供」だけでなく、内供の物語を語る語り手も同時に描いている。すなわち、『鼻』に登場してとうとうと解説してくれた「作者らしき人」は狂言回しである――これが一読法によって『鼻』を読んだときの結論です。

 狂言回しとは正しく日本の『狂言』において進行役として登場する人物のこと。
 あるいは、演劇などで道化・ピエロが「この後大変な事件が起こります」などと解説する役柄のこと。
 また、人形浄瑠璃などは物語の進行、登場人物の内面などを語る「太夫(たゆう)」が、三味線弾きとともに客席の上手にいます。太夫は物語を語っているけれど、作品を書いた作者その人ではありません。この構造が『鼻』においても採用されているということです。
 ただ、浄瑠璃の太夫と違うのは、『鼻』の語り手が「作者として、神として語っている」点です。

 私がこう考えるようになったのは『鼻』の語り手があまりに説明不足であり、内供に偏っていると言うか、内供に寄り添った見解を示しているからです。つまり、客観小説の体裁を取りながら、語り手に客観性が欠けている

 たとえば、『鼻』における語り手の特徴をいくつか列挙すると、
・ 内供の内心はよく語っているので、とてもよくわかる。だが、「内供は明が欠けている」と書きながら、具体的な内容は説明していない。
・ 周囲の内心について――特に鼻が短くなった内供をなぜ笑ったのか――説明してくれない。それは深い意味のない笑いであった可能性を探ろうとしない。
・ 治療をした弟子の内心について「内供のこの策略がわからない筈はない」 と書きながら、なぜ策略だとわかったのか、説明してくれない。
・ 内供の鼻もたげに失敗した中童子の内心は解説されることなく、突然むく犬を追い回す場面が描写不足で描かれる。
・ 語り手が突然顔を出して「傍観者の利己主義」などと説明不足の理屈を、自信に満ちて断言している。利己主義が持つ裏の感情を説明してくれなければ、到底理解できるとは思えない。
・ 鼻を短くした内供が豹変した理由について「傍観者の利己主義」で終わりにして「そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける」と、たった一行しか書かない。
・ 内供が感じた「自分は悪くない、周囲の人間が先に敵意を示したんだ」との思いをそのまま採用している。要するに、この語り手は内供の側に立って物語を語っている

 このように、『鼻』は語り手を頻繁に登場させ、語り手に解説させたり内供を批判させたりしています。だが、それはときに説明不足であったり、内供に肩入れしてとても客観的とは言い難い。神として全てお見通しの語り手とは思えないのです。以前書いたように「あなたこそ明が欠けているのでは?」と言いたくなります。

 たとえば、『鼻』を戯曲化して上演するとしましょう。舞台上では内供や周囲の僧俗が登場していろいろな会話が交わされる。そのとき舞台の下手には「内供の内心を語る」黒子姿の人がいる。
 彼はその都度内供の内心を解説してくれます。「このように、内供は周囲の心ない言葉によって自尊心を傷つけられています」とか、「内供は内心を明かしたくないあまり、弟子に策を弄しました。さすがに弟子だって見抜いて反感を覚えます。が、ここは同情が勝ちました」などと。

 さらに、長い鼻を踏んづける治療が終わった後、中童子や下法師などが吹きだし笑いをして内供が小首を傾げたところでは、とうとう黒子のかぶり物を投げ捨て怒りの形相露わに、
「内供はようやく鼻を短くすることができました。ところが、周囲の僧俗は誰も『鼻が短くなって良かったですね』と言ってくれません。むしろつけつけとあからさまに笑っています。ひどい連中です。内供は普通の人間になったのに、それでも笑うとは。彼らが嘲笑する理由は意地悪な心からです。内供が不幸を克服したので、もう一度その不幸に陥れてやろうと考えているのです」と言います。

 この黒子は自分が全てお見通しの神であるかのように語っています。そして、確かに彼が脚本を書いたのでしょう。
 もしもこの話が実話で取材に基づいて脚本化されたとします。黒子の御仁は内供にはとてもよく話を聞いた。治療をした弟子にもいろいろ尋ね、彼は快く答えてくれた。「内供様の策略ですか? もちろんわかっていましたよ」などと。
 だが、中童子は取材し損ねた。あるいは、会えたけれど、「どうしてそんなことをしたかって? 理由なんかありませんよ」とそっけなく言われた(だから理由を書けなかった)。下法師や侍などは取材活動に疲れたのか、いちいち尋ねる事もせず、内供から聞いた彼らの様子を、ただそのまま書いた。つまり、彼が書き上げた脚本は地道で丁寧な取材に基づいて書かれていない――そう言わざるを得ません。

 私は教員時代文芸部の顧問を務めたことがあります。もしも生徒が『鼻』を提出してきたら、「面白い作品だが、以上のように欠点もある。伏線を含めて説明不足の所をもっと書き直しなさい」と指導するでしょう。

 以前本作を前後半に分けました。内供が鼻を短くするところまでは前半、それ以降は後半。すると字数は前半が四分の三、後半が四分の一となってバランスが悪い。後半はかなり説明・描写不足が感じられる。この点も「後半をもっと増やした方がいい」とアドバイスするでしょう。『鼻』は雑誌『新思潮』に掲載されました。字数制限があったと思われ、それが説明不足を招いた可能性があります。

 であるなら、『鼻』とは若干二十歳前後の作家の卵が書いた稚拙な習作か――と言えば、そうとは思えません。芥川龍之介は敢えて取材不足、考察・構想、描写不足の「黒子作家」を想定して、彼にこの作品を書かせたのです。
 言い換えれば、そのような作家なら「こういう作品ができあがるだろう」との意図をもって『鼻』を書き上げたのではないか、私にはそう思われます。

 『鼻』が完成作品であると考える根拠は次の三点です。
 一つ目は『鼻』と同時期に書かれたであろう『羅生門』にはこのような欠陥らしき点が全く見られないこと。もしも文芸部員が『羅生門』を提出したら、私は「何も言うことはない。どこかの短編文学賞に応募してごらん」と言うでしょう。
 二つ目は夏目漱石が『鼻』を絶賛したことです。英文学を研究し、『文学論』まで書いた漱石が、内供とそれを語る黒子構造に気付かなかったとは思えません。漱石は欠陥のように見えるところも、「わざと書いたな」と見抜いたはずです。
 最後にデビュー後短編小説の旗手として功なり名を遂げた芥川龍之介が『鼻』を全く書き直さなかったことです。つまり、芥川にとって『鼻』は完成形なのです。

 ならば、一見欠陥のように見えるところも意図してそのように書いたと理解すべきでしょう。作者芥川龍之介は語り手の向こうにいる。敢えて説明不足の黒子を登場させることで、世の作家に対して「安易な取材と偏った構想に基づいて小説を書いていませんか。この黒子のように明の欠けた小説家ではありませんか」と揶揄した――私にはそのように思えます。

 あるいは、黒子が語る言葉を作者だと思って賛同したり、批判する批評家に対しても、「おやおや。あなた方は漱石を読んでいるのですか」と皮肉っぽい笑みを浮かべたかもしれません。

 芥川龍之介は『鼻』の黒子構造を終生語らなかったようです。そのわけは「智に働けば角が立つ」と考えたせいかもしれません。「わからないようならそれでいい」と。
 以前私は『鼻』は読者への挑戦であると書きました。ここでも「この黒子構造、読者諸君は見抜きましたか?」と草葉の陰からつぶやいているような気がします。

 最後に作者芥川龍之介が書かなくても通る「傍観者の利己主義」をどうして明示したのか。もう一つの理由を披露したいと思います。

 以前「傍観者の利己主義を最も発揮している人は主人公禅智内供であり、作者はそのことを気付いていない内供に教えている」と書きました。作品について「周囲は傍観者であり、内供もまた鼻にしか関心のない傍観者であった」との解釈を導き出してみると、「小説『鼻』は傍観者を、傍観者が裏の利己主義者となって敵対する関係を描いている」とまとめられます。

 だが、読者は果たしてこの物語から「傍観者」の言葉を思い浮かべるであろうか。さらに《傍観者が利己主義者に変貌する物語である》と気付いてくれるだろうか――芥川龍之介はそのような不安にとらわれたのではないでしょうか。
 ゆえに、「傍観者の利己主義」をどこかに入れたかった、どうしても明示したかったと推理できます。

 この見解は芥川龍之介の実質的処女作である『羅生門』と、文壇デビュー作とも言える『鼻』をセットとして考えることで、よりわかりやすくなります。
 私は傍観者と利己主義者に関して生徒に次のように説明しました。
「漱石が言う『普段はみんな善人であり、少なくとも普通の人間なんだ』との言葉を借りるなら、人はあるとき傍観者になり、あるとき利己主義者になる。ずっと一貫して傍観者とか、利己主義者という人は少ないのではないだろうか」と。

 そのとき「真の傍観者に対して真の利己主義者についても考えてみよう」と言って次のような質問をしています。
「多くの人はときどき利己主義者になる。だが、世の中にはこれから利己主義者として生きるぞ、と決意して実行する人間もいる。それはどのような人だ?」と。
 補足して「自分が最大限の利益を受けたいと思い、自分の欲求、快楽のためには人を傷つけても、犠牲にしても構わない。自分が生き残るためには何でもやる。そう決意して実行する人たちだ」と説明すれば、「泥棒とか詐欺師、強盗ですか」との答えが返ってきます。
 そう、それこそ『羅生門』において盗人になることを決意する「下人」です。

 下人だけでなく、死人の髪の毛を抜きカツラとして売ろうとする老婆も利己主義の理屈を語ります。死体の女はヘビを干し魚だと偽って売っていた。だが、女も自分も「せねば、飢え死にをするじゃて、仕方がなくすることじゃ」と言います。法や人道に背こうが、生きるためには何をやってもいいんだと。

 このように考えれば、芥川龍之介は『羅生門』において「普通の人間が悪人になる経緯、真の利己主義者」を描いたことがわかります。
 対して『鼻』は傍観者を描いた。他人の鼻にしか関心のない傍観者禅智内供、周囲の僧俗もまた内供の内心を問うことのない、自分の内心を明かすことのない傍観者たちであった。
 二者は内供が鼻を短くするという異変をきっかとけして、内供は利己主義の裏の感情にとらわれ周囲を敵視し、周囲もまた内供の豹変に合わせてやはり利己主義の裏の感情から、陰口と敵対行動を取るようになった。

 要するに、『鼻』という作品は高僧禅智内供や周囲の僧俗という傍観者たちが描かれ、傍観者が「自分だけひどい目にあうのは許せない」という裏の利己主義を感じて敵意や反感を表面化させた物語であると言うことができます。
 私は以前「傍観者の利己主義はなくてもいいのではないか」と書きました。だが、これは作品全体を最も短くまとめた言葉なのです。

 作品の「テーマ(主題)」という言葉は嫌いですが、敢えて二作品のテーマを短く書くなら、
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 『羅生門』と『鼻』のテーマ

 『羅生門』……利己主義の物語(生きるためには他人を犠牲にしても構わない)
 『鼻』…………傍観者の物語(臆病な傍観者が裏の利己主義にとらわれて敵対する)
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 二作品をこうまとめれば、『羅生門』とは普通の人間が利己主義者に変わることを、『鼻』は傍観者(の利己主義)を描いた。よって、『鼻』に突如登場した「傍観者の利己主義」が意識している対照は作品内にはなく、『羅生門』の「利己主義」であることがわかります。

 読者・批評家は作品のテーマを短くまとめることが好きです。『羅生門』に「利己主義」の言葉は一切出ていない。だが、読めば「これはエゴイズムであり、利己主義の物語である」とわかります。
 しかし、『鼻』はどうでしょう。多くの読者批評家が「これは周囲の心ない言葉や態度によって自尊心が傷つけられる物語である」とか、「内供の長い鼻とは劣等感・コンプレックスの象徴であり、人の不幸は蜜の味という人間の意地悪な一面が書かれた物語である」などとまとめるのではないか。

 読者は果たして「内供と周囲の僧俗という傍観者たちが描かれ、彼らが裏の利己主義を感じて敵意を露わにする物語である」と読みとってくれるだろうか。
 芥川龍之介はそう自問し、「わからないかもしれない」と思って《傍観者の利己主義》を書き込んだ――と思われます。
 であるなら、明の欠けた黒子作家に書かせた『鼻』の中で、「傍観者の利己主義」だけは本当の作者芥川龍之介が顔を見せたと言えそうです。

 最後にもう一つ。二作品にまたがる伏線という試みについて。

 『鼻』には作者らしき語り手がどんどん登場します。『羅生門』にも一箇所だけ、冒頭を訂正したいとして作者が顔を見せます。
 『羅生門』の冒頭は「或る日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた」とあります。そして、数十行の情景描写の後、「作者はさっき、『下人が雨やみを待っていた』と書いた」が、厳密には「『雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた』と云う方が、適当である」として作者が出てくるのです。

 これ別にわざわざ書かなくとも、後者の表現を採用して書き直し、完成形とすればいいだけの話です。この後結末まで再び作者が顔を見せることはありません。『羅生門』は純然たる客観小説として書かれています。すなわち、『羅生門』の語り手イコール作者です。

 では、なぜ『羅生門』で一箇所だけ作者を登場させたのか。
 私はこれこそ次作『鼻』を意識した伏線ではないかと思います。『羅生門』と『鼻』を一連の作品として、この順に読んでもらうとき、『鼻』にはどんどん語り手を登場させている。その伏線として『羅生門』にも作者を登場させた、と思えるのです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:『鼻』の解釈に思わぬ考察と時間が取られてしまいました。しかし、必要な滞留だったと思います。通奏低音はあくまで「一読法はなぜ通読をやめようというのか」にあります。
 いかがでしょう。まとめることができますか。これが正真正銘、本稿最後の宿題です。
 使うべき言葉は「刑事・探偵・未来・傍観者」などです。試みてください。
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