カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 29号

実践編U 11「三読法の《通読》が日本人を《傍観者》にした」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 29号

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           原則週1 配信 2019年12月13日(金)



 ようやく実践編Uのまとめです。今まで保留してきた「一読法はなぜ通読をしないのか」の結論でもあります。
 この人生を歩むにあたって、事件が起こってから検証する刑事になるか、事件を防ぐ探偵を目指すか。
 あるいは、事態をぼーっと眺め人に従う傍観者となるか、自ら考え主体的に生きる人間を目指すか。
 その訓練は学校で行われる。根底は国語です。しかし、国語で通読後の精読授業をやっている限り、人生を歩む訓練にはなりません。
 敢えて過激な言葉を書きます。
 国語三読法における通読とは子どもたちを、大人を傍観者にする悪行以外の何ものでもない。通読は百害あって一利なし。直ちにやめるべきだ。
 ――これが私の結論です。

 [以下今号][小見出し]
 11 三読法の《通読》が日本人を《傍観者》にした
 [ 1 ] 未来を予想できない日本人
 [ 2 ] 通読は人を傍観者にする
 [ 3 ] なぜ小説を、文字で読むのか
 [ 4 ] 人はそもそも傍観者

  [以下次号]
 12 「一読法独立宣言」


 本号の難読漢字
・改竄(かいざん)・莫大(ばくだい)・千丈(せんじょう)・堤(つつみ)・帰結(きけつ)・先達(せんだつ)・忖度(そんたく)・合戦(かっせん)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』実践編U

 11 三読法の《通読》が日本人を《傍観者》にした

[ 1 ] 未来を予想できない日本人

 これまで長々と『鼻』の解釈、一読法実践報告を書いてきました。
 本稿の趣旨は「一読法」を解説し、三読法より優れていると主張することにあります。
 当初は国語の実践報告として軽い気持ちで取り上げた『鼻』でした。ところが、思いもかけず、至る所に一読法の優秀さを補強する観点がいくつもあることに気がつきました。
 意外な収穫は「途中で立ち止まってあれこれ考え、未来を予想する一読法が明(めい)のある生き方と重なっている」ことでした。

 三読法と一読法最大の違いは「通読」にあります。「まず全体を把握するため、最後までさあっと読もう。それからもう一度読み直しながら、細部を精読しよう」というのが三読法。対して一読法は「通読をやめ、最初から立ち止まりつつ、少しずつ精読しよう」という読み方です。
 また、同じ「精読」と呼びながら、両者の精読には大きな違いがあります。
 一読法の精読には未来予想が入ります。しかし、三読法は通読によって結末・結論を知ってしまうので、途中で「この後どうなるだろう、結論は何か」と予想することがありません。

 どうでしょう。『鼻』の実践報告を経て一読法がなぜ通読をやめようと言うのか、まとめることができたでしょうか。
 ポイントとなる言葉を列挙するなら、刑事となるか探偵を目指すか。臆病な傍観者となるか、時空を決定する明のある人間を目指すか。
 通読をやっている限り探偵にはなれない、臆病な傍観者として生きるしかない――と私は断言します。

 その前に近年とみに聞かれるようになったニュースと、しょっちゅう出てくるある言葉を紹介しておきます。
 たとえば、何か事件・事故・不祥事が起きる。メーカーの不正、建設会社の不正、データの改竄。会社員、公務員個人の横領・着服。学校における体罰、いじめ。子どもが親に虐待されて死ぬ、働き過ぎによる過労死。法律の不備……。
 そのたびに聞こえてくる言葉は「想定外」、「検証」、「第三者委員会」、「もう一度考え直す」などなど。一体何度聞くことでしょう。読者の中には「どうしてその事態を想定できない、なぜ予想しなかったんだ」とつぶやかれた人がいるかもしれません。

 もちろん事件事故が起こった後で、不備な点、考えが足りなかった点を検証するのは必要なことです。だが、そのときすでに事態は終わっている。かけがえのない命が失われ、莫大なお金と人員が不正や欠陥の修復に必要とされる。十年誰も何も言わないまま、うそが発覚して会社が傾き、つぶれることだってある。その事態が起こることを予想していれば、事件や事故、不祥事は起こらなかったのではないか、と思える。

 なぜ日本人は《未来を予想して物事を決めることが苦手なのか》――と問えば、本稿読者は直ちに答えることができたと思います。
 日本人は子ども時代に未来を予想する訓練を積んでいないのです。小学校六年間、中高の六年間、国語の授業で学んだことは「事件・事故が終わってから物事を振り返る」訓練ばかりです。それこそ三読法であり、通読後の精読作業なのです。

 以前「三読法とは人生を□□□□□(ほにゃらら)地点から眺める読み方であり、一読法とは未来は何が起こるか□□□□□(ほにゃらら)という地点での読み方である」と問題を出しました。
 三読法とは人生を過ぎ去った地点から眺める読み方であり、一読法とは未来は何が起こるかわからない地点での読み方です。

 三読法における通読後の精読を人生や世の中にたとえるなら、事件事故が起こってから「なぜこれは起こったか」と考える検証作業です。
 ものごとには全て何らかの前兆、サインがあり、そこから途中段階があり、結末に至ります。これを起承転結と言い、「千丈の堤も蟻の一穴から」と言われます。どんなに頑丈に見える堤防でも、破堤は小さな蟻の一穴から始まる。ことわざは「それを見落とさないように」と教えています。そのためには蟻の一穴を見たとき、未来を予想しなければなりません。

 我々は学校でいろいろなことを学びます。国社数理英の五教科、体育・音楽・美術・家庭・技術等々。全て社会に出て活動するための知識・知恵であり訓練と言って良いでしょう。何度も書いているように、子ども時代に逆上がりができなければ、大人になってもできません。自転車に乗ったり、泳ぐこともそうです。

 なぜ大人は事件事故が発生した後でなければ考えることができないのか。
 未来に起こるかもしれないことを予想していろいろ考えることが苦手なのか。

 答えは単純です。学校でその訓練をしていないからです。全教科の基本となる国語、さらにその根底をなす読みという活動において、未来を予想する訓練をしていないのです。子ども時代にやっている読書法が通読後の精読である限り、事件事故が終わった後で「検証しよう」という大人しか生み出されないのは当然の帰結です。

 通読後の精読とは事件が起こってから動き始める刑事です。刑事は事件を止める事ができません。犯人を捕まえ、事情聴取して事件の経緯、犯行の動機を問いつめる。
 もちろんそれは必要です。だが、事件はすでに終わっている。終わったところで過去を振り返り、検証する――すなわち、結末まで読み終えてから中身を精読する三読法。刑事はそれを実践しています。

 一方、探偵は事件を防ごうとする。事件はまだ発生していない。始まる前の地点に立ってあれこれ考え、推理し、いろいろな可能性を考えつつ探偵活動を実践する――これこそ最初から精読する一読法です。
 探偵は事態を細かく観察する。関係者の話をぼーっと聞く事はない。時には目の前にいる人が犯人のこともある。だから、一言一句漏れのないよう聞き取り、あれこれ考える。そして、未来を予想する(犯人を推理する)。

 この訓練を積んでいれば、大人になってからも前兆と蟻の穴の一穴に気付くでしょう。「何かへんだ。何か起こるかもしれないぞ」とつぶやける。
 一読法は「起」で立ち止まり、「承」で立ち止まり、「転」でも立ち止まって「結」を予想します。
 だが、三読法の通読は途中でつぶやくことがありません。立ち止まることなく、ぼーっと事態を眺め、気付いたときにはすでに終わっているのです。

 以下の例は現にわが子の事で苦しんでいる親御さんには辛い言葉かもしれません。
 たとえば、中学生の息子が不登校になり、部屋に閉じこもった。ときどき壁を殴る音が聞こえる。行ってみれば、壁に穴が空いている。これが「起」です。次には母親に対して怒鳴ったり暴力をふるうようになった。これが「承」です。
 こうした事態に対して「息子がこうなったのはわけがある。仕方がない」と我慢して許せば、「転」となり「結」がやって来ます。

 父親は「起」の段階で乗り出さねばなりません。「承」のときは警察を呼んで「家族であっても暴力行為はいけない」とやめさせねばなりません。
 家族の不祥事を外部に明かす事は恥ずかしい、身内だけで解決しようと思ったとき、事態はさらに悪化し、悲惨な結末を迎えるかもしれない……その未来を予想して「起」の段階から取り組む必要があると思います。

 ここで未来を予想すると言えば、読者は「我々に未来の事などわからないではないか」とおっしゃるかもしれません。だから「事件事故が起こってから動くことしかできない」と言うのでしょうか。
 別に百ヶの未来を予想しようというわけではありません。せいぜい三つくらいだと以前書きました。楽観的未来か悲観的未来、どちらでもない未来。ある意見に対して賛成か反対か、どちらでもないか。

 最低でも反対意見を思い浮かべること。自分はこれが正しいと思って喋っている、行動している。だが、「それは行き過ぎです。やりすぎですよ」と言う人がいるかもしれない。そう自問自答するだけでも未来予想になります。

 息子が不登校になったからと言って悲観的未来ばかり考えると、気持ちは暗くなるばかりです。そのようなときこそ楽観的未来を予想する。どちらでもない未来を予想する。学校に行かない=家に閉じこもる、ではない。「学校に行きたくないならどこに行こうか」と考え話し合えば、また違う世界が開けるはずです。

 今は学校以外に学びの場が用意されています。過疎の地や離島で国内留学もできます。あるいは、お金さえあるなら、いっそ一人で貧しい国を旅してもらう選択肢だってあり得るかもしれません。
 親戚で農業漁業林業に携わっている人がいたら、数ヶ月預かってもらって親戚の仕事を手伝うという提案も可能です。一年部屋に閉じこもるも良し、どこか学校以外のところに行くも良し――そのような気持ちは多くの未来予想ができることで生み出される、と私は思います。

 確かに未来は何が起こるかわかりません。目の前は真っ暗闇です。だが、だからこそ手探りで歩む。夜のジャングル、真っ暗な洞窟を、明かりなしで歩かねばならないとき、走る人がいるだろうか。松明を持ってさえもゆっくり歩く。
 百メートの断崖絶壁にある小道を駆け足で行く人はいません。それは「走ったら落ちて死ぬ」という未来を予想しているから。ゆっくり進めば乗り越える事ができるという未来を予想しているからです。

 一歩一歩危険がないか、この道なき道は正しい方に向かっているか、途中で立ち止まり、考えつつ歩く。我々は他人の人生を歩むのではない。自分の人生、この先何が起こるかわからない人生を歩みます。
 ちょっと大げさながら、断崖の小道を走ったら足をすべらした。虚空を落下しつつ「しまった。走らなきゃ良かった」と後悔する。これが通読後の精読です。
 未来は何が起こるかわからないからこそ、ゆっくり手探りで歩む。それが一読法です。

 そのとき灯火となるのが先達の言葉や体験。「これまでこんな苦しい事がありました。でも、今はそれも一つの体験として受け入れています」という言葉を読んだり、聞いたりしたとき、大切な事は苦しかった途中で何を考え、どう生きたか。それが真っ暗闇の人生を照らしてくれる明かりとなるのです。


[ 2 ] 通読は人を傍観者にする

 三読法最大の欠陥。それは通読が「傍観者」を生み出すことです。

 敢えて書きます。国語授業を通読から始め、結末まで読んでしまう活動とは事態を傍観する訓練を、せっせせっせと積んでいることであると。
 「起」で立ち止まらず、「承」で立ち止まらず、「転」でも立ち止まらなければ「結」がやって来ます。「起承転結」をただ眺めるだけの活動が通読であり、それこそ傍観者の視線です。

 では、傍観しない生き方とは何でしょう。『鼻』の実践報告で書いたように、我々は遠くの傍観者である限り、気付いて行動を起こす事はとても難しい。
 近くの傍観者、すなわち親であれば、子ども。子どもであれば、親、学校の先生、クラスの仲間、部活動の仲間、親しい友人。近くの人を注意深く見つめ、普段と違う行動に気付いたとき「あれっ?」と思う。「何か妙だぞ」とつぶやく。その思いやつぶやきを口にする。
 そして「何かあったの?」と問い、「大丈夫?」と声をかける――これが身近の人に対して傍観しない生き方です。そして、この訓練を行っているのが一読法授業です。

 だが、三読法の通読はつぶやきません。内心つぶやいたとしても、先生が立ち止まることを許してくれません。学校を離れたら立ち止まってつぶやきながら読んでもいいのに、やはり通読します。国語授業で通読の読み方しか習っていないからです。そして、一人になると、もはや(二度読みとなる)精読もしないから検証活動もなされません。

 三読法の通読活動は人生において実践されます。「あれっ、何かおかしい。変だぞ」とつぶやかない、立ち止まらない人生を歩ませます。すなわち周囲を傍観し、自分自身さえ傍観する大量の日本人を生み出している――そう言わざるを得ません。

 社会に出た若者が希望に満ちて働き始めれば、「あれっ、妙だ」「何かおかしい」と思うことが次から次に襲ってきます。パワハラ、セクハラ、加重労働、長時間残業、組織ぐるみの不正、奇妙な忖度……しかし、それが普通であり、先輩達は誰も何も言わずそれに従っている。
 新入社員はつぶやきを心に閉じこめ、何か一つの結末――誰かが死ぬか、うそが暴露されるか、破綻するか――を迎えるまで、ただ眺めて生きることしかできません。

 そのような人間になったのは彼もしくは彼女の資質でしょうか、彼らの責任でしょうか。
 違います。彼らはずっと傍観する訓練をしてきた。だから、傍観する人間になったのです。彼らは人生を泳ぐ練習をしてこなかった。だから、溺れているのです。

 通読は傍観の訓練である。ゆえに悪行であると断定する私は間違っていますか。大げさだと思いますか。
 そう感じるなら、もう一度本稿実践編を最初から読み直してください。きっと大げさではないとわかってもらえるはずです。

 国語の授業だけをやり玉にあげているように思われるかもしれません。他の教科だって同じことです。通読後の解説、項目暗記、解法暗記の講義型授業をやっている限り、それは三読法であり、傍観者養成授業です。特に社会・歴史においてそれを感じます。

 たとえば日本の戦国時代、江戸時代を学ぶ。授業のほとんどは入試に合格するための項目暗記主義。「そんな小さな事を覚えてどうするのか、すぐに忘れるだろうに」と感じるしかない些末主義。結果、どの時代を勉強しても傍観者として歴史を眺めているだけの児童・生徒ができあがる。

 では、傍観ではない学び方とはどのような授業でしょう。それは「もしも自分がその時代に生きていたら」と考えることです。
 もしも自分が戦国時代の足軽だったら、普段は百姓として働き、妻子を養っている夫、もしくはその妻。それがある日突然足軽として戦場にかり出される。そのときどう思うか。家で夫を待つ妻なら、どう感じるか。
 あるいは、もしも自分が一国の城主だったらどうか。渇水で稲が育たず、民が飢えるとわかったとき、隣の国を攻撃して川を奪うか。
 逆に隣国が攻めてきたら戦うか。戦わずして属国になるか。日本を二分する合戦でどちらにつくか。

 また、江戸時代のキリシタン弾圧を勉強するなら、「もしも自分がキリシタンだったらどう感じ、どう行動するか。踏み絵を踏むか、踏まないか」考える。決断したことをノートに書く。

 逆に幕府側の人間になることも想像できます。
 自分が幕府老中ならキリスト教を認めるか、禁止するか。同時代の世界史を調べてみる。列強の攻撃を受け植民地化する後進国がある。キリスト教に改宗した民が列強の先兵となっていることもある。
 それを知ってなおキリスト教を容認するか、禁止して鎖国の道を選ぶか。自分が老中になったらと考えれば、いろいろ調べるし、本気で考えます。

 あるいは、命令を受けて宣教師やキリシタンを捕らえ、火あぶりにする決定を下す地方長官、さらにその下で働く武士や刑場の係。全て「自分だったらどうするか」と考えることができます。
 それをノートに書き、授業で発表する。みんなで討論する――そのような勉強と歴史授業こそ、傍観者ではない子どもたちを生み出すでしょう。

 そして、私なら、この授業の後明治時代に飛びます。維新政府は神道を国教とするため仏教を弾圧します。そのときキリスト教は容認します。それはなぜか。
 また、日清日露戦争で出征する兵士、家で待つ妻の気持ちも想像します。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」は大いに参考となるでしょう。さらに、日中、日米戦争ともつながります。

 授業はこれで終わりではありません。現代に戻ってある国会議員の言葉を取り上げます。
 彼は「隣の国が実行支配する我が国の領土を戦争によって取り戻そう」と主張しました。それについてどう思うか、考え議論します。戦国時代や明治以降の戦争について「自分ならどうか」と考えた事がきっと活きるはずです。
 このように「自分がその時代に生まれていたらどうだろう」と考える授業こそ、傍観ではない歴史の学び方、現代につながる学習だと思います。

 歴史に限らず、全ての教科で「なぜそうなるのか」――それを考えさせない授業とは、全て傍観者を生みだしている、と私は考えています。つまり、習った内容を暗記させるだけの授業、それを確認するためのテストは忘れたらそれっきり、何の身にもなっていないと思います。

 たとえば、数学、図形の問題。難問もどこかに補助線を引くと、いとも簡単に解ける事がある。そのとき「どうしてそこに補助線を引けば解けるのか」を考えることが傍観しない数学の学び方です。台形の面積公式「カッコ(ジョーテイ+カテイ)カッコ閉じる×高さ÷2」は忘れたらそれで終わり。
 しかし、この公式を一読法で読めば、「なぜ上にあるのに上底なの?」という疑問が生まれます。その問いを自ら発し、考えることが大切です。
 答えを知れば、「台形に補助線を引けば二つの三角形になる。だから、面積は二つの三角形を合計すればいいんだ」と理解できます。上にある三角形の底辺だから「上底」なのかと納得できます。

 このような授業なら、公式を丸暗記する必要はありません。そして、この授業によって補助線の意味も学ぶことができます。
 解法暗記主義は「そこに補助線を引けば問題が解けるから、それを覚えろ」と言って終わりにします。解法暗記は問うことのない、立ち止まって考えることのない通読授業です。これが応用問題に弱いのは自明の理でしょう。


[ 3 ] なぜ小説を、文字で読むのか

 なぜ小中高の国語で小説を読むのでしょう。世の中には「学校で小説なんぞ読む必要はない。論説文を読めば充分だ。もっとディベートやスピーチの練習をするべきだ」と考えている人がいらっしゃるようです。

 そのような人は小説の要約を読んで、「あの小説はこんな内容だった」と語っていることでしょう。何事も優秀だから、長と名の付く立場になれば、おそらくパワハラを発揮していることでしょう。異性と恋愛関係になり、破綻したときはストーカーになり、「あいつだけは許せない」と思ったときは包丁を握っていることでしょう。

 なぜなら、小説を読まない彼(もしくは彼女)は人間の感情を学んでいないからです。自分の言葉や態度が相手を傷つけているかもしれないと振り返る生き方。それは論説文を読んでも学べません。論説文に書かれているのは理屈であり、抽象の世界です。そこに感情は描かれていません。「人はうそをつく生き物である」との言葉は理屈であり抽象。対して「人はうそをつくことがあれば、うそをつかないこともある」――これが具体的な世界。

 夏目漱石は言いました。悪人という型にはめたような人間がいるのではない。普段は善人なんだ。普通の人なんだと。これが具体的世界の真実です。
 また、芥川龍之介は言いました。我々は普段傍観者として生きている。だが、ときどき自分さえ良ければいいという利己主義者となり、自分だけひどい目にあうのは許せないという裏の利己主義者になると。
 我々はいつでもどこでも具体的な世界で生きています。具体的な世界は必ず感情が伴っている。感情がどうわき起こり、どう動くか。それを具体的に描いているのが小説です。

 小説を読まない人、読めない人は自分の言葉や態度を振り返ることはない。相手がどう感じているか想像できない人たちです。だから、パワハラ、セクハラを起こす、ストーカーになる、と私は推理しています。
 なおかつ「読めない人」と書いたところも注意してください。小説を何百、何千読んでもさあっと目を通すだけの通読だったら、読まないのと同じでしょう。

 通読の癖は立ち止まらない大人を生み出します。特に優秀でそれゆえ「長」と名の付く立場に立った人を、通読人間にします。部下を叱りつけ、「俺たちの頃は残業ばかりだった」と言って立ち止まることがありません。自分の言っている事、やっている事が「パワハラかもしれない、セクハラかもしれない」と立ち止まって振り返ることがありません。
 人の子の親となって躾のために子どもを殴って言う事を聞かせる。そのとき「これは正しくないかもしれない」と振り返ることがありません。これまで途中で立ち止まって考えることを学んでいない、その習慣を身につけていないからです。

 あるいは、パワハラ、セクハラでやがて告発される人も、子どもを虐待する親も「通読」の犠牲者かもしれません。もしも自分の言動を立ち止まって振り返る習慣が身についていれば――そして、近くの人に「どうだろう」と尋ねて反省することができれば、彼らのパワハラ、セクハラ、虐待はなかったのではないか、と思います。

 さて、ここの小見出しは「なぜ小説を読むのか」ではなく、「なぜ小説を、文字で読むのか」となっていました。
 それを読んだとき立ち止まったでしょうか。「なぜわざわざ《文字で》と断っているのだろう?」とつぶやいたでしょうか。そして、筆者は何を言いたいのか考え、先を予想されたでしょうか。
 ところが、書き出しは「なぜ小中高の国語で小説を読むのでしょう」とあって《文字で》が消えています。なおさら、表題の「文字で」が目立ったはずです。
 このように「あれっ?」とつぶやき、立ち止まってしばし考えるのが一読法です。
 これが実践できなかった人は「まだまだ一読法が身についていない、ぼーっと通読している」と言わざるを得ません。

 その後考える流れは以下の通りです。
 なぜ小説を文字で読むのか? →本は普通文字で書かれている →では、反対に文字で書かれていない小説とは何だ? →テレビドラマとか映画、アニメなど画像は文字ではない →筆者はそのことについて何を言おうとするのだろうか? →CMがなければ、映画やアニメは一時間、二時間ぶっつけで見続ける →それって「立ち止まらない通読と同じだ」と言いたいのではないか →テレビドラマや映画、アニメを見る事は三読法の通読であって、一読法ではないと言いたいのか……。

 読者各位はここまでたどりつけたでしょうか。これもまた訓練です。
 この表題は「文字で書かれた小説と、それを原作とした映画やアニメとの違いを一読法、三読法の関係とともに説明しなさい」という問題の答えを考えることです。

 テレビドラマ、映画、アニメによって「人の感情」を学べそうに思えます。
 ここでも「めんどくさい文字面を追っかける本など読まなくてもいい」と感じます。
 だが、テレビ、映画、アニメは途中で立ち止まって「自分ならどうか」と考える事はありません。時間の経過と共に場面はどんどん変わります。事件が起こり、途中があって結末に至る――起承転結をただ眺めているだけです。途中で感動することはあっても、立ち止まることができません。つまり通読です。

 文字で書かれた小説なら、立ち止まることができる。自分が感動したところ、あれっと思ったところ、なぜだろうとつぶやいたところで立ち止まれる。だからこそ文字で書かれた小説を読む必要があるのです。
 大切なことは途中です。結末まで通読して、一、二時間の画像を眺めて「ああ、良かった」、「つまらなかった」とつぶやくことではありません。


[ 4 ] 人はそもそも傍観者

 さて、ここまでは「傍観することは良くない」との趣旨で書いてきました。
 ここからは「そもそも我々は傍観する生き物ではないか」と正反対のことを書きます。すなわち、傍観を肯定するということです。いや、肯定せざるを得ないと言った方が正確でしょう。

 なぜ傍観を肯定するのか。理由は二つ。
 私たちは人の人生を歩んでいるのではない。自分の人生を歩んでいる。平たく言えば、自分の人生を歩むのに精一杯の時、私たちは人のことを気にしている余裕はない。

 もう一つ。私たちが遠くの傍観者である限り、起承転結の「結」までいかないと気づかない。それはレストランで料理が遅いと怒り出したクレーマーの例で説明しました。近くの傍観者となったときやっと気づく……ことがあれば、近くの傍観者になっても、やっぱり気づかないことがある。
 要するに、自分の周囲に百人の人がいたとしても、気づいてくれるのはたった一人かもしれない。ということは百人中九十九人は傍観者である可能性が高い。

 これを逆に言うと、何かへんだと思ったり、「自分はいじめられているのではないか」と感じても、声を出さなければ、周囲の傍観者は気づいてくれない――そう言わざるを得ません。
 芥川龍之介の「鼻」には象徴的な場面がありました。鼻もたげに失敗した中童子が使われなくなったその板を持ってむく犬を追い回し、「鼻を打たれないにしろよ」と言っていた場面です。

 私はその行為は境内の隅っこの方で始まっただろう。そのうち広いところに出てきて、むく犬がけたたましく鳴き始め、それが内供の耳に入った。そのとき他の僧俗も「何事だ?」と思って外に出てきたであろうと想像をふくらませました。
 このエピソードは内供が「中童子の手からその木の片(きれ)をひったくって、したたかその顔を打った」――つまり内供の暴力行為に着目して解釈されます。
 現代にたとえるなら、これは寺の長である内供のパワハラ行為、私怨を晴らす暴力と言えるでしょう。中童子はむく犬を内供と見なして叩いたり、追い回しており、内供はそれがすぐにわかった。だから「許せない」と思って殴ったと……。

 だが、見方を変えると、ここには中童子のいじめ、弱い動物への虐待という側面があり、内供の行為はそれを止めたことになります。
 むく犬の内心を想像するなら、中童子を殴ってその行為をやめさせた内供はとてもありがたい人だと感じたでしょう。その場にいた他の僧俗は誰も中童子に「やめろ」と言ってくれなかった、むく犬は「自分を助けてくれたのは内供さんだけだ」と感じたに違いありません。

 このように、むく犬がけたたましく鳴き声をあげないと、誰も気づかないように、いじめられている当人が声をあげないと、どんなに身近にいる人でも気づかないことがある。私たちは普段そこまで人のことを注意深く観察しているわけではない――つまり傍観していることが多い。

 さらに、辛い現実も書かねばなりません。
 たとえば、「学校でいじめられている」とか「もう自殺したい」と誰かに打ち明けたとします。その告白を聞いた近くの人は悩みを聞き、いろいろアドバイスを語ってくれるでしょう。話し合いは徹夜になるかもしれません。そして、何らかの行動を取ってくれることもある。

 しかし、いじめられている本人が「また学校に行く」と言った場合、相談を受けた人が教室まで行って監視することはないでしょう。あるいは、「もう自殺したい」と打ち明けた人と、その後四六時中一緒にいるわけではありません。聞いてくれた人にもその人の生活があります。
 本節の途中で「我々は他人の人生を歩むのではない。自分の人生、この先何が起こるかわからない人生を歩む」と書いたのは、ある意味やむを得ざる現実を述べています。

 しかし、だからと言って「人の事などどうでもいい。世の中がどうなろうと自分には関係ない」という真性傍観者として生きるか――そう自問してみるなら、これもまたあまりに殺伐とした、荒涼とした砂漠のような景色です。

 ここでも真性傍観者が迎えるであろう未来を予想することができます。
 楽観的未来、悲観的未来、どちらでもない未来。
 楽観的には何事も起こらなければ、真性傍観者は傍観する人生を歩めるでしょう。智に働くことなく、情に棹さすことなく、意地も通さず生きていく。昔「あっしには関わりのねえことでござんす」とつぶやく無宿者のドラマがありました。

 悲観的未来はどうか。人の事などどうでもいいと考える真性傍観者は人が困っていても、無関心を装います。知らんぷりして傍観します。
 ところが、ある日自分に何事か事件・事故が起こる。自分一人では解決しづらい困った事態に陥ったとき、真性傍観者は「助けてほしい」と声をあげることができません。自分が傍観してきたから「人も傍観するに違いない」と思うからです。

 あるいは、これまで困っている人を傍観してきた自分が「助けて」と言うなんて「虫のいい話だ」と思えば、やはり声をあげられない。
 自分一人で解決するしかないと思い、解決できなければ、真性傍観者は「誰も助けてくれない!」と叫んで絶望するでしょう。

 最後にどちらでもない未来。真性傍観者が無関心を決めつけ、傍観する生き方を続けていると、あるとき周囲の人たちが「これから隣の国と戦争することになった。あなたはどちらにつくか」と聞いてくる。
 傍観者だから「私はどちらにもつかない」と答える。
 最初はそれを許してくれた。だが、国が負けそうになったら、「お前はこの国の国民だ。兵士となって戦場へ行け。拒否するなら監獄に入れる」と言われるようになった……。
 このような未来が想像できます。最後は「悲観的未来じゃないのか」とおっしゃいますか。私は「どちらでもない未来」だと思います。

 くどいようですが、私たちは遠くの傍観者である限り、気づかないし、見ている事しかできません。問題は近くの傍観者になったときです。そのとき傍観しない生き方は可能なのか。あるいは、傍観しないためにはどのような訓練を積む必要があるのか。

 その訓練こそ一読法であると語ってきました。事態を注意深く見つめる。人の話をぼーっと聞かない。一言一句しっかり聞き取り、あれこれ考え未来を予想する。この訓練が傍観者ではない人生を歩ませるはずです。
 そして、近くの人が何か普段と違う言動をみせたとき、「あれっ?」と思い、「何か妙だぞ」とつぶやく。その思いやつぶやきを口にして声をかける――これが身近の人に対して傍観しない生き方です。

 最後にもう一つ、傍観者ではない人生を歩む訓練があります。それは歴史授業のところで書いたように「もしも自分がその時代に生きていたら」と考えることです。「もしも自分がそこにいたら、そのような目にあったらどうか」と考えること。それが傍観者にならない訓練となるはずです。

 私は『鼻』の授業で「もしも君たちが産んだ子が鼻が長かったらどうだろう」と想像させました。女子の一部は「いやだあ」とつぶやきました。
 鼻の長い赤ん坊が産まれる可能性はほぼないけれど、障害をもって産まれることはあり得ます。そこで、特に女子一人一人に「障害のある子が生まれたら、君はどう思う? どうするか」と問うと、必ず「そのときになってみなければわからない」と答える生徒がいます。私はそれを受けて次のような話をします。

「そのときになったらパニックになって冷静に考えることなんかできない。君は自分と赤ん坊の将来に絶望して産まれた子を殺すよ。そして自分も死のうと思うよ。だから、今考えるんだ。未来は何が起こるかわからないから、今考えておくんだ」と。
 さらに続けます。「もしも今考えて障害を持つ子どもが産まれたら、その子を殺して自分も死のう、と結論を出しても私は構わないと思う。でも、そう考えたことは君の心に残る。これから子どもが産まれるまで十年あるとしたら、君はこのことを考え続けるだろう。小説を読んだり、映画やテレビドラマを見る。ときにはたまたま障害児を育てている母親と言葉を交わすことがあるかもしれない。そのとき君はきっと尋ねる。子どもを殺して自分も死のうと思ったことはないですかと。
 それらの体験を経て十年後君は変わっているか、変わらないか。そこはわからない。ただ、はっきり言えることは目の前で起こった後考えても遅い。余裕がある今考えることが大切なんだ」と。

 遠くの傍観者であるとき、「自分だったらどうだろう」と考えておくことが、近くの傍観者になったとき、あるいは当事者になったとき、パニックにならず、冷静に考え行動できる人間になる道です。
 学校の授業が些末な知識を丸暗記させるだけで、「ここはちょっと立ち止まっていろいろ考えてみよう」という余裕がなかったら、「そのときになってみなければわからない」とつぶやく人間が生まれるばかりです。

 傍観する人生ではなく、自ら考え主体的に生きたいと思うなら、その訓練を積まねばなりません。途中でつぶやかない通読、結末まで眺めてから過去を検証する精読活動は子どもたちを、大人を傍観者にする悪しき授業です。
 通読は百害あって一利なし。直ちにやめて一読法を開始するべきだ――私はそう思います。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:前号公開後『鼻』の解釈に関連していくつかネット上で個人の感想、研究論文を読むことができました。私の解釈・感想は誰かが言っているだろうと思いましたが、そうでもなさそうです。最も意外だったのは作者による『鼻』の自作解説です。私は「傍観者、傍観者の利己主義」が主要テーマであるとまとめました。
 ところが、芥川は『鼻』の草稿の中で、傍観者の利己主義は脇であり、主要テーマは「身体的欠陥」に「なやまされている苦しさ」であると言います。「実際身体的欠陥に(如何に微細なものでも)悩んだ事のある人は幾分でも内供の心もちに同感してくれるだろうと思う」と書いているようです。
 もちろん『羅生門』に利己主義を描き、『鼻』において傍観者を描いたこと、『鼻』の語り手は黒子である――などということも言及されていない(ようです)。

 また、当時の文学仲間、後の研究者各位において「『鼻』に欠陥がある」と述べている人もほとんどいない。どうやら私が提起した『鼻』の解釈、欠陥の指摘等々は「的外れであり深読みが過ぎる。よくまーそんな授業をやったな」と批判されそうです。
 ただ、以下の三点、
 1 『鼻』の結末には「ありのまま」が描かれている。
 2 『鼻』は利己主義の裏の感情にとらわれ敵対する傍観者が描かれている。
 3 『鼻』は「内供の物語とそれを語る作者らしき人物を描く」黒子構造を持っている。

 ――これらは今回『鼻』を読み返す中で気付いたことであり、現役時代授業ではやっていません。実践報告は「想定問答」と書いたゆえんです。

 それに、私は作品のテーマとは「作者が何を書こうとしたか」ではなく、「読者が何を読みとったか」であると考えています。芥川龍之介が「傍観者の利己主義」は脇のテーマであると思って執筆したとしても、できあがった作品はそれが主要テーマとなっている――私はそう読みとったということです。正否の判断は読者にお任せします。

 さて、3月より始めた「一読法を学べ」は残り二つ。「実践編のまとめ」と「全体の後書き」です。本年中に終えようと思っていましたが、今号が「まとめ」のようになったので、次は「まとめと提言」として言いたい事をあれこれ書こうと考えるに至りました。
 そんなわけで、年末の擱筆をあきらめ年またぎします。1月の完成を目指し、年末年始はお休みということで。
 良い年をお迎え下さい。(2019年12月) m(_ _)m
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