カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 31号

一読法からの提言T

1「前置きと第一提言」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 31号

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           原則隔週 配信 2020年1月31日(金)



 前号後記に書いたように、「提言」をどうするか迷って筆(キーボード入力)が進みませんでした。
 本稿は「一読法」を勧める小論であり、つまりはそれが提言の全て。その他の「提言」なんぞ、所詮酒場の片隅でぶつくさつぶやいているじいさんの繰り言みたいなもの。誰かが言っている可能性も高く、別に公開しなくとも良いのではないか、と感じました。
 それが数日前「やっぱり書こう」に変わりました。なぜ変わったのか、ちょっと長い前置きと、当然書かねばならぬ第一提言です。

 [以下今号
 一読法からの提言 1「前置きと第一提言」
 [] 提言編の前置き
 [] 第一提言「通読をやめよう」

 以下次号
 一読法からの提言 2「〇〇(ほにゃらら)をやめませんか」


 本号の難読漢字
・俄然(がぜん)・会意(かいい)文字・『六国史』(りっこくし)・『三教指帰』(さんごうしいき)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 31

 一読法からの提言T 1

[1] 提言編の前置き

 提言編をどうしようかと、どうにも執筆が停滞していたとき、ある調査結果をインターネットで知りました。
 昨年(2019年)11月に発表された、日本財団による「18歳意識調査」というものです。
 世界九ヶ国の若者(17歳から19歳の男女千名ほど)を対象にしたアンケート結果がまとめられていました。9ヶ国は米英独、中韓日、インド、インドネシアにベトナム。経済大国から中間、新興国といったおもむきでしょうか。

 それによると、日本の《18歳》男女で「自分を大人だと思う」と答えた若者は三割弱(29.1パーセント)でした。他国との比較では、1位が中国で9割超。米英独、インド、インドネシアの5ヶ国も8割前後の高さ。ベトナムが6割、8位の韓国でも5割。比べてみると、日本の3割は抜けた最下位であることがわかります。

 また、「自分は責任のある社会の一員だと思いますか」との質問に、8ヶ国が9割「イエス」と答えているのに対して、日本の若者は4割強(44.8パーセント)でした。さらに、「自分で国や社会を変えられると思いますか」との質問に対して1位のインドが8割。他国が6、5、4割と下がって8位の韓国で4割(39.6)。そして、日本の若者は2割に達しない18.3パーセントでした。

 つまり、日本の若者の多くは高卒段階では「自分はまだまだ子ども」と感じているということです。選挙の投票権が二十歳から十八歳に下げられたけれど、投票率三、四割というのと重なります。
 自分で考え、自分で選び決断して生きる。それを「大人」と呼ぶなら、日本の学校は小中高12年間を通じて「大人」を育てられなかったことを示しているように思えます。

 私にはそのわけが(ちと極端な言葉ながら)「命令と服従による良い子を育てること、競走に勝つことが最大目標」とする学校と入試システムにあるような気がしてなりません。
 良い子でいることに疲れ、競走に負けたと感じた18歳が「今後日本は良くなると思うか」との質問に9.6パーセントしか「良くなる」と答えられない(8位のドイツでも21.1パーセント)。
 そもそも競争に「勝った」と感じる18歳は某トップ高校から偏差値トップ大学に進学した1パーセントくらいの学生ではないでしょうか。

 こうなると、俄然書く意欲が湧いてきました。現在の学校教育の中でひそかに一読法をやる程度では障害障壁が多すぎます。生徒は「やりたくもないのに、やらなければならない」ことでアップアップしている。
 私の結論は入試を廃止し、校則・テスト・宿題も廃止し、ゆとり教育のさらなる徹底――「教育内容を半減して好きなこと、やりたいことをたくさんやる学校への転換」です。
 早速「愚論・暴論だ」と言われそうです。が、これは私が今中学生なら「行きたい」と思う学校です。結論よりもなぜそう思うのか、そちらを一読法でじっくり読んでください。
 もしも「そこは誤解だ、明らかな誤りだ」と思われるところがあれば、遠慮なく指摘してください。直ちに改稿したいと思います。


[2] 第一提言「通読をやめよう」

 提言の前に、これまで書いたことと重なりますが、前号の補足を兼ねて大提言と言うか根本的な主張を一つ。
 それは「通読をやめよう・やめるべきだ」という提言です。

 ただし、勘違いしないでほしいことがあります。私は三読法を否定しているのではありません。「通読をやめよう」と言っているのです。通読をやめたときの名称が一読法なのです。
 難しいことは何もありません。通読をやめて最初から《精読する》だけです。

 むしろ一つの論文、小説などの文章を「何回も読む」のはとても良いことです。三読法を「一つの作品を何度も読む」の意味にするべきだと思います。

 余談ながら、漢字の元となった象形文字において「三」は「たくさん」の意味を持ちます。
 たとえば、1本の木は「木」、2本になると「林」、3本になると「森」。4本以上を一文字で表す漢字はありません。すなわち、「木」が3本集まった「森」とは「たくさんの木々が集まっている」様子を表しています。
 他には品物の「品」(いろいろな器物が3つ)、大衆の「衆」(上部「血」はお日様、目、城郭など諸説ありますが、下部は人が3人集まっている様子)など、三つ集まれば「たくさん」という意味です。
 私は高一漢文授業の最初に、このような象形・会意文字の面白さを伝え、「漢字に興味を持とう」と話したものです。

 閑話休題。一読法で読んだから「一回で完璧に理解できた」と思うのは傲慢です。難しい作品は一読法でも理解度三〇かもしれません。あるいは、とても簡単な作品でも――いや、簡単だからこそ深い意味を有し、それを読みとれない可能性があります。

 私は芥川龍之介の「鼻」を中学校で読み、十代後半でも読み、教員になってからは授業でやるたびに読み直しました。そして、今回数十回目の読みです。ある時期からは常に一読法で、初めての気持ちで読み、解釈してきました。
 それでも、『鼻』には「傍観者たち」が描かれている、傍観者の利己主義には「自分だけは不利益を受けたくない」という裏の感情がある、『鼻』の結末には「あるがまま」が描かれている、と気付いたのは今回がはじめてです。

 これは極端としても、たとえば、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は児童文学と思われ、小学校児童に読ませたら、それで終わっているようです。
 私は「蜘蛛の糸」を高三の現代文で必ずやりました。短編(掌編)小説の名作であるだけでなく、人間の「自我(エゴ)」について深く考えさせられる作品だからです。
 私は『蜘蛛の糸』を全ての国語教科書に、そして中学、高校の教科書に掲載し、小中高の計三回読ませてほしいと思います。必ず以前と違う読みと感想が出るはずです。
 もちろん何度読んでも、基本はつぶやきながら読む一読法です(これが一つ目の大提言です)。

 もう一つ大切な事。それは教科書や本を、文字で読んで書き込みをすることです。鉛筆を握って文章を読み、何かしら書き込むこと。これが一読法の《要》、すなわち最重要ポイントです。
 なぜ人は学校を離れると、文章を二度読もうとしないのか。理由は再読に同じ時間がかかるからであり、二度読んでも(三、四割の)理解度が変わらないからです。
 なぜ理解度が変わらないかと言うと、精読をしないからです。集中して一言一句注意して読み、途中で前後を読み直し、「ああでもない、こうでもない」と考えつつ読む――つまり精読することで「一度目の読みは浅かったなあ」と気づきます。ぼーっと読んでいる限り、二度読んでも理解は深まりません。

 しかし、文章に傍線を引いたり、書き込みさえやっていれば、再読時間は十分の一で済みます。理解度も格段に上がります。二度読み、三度読みに時間がかからない――これが一読法最大のメリットとも言えます。

 私は空海を小説に書こうと決めたとき、奈良時代末期から平安初期の時代背景、当時の仏教界をいかに書くかという最大の難関にぶつかりました。詳しい日本史や仏教史を読んでも全くイメージが湧かず、目に見えるように描くという小説の課題をこなせるとはとても思えませんでした。

 ならばと読み始めたのが日本史の原典となる「六国史」の『続(しょく)日本紀』・『日本後紀』・『続日本後紀』の三冊です。
 それらを一読目は「面白そうなところ、使えそうなところ」に傍線を引き、上部に[○]印をつけておく。二度目はその部分だけを読んで、さらに「これは」と思えるところに[◎]をつける。
 そして、三読目に[○]と[◎]の部分を読み直したとき、ようやく「時代背景も当時の仏教界の実態も書ける」との自信を得ることができました。空海の『三教指帰』も同じようにして[?]や○・◎を書き込み、ノートに抜き出してあれこれ考察する――それを繰り返した結果、面白い発見が得られました。

 このように、一読法こそ二度読み、三度読みを推奨しているし、一読法なら、二度読み、三度読みが簡単にできるのです(と言っても、この読みや考察に約四年が必要でした)。

 逆に言うと、書き込みをしなければ、一読法は通読に戻ってしまいます。読書が好きで本をよく買う人は、それを古書店に売ろうときれいに保つのではなく、大いに書き込みをしてほしいと思います。
 もちろん図書館で借りた本に書き込むことはルール違反。その場合は読書ノートを作って疑問や感想、予想を書けば、一読法に近づきます。
 この読書ノート、別に国語に限りません。数学、社会、理科なども読書ノートが作れます。十代で作成したノートは成長の証となるはず。そして、十年後二十年後ノートを読み返し、「おやっ?」と思った本を再読すれば、新たな発見や感動が得られること間違いありません。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:まずは穏やかにスタートしました。これからもっと過激な提言を書きます。
 なぜ入試を廃止し、校則・テスト・宿題も廃止し、ゆとり教育のさらなる徹底――「教育内容を半減して好きなこと、やりたいことをたくさんやる学校への転換」を提言するのか。

 中高の授業が通読、精読の三読講義型授業である限り、入試もテストも、詰め込み教育も廃止できません。それらをやめると「生徒は勉強しなくなる」と考えているからです。
 ところが、授業が最初から精読する一読法に変わると、生徒はテストや宿題がなくとも自ら勉強するようになります。これから読んでほしいのはそこです。飲んだくれのおやじと違って私の愚論暴論には根拠があります(^_^)。「一読法からの提言」と書いたゆえんでもあります。

 さて、読者各位はここまで一読法を存分に学んできました。「一読法なら、なぜテストも宿題も入試も不要と言えるのか」考えてみてください。

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