カンボジア・アンコールワット遠景

 一読法を学べ 第 33号

一読法からの提言T

 3「総ルビを復活しませんか」




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『 御影祐の小論 、一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 第 33号

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           原則隔週 配信 2020年2月14日(金)



 前節に続いてさらに極論(と見なされる)「〇〇やめませんか」を語ります。
 おそらく愚論暴論として、多くの人に見向きもされず、歯牙しがにもかけてもらえないだろうなと推測いたします。しかし、これらの提言が現在の教育界における諸問題を劇的・根本的に解決できる妙案である、と言ったらどうでしょう。

 自分の意見を主張できず、「自分はまだまだ子ども」と思っている日本の十八歳。いや、そもそも自分の意見を持っていると感じているか。ある事柄に対して真剣に自分で考えたことがあるか。受け売りの知識、誰かの主張を口にしているだけではないのか。そう思うから「自分は大人だ」と感じられないのではないか。
 だが、それは彼らの責任でしょうか。今の私が十八歳なら「こんな自分に誰がした?!」と叫びそうです。

 一方、小中高の先生方は業務過多とストレスで疲労困憊こんぱいしている。ところが、お偉方はシステムを根本から見直し、変えようとするのではなく、小手先の改変で済まそうとしている。
 一体いつになったら、気づくのでしょう。子どもの半数が学校に行かなくなったときですか。教員採用試験が定員に達しなかったときですか。それは間近に迫っていると感じます。学校や入試が今のままである限り……。

 こう書けば「読んでみるか」と思ってもらえるかもと感じつつ、どうせ(七五調の)「読んでもらえぬ我がぼやき」とあきらめ、実現することなき夢物語を書きたいと思います。
 なお、これは読者各位の「あきれてものも言えない」衝撃をやわらげるための前置きです(^_^)。また、本文には我が中高時代の優等生だった、劣等生だった体験が多々登場します。自慢でも卑下でもない、過去のありのままを書きました。

 ところで、この前置きを読みつつ「おやっ?」と思われたでしょうか。あることに気づいたでしょうか。今までなかった表記が登場しています。
 気づかなかった方、あなたの目は節穴ですか(^.^)。相変わらずぼーっと通読していますよ。

 [前 号]
 一読法からの提言 2「〇〇(ほにゃらら)をやめませんか」
 1★ スマホ・ラインをやめませんか。
 2★「人に迷惑をかけるような人間になるな」と言うのをやめませんか。
 3★「優秀な人間を求めている」と言うのをやめませんか。

 [以下今号
 一読法からの提言 3「総ルビを復活しませんか」
 [ 4★ ] 漢字読みの訓練をやめませんか。
 [ 5★ ] テストと宿題をやめませんか。

 以下次号 提言 四
 「小中高の成績評価について」


 本号の難読漢字
・歯牙(しが)・困憊(こんぱい)・四隅(よすみ)索引・四角号碼(しかくごうま、「ま」は石へんに馬)・羅列(られつ)・(た)けている・割(さ)く・累々(るいるい)たる・屍(しかばね)・謙遜(けんそん)
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************************ 小論「一読法を学べ」*********************************

 『 一読法を学べ――学校では国語の力がつかない 』 33 一読法からの提言T

 3 「総ルビを復活しませんか」


[4] ★ 漢字読みの訓練をやめませんか。

 これはむしろ、以下「〇〇しませんか」提言の方がわかりやすいと思います。
 読みの訓練をやめるためには世の中が変わらねばなりません。

 ☆ 日本に出回る文書を全て総ルビ(ふりがな付き)としませんか。

 世の中の文書が総ルビとなれば、漢字読みの練習が不要となります。
 戦前の日本がこれでした。それが戦後になってなぜか総ルビをやめました。それを復活させようという提言です。さすがに小一、小二レベルの漢字はルビなしでもいい。常用漢字小三以上は全てルビ付きにしようではありませんか。

 理由は次の二点です。

 1 小中高の国語授業において大きなウェイトを占めている、漢字かんじの読み書き練習を半減はんげんするため。

 2 今後こんご確実かくじつに増える移民系の外国人に日本語の文書を読めるようにするため。

 このようにパソコンでも漢字にふりがなを付けることはさほど難しいことではありません。教科書から参考書・問題集、書籍、新聞、雑誌、法令など全ての文書を総ルビにすれば、読みの訓練をする必要がなくなります。入試、入社、資格試験など全ての試験ももちろんルビ付きとする。

 具体的には現在常用漢字は2136字。このうち音が2352、訓が2036。我々は合わせて漢字4388字の読み書きができるようにしなければなりません。このうち小学校で習得すべき漢字は1006字、中学校が1130字。総ルビにすれば、漢字練習時間をかなり削減できます

 お偉方から「生徒・学生は本を読まなくなった」との嘆きが出されてはや幾とせ。私はその理由のかなりの部分は漢字が読めないからだと考えています。特に訓読みが難しい、と言うか練習しても忘れやすい。
 今でこそパソコン・スマホで漢字検索ができます。が、数十年前までは教科書を開いて読めない漢字(当然意味も不明)にぶち当たると、まず漢和辞典を引かねばならなかった。それで意味がわかればいいけれど、難しければ、さらに国語辞典を引いたものです。

 漢和辞典は引くのがとてもめんどくさい。音訓索引は読めなければ使えない。総画索引は画数を間違えるとダメ。部首索引はどれが部首か理解していなければならず、部首から漢字そのものにたどりつくのにまた時間がかかる。四隅よすみ索引はたぶん「なにそれ?」とおっしゃる方がほとんどでしょう(興味があったら「四角号碼しかくごうま」でネット検索してください)。

 かつて高校では生徒に(家にない場合)国語辞典と漢和辞典を購入させました。しかし、彼らは国語辞典を引くことはあっても、漢和辞典はめったに引かない。
 私はある時期から教材最初の朗読を私がやりました。つまり、漢字の読みは教えたということです。その際「君たち卒業後読書などで読めない漢字が出てきたら、近くの人に聞け」とよく言ったものです。読めさえすれば、意味は国語辞典で確認できるからです。
 日本人が本や新聞を読まなくなったのは[漢字が読めない→本を読まない→漢字をどんどん忘れる→本を読まない]の悪循環ゆえだと思います。漢字がルビ付きになれば、読書習慣が復活するはずです。

 そもそも日本人は諸外国の人に比べて学ばねばならない――暗記せねばならない課題が多すぎます。漢字習得はその最たるものです。戦後生まれの日本人なら、誰でも小学校一年生から漢字テストをやらされたでしょう。そして、毎年毎年漢字読み書きの訓練をしています。結果、高三までの十二年間、漢字習得のために費やされる時間はいかばかりか。

 お忘れなきように。児童生徒が覚えなければならないのは漢字だけではありません。そこに英単語・熟語1000〜2000字が。理科は「すいへーりーべぼくのふね」の元素記号に塩酸から酢酸などの化学式100ヶ。オームの法則に細胞の名称。社会は日本史・世界史の年号と項目(1000〜2000?)の丸暗記が要求されます。算数・数学だって各単元の公式と解法を暗記しなければ、入試に対応できません。

 閑話休題。私自身そうだったし、高校の国語教員になってからも生徒に漢字練習帳を買わせ、漢字小テストを毎週のようにやらせました。私は授業中心主義だからやりたくなかったけれど、国語科として「生徒の漢字能力は低い。やりましょう」と言われると、「やめよう」とは言えませんでした。

 漢字小テストは国語の先生にとっても負担です。国語科は一人3クラスから4クラスを担当します。結果、日々漢字小テストの採点に明け暮れていると言っても過言ではありません。私は単元毎に百字感想文もやっていたので、漢字の採点と感想文の添削が重なると、自宅に持ち帰らねばなりませんでした。そのころから「漢字が総ルビなら、漢字の練習時間、小テストも半減できるのに」と思ったものです。

 ただ、勘違いしないでほしいことがあります。私は漢字廃止論者ではありません。戦後の一時期「漢字を廃止してひらがな・カタカナだけにしろ」とか「ローマ字にしろ、英語やフランス語を公用語に」という《暴論》がありました(私が言うのもなんですが)。

 日本から漢字を全廃する事は絶対にできません。日本語はひらがなのみ、カタカナのみにできない。ローマ字化もできない。漢字かな交じり文イコール日本語だからです。
 もしも今書いた「日本から〜だからです」までを、以下のようにひらがな・カタカナ・ローマ字にしてみます。みなさん読もうと思いますか。
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 にほんからかんじをぜんぱいすることはぜったいにできません。にほんごはひらがなのみかたかなのみにできない。ろーまじかもできない。かんじかなまじりぶんいこーるにほんごだからです。
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ニホンカラカンジヲゼンパイスルコトハゼッタイニデキマセン。ニホンゴハヒラガナノミカタカナノミニデキナイ。ローマジカモデキナイ。カンジカナマジリブンイコールニホンゴダカラデス。
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 nihon kara kanji wo zenpaisuru koto wa zetsutaini dekimasen。〜以下略
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 このたどたどしく読みづらい、意味の取りづらい文字の羅列はどうでしょう。数行眺めただけでうんざりします。
 日本人なら誰もこの「日本文」の書かれた書物・新聞を読もうと思わないでしょう。

[日本から漢字を全廃する事は絶対にできません。日本語はひらがなのみ、カタカナのみにできない。ローマ字化もできない。漢字かな交じり文イコール日本語だからです。]――このように漢字かな交じり文こそ、読みやすく、意味もすうっと頭に入ってきます。

 ひらがな・カタカナ・ローマ字は一字一音の表音文字であり、漢字は意味も持つ表意文字です。英語など世界の多くの言語は表音文字であり、全て表意文字が漢字(簡体字)の中国語。表音文字と表意文字が並列しているのは日本語だけ(だと思います)。

 日本人は大昔から外来の文化・文物をアレンジして吸収するすべに長けていたようです。文字を持たなかったのだから、日本独自の文字を生み出せば良かった(古代に作っていたとの説もあります)。
 なのに、そうしなかったのは劣等感のせいか、アレンジ力に自信があったからか、ただめんどくさかっただけか。

 いずれにせよ、大陸の文明先進国から輸入された漢字を、カタカナに分解し、ひらがなにくずし、いくつもあったひらがな(変体仮名)を一つに決め、長い長い年月をかけて漢字・かな交じりの表記を生みだしました。これによって日本語は読みやすく、意味も取りやすい「書き言葉」となりました。

 漢字かな交じり文は日本人にとって必要不可欠です。よって、漢字習得のためにどうしても諸外国に比べて余計な時間を漢字練習に割かねばなりません。
 せめて全ての文書を総ルビとすれば、読みの訓練をしなくてすみます。そして、総ルビなら新聞や雑誌に始まって学術文書、難読漢字の多い歴史・哲学・小説まで(小学校一年生でも)「すらすら読める」ようになります。本をたくさん読めば、漢字は自然と身につくものです

 ここで「スマホやタブレットがあれば、漢字の読みも意味もすぐに検索できるよ」との反論が聞こえてきそうです。私はそれでもルビ復活を主張します。
 理由は確かにパソコン・スマホならすぐに検索できる。しかし、文字で書かれた書物や文書はスマホで撮影してそれから漢字検索する……やはり時間がかかります。
 それでなくとも、通読癖の人は読めない漢字をそのままにして読むでしょう。やがて読む事から遠ざかるのは必至。それにパソコン・スマホ上の文章に疑問や感想を書き込むことは容易ではありません。一読法の訓練にとって文字で書かれた書物であることは最低条件なのです。
 ちなみに、目下最大の不安があります。それは児童生徒全員にタブレットが行き渡ったとき、国が「もう教科書はいらないだろう。予算も削減できる」と言い始めることです。このように発言する議員・官僚は常識も教養もない人だと心得てください。

 もう一つ、総ルビは今後日本で増える移民系外国人のために必要な措置です。ひらがな・カタカナさえ読めて使えれば良しとすれば、漢字練習をしなくて済みます。
 日本で暮らす以上「漢字の読み書きくらいできるべきだ」とおっしゃるかもしれません。お偉方もそう考えて看護など移民系外国人に、日本人並みの漢字力が必要な(日本語の)資格試験を課しています。
 しかし、外国人に高いレベルの日本語表現力を求めていては、そのうち「日本に行くのやーめた」となりかねません。今から「日本語は話せてひらがなの読み書きさえできれば充分」というレベルにしておくべきです。

 私は日本で働き初めて二年ほど経った若者(東南アジア系)の日記を見た事があります。彼は日本語が普通に喋れる。そして、ノートには日々の出来事が日本語でびっしり書かれていました。読んでみると充分中学校卒業レベルの文章だから驚きました。ただし、全てひらがなです。漢字は一字もない。

「ひらがなならわずか二年でここまで書けるんだ」と思い、改めて日本語は簡単なんだとわかりました。日本人の大多数は十年英語を学んでも英文日記を書けないだろうし、書こうとも思わないでしょう。
 後述しますが、日本語は日常会話レベルなら世界で最も簡単な言語です。私は日本人に外国語(英語)を学ばせるより、外国人に日本語(ひらがな)を学んでもらった方がいいと考えています。

 ただし、移民系外国人にも漢字かな交じりの日本語文書を提出してもらう場合があります。その際はひらがなで書かれた(ワープロ入力された)文書を、日本語に変換する社会システムがあればいい。
 これは日本人でも裁判や役所への申請など、公的文書を弁護士や行政書士に依頼するのと同じです。日本人だからといってこれらの文書は完璧に作成できません。だから、移民系外国人にはひらがなを書ける程度に留め、職場内で提出する文書はそれを漢字かな交じりの日本語にする仕事(要員)を創設すれば良いのです。


[5] ★ テストと宿題をやめませんか。

 これは前号後記の答えともなる提言です。なぜ一読法ならテストも宿題も必要ないのか。
 その前にまずはこの件についてつくづく考えてみたいと思います。なぜ「テストや宿題をやめよう」と言うのか。

 これに対して「とんでもない」とおっしゃるのは学校の先生だけでなく、多くの親御さんたちだと思います。そして、「テストや宿題をやめたら、子どもは勉強しなくなる」と反論なさるでしょう。
 これはとても説得力ある意見です。宿題はさておき、テストがなくなったら、確かに子どもたちは遊ぶばかりで勉強しなくなるような気がします。しかし、なぜそう思うのか、自分の子ども時代を振り返って考えてみたことがあるでしょうか。

 とても悲しいことに、このように反論する大人は「かつて自分はテストや宿題があったから一所懸命勉強した。もしもそれがなかったら自分は勉強しなかった。だから、わが子にもテストや宿題を課すべきだ」と考える人たちだと思います。

 私は前段の冒頭に「とても悲しいことに」と書きました。なぜ悲しいかと言うと、一つには学校が、先生方が児童生徒に対して《自発的に勉強する意欲を引き出せなかった》ことを表しているから。
 そして、「テストや宿題をやめると、子どもは勉強しなくなる」と感じる人たちはテストと宿題によって無理矢理勉強させられた、学校教育の悲しき犠牲者であるからです。

 文学的表現を借りるなら、「自発的、主体的に勉強することなく、与えられた課題をこなし、ただテストのために勉強し続けた」累々たるしかばねの山が富士の高さまで積み重ねられている――とでもなりましょうか(下手くそな表現ですみません)。

 あるいは、「勉強」を、たった一つ別の言葉に置き換えてみれば、わかりやすいと思います。それは「遊び」です。
 子ども時代最も楽しく面白かったことは遊びでしょう。一人で遊ぶのも楽しいけれど、友達と遊ぶことはもっと楽しかった。

 もしも遊びにテストと宿題を課したらどうでしょう。それは楽しいでしょうか。
 学校の授業が全て遊びになったとき、「先生、うちの子どもは家で遊びません。家でも遊ぶように宿題を出してください。遊びの試験をやってください」と言うでしょうか。
 子どもの遊びにテストも宿題もいりません。子どもはテストや宿題がなくても遊びます。それは楽しいから、面白いからです

 勉強もそうではありませんか。小学校の初めの頃勉強は遊びのように面白かった。学ぶことが楽しければ、別にテストも宿題もいらない。学校は、先生は勉強が遊びのように面白いことを伝えればいい。そうすれば、児童生徒は自ら進んで勉強するようになる。自発的に学ぶことが楽しいとわかれば、テストも宿題もいらない、と私は思うのです。
 そして、自発的主体的に学ぶ基礎訓練となるのが一読法です。

 余談ながら、子どもがテレビゲームなどに没頭してちっとも勉強しないなら、この手を使う方法があります。「家で学校の勉強はしなくていい。テレビゲームを思う存分やりなさい」と言う。ただし、今やっているテレビゲームにテストを課す。一日分の作業報告もレポートとして提出することを求める。
 おそらく「こんなの楽しくない」と言ってやめるのではないかと思います。これらの課題をこなし、なおゲームをやるようなら大したもんです。そのときは「eスポーツ」の選手を目指せばよいではありませんか。

 そもそも学校の勉強とは一体何のため、誰のためにするのでしょう。
 以下の質問に「はい・いいえ」でお答え下さい。

1 父親のため、母親のため、学校の先生のために勉強する。
2 テストや宿題のために勉強する。

 これに「はい」と答える人はまずいないと思います。勉強とは子ども自身のためにやるものであり、親のため、テストのためにやるものではありません。
 将来自分がなりたいものがある。そのために学ばなければならないことがある。だから、今勉強するのである――。
 児童生徒から「なぜ勉強するのか」と問われたら、そう教える大人は多いと思います。

 ただ、親のため、先生のためと感じている子どもだって、かなりいるような気がします。
 先生に言われたとおり予習と復習をやり、宿題をきっちりこなし、テストでいい点を取れば、親は「良い子だ」と誉めてくれる。ご褒美をもらえることもある。
 隣近所から「お子さんは優秀ですねえ」と言われると、親は「そんなことありませんよ」と謙遜しつつ、嬉しそうな顔を見せる。

 ところが、テレビやマンガの見過ぎ、ゲームのやりすぎでテストが平均点よりはるか下だと、「そんなことやってるからテストができない、成績が悪い。もっと勉強しなさい」と叱られる。

 かくして、勉強とは《親に誉められるため、親に叱られないためにやるものだ》と感じる。つまり、自分のためより親を満足させるためにやっているような気が……。

 あるいは、全国一斉学力試験がある。都道府県の平均点と全国順位が出る。先生には学校の順位も知らされる。
 全国1位になると、みんな「よくやった。すごい」と誉めたたえる。数点差の5位だと「1位を目指そう」と言う。24位以下だと、知事に始まって教育長、校長、先生方が「平均を超えるようもっとがんばれ。もっと勉強しよう」と子どもの背中を叩く。
 翌年平均点が上がり、順位が上がると、彼らは喜ぶ。下がると、また叱咤激励する。ブービーとか最下位だと、もう浮上をあきらめ、その県出身であることを隠したくなる。
 なんだか自分のためというより、知事のため、教育長のため、校長のため、学校のため、先生のために勉強している……ような気持ちになりはしないか。

 さらに、次の質問はどうでしょう。
3 入試に合格するために勉強する。
4 社会に出たとき、企業・組織のために勉強する。

 ビミョーに「はい」とも「いいえ」とも言いづらいかもしれません。
 3は当面「はい」である。なんにせよ高校入試がある。大学に行きたければ、大学入試がある。だから、合格するために勉強しなければならない。
 だが、そもそも「勉強とは入試に合格するためにやるものか?」と自問するなら、「違うのではないか」と言いたくなります。やはりその先にある将来の目標とか生き方、そこを目指す過程の中に入試があり、勉強というものがあるはずです。
 そして、4もまた社会の中で働く以上、最低限の知識・教養が必要であるという意味で「はい」だけれど、まずは「働く自分のため」と考えれば、「いいえ」でしょう。

 回りくどい言い方で恐縮です。以上四つの質問を中学生にしたとき、「将来やりたいこと、なりたい職業が決まっている」子どもはみな「いいえ」と答えるはずです。しかし、進路が定まっていない子どもは次のように答えるのではないでしょうか。
 勉強とは――
1 父に言われ、母に言われ、先生に「やれやれ」と言われるからやっている。
2 宿題が出され、テストがある。いい成績を、せめて平均点以上を取るためにやっている。
3 今の勉強の目的は入試だ。取りあえず高校に、取りあえず希望校に合格したいからやっている。
4 将来のことはわからない……。

 すなわち、将来が決まっていない子どもにとって勉強とはテストがあり、成績が付けられ、それが悪いと親や先生から「もっと勉強しろ」と言われるからやっている。宿題はやらないと「成績に影響するぞ」と脅されるからやっている。入試があってそれに合格しなければならないからやっている――となります。

 ここで私の小学校中学時代を語りたいと思います。私は小学校でも中学校三年間でも「将来なんになりたいか」全く決められない子どもでした。だから、私の勉強はいい成績を求めている親のためであり、先生や周囲から「優秀だ」と思われるための勉強であり、高校入試で普通科に合格するための勉強でした。

 いや、実はほのかに抱いていた志望がありました。中一のとき、父に「将来小説家になりたい」と打ち明けました。父はすぐ「お前には無理じゃろう」と言い、私は口を閉じ、以後この夢を封印しました。なぜ強く主張できなかったのか。

 小学校卒業時、私の家の蔵書状況はと言うと……絵本が数冊、児童文学の本も数冊。大人向けの書物・文庫本でさえ十冊あったかどうか。つまり、両親は本をよく読む人ではなく、子どものために書籍をたくさん用意する人でもありませんでした。さすがに新聞は取っていたけれど、家の本棚は一つだけで、百科事典十冊ほどが最も目立っていました。

 それなら私は小学校の図書室から本をたくさん借り出して読む子どもだったか。いえいえ、むしろ体を動かして外で遊ぶのが好きなタイプでした。小学校の六年間、国語の成績こそ5段階の「5」だったけれど、父が「こんな環境でわが子が小説家になれるはずがない」と思ったのはむべなるかな――です。

 中二になって本格的に進路を考えたときは「卒業したら、コックか板前になりたい」と言いました。料理が好きで「卵焼きをつくるのが得意だったから」がその理由です。
 当時中卒で行ける調理師学校はなかったと思います。実現させるには、高校には行かず、料理屋などに見習いとして入ったでしょう。

 そのとき父が言った言葉を(やや偏見に満ちているけれど、よく覚えているので)そのまま書きます。
 父は「お前は頭がないんじゃないから高校に行け」と言いました。普通科から大学を目指せというわけです。

 私が通った田舎の中学校は一学年百名ちょっとでした。成績はその中で上位五名ほどの中にありました。父の親心は子ども二人――四つ違いの兄と私を大学に行かせることだと考えていたようです。後に「分家した自分には財産がない。お前達に残せるのは教育だけだ」と聞いたことがあります。

 このときも私はそれ以上希望を主張することなく、父の言う通り高校(普通科)に行くしかないなと思いました。なぜなら「コックか板前になりたい」との言葉は中学校の勉強がいやだったからであり、早く家を出たかったからです。本心からなりたかったわけではありません。

 私にとって中学校の勉強とはテストで良い点を取るための勉強であり、通知票に5をずらりと並べるための勉強でした。そして、高校入試に合格するための勉強であり、親に誉められたいがための勉強でした。私はそれを必死でやっていました。もうアップアップでした。
 将来やりたいこともなく、大学に行きたいという気持ちもないのに、普通校に行ってさらに三年間同じ勉強をやらなければならないのか。そう思ったとき「こんな勉強やりたくない、高校には行きたくない、この家を出たい」と感じていたのです。

 私の場合は極端かもしれません。しかし、「勉強は楽しくない。いやいややっている、やらされている」と感じている子どもたちは多いと思います。その理由の一つに宿題があり、テストがある。宿題やテストを廃止し、各教科が「勉強とは遊びのように面白いものだ」と伝えることを最大目標とすれば、生徒は自ら進んで勉強するようになると思います(後述しますが、五年制の高専に進学して大学入試と無縁になったとき、中退までの三年間で知ったのは勉強する楽しさでした。ただし文系科目でしたが)。

 では、テストをやめることができるか、と問えば中高の先生方から以下のような反論が出ると思います。
「面白い教材を、というのはよくわかる。だが、教科で教えなければならないことが決められており、それは必ずしも面白い内容ばかりではない。それに生徒が授業内容を正しく理解したか、あるレベルに到達できたかを知るためにはテストが必要だ。テストをしないと成績をつけることができない」と。

 そこで、次の提言が生まれます。「成績をつけることをやめませんか。さらに、高校入試もやめませんか」と。成績評価をやめ、高校入試を廃止すれば、テストも宿題もいりません。そして、「中学校の教科書は読んで面白い内容ばかりにしませんか」と続きます。

 ただし、この前提として授業が一読法に変わることは不可欠です。一読法になれば生徒のノートはがらりと変わります。そして、先生は生徒のノートを見れば、どこまで理解したか、理解していないか、到達度も深化の程度もわかります。だから、テストは不要になるのです。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:文中「なぜかわからない」と書いた「戦後総ルビをやめた」件。ネット検索したら、いくつか解説・コラムがヒットして経緯がわかりました。本文に入れづらかったので、ここで補足します(これだからインターネットはすごいと思います)。
 お勧めは以下のコラム。終戦直後の漢字廃止論やルビ消失の経緯について丁寧に説明されています。

 『GHQだけではなかった「漢字廃止論」 いま、漢字を使い続ける意味を考える』(2019年、山脇岳志)↓
   https://globe.asahi.com/article/12738692

 日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)は「日本語をローマ字表記にして、漢字習得にかける勉強時間を外国語や数学の学習にあてるべき」として当初漢字を廃止しようとしていたこと(日本人の識字率の高さを知ってやめた)。次に財界からカタカナ入力のタイプライター「カナタイプ」が使えるよう「カタカナのみにせよ」との主張があったこと(漢字入力できるワープロ機の発明で立ち消えた)。そして、ふりがな廃止論を唱えたのは作家の山本有三(『路傍の石』で有名)であったことなどが書かれています。

 山脇氏は結論として次のように語っています。
「戦後、『当用漢字表』において基本的にふりがなが廃止されたのは残念である。漢字にふりがながついていることによって、子供たちが難しい漢字を覚えやすくなり、漢字の読み方を間違えて記憶することも避けられる。戦前の知識人の教養は、『ふりがな』の効用も大きいのではないかと思うこともある。ふりがなを多用することで、外国人にとっても、日本語を習得しやすくなる効果もあるのではないだろうか」と。
 もっと過激に語ってほしいところですが、これぞ「我が意を得たり」の思いです。
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